青春の沈黙≪1≫ 絶望の果てに、絞首台の先で逢おう

「動くな!!」

礼矢と満よりもいくらか年上と思わしき男性の怒声が、昇降口に漂っていた静寂を切り裂いた。
礼矢が驚いて視線を上げると、満は先ほどの笑みが消して何かを威嚇しているかのような険しい表情で礼矢の顔や手ではない何処か、昇降口の外に視線を向けている。
何があったのかが理解できず困惑する礼矢も、もう少しで包丁の柄に届きそうだった手を引っ込めつつ、戸惑い気味に声の聞こえた方向へ振り向き、そして、声の主が何であるかを理解した。
そこにいたのは、鉄製であろう銀色で長方形の盾をもった重装備の男達と、黒く小さめの拳銃を構えた藍色の制服姿の男達と、拡声器を構えた黒いスーツ姿で長身の男。
礼矢と満は、機動隊を中心とした多数の警察官達に包囲されていたのである。
といっても、正確には、今のところ警察官達は昇降口の外に十名前後いるだけなので、完全な包囲とは少し違うかもしれない。
しかし、この学校の昇降口は一つではないので、別の昇降口から突入した部隊がいる可能性は容易に想像が付くだろう。
実際、礼矢の耳には、僅かにではあるが校舎の中でバタバタと何かが駆けているような音が複数聞こえている。
逃げ道を塞ぐ警察の登場、それは予想していない事態ではなかったが、それでも礼矢は戸惑った。
と言ってもそれは、礼矢が警察からの逃走を考えていたからという訳ではない。
可笑しな事かもしれないが、礼矢は逃走など微塵も考えておらず、満と共に逮捕される気でいた為、警察が逃げ道を塞いだ事自体には何の問題も感じていなかった。
だがそれ故に、自分がまだ何もしていない――誰も殺していない事には焦りを覚えずにはいられない。
何故ならば、誰も殺していない、傷付けてさえいない自分は、このままでは単なる目撃者に過ぎず、逮捕されるのは満だけになってしまう、という、普通に考えれば当たり前で喜ぶべき事が、礼矢には途轍もなく嫌な事に感じられたからである。

それは一見、満への友情からきた感情のように見える為、見る人によっては、歪にも美しき友情、という美談めいたキャッチコピーが脳裏を過るかもしれない。
だが、礼矢が後々、それが本当に満への友情だけからきた感情だったのかを度々思い悩む事になる事を思えば、その様なキャッチコピーは付けられなくなることだろう。
確かに、礼矢の中に満を裏切りたくないという思いがあったことは事実だ。
しかし、それだけではなく他の何か――例えば、満だけが一線を飛び越えていった事への嫉妬や、単に自分も誰かを殺したかったという思いを達成できなかった事への落胆といった礼矢個人の事情が大きく絡んでいるのもまた事実なのである。

ともかく、礼矢は満だけが逮捕されるという結末を受け入れられずにいた。
しかし、だからと言って、その結末を変える力は礼矢には存在しなかった。
いや、もしかしたら、結末自体はいくらでも変え様があったのかもしれない。
例えば、今すぐにでも満の持つ包丁を引っ手繰り、包囲してきている警察官達に斬りかかれば、その場で取り押さえられ緊急逮捕をされるに至る事は可能だろう。
だがそれは、単に自分も逮捕されることだけが目的の場合にしか、意味を持たない事である。
礼矢の、そして満の目的は、飽くまでも、残酷で非情な現実への抵抗で、逮捕はその副作用に過ぎないのだ。
そして、その残酷で非情な現実とは、礼矢と満に散々悪意を吐き散らかしてきたこの学校の生徒達と、それを黙認し続けた教師達であり、今二人を包囲する警察官達は何も関係無いのである。

いや、もしかしたら、本当に何も関係無いとは言えないのかもしれない可能性も無くはないのかもしれない。
警察官達は社会という囲みのパーツの中でも、治安維持の役職を与えられている人間である。
その事を考えると、社会の囲みの中にある学校という箱の中の治安を守れなかった彼等は、虐め行為を黙認し続けた教師達に似た存在なのかもしれない。
だが、警察官達は教師達とは違い、学校の中に常在している訳ではなく、礼矢や満から相談を受けたり被害届を出された事がある訳でも無いので、教師達と同じだけの責任を負わせるのは、酷というものだ。
そう考えるなら、警察官達に特別責められるいわれなど無いことは確実だろう。

だから、無関係の誰かを傷付け、殺したい訳ではない礼矢にとって、警察官達を斬り付けて逮捕されるという行為は無意味にも程がある行為で、むしろ唾棄すべき行為ですらあったのである。
大した理由も無く、無理やりこじつけられた理由で、関わりを持つ気の無かった相手から虐げられ続けていた礼矢にとって、無関係で咎の無い誰かを傷付けるという行為ほど罪深いものはないのだ。
しかし、その信念を今貫けば、礼矢が逮捕される事は無く、仮に逮捕されたとしても事情聴取の後は早い内に釈放される事だろう。
そうなれば、満はどうなるのか。
恐らく、満は間違いなく逮捕され、釈放される事は無く、もしかしたら保釈すら無いままで、いずれは何らかの裁判に臨む事になるはずだ。
そして、礼矢から遠いその裁判所の中で、死刑を言い渡されるのだろう。
年齢的に考えても、起こした事の大きさを考えても、満を少年法で庇うには無理がある、という事は礼矢にも容易に想像できる。
と言うよりも、そもそも満はそれを前提にこの惨劇を起こしたのだと分かっているのだから、想像していない訳が無いのだ。
ただ、本来の想像では、死刑になるのは満一人ではなく、礼矢も同じはずであったのだが。
それと、これは恐らくではあるが、満のこの惨事を裁く際に少年法が適応されることは、例え満が今より何歳も幼い子供だったとしても無いのではないかと、礼矢は直感していた。
何故ならば、厳格に決められたルール、つまりは法律の、その現行案が想定していない例外が起きた時、人々はその法律に新たに手を加え、その内容を厳しく改正する事があるからだ。
実際、以前満が関連書籍を手に入れて喜んでいたあの事件のしばらく後には、その事件を主なきっかけとした法改正が成され、それまでは十六歳以上から可能とされていた刑事処分が、十四歳以上という、それまでよりいくらか低い年齢でもできるようになっている。
だから、もし満がそれよりも更に下の年齢だったとしても、社会はそれを例外として扱い、最低でも後の法改正につなげるか、あるいは、特別なケースとして扱う事で大人同様の罰を与えたのではないだろうか?
礼矢にはそう思えて仕方がないのである。
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