青春の沈黙≪1≫ 絶望の果てに、絞首台の先で逢おう

「要らない。お前の薄っぺらいその場しのぎの謝罪なんて、要らない。」

おそらくそう言うだろうと思っていた、というのが、礼矢の率直な感想だった。
男子生徒は引き攣った半笑いも忘れて、ヒィイ!! と喉の奥で小さな悲鳴を上げ、これでもかと背後の壁に密着する。
満は数秒の間何も言わず、一際鋭く細めた両目で男子生徒を見下すように睨んでいたが、やがて包丁を男子生徒の右目から遠ざけた。
それを見て、男子生徒は満が自分を解放してくれることを期待したようで半笑いが復活しかけていたが、礼矢はそれが間違いである事を感じ取り、息を呑む。
満の右手とそれに握られた包丁は、確かに男子生徒から少し遠ざかっていたが、その動きやポーズは冷静に見れば、刃を振りかざした時の姿勢と同じであることが分かるからだ。
礼矢がすぐに気付いたそれに、男子生徒はしばしの間気づけなかったが、それでも満が包丁を掲げたまま自分から離れようとしない様子を見て、どうにか満の真意に気づいたらしい。
男子生徒の顔から再び半笑いが剥がれ落ちて、代わりに恐怖が広がっていった事は、もはや言うまでもないだろう。

「オ、オイ……ウソだろ? ソレ、ウソだよな? ホント、ウソだよな?」
「嘘なんかじゃないよ。僕はお前を殺す。」

恐怖に震える男子生徒に、満は明確な殺意を淡々と告げ、包丁をさらに高く掲げる。
男子生徒は逃げ道を探して左右を見回すが、残念ながら男子生徒のいる場所は昇降口の隅で、もともと狭い場所である上に、靴箱や掃除用具箱により左右は塞がれており、逃げ道など存在しなかった。
ちなみに、左右を見渡した男子生徒が礼矢に対して何のアクションも起こさなかったのは、靴箱で視界が遮られて礼矢の姿が視認できなかったせいだろう。
逃げ道は無く、打開策も思い付かず、礼矢に助けを求める事すらできず、男子生徒はただ怯えて最期の瞬間を待つ事しかもはや許されていなかった。

「ちょ、ま、や、やめっ、」
「それじゃあ……」

男子生徒は満に対し、やめてくれと懇願しようとしたが、満はそれを遮って一際高く包丁を掲げた。
そして、今まで男子生徒への軽蔑から睨むように細めていた目を、大きく見開いて

「……バイバイッ!!」

その言葉と同時に、満は勢い良く包丁を振り下ろし、男子生徒の首に深々と刺した。
男子生徒は一瞬目を見開いて、それから徐々に視点が定まらなくなり、悲鳴を上げることもできず、小さな呻き声を僅かに漏らす。
やがて、包丁が刺さったままの傷口からはふつふつと血が滲み始め、満が勢い良く包丁を抜き去ると、まだ動きを止めていない心臓の拍動に合わせるかのように、鮮血が三回ほど大きく噴出した。
噴出した鮮血の一部は、既に赤や黒に染まっている満の制服を更に赤黒く染めて、残りはそのまま床へと飛び散る。
その頃にはもう男子生徒に意識と言える意識は無かったが、床に崩れ落ちながらもまだ痙攣している体を見た満は、その場に膝をつき、男子生徒の腹に狙いを定めると、包丁を振り翳し、そして、振り下ろした。
首を刺した時とは違い、厚手の衣服に包まれている部位であるせいか、それとも男子生徒がすでに絶命し、心臓が止まっているせいなのか、腹に刺さった包丁を引き抜いても、鮮血はあまり飛び散らない。
それでも男子生徒の制服は刺し傷を中心にジワリジワリとどす黒く染まっていく、その様子を満は黙って見ており、そこから動く様子はない。
礼矢は少し迷ったが、満に声をかける事にした。
所々に転がる死体達と、それらが作った血溜りを避けながら、礼矢が満に歩み寄ると、途中で満も他人の存在――礼矢の存在に気が付いたらしく、男子生徒の死体から視線を外し、礼矢の方を向いてきた。
それから、視線の先にいた人物が礼矢である事を確認すると、急に嬉しそうな笑顔になる。

「礼矢! 来てくれたんだね!」

待ち人が来たと言わんばかりに明るく喜んで華やいだ声を出した満に対し、どのような言葉をかけるべきなのか、礼矢は未だに分からずにいた。
だから礼矢は、言葉で返事をする代わりに、沈痛な面持ちで満を静かに見詰め返す。
その目は満に対し、何故このような事を? と訊いているようであったが、満はそれを読み取る事はできなかったらしく、黙ったままの礼矢を見ながら小さく首を傾げた。

「礼矢、どうしたの? なんだか悲しそうだけど……」

満の不思議がるような台詞を聴いても尚、礼矢は何も言おうとしなかった。
いや、この場合は、言おうとしなかったと言うよりも、言えなかったと言うべきかもしれない。
何故ならば、満と対峙する礼矢の思考は、冷静に混乱しているとでも言うべき状態であったからだ。
礼矢には、訳も分からず喚き出したくなるような衝動は無く、満が何故このような惨劇を起こしたのかに関してもそれなりに想像が付いていた。
だがその一方で、変化の無い陰鬱な日常を満と共に無難な形でやり過ごすという中学生活が続く事を信じていた無意識が、この事態を仕方なく思い反感無く納得する事を拒むのである。
しかし、だからといって、礼矢はそれを満にぶつける事はできない。
何故ならば、礼矢は満が虐めによって、更に言うならば学校の存在によって、常々苦しんでいた事をよく知っているからである。
それは、多くの社会人や、虐めに無縁の学生達から見れば小さなものかもしれないが、被害を受けている当事者にとってはそうではなく、常に被害者の人格に影を落とすと同時に、時には殺意すら芽生えさせるものであると、礼矢は身をもって知っているのだ。
その為、礼矢は、満に対して軽々しく、この惨劇は間違っている、と言う事はできないのである。
とはいえ、満がこの惨劇によって一般市民としての立場を破棄してしまった事と、それによって満が礼矢と共にこの先の学生生活を送る事ができなくなってしまった事が礼矢にとって酷く悲しい事であるのは事実だ。
だから礼矢は、せめてその気持ちだけでも伝えようとする。
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