青春の沈黙≪1≫ 絶望の果てに、絞首台の先で逢おう

軽いエコーをかけたような音質で響く絶叫を聞き、礼矢は満がこの近くの昇降口にいることを確信した。
礼矢は緊張のせいで渇き気味の口の中に残る僅かな唾液を飲み込んで、血と内臓の臭気を感じつつも小さく深呼吸をする。
正直な話、今更自分に何ができるのかは分からず、もしかしたらできる事など何も無いのかもしれないと感じないわけではなかった。
それでも、礼矢は昇降口に向かって廊下を進む。
途中、職員室から一部の教師の怒号のようなものが聞こえて、教師や警備員、あるいは教師達が呼ぶであろう警察より早く満と対峙しなければ、と思った礼矢は久しぶりに本気で走り、昇降口に駆け込んだ。

「満!! うっ!?」

昇降口にも教室や廊下と同じ、凄惨で現実味の無い光景が広がっていた。
普段は靴も転がっていないコンクリートの床には死体がいくつか転がっているのだが、この死体の損傷具合が中々酷い。
一番軽傷な死体ですら、首を大きく斬りつけられて大量の血液を床に撒き散らしているのだが、他の死体に目をやってみれば、首以外に手足も大きく切り裂かれて脂肪や筋肉の断面が見える死体や、腹を切り裂かれて内臓が零れだしている死体もある。
これにはさすがの礼矢も吐き気を覚えずにいられなかったが、そこは歯を食いしばってぐっと堪えた。
数秒後、吐き気が落ち着いてから改めて昇降口を見回すと、首を斬られた教師達の死体や、腹を切り裂かれた生徒達の死体から少し離れた場所で、返り血塗れの満が派手な男子生徒を昇降口の隅に追いやって包丁を向けている姿が見えた。

「ひ、ひひぃ……な、なぁ、ウソだろ? マジでやるとか言わねーよな? オレらおんなじ学校の仲間じゃん……仲間殺すとかマジかよ……?」

短い髪の毛を金色に染めて耳にピアスをいくつも空けている男子生徒は、礼矢とは別の、どちらかと言えばあの担任の女性教師と同じの非現実感を覚えているのか、目の前の光景が信じ切れていないらしく、恐怖に強張った顔に何故か半笑いを浮かべている。
そしてうわ言のように弱々しい震えた声で命乞いをしていたが、礼矢には満がその命乞いを聴く事は無い気がしてならない。
何故ならば、礼矢は、この男子生徒が高校一年生の頃から満に対してずっと悪意で粘着し、嫌がらせ――虐めを続けていた事を良く知っているからだ。
この男子生徒は、あの日に礼矢と満を罵倒して騒いでいた男子生徒達の中に混ざっていただけでなく、満だけに対する執拗な攻撃も多かった。
悪口を騒ぎ立て、小さなゴミを投げつけ、根も葉もない噂をあたかも真実であるかのように撒き散らし、満に対する周囲の視線を白いものにしていくというその行為は、礼矢という他人から見ても到底赦せるものではないのだから、満が赦さないのはごく自然な事だろう。
案の定、満は男子生徒の命乞いを聴く気は無いらしく、男子生徒を軽蔑しきった冷たい目で睨み付けながら右手に握った包丁の切っ先を男子生徒の右目に突きつけ、吐き捨てるように罵る。

「へー、こんな時だけお仲間気取り? 僕とお前が仲間? 冗談じゃない、僕はお前みたいな屑ゴミ野郎の仲間なんかじゃないんだよ。」

普段、礼矢の前以外では隠しているはずの、他者への強烈な嫌悪感。
それを剥き出しにして男子生徒を罵った満の表情は、最初に教室で目の前の男子生徒の首を刺した時のような笑みではなかった。
普段よりもやや細めた両目で目の前の男子生徒を鋭く、そして冷たく睨む満の表情や態度に、妙な明るさは無い。
その顔には、視線の先にある物、いる者、その全てを凍てつかせ、恐怖させるような冷酷さと憎悪が浮き彫りになっている。
だが、その冷たい空気の陰には、全てを焼き尽くさんと燃え盛る業火の様な激しい感情がチラついて見えていて、礼矢は、満の冷酷さは冷たさとは真逆の高熱を伴う怒りからきているのだと気付いた。
熱さと冷たさという二つの現象は、一般的に考えればなかなか両立できないもののような気がするかもしれないが、人間の精神においてはそうとは言い切れないものなのである。
例えば満が、そして礼矢が、他者に対して冷たい軽蔑を覚える前には必ず、その他者に対して熱く煮え滾る怒りを感じていた事実が存在する事が、その証明の一つになるだろう。
そう、満の顔に浮かぶ冷酷さと、その陰に隠れた燃え盛り、煮え滾る怒りは、礼矢も身に覚えがあるものなのだ。
だから礼矢は、満に男子生徒から離れるように言う事も、満と男子生徒の間に割って入って男子生徒を助ける事もできなかった。
いや、もしかしたら、できなかったのではなく、しようとしなかった、なのかもしれない。
ともかく、礼矢が立ち尽くしている間にも、満と男子生徒のやり取りは進む。

「や、やめろよ! やめてくれよ! あ、あ、謝るから! 今までの事全部謝るからさぁ!!」

男子生徒は背中や後頭部を壁に密着させ、少しでも包丁の切っ先から逃れようと試みながら、相変わらず強張った半笑いを浅黒い顔に浮かべたまま、引き攣った声で再び命乞いをする。
だが、それは罪の意識から来る懺悔などではなく、単に自分を守りたい故の一時的なパフォーマンスでしかない、という事を、礼矢は見抜いていた。
と言うよりも、幼い頃から虐めを受け、たまに謝罪を受ける事もあれど、しばらくすれば再び虐められる日々が始まり、その虐めに対して何らかのきっかけで再び謝罪を受けても、しばらくすればまた同じように虐められる、という事態を繰り返し経験した礼矢には、虐め加害者の謝罪を信じるという選択肢が、もはや存在しないのだ。
もしかしたら、人は礼矢のそれを偏見と呼ぶのかもしれない。
しかし、礼矢が幼い頃に虐めと謝罪の無限ループを経験した事は事実として存在するのから、これは単なる偏見ではなく、長年の経験則と言うべき思考なのである。
そして、その経験則と、自分の知る限りの満の思想を照らし合わせた結果、礼矢は満が男子生徒の謝罪の言葉を真に受けて包丁を下ろし、男子生徒を解放する事は無いと直感していた。
案の定、満は包丁の切っ先を更に男子生徒に近づけ、軽蔑の眼差しを向けながら吐き捨てる。
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