青春の沈黙≪1≫ 絶望の果てに、絞首台の先で逢おう

「……い、い、い……」

恐怖に満ちた女の声が微かに聞こえて、礼矢はその方向を見る。
声の主は、教壇の女性教師だった。
女性教師は既に出席簿とボールペンを取り落とし、ワナワナと震えている。
まさか、と思う礼矢の前で、女性教師は叫ぶ。

「い、あ、い、いい、あ……イヤアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアッ!!」

その直後、女性教師はこの現実から逃げるように全てを投げ出して、教室から逃げ出してしまった。
情けない後姿、乱暴に揺れる巻き髪を見ながら、礼矢は満が男子生徒を刺した時よりも唖然とした表情を浮かべる。
まさかとは思ったが、本当に自身の恐怖心を優先して他の生徒を残したまま逃げるとは、と考えて呆然とする礼矢の周囲で、椅子や机が床を引っかきながら動く音が次々と発生する。
どうやら、女性教師の叫びが合図になって、生徒達も恐怖心を感じるようになったらしい。
だが、そんな乱暴な立ち上がり方で、満が気付かないはずがないだろうに、と礼矢は当然のように、何処かぼんやりとした、しかし冷静な、何ともいえない気持ちで思っていた。
案の定、満の視線は教室全体に向けられて、生徒達はそれに怯え、震え、絶叫しながら、我先に逃げようとして教室前方の扉に殺到する。
ただ一人、礼矢だけが、何処かポカンとした様子で座ったまま、教室の狂騒を、妙に落ち着いて眺めていた。
そんな礼矢の視線の先で、事態は悪化の一途を辿る。
満が、自分の机から離れたのだ。
それに気付いた生徒達が徐々に悲鳴を上げ始め、耳を劈くようなバラバラの合唱となって教室にこだまする。

「嫌々嫌々嫌々嫌々!!」
「前の奴早くしろよぉ!!」
「殺さないでえええええ!!」
「何でこんな目にいいいいい!!」
「退いてよ退いて!!逃げられないじゃないのおおおお!!」
「邪魔だあああああ!!」

生徒達は自分の恐怖という感情を一番に考え、他人の事など一切配慮せず行動し、叫び、喚き、争いながら逃げ出そうとして、その結果として逆に自らの逃げ道を塞いでしまっている。
席に着いたままの礼矢は、一人ずつ順番に扉を潜れば全員すんなりと逃げられるはずなのに、と冷静に考えて、彼等は何を馬鹿な事をしているのだろうかと思った。
そのような事を思う礼矢の目は、普通の人間と呼ばれる人々から見れば、酷く冷めたもの、冷酷なものに見える事だろう。
だが、この押し合い圧し合いが生徒達自身の首を絞める結果を生んだのは、事実であった。

「ギャアアアアアアアアアアアアアアアアア!!」
「ヒィィィィイイイ!?」
「イギィィィィイアアア!!」

教室前方で渋滞を起こす生徒達の姿を見ていた礼矢の耳を、複数の絶叫と悲鳴が貫いた。
それと同時に、それまで教室前方の扉に群がっていた生徒達が、蜘蛛の子を散らすように散り散りに駆けだす。
礼矢は一瞬何が起こったか理解できず呆然としていたが、すぐにハッとして満の席を見て、その近くに満がいるかどうかを確認した。
しかしそこに満の姿は無く、代わりに見えたのは、ありもしない救いを求めて逃げ惑う、かつての礼矢と満のような生徒達の姿だけだ。
いや、かつての礼矢と満のような、という表現は少し不適切かもしれない。
何故ならば、礼矢と満は逃げ惑ってこそいたものの、今の生徒達の様に、自分以外の人間を押しのけ跳ねのけながら保身に走っていたという訳ではないのだから。

ともかく、そこに満の姿が無い事を確認した礼矢は、先ほどまで生徒達が群がっていた教室前方の扉に目を向ける。
するとやはり満はそこにいて、その足元には、髪の毛をチリチリにした男子生徒一人と、校則に反し髪を金色に染めて指先には派手なネイルアートを施した女子生徒一人の死体が転がっていた。
どうやら、礼矢を含む大勢の生徒達の意識が教室前方の扉だけに集中している事に気付いた満は、なるべく足音を立てない様にしながら教室後方の扉を出て、廊下を歩いて教室前方の扉に近づき、その扉から我先にと出てきた生徒達を刺し殺したらしい。
足元に転がった生徒二人の死体を蹴り飛ばす満が着ている制服は、返り血に染まって赤く、あるいはどす黒く変色していた。
そして満は、礼矢が自分を見ている事に気付くと、礼矢に向けてニコッと微笑んでから、その笑みに狂気を滲ませ、廊下へ逃げた多くの生徒達を追って、廊下を駆け出す。
そして数秒後には、またあの断末魔の叫びが礼矢の耳に突き刺さるのだった。

礼矢はしばらくの間は呆然として動けなかったが、やがてゆっくりと席を立ち、混乱と冷静の間で揺れる精神を必死に落ち着けながら、教室を見回す。
教室にはいかにも気弱そうで、尚且つ割と真面目そうな生徒が数人残っているだけで、それらは皆ガクガクと震え何かに怯えながら呪文のように、ゴメンナサイ、と繰り返している。
それを見て礼矢は、彼等や彼女等が満に殺されなかった理由、つまり、この生徒達は積極的な姿勢で虐めに関与してはいなかった事を思い出し、殺意に塗りつぶされた満の精神に僅かな正気が残っている事を期待した。
そして、もし満にまだ正気が残っているというのなら、一刻も早く満を止めなくては、と思った礼矢は静かに歩き出し、恐怖に震えながら床に蹲って謝罪を繰り返す生徒達の近くを通り過ぎて、教室を後にした。
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