青春の沈黙≪1≫ 絶望の果てに、絞首台の先で逢おう

「藤咲くん。」

女性教師が満の名字を呼ぶ。
満の右手が机の中から出てくる。
礼矢は目を見張った。

「ハイ!」

満は、入学したばかりの小学一年生がするように、元気で明るい笑顔を浮かべて返事をしつつ右手を上げる。
だが、それを微笑ましいと思って和める者や、真面目だと思って感心できる者、あるいは子供っぽい愚行だと思って嘲る者は誰もおらず、普段から満の近くにいて満を理解しているはずの礼矢でさえも、それらの一般的な感情を抱く事はできなかった。
女性教師の、震えた声が、聞こえる。

「ふ、藤咲くん、それ……」

女性教師は、満が右手に持って高々と掲げた、鋭い刃の包丁を、震える右手で指差す。
その顔は、何が起こっているか分からない、どうしたらいいか分からない、それが途轍もなく恐ろしい、と言いたげに蒼白だ。
他の生徒達も、女性教師と同じような表情をして固まっている。
だが、それはもしかしたら、極々当たり前の事なのかもしれない。
なにせ、今回の件は、満と親交が深く、満の信条と心情をよく知っている礼矢でさえ理解が及ばないような大事件なのだ。
それを考えれば、満と親交の浅い、あるいは無いに等しい生徒達や教員に全てを理解しろと迫るのはいささか酷なことかもしれないと、一般的には思うことができるだろう。
そうして、教室内の誰一人として状況を理解しきれない中で、朗らかな笑みを浮かべた満は言い放つ。

「えへへ。僕、やっと覚悟が決まったんです。」

満の突き抜けて明るすぎる笑みを見ながら、礼矢は色々な何かが頭の中で繋がって、この状況を理解する鍵が形成されていくのを感じていた。
自分は、満のあの突き抜けて明るい狂気に似て狂喜にも似た笑顔を、今朝からずっと見ていた、という事実に気付いた瞬間、礼矢は自分が何を不安に思っていたのかを思い知ったのである。
今更後悔しても意味は無いと知りつつも、礼矢は先ほど満を問いたださなかった事を悔やむ。
もしもあの時、自分が満を問いただしてこの計画を聞き出し、お願いだからやめてくれと懇願していれば、状況は違ったのかもしれない、という根拠無き後悔が、礼矢の身体を雷の様に莫大なエネルギーを伴って貫いた。

「何を、い、言っているの? は、早くそれを机に置きなさい!」

女性教師が震えた声を絞り出し、更にはヒステリックに叫んだが、そんな行為はもはや意味を成さないという確信が、礼矢にはあった。
何故ならば、礼矢は、満がああ見えてかなりの頑固者で、本当に心に決めた事を容易く曲げる性格ではないと知っているからだ。
今回の事も、満なりの信念の元、抑えきれない激情を伴っての行動に違いない。
だとするなら、満はもう誰の制止も聴かないだろう。
それに、そうでなくとも、裁くべき不良性と達と親しげにして、満の希望を一つ潰したあの女性教師の言葉が、満の心に届くなどとは、到底考えられない。
だから礼矢は、満が女性教師の言葉に応じるように右手を下げ始めて、女性教師が僅かに安堵の表情を浮かべたその瞬間、今まで感じた事が無い、強い悪寒と恐怖を感じて叫ぶ。

「満!!」

その瞬間、礼矢とその周囲に、ドスッ、だとか、ザクッ、だとか、そのように漫画染みた音は聞こえなかった。
風を切る、ヒュンッ、という音も聞こえなかった。
少なくとも、礼矢の咄嗟の叫びに掻き消されてしまう程度にその音は小さく、その音を聴く事ができたのは恐らく、満と、満の持つ包丁で首に深い切込みを入れられた、満の目の前に座っている不良寄りの男子生徒、その二人だけだっただろう。
礼矢が叫びだした時、満の腕は既に素早く振り下ろされ始めていて、周囲の生徒や教壇の女性教師が礼矢の叫びに気付いた時にはもう、全てが手遅れになっていた。
満の持つ包丁が首の右側面に深く沈みこんだ男子生徒の、何が起こったのか分からない、という顔が、徐々に蒼白になる。
それは痛みを感じ始めたからか、それとも肉体が死に向かい始めたからか、見ているだけの礼矢には分からない。

「ア……ガ……」
「えいっ。」

男子生徒の呻き声に続いて聞こえたのは、満の気の抜けるほど呑気な雰囲気の掛け声と、それに合わせて男子生徒の首から抜き去られた包丁が鮮血を跳ね飛ばし、それが周囲の壁や床や机、そして生徒達に付着した際の、ピチャピチャという小さな音だけ。
それから数秒して、男子生徒の身体は、首の傷から真っ赤な血をドクドクとリズミカルに漏らしながら、椅子から零れ落ちるようにして床に落ちた。
男子生徒が崩れ落ちた床には、その切り傷を中心にして赤い水溜り――血溜りができていたが、果たしてそれを見た生徒が何人いただろう?
それを凝視しなくとも、満の周囲には既に日常からかけ離れた凄惨な光景が広がっている。
礼矢は、何をどうすればいいのか分からなくなり、満を凝視したまま沈黙することしかできない。
他の生徒も、女性教師も、普通の日常、当たり前の日常が、これまで何の脅威だとも思っていなかった生徒の手でいとも簡単に壊された事に驚愕し、声が出せない。
そんな不気味な静寂の中、満はゆっくりと椅子から立ち上がる。
その時机の中から現れた左手は、右手と同じように、鋭くて大きな刃の包丁の柄を握っていた。
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