青春の沈黙≪1≫ 絶望の果てに、絞首台の先で逢おう

「あのさ、満、お前今日」

だが、礼矢の言葉はまたしても大きな音に遮られて止まった。
今度の音は、このクラスの担任教師が教室前方の扉をやや勢い良く開く音で、まだ席に着いていなかった生徒達が少し急いで着席し出す。
椅子を引く音がいくつも響く教室の中で、満もスピーカーから視線を外し、担任教師の姿を視界に収めた後、礼矢に向けてコソッと、しばしの別れを告げてくる。

「じゃ、また後で。」
「あ、あぁ……そうだな、また、後で。」

礼矢が返事をすると、満はそそくさと自分の席に戻っていってしまった。
その後ろ姿を見送りながら、礼矢は、次の休み時間こそ先ほど訊こうとした事を聞ければいいのだが、と思い、小さな溜息を吐いてから教壇に立つ担任教師に視線を向ける。
担任の若い女性教師は出席簿を教卓に置いて、黒板の右端に今日の日付をサッと書いてから生徒達に向き直り、朝の会の開始を告げた。

「はい、それじゃあ今日の朝の会を始めますよー。まずは出席をとりますね。」

名前順とほぼ変わらない学籍番号順で生徒達の名前を呼び、手を上げて応答する事を要求する担任の女教師を、礼矢はあまり好ましげに思っていないような顔で見ていた。
というのも、この教師は一見丁寧に職務を遂行しているように見えるが、礼矢や満が受ける嫌がらせ、虐め等への対応能力は正直に言って低いからだ。
この女教師は、この学校に蔓延る不良生徒達――特に男子生徒に対して立ち向かうには腕力的にも精神的にも弱過ぎであるし、立ち向かうべき不良生徒達との距離も近すぎる。
特に、後者の問題は礼矢と満を大きく失望させていた。
例えばそう、あれは礼矢が自分の学校での立場についてこの女教師に相談してから数日後の事だっただろうか。
朝の会の後、不良生徒達がこの女教師を親し気に名前で呼び、女教師の方もまんざらでもない楽しげな様子で返答していたところを見た、あの時の吐き気にも似た嫌悪感は、今も礼矢の中に不信感という形をとって残っている。
そしてそれはその後に仲良くなった満も似たようなものだったようで、礼矢が女教師に対する嫌悪感と不信感、そしてその理由を打ち明けると、満は、所詮あの教師もあちら側って事さ、と言って厭世的に笑って見せてきた事を、礼矢はまだ昨日の事であるかのように鮮明に思い出せるのだ。

「安切くん。」

あの女教師も所詮はあちら側の人間、こちら側の気持ちなど分かるまい、と思いながらぼんやりしていた礼矢の耳に、件の女教師が自分の名字を呼ぶ声が入ってきた。
どうやら、礼矢より学籍番号が若い生徒は全て呼ばれてしまったらしい。
礼矢は、ワンテンポ遅れて返事をする。

「あ、はい。」

ぼんやりしているところへ急に声をかけられると、単なるハイという返事以外に、あ、という前置きがついてしまうのは、礼矢の昔からの癖の一つだ。
本来ならばそのような前置きなど付けずに返事をする方が正しいという事は分かっているのだが、何か他の事に気を取られた状態で急に呼ばれると、どうしてもこの前置きがさも自然な事のように付いてきてしまう。
そして満以外の周囲から、まともな返事もできない頭のおかしい奴を見る目で見られてしまうのがいつもの事となっているので、礼矢は自分のこの癖が大分嫌いである。
今回も、礼矢が返事をした途端、何人かの生徒がプッと小さく噴出したり、近くの生徒と一緒にクスクスと笑うのが見えた。
そういえば、自分のような返事をする人間は一種の発達障害に属していると、何処かのWebサイトが言っていたような気がする、と思いながら、礼矢は自分に対する嫌な視線と微かな嘲笑が過ぎ去るのを待つ。
担任の女教師は、何事も無かったかのように次の生徒の名字を呼んでいた。

「――さん。」
「ハイっ。」
「――さん。」
「ハァーイ。」
「――くん。」
「ハイ。」

礼矢の件はあったものの、それでも点呼は順調に進み、そろそろ満の番が巡って来ようとしている。
なんとなく満の様子が気になって、礼矢は満の席の方をチラリと見た。
礼矢の見た満は、明らかに猫背な礼矢と違って背筋を伸ばして座っていて、尚且つ、脚が太すぎて膝をピッタリと閉じられない礼矢と反対に膝をお行儀良く閉じている。
それはとても生真面目な優等生の姿そのものだが、それが必ずしも学校生活においてプラスに働くとは限らない事を知っている礼矢は、自嘲じみたを苦笑したいような気持ちに駆られた。
例えば、制服のスカートを校則で決まっている通り膝下より少しだけ長くして穿いている女子生徒が、ダサ子、と呼ばれて笑われ、次第に軽蔑されて避けられるように、満のように潔癖なまでに生真面目な生徒は、邪険に扱われる運命にあるのだ。
勿論、全ての生真面目が邪険に扱われるわけではないとは思うが、それでも、スクールカーストの上位に居座る人間の種類は、たいていが不良生徒だと相場が決まっているので、生真面目の肩身が狭いのは確かだろう、と礼矢は思う。

そのような事を考えながら満を見ていると、礼矢はある事に気が付いた。
それは、満の両手が膝や机の上に置かれておらず、だからといって体の脇にだらりと垂らしている訳でもなく、何故か机の中に入っているという事だ。
満は普段、出席を取る際には机の上か膝の上に手を置いていることが多く、机の中に入れているという事は滅多に無い。
一体、何故そのような場所に手を置いているのか、礼矢は何故かそれが気にかかって仕方が無い。
これがギャル女やチャラ男等の不良生徒の行動であったなら、机の中で携帯電話でも弄っているのだろう、と考えて納得する事もできるのだが、普段そのような事を一切しない満の行動であるとなると話は別だ。
あの机の中で、満は何に手を触れているのだろうか?
礼矢がそんな事を考えている間にも点呼は進み、ついに満の番が来た。
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