青春の沈黙≪1≫ 絶望の果てに、絞首台の先で逢おう

「今日はなんとか無事に此処まで来れたね。」

窓と教室の間に柵を設けるかのように備え付けられた棚に立ったまま寄りかかりながら、まずは満がそう言った。
その、サバイバル要素が溢れる難所を潜り抜けて此処へ到着したような表現は、テレビのバラエティが時々放送する、海外の発展途上国だの後進国だのと呼ばれる国にあって、通学する子供達を生きるか死ぬかの瀬戸際に立たせる通学路に使うならともかく、比較的治安の良い国、ルールを守る国と言われている日本の通学路には似合わない言葉のように聞こえるかもしれない。
確かに、この国では通学中に野生動物に襲われて大怪我を負って食い殺される様な事は無く、通学途中に道が分からなくなって遭難し飢え死んだり凍え死んだりする事も無い、というのは事実だ。
街にいる野生動物はどれだけ強くとも精々カラスか猫程度であるし、道が分からなくなったら近くの交番にでも立ち寄るか、携帯電話があればそれで地図を検索すればいいだけの事である。
唯一、日本を含む先進国の方が危険な事として、危険運転の車が突進してくる事は挙げられるかもしれないが、それはそんなに多い事ではない。
だから、十にも満たない歳の子供が一人で歩けるような街中の、何が危険だと満は言っているのか、大多数の人々には分からないだろう。
しかし、そうではない礼矢は、席に着いたまま顔だけを満の方へ向け、軽い苦笑交じりの笑顔を見せながら応える。

「まぁ、そうだな。通学路で奴等を見た時はどうなるかと思ったけど。」
「だよね。今回はちょっと見られただけで終わって良かったよ。」

礼矢の苦笑を真似るように苦笑しながら、満は礼矢に同意した。
狂暴な野生動物は存在せず、遭難に繋がるような険しい地形など無い、日本の都会の通学路で、礼矢と満を苦しめるのは物理的な脅威ではない。
それは飽く迄も直接の外傷を負わせる事は無く、しかしジワジワと内臓を蝕む小さな小さな細菌のような、何もしないままでは目に見えにくい脅威――精神的な脅威なのだ。
礼矢は満に対し頷きながら、自分と満が通学路を歩いている時にそのかなり前方を歩いていたのにも関わらず、獲物を見付けた獰猛な肉食獣に人間らしい悪意を足し算した視線で後ろを振り返っていた男子生徒達を思い出す。
それは今思い出しても悪寒がする、と言える程の怯えを感じる程、礼矢は弱くない。
その代り、緩慢ではあるがゼロになって消えたりマイナスになって好意に変わる事は無い、男子生徒達に対する確かな苛立ちが再び熱を持つのを感じて、嫌なものを思い出したと思った礼矢は大きな溜め息を吐いた。

「……やっぱり、いつになっても嫌だよね、ああいうの。」

礼矢の溜息の意味を悟ったのか、満がそう言った。
その声でハッと現実に引き戻された礼矢は、考え事をしている間にか少し下がっていた自分の視線を持ち上げて、満の顔を見る。
礼矢の視界に映った満は、何処か遠くを見るような、少し物憂げな表情をしていて、礼矢はそこにいつもと違う何か――ただの厭世感とは違う深い憂いと、微かな哀しみの気配を感じた。
それは、礼矢の胸の奥で、アナログテレビの砂嵐の音がずっと鳴っているような不穏なざわつきを引き起こし、礼矢の表情をも曇らせた。
満がただの厭世感や、厭世感と嫌悪、あるいは厭世感と嘲笑が混ざった挑発的、あるいは挑戦的な表情をする事はあまり珍しい事ではない、それは礼矢も知っている。
だが、こんなにも憂いと哀しみに満ちた、まるで何かの終末を見送っているかのような表情の満を見た事は、殆ど無い。
何かがおかしい、と礼矢は思ったが、それを口にするのは何故か恐ろしく感じられて、礼矢はそれを誤魔化すかのように、それと違う内容の言葉を発する。

「そうだよなぁ。あんなチャラモヤシ、俺が本気の体当たりでもしたらすっ飛んでって複雑骨折だぞって言いたくなるぜ。」
「……そう、だね。僕達が何も反撃できないなんて思ったら大間違いだよね。……窮鼠は、猫を噛めるんだから。」

礼矢としては軽いジョークやギャグのつもりだった台詞に、満はあまり微笑む事無く憂いと哀しみを帯びた表情のまま、譫言のような浮遊感のある声で返事をした。
普段なら、礼矢がこのようなジョークもどきを飛ばす度に楽しそうに笑ってくれた満が、今日は何故かあまり笑ってくれない様子を見て、礼矢の胸のざわつきは益々強くなる。
おかしい、やはり何かがおかしい、今日の満は何かがおかしい、と不安に胸を締め付けられた礼矢は、今度こそ思い切って口を開く。

「なぁ、満……お前、なんか今日は、」

しかし、礼矢が一番大事な一言を言う前に、それを遮るかのようにして朝の会の開始を知らせるチャイムが鳴りだした。
満の視線はチャイムの音を響かせている教室内のスピーカーに目を向けられる。
それを見た礼矢は、この大音量のチャイムの中では自分の声は届かないだろうと考え、このチャイムが鳴り終わったらもう一度同じ事を言おうと思いつつ、しばしの間口をつぐんだ。
やがて、音階のある鐘をゆったりとした間隔でつく様なチャイムが鳴り終わり、教室のざわつきも僅かに少なくなった頃、チャイムはもう鳴り終わったというのにまだスピーカーを眺めている満の顔を見ながら、礼矢は先ほど言いかけた事を再び言おうとする。
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