青春の沈黙≪1≫ 絶望の果てに、絞首台の先で逢おう
礼矢は、満の怨嗟の籠った声に少し緊張しながらも、その様子を観察してみた。
満は、悲しみとも呆れとも違う激しい感情――怒りを、眉間のしわとしてその顔に刻んでいる。
先ほど教室で二人を罵ってきた男子生徒に抵抗した際の礼矢よりもずっと激しいその表情は、満の考えに賛同する礼矢さえも怯ませる迫力がある。
いや、もしかしたら、これに怯むのは礼矢だからこそなのかもしれない。
満の考えをよく知る礼矢だから、その表情がいかに激しい感情を伴うものなのかが分かるのだろう。
そうして感じる激しい感情に気圧されて僅かに息を呑んだ礼矢には視線を向けず、自身の膝の上の両手を見つめながら、満は言葉を続ける。
「おかしいよね? こんなの。僕達はただ、真面目に、真っ直ぐに生きてきただけ、それだけのはずなんだ。真面目って、悪い事じゃないよね? 悪い事をしないのは、善い事だよね?」
礼矢は、満の問いかけに答えなかった。
いや、そもそもそれは礼矢への問いかけではなかったのだろう。
だから礼矢は、満の問いかけに返答する代わりに、無言のままそっと、今までの人生を振り返ってみた。
大人びていると言われた幼稚園児時代、世界が広まった代わりに悪口を言われるようになった小学生時代、変わる環境に耐え切れず引きこもっていた中学生時代、そして、このままではいけないと奮起して世界との接点を持ったが故に再び悪意に曝されるようになった高校生の今。
中学時代の経験を考えれば、一つの傷も無い人生だと言う事はできないかもしれないが、それでも、大抵の場合においては善良であろうと努力した人生だったと礼矢は思っている。
少なくとも、未成年であるのに酒や煙草に手を出したり、校則を破った派手でだらしない格好をしたり、暴力沙汰や万引きなどの犯罪に手を染めたり、人目を憚らず卑猥な話を垂れ流したり等、一般的に不良の行いとされているような事には、両足どころか片足、つま先さえも突っ込んだ事はない。
それは社会に生きる者として当たり前と言えば当たり前の事であるが、その当たり前が当たり前に守れない者ばかり集まっているこの高校では単なる当たり前ではなく、一つのアイデンティティと言うに値するだろう。
事実、礼矢は、傍から見れば息苦しく見えるかもしれないほどに規律を重視する自分の性格に、密かな誇りを持っている。
例え世界全てが悪に染まろうと、自分は悪に染まったりなどしない――まるで子供向けアニメの主人公が言いそうな考えだが、それが、それだけが、礼矢がこの高校で陰鬱な青春を重ねていく上での心の支えなのである。
しかし、それは同時に、この学校という箱庭に集まる仮初めの仲間達という名の悪人達との軋轢を生む原因でもある為、礼矢は――礼矢と満は、自らの誇りによって生かされつつ殺されるという、果てしない矛盾に苦しまなければならないのだ。
だから、満は礼矢が以前から繰り返していた誰にも届かぬ問いかけを、嘆きに震えながら口にする。
善良に生きる事の何が間違っているというのかを、此処にはいない誰かに問いかける。
「ただ真面目に生きてきただけなのに、なんで、どうして、こんな目に遭うんだろうね? 小学校の道徳の教科書が警告するような悪い事をした覚えなんて、僕には無いよ? だから最初は、あんな見掛けのアイツ等の事だって疑わずに接して……なのに……」
僅かに震える声で呟いて黙り込んだ満の表情には、怒りの他に後悔の感情が滲んでいて、それを見た礼矢はこの高校に入学してすぐの頃の満の姿を思い出す。
あの頃の満は、礼矢と同じく小中学校で虐められていたにも拘らず、高校という新しい世界での新しい交友関係に夢を見ていた節があったようで、礼矢に比べるとやや高い頻度でやや幅広い層の生徒に声をかけるという、礼矢から見ると多少無謀な行為に走っていた時期があった。
そしてその際、先ほど大騒ぎをしていた男子生徒の関係者にも声をかけてしまったようで、その結果、しばらく後になってから嫌がらせを受け始めたり、満からすれば顔も覚えていないような女子生徒と満が交際しているという虚偽の噂を頻繁に騒ぎ立てられたり、最後にはお決まりの悪口を吐かれたりするようになってしまったらしい。
礼矢は、その嫌がらせの光景を何度か見た事がある。
それは、例えばとある授業の終盤、一部の男子生徒達が小さな菓子の包み紙を丸めた物と思わしきゴミを、自分達よりも前方の机で真面目に授業を受けている満に向けて投げている光景だったり、また別の授業の始まる直前、別のクラスの男子生徒が突然教室に入ってきたと思ったら、既に着席していた満の目の前に駆け寄り、誰々の彼氏がいる、だのと大きな声で騒ぎ立てる光景だったりした。
どちらも、礼矢が被害者であったなら、大声で怒りを露にしているような案件であり、実際、前者のゴミ投げに関して、自分もやられた事がある礼矢は、その際席を立って相手に怒声を向けた事もある。
だが、満の対応は、礼矢の対応とは大きく違った。
満は、何を投げられても、何を騒がれても声をあげる事は無く、少しだけ身を強張らせながら、何らかの理由で相手が自分への攻撃行為を止めて立ち去る瞬間を、ただ待っているだけだったのだ。
攻撃には反撃するべきだと思っている礼矢にとって、それは少し信じがたい事で、後に礼矢は満にその選択の意味を訊いている。
そしてその時、礼矢は満が心の奥に抱える絶望感を知ったのだ。
そうする事しか僕には許されてないから、と言って苦笑した満の、絶望感を。
やがて、怒りと後悔に震えていた満は、震えを抑えるかのように長い溜息を一つ吐いて、少し冷静な、しかしやはり刺々しい声音になって話を続けた。
満は、悲しみとも呆れとも違う激しい感情――怒りを、眉間のしわとしてその顔に刻んでいる。
先ほど教室で二人を罵ってきた男子生徒に抵抗した際の礼矢よりもずっと激しいその表情は、満の考えに賛同する礼矢さえも怯ませる迫力がある。
いや、もしかしたら、これに怯むのは礼矢だからこそなのかもしれない。
満の考えをよく知る礼矢だから、その表情がいかに激しい感情を伴うものなのかが分かるのだろう。
そうして感じる激しい感情に気圧されて僅かに息を呑んだ礼矢には視線を向けず、自身の膝の上の両手を見つめながら、満は言葉を続ける。
「おかしいよね? こんなの。僕達はただ、真面目に、真っ直ぐに生きてきただけ、それだけのはずなんだ。真面目って、悪い事じゃないよね? 悪い事をしないのは、善い事だよね?」
礼矢は、満の問いかけに答えなかった。
いや、そもそもそれは礼矢への問いかけではなかったのだろう。
だから礼矢は、満の問いかけに返答する代わりに、無言のままそっと、今までの人生を振り返ってみた。
大人びていると言われた幼稚園児時代、世界が広まった代わりに悪口を言われるようになった小学生時代、変わる環境に耐え切れず引きこもっていた中学生時代、そして、このままではいけないと奮起して世界との接点を持ったが故に再び悪意に曝されるようになった高校生の今。
中学時代の経験を考えれば、一つの傷も無い人生だと言う事はできないかもしれないが、それでも、大抵の場合においては善良であろうと努力した人生だったと礼矢は思っている。
少なくとも、未成年であるのに酒や煙草に手を出したり、校則を破った派手でだらしない格好をしたり、暴力沙汰や万引きなどの犯罪に手を染めたり、人目を憚らず卑猥な話を垂れ流したり等、一般的に不良の行いとされているような事には、両足どころか片足、つま先さえも突っ込んだ事はない。
それは社会に生きる者として当たり前と言えば当たり前の事であるが、その当たり前が当たり前に守れない者ばかり集まっているこの高校では単なる当たり前ではなく、一つのアイデンティティと言うに値するだろう。
事実、礼矢は、傍から見れば息苦しく見えるかもしれないほどに規律を重視する自分の性格に、密かな誇りを持っている。
例え世界全てが悪に染まろうと、自分は悪に染まったりなどしない――まるで子供向けアニメの主人公が言いそうな考えだが、それが、それだけが、礼矢がこの高校で陰鬱な青春を重ねていく上での心の支えなのである。
しかし、それは同時に、この学校という箱庭に集まる仮初めの仲間達という名の悪人達との軋轢を生む原因でもある為、礼矢は――礼矢と満は、自らの誇りによって生かされつつ殺されるという、果てしない矛盾に苦しまなければならないのだ。
だから、満は礼矢が以前から繰り返していた誰にも届かぬ問いかけを、嘆きに震えながら口にする。
善良に生きる事の何が間違っているというのかを、此処にはいない誰かに問いかける。
「ただ真面目に生きてきただけなのに、なんで、どうして、こんな目に遭うんだろうね? 小学校の道徳の教科書が警告するような悪い事をした覚えなんて、僕には無いよ? だから最初は、あんな見掛けのアイツ等の事だって疑わずに接して……なのに……」
僅かに震える声で呟いて黙り込んだ満の表情には、怒りの他に後悔の感情が滲んでいて、それを見た礼矢はこの高校に入学してすぐの頃の満の姿を思い出す。
あの頃の満は、礼矢と同じく小中学校で虐められていたにも拘らず、高校という新しい世界での新しい交友関係に夢を見ていた節があったようで、礼矢に比べるとやや高い頻度でやや幅広い層の生徒に声をかけるという、礼矢から見ると多少無謀な行為に走っていた時期があった。
そしてその際、先ほど大騒ぎをしていた男子生徒の関係者にも声をかけてしまったようで、その結果、しばらく後になってから嫌がらせを受け始めたり、満からすれば顔も覚えていないような女子生徒と満が交際しているという虚偽の噂を頻繁に騒ぎ立てられたり、最後にはお決まりの悪口を吐かれたりするようになってしまったらしい。
礼矢は、その嫌がらせの光景を何度か見た事がある。
それは、例えばとある授業の終盤、一部の男子生徒達が小さな菓子の包み紙を丸めた物と思わしきゴミを、自分達よりも前方の机で真面目に授業を受けている満に向けて投げている光景だったり、また別の授業の始まる直前、別のクラスの男子生徒が突然教室に入ってきたと思ったら、既に着席していた満の目の前に駆け寄り、誰々の彼氏がいる、だのと大きな声で騒ぎ立てる光景だったりした。
どちらも、礼矢が被害者であったなら、大声で怒りを露にしているような案件であり、実際、前者のゴミ投げに関して、自分もやられた事がある礼矢は、その際席を立って相手に怒声を向けた事もある。
だが、満の対応は、礼矢の対応とは大きく違った。
満は、何を投げられても、何を騒がれても声をあげる事は無く、少しだけ身を強張らせながら、何らかの理由で相手が自分への攻撃行為を止めて立ち去る瞬間を、ただ待っているだけだったのだ。
攻撃には反撃するべきだと思っている礼矢にとって、それは少し信じがたい事で、後に礼矢は満にその選択の意味を訊いている。
そしてその時、礼矢は満が心の奥に抱える絶望感を知ったのだ。
そうする事しか僕には許されてないから、と言って苦笑した満の、絶望感を。
やがて、怒りと後悔に震えていた満は、震えを抑えるかのように長い溜息を一つ吐いて、少し冷静な、しかしやはり刺々しい声音になって話を続けた。