青春の沈黙≪1≫ 絶望の果てに、絞首台の先で逢おう

礼矢は何度か荒い口呼吸を繰り返した後、ふぅーっと大きな溜息を吐いて、階段の手すりを握ったままその場に腰を下ろした。
それから、疲れた足を労わるようにゆっくりと、一つ下の踊り場に向けて階段の上に足を伸ばす。
屋上の出入り口であるドアに背を向けて階段に座る礼矢の視線の先には、大きな窓があった。
屋上の出入り口のドアと平行な関係にある壁の少し高い位置に作られたこの窓は、こうして階段に座って正面を向くと外――と言っても、所詮は校庭だけと言って過言ではないが――の風景が良く見えるのだ。
少しだけ視線を下げて校庭を見下ろすと、礼矢と歳の変わらない男子達が楕円形のトラックに沿ってマラソンのようにややゆっくりと走っているのが見えた。
どうやら体育の授業中らしい。
逆に視線を少し上げ気味にすると、憎たらしい程に青く晴れた空が見える。
僅かに存在する白い雲とのコントラストが綺麗と言えば綺麗だが、礼矢は晴れより雨が好きな為、それ以上の事――例えば、すがすがしい気分になるだとか、まさに晴れやかな気分になるだとか――を感じる事は無い。

礼矢がそんな風に外の様子をぼんやりと観察していると、二十センチ程度の隙間を空けながら、左隣に満が座ってきた。
満も礼矢と同じように窓の外を見て、小さく溜息を吐いてから、小声でぼそりと吐き捨てるように、しかし礼矢にだけは同意を求めるように

「呑気な光景だよね、これ。」

と言って、顔を礼矢の方に向けた。
突然話を振られて少し驚いた礼矢は一瞬、

「えっ?」

という、コミュニケーション能力が少ない人間にありがちな反応をしながら満の顔を見た。
礼矢の視界に映る満は、礼矢よりも大分端正な顔に薄らと笑みを浮かべていたが、その笑みに休み時間に教室にいた時の明るさや柔らかさは無い。
今、礼矢が見ている満の顔に浮かんでいた笑みは、嫌悪混じりの嘲笑と言うに相応しいものだった。
だから礼矢は、満が何を言っているのかをすぐに理解して、満よりも大分歪にできた顔を、影のような陰のような、何処か暗い雰囲気――厭世感のある笑みに変えて、満の言葉に同意する。

「……あぁ、そうだな。」

礼矢が同意すると、満は外の様子への嘲笑の中に、礼矢に対しての同族としての称賛のようなものを混ぜ込んだ意味深長な笑みを見せる。
少し意地悪くも見えるその笑みこそが、満が教室では隠していて、礼矢にだけ見せる裏の顔なのだ。
そして、礼矢を自分の同族だと感じ、それを信じる満は、これまた吐き捨てるように語り出す。

「嫌になるよね、何処も彼処も誰も彼も屑ゴミばっかりでさ。まるで暴君の様に他人を制圧する事しか頭にないクズと、そんなクズに擦り寄る事ばかり考える愚劣な民衆のようなクズ。挙句の果てにはそれらを許して僕達を未熟者扱いするクズ……本当、嫌になる。」

暴君は先ほどの男子生徒達の事で、愚劣な民衆とは同級生達の事。
そしてそれらを許すクズとは、先ほどの初老の教師の事だろう。
話し始めこそ嘲笑混じりとはいえと笑みと言える表情を浮かべていた満は、徐々にその顔から笑みを消し、何か忌々しいものを見るかのような表情で窓の外を見下ろしている。
礼矢は、満の中に満自身すら焼き焦がしてしまいそうな憎悪の炎を感じ、少し表情を曇らせた。
満は、ありったけの嫌悪と憎悪と、そして殺意を込めた視線で校庭を見下ろしながら、話を続ける。

「僕等はただ、社会のルールを破らない様に、悪い事をしない様に、正しい事だけ信じるようにしながら生きてきただけだ。あんな、悪い事しかできない屑ゴミ共に、虐げられる覚えは無い。そうだよね?」
「……そうだな、俺もそう思う。」

独白のような言葉の最後で急に問いかけられた礼矢は一瞬だけ驚いた顔を見せたが、すぐに平常心の表情に戻って、満の問いかけに同意した。
満と礼矢の視線の先、窓の外に見える校庭では、まだ体育の授業が続いているが、競技はマラソンから短距離走に変わったようで、先ほどとは違い全力疾走する生徒達の姿が見える。
どうやら、百メートル走のタイムを計っているらしい。
礼矢の手元には時計やストップウォッチは無いので、彼等のタイムがどの程度なのか、正確な事は分からない。
ただ、礼矢に比べればずっと短いタイムを叩き出しているであろうことは、容易く想像できる。
もし、そんな彼等をこの世の普通と定義するのなら、彼等の出すタイムの二倍、三倍の時間をかけなければ彼等と同じ距離を走れない礼矢は、普通という定義から外れた出来損ないという事になるだろう。
しかも、足の速さというものは、ちょっとやそっとの努力で劇的に改善するものではなく、尚且つ先天的に決められていると言っても過言ではない能力の話なのだから、足の遅さを責められる事はまるで、お前は先天的に出来損ないなのだ、と言われているような気がして礼矢は気が重くなる。
自分が他の同級生達に混ざって体育の授業を受けている時、礼矢の足が遅い事を笑ったり、あるいは咎めたりしないのは、精々満ぐらいのものである。
クラスで、学校で、この世界で、ただ一人の友人――藤咲 満。
礼矢はふと何気なく満の顔に視線を向ける。
すると、まるで礼矢の表情を窺う様に、先ほどの同意が口先だけの嘘でない事を確かめるように、礼矢の顔をじっと見つめている満と目が合った。
それが予想外の展開だったため明らかに驚いた顔の礼矢を見ながら、満は小さく微笑み、何かに納得したように嬉しそうな顔で何度も頷く。
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