エジプトまでの道程編
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部屋の中に、カリカリとペンを走らせる音が響く。真剣な顔で何かを必死に書いているのは、アンだった。紫苑はそんなアンの隣で、これまた真剣な顔つきで手に持っている時計を見つめている。
「よし、描けたわ!はい次、紫苑の番よ」
「どれどれ……えーっと、さっき私がルーレットを描いたから……これは、もしかしてトンネル……?また"る"じゃん!もう無いよ〜」
アンの描いた絵を見て頭を抱える紫苑。そう、夕食も食べ終え入浴も済ませた二人は、寝るまで暇だったので絵しりとりで遊んでいたのだ。
「ほらほら、早く描かないと3分経っちゃう!」
「そんな事言われてもなぁ……うーん、ルーペもルビーもさっき描いちゃったし、あと他に"る"で描けそうなやつあったっけ……」
アンは楽しそうにニヤつきながら手に持った時計を見ている。紫苑はそんなアンに急かされつつ必死に頭を回転させて次に描く絵を考えるものの、中々いい案が思いつかない。何を隠そう、もう5回も"る"で終わるものを描かされているのだ。描けるものはもう描き尽くしてしまったものに近い。紫苑が悩んでいるその間も、3分という制限時間が刻々と迫ってくる。
「えっと……他に描いてないやつ……る……る……」
「…………はいそこまで!時間切れよ、私の勝ちね!」
「うわ〜負けちゃったかぁ……アンちゃん強いね」
「私が強いんじゃあなくて、紫苑が弱すぎるのよ。何も考えずに書きやすそうなものから描いてたじゃない」
「う……」
アンに容赦なくダメ出しされ、紫苑は思わず渋い顔で口ごもる。アンは満面の笑みを浮かべながらひょいと椅子から降りると、楽しそうに軽やかな足取りでベッドに飛び込み、ベッドサイドチェストに置いてあったリモコンでテレビを付けた。
「それにしても災難ね。勘違いで警察に捕まっちゃうなんて」
「あ〜うん、そうだね」
アンは特に見たい番組も無いのか、片手でリモコンを操作しながらぼーっとテレビを眺めている。アンの言っている勘違いで警察に捕まってしまったというのは、ポルナレフの事である。実を言うと勘違いでも何でもなく、襲われたから返り討ちにしただけとはいえ、ポルナレフが呪いのデーボを再起不能にしたのは事実だ。でもそんな事をアンに正直に言うわけにもいかなかったので、とりあえず今は『ポルナレフは濡衣を着せられている』という事にしておいてある。紫苑は絵しりとりで使った紙とペンを片付けながら、アンと会話を続けた。
「ポルナレフはちゃんと出られそうなの?」
「ジョースターさんが掛け合ってくれてたみたいだし、明日には開放されるだろうって言ってたよ」
「ふーん」
「だから心配しなくても大丈夫。それより、明日も早いからそろそろ寝ないと。起きられなくなっちゃう」
「えーっと、明日は7時に朝ごはん食べたあと、すぐに列車のチケットを買いに行くんだっけ?」
「そうそう。準備もあるし、1時間くらい前には起きておかないとね」
「ちゃんと起きれるかしら。……ふぁぁ、ずっとボートにいてろくに寝れてないから眠くなってきたわ」
アンは大きなあくびをすると、眠たそうにしながら目を擦る。うつらうつらと船を漕ぎ、まぶたも閉じかかっている所を見るに、どうやら限界のようだ。
「じゃあもうテレビも電気も消しちゃおうか。アラームセットしてある?」
「さっきやっといたわよ」
「ありがとう」
テレビの電源を落とし、ドア付近にある照明のスイッチを押すと、一気に部屋が薄暗くなり静寂が訪れる。紫苑とアンはそれぞれ自分のベッドに潜り込み、眠る態勢に入った。
「おやすみ、アンちゃん」
「うん、おやすみなさい……」
お互いに声を掛け合い、目をつむる。やはりそれなりに疲労が溜まっていたのか、紫苑は横になるとすぐに眠気がやってきて、数分もしないうちに夢の世界へと旅立っていったのだった。
深夜、紫苑はふと目を覚ます。何処かで微かに物が落下した音がしたような気がしたのだ。寝起きで動くのも億劫だったため、薄くまぶただけ開いて周囲を確認する。しかしざっと見たところ、部屋の中に特に変わった所は見られない。気のせいか、と思いもう一度目を閉じて寝ようとすると、今度はコンコンと扉が叩かれる音が耳に入ってきた。その瞬間、朧気だった紫苑の意識は急に覚醒する。ガバリと起き上がり、音の発生源である扉をジッと見つめた。ちらりと時刻を確認するが、今はまだ起きるには早すぎる真夜中である。こんな夜中に扉を叩いてくるとしたらジョセフや承太郎といった旅の仲間たちであるとは思うが、この時間帯の呼び出しだとすれば余程の緊急事態のはずだ。そうしたらもっと強めに扉を叩くだろうし、ましてや寝てても気が付くように何度も叩いたりするのが普通だろう。それにも関わらず、先程のノックはとても控えめな音かつ一度きりで終わっていた。――だとすると、誰なのだろうか。そんな一抹の不安を胸に抱えながら、紫苑は音をたてないようにゆっくりとベッドから降り、ドアスコープをそうっと覗いてみる。
「……誰もいない」
紫苑が穴をいくら覗き込んでも、人の姿は見当たらなかった。その代わり、紫苑の部屋の扉の目の前に、何かが落ちているのが微かに視認できた。もしかしたら、誰かがこの部屋の前を通ったときに落とし物をして、それが扉に当たってノックのように聞こえたのかもしれない。そう考えながら紫苑は扉を開け、落ちているものを拾い上げる。
「なんだろうこれ……絵?」
廊下に落ちていたのは、一枚のキャンバスだった。そのキャンバスには、まるでアマゾンの一画のように青々と生い茂った木々が、何故か上から見下ろしたような不思議な構図で描かれていた。またそんな描きづらい構図であるにも関わらず、その絵は写真と見紛うほどリアルであった。
この絵を描いた人の技術に感心した紫苑は、なんとはなしにその絵を指でなぞる。すると突然、指が引っ張りられるような感覚がしたと同時に、絵を撫でていた指先がキャンバスの中に沈んだのだった。
「なッ!え、絵の中に引っ張られてる!」
慌ててもう片方の腕でキャンバスを引き剥がそうとするものの、キャンバスが紫苑を引きずり込もうとする力の方が強く、びくともしない。そればかりか、どんどんと身体が引きずり込まれていくのがわかる。
「ちょっと待って、今は皆寝てるし距離が遠いから助けなんて呼べないのにッ!……きゃあっ!?」
二の腕辺りまで飲み込まれた途端、今までとは比べ物にならない程の力で思い切り引っ張られ、バランスを崩した紫苑は為すすべもなく全身がキャンバスの中へと引き込まれる。支えを失ったキャンバスがガタンと音を立てて床に落ちると、人が居なくなった廊下には再び静寂が訪れた。
一方キャンバスに飲み込まれた紫苑は、視界が一瞬白んだかと思った次の瞬間、急激な浮遊感に襲われていた。驚いて目を見開くと、眼下には先程キャンバスに描かれていたような鬱蒼と生い茂った森が広がっていた。
「ッ!あ、アイオーン!」
急激に迫りくる地面。兎にも角にも、このままの速度で落下したら怪我ではすまないだろうと思った紫苑は、慌ててホワイトアイオーンを呼び出し、彼女に紫苑を抱えながら近くの木の枝を掴んでもらう事によって落下の衝撃を抑えようとする。内蔵が飛び出しそうになるくらいの衝撃はあったものの、生い茂った葉がクッションになったこともあり、紫苑は特に大きな怪我なく地面に着地することができた。
「うっ……助かった……ありがとうアイオーン」
自身のスタンドに感謝を述べながら様々な草花が乱雑に生えている地面に手をついて立ち上がり、体の至るところにくっついた青々とした葉っぱを払い落とす。周囲を見渡してみると、ここら一面には背の高い木々が数多く生えており、それらがさんさんと照りつける太陽光を遮断して広範囲に木陰を作り出していた。
肌を撫でるぬるい風に、至るところから聞こえてくる昆虫や野鳥の声。それらを感じ取った紫苑は、絵の中の世界にしてはやけにリアルだな、といった感想を抱いた。
「いやぁ、良かった良かった。貴方をこちらへ呼び込んだのは良いものの、うっかり手を離してしまいましてね。勝手に死んでしまったらどうしようかと」
背後からガサリと草をかき分けるような音と共に、男性の声が聞こえてくる。紫苑が振り返ると、そこには白いワイシャツに黒いベスト、灰色のスラックスに焦げ茶色の革靴といった、かっちりとした服装を身にまとった男がお手本のような笑みを貼り付けて立っていた。男は両手で称賛の拍手を送りながら、やや演技ががった口調で紫苑の無事を喜んでいる。
「……貴方が私を倒しに来た新手のスタンド使い、ってことですね」
「ご名答。と言っても、ここに連れてこられた時点でどんな阿呆でも察しはついていたのでしょうが」
こちらを見下すようにして鼻で笑う男に対し、紫苑は思わず眉間に皺を寄せる。そんな紫苑の苛ついた表情を見た男は目を細め、更に笑みを深めた。
「おや、怒らせてしまいましたかね。これは失敬」
「……別に。そんなことより、勿体ぶらずに早く名乗ったらどうですか?」
「そう急かさなくともちゃあんと名乗ってあげますよ。私の名前はショーン。スタンドはトートタロットにおける技 のカード……融合と調和、相反するものや事柄を統合して新しいものを創り出すといった暗示を持つ、『極彩色の技 』」
ショーンが名を呼ぶと、彼のスタンドの像 がゆらりと現れる。その姿は完全なる人型であり、ダビデ像を彷彿とさせるような美しく均衡の取れた体と不自然なほど整った顔を持ち合わせていた。カラフルアートはその美しい顔にショーンと似たような薄っぺらい笑みを貼り付けながら、冷たく無機質な瞳で紫苑を見つめている。
「私のスタンド『極彩色の技 』は、虚像である絵を本物に変える能力を持つ。今回のように本物になった絵の中に入り込む事もできますが……ああ、これにしましょうかね」
ショーンは肩に掛けていたショルダーバッグから数枚の紙を取り出し、その中の一枚を見せびらかすようにしてひらりと掲げてみせた。
「ここに様々な果物が描かれた絵があるでしょう。これをよく見ていてください」
ショーンがそう言うと、ショーンの側で控えていたカラフルアートが絵に手を伸ばし、その手を絵の中にめり込ませる。そして何かを探るように数度腕を動かしたあと、ゆっくりと手を引き抜くと、その手の中にはみずみずしく、赤く熟れたりんごが存在していた。
「え……絵の中からりんごが出てきたッ!?」
「ふふ……そう、絵の中から『本物』を取り出すこともできるのですよ。さて、説明はこのくらいにして……そろそろ本番といきましょうか」
まるでファンタジーのような光景に驚きを隠せない紫苑をよそに、ショーンはりんごだけがきれいに消えた絵をバッグの中にしまう。そして今度は違う絵の描かれた紙を取り出すと、その紙をカラフルアートに手渡した。
また絵の中から何かを引っ張り出して来るのだろう。そう考えた紫苑はカラフルアートの手元を見ながら、自身もホワイトアイオーンを呼び出して警戒心を強める。
「とはいえ直ぐに再起不能になられてはつまらない……まずはウォーミングアップがてら、彼らのお相手をしてもらいましょう」
そうしてカラフルアートが取り出して来たのは――数十羽のカラスだった。次々に出てくるカラス達は、カァカァと鳴きながら紫苑の頭上をクルクルと旋回している。
「さて、こんなものでしょう。さぁ行きなさい!」
「嘘、取り出した生き物を操る事もできるの?って、うわぁッ!?」
ショーンの掛け声がかかると同時に、カラス達は一斉に紫苑に向かって襲いかかる。
「この絵は『私に忠実なカラス』の絵ですからね。どんなに下手な絵だろうと、傍から見たら違う物に見える絵だろうと、作者の意図を完全再現して現実にすることが出来る……それがカラフルアートの能力なんですよ」
ショーンの楽しそうな声を耳に入れながら、紫苑はカラスを追い払おうと必死に両手を振り回す。しかしカラス達はそれらを気にも留めずかいくぐり、すきを見てはその嘴で紫苑を的確に攻撃していく。
しばらく攻防を続けたものの、このままではひたすら攻撃を受け続けるだけで埒があかないと思った紫苑は、腹をくくってストレングスとの戦いの時のように鋭い鉤爪を生やす。そしてその鉤爪を振り回し、自身に群がるカラス達を一思いに切り裂いた。
グアァ、という断末魔を上げながらバタバタと地に落ちていくカラス達。それを見たショーンは、さらに笑みを深めながら目を輝かせた。
「そうそう、私はそれが見たかった。ようやく腹をくくったようですね」
「……罪のない生き物達を戦わせるなんて、随分と悪趣味ですね」
「そう怒らないでください。退屈はさせませんから」
「そういう事じゃあないんだけど……」
微妙に話が通じないことに嫌気が差した紫苑は、ホワイトアイオーンで切り傷を治しながら思わず苦い顔を浮かべる。そんな紫苑をよそに、ショーンは何かを思い出したように目を見開くと、ショルダーバッグの中を漁りだした。
「そういえば、先程こちらの紙を拾いまして……次はこの中から選んで出しましょうか」
「なッ、それは!ポケットに入れておいたはずなのに……!」
ショーンが取り出したのは、紫苑とアンが寝る前にやっていた絵しりとりの紙だった。それを見た紫苑がハッとして急いで寝間着のポケットに手を入れるが、何も見当たらない。おそらく空から落ちてきた時にでも落としたのだろう。
しかし一つの疑問が頭をよぎる。その絵はショーンではなく、紫苑とアンが描いたものだ。他人が描いた絵でも実物に出来るのだろうか?そう思った途端、ショーンは堪えきれないと行った様子でクツクツと笑いだした。
「その顔……この絵は私が描いたものじゃないのに、本物にすることができるのかって顔ですね。それじゃあお見せしましょうか」
ショーンはそう言うと紙に描かれている絵に一通り目を通し、絵の中に手を入れる。紫苑がその様子を見ながら絵しりとりで何を描いたか思い出していると、ショーンがゆっくりと紙から何かを引きずり出す。そうして出てきたのは、狐であった。
「他人が描いたものでも本物にはできるんですよ。さて、次は狐です。小柄ながらも鋭い爪と牙を持つ狐とどう戦うのか、見ものですね」
「やっぱり、悪趣味……!」
腹が減っているのか、ダラダラと涎を垂らしながら物凄い勢いで紫苑に向かって駆け寄って来る狐。流石に危機感を感じた紫苑は、慌てて遠くへ逃げようと走り出した。木々の間をすり抜け、草を掻き分けながら必死に足を動かすが、やはり走る速さは動物には叶わない。ジワジワと距離を詰められその差が1mを切った途端、狐は紫苑に飛びかかり、紫苑の左足に思い切り噛み付いた。
「うあッ……!」
小型とはいえ、肉食の獣に噛みつかれ激痛が走る。反射的に鉤爪を狐の胴体に突き刺すと、狐は悲痛な声を上げて口を放す。しかし再び大きく口を開けると、今度は右腕に噛み付いてきた。
紫苑は痛みにのたうち回りながらもなんとか反撃しようと何度も鉤爪で狐を突き刺す。そうしてしばらくの間もみ合っていると、狐は遂に力尽きたのかフッっと噛みつく力が消えた。これは好機だと思った紫苑は息絶えた狐をわしづかみ、いつの間にか近くにいたショーンに向かって思い切り放り投げた。
「おりゃあッ!!」
「おっ……と」
思わぬ不意打ちにそれを避けようとしたショーンが体勢を崩したのを見計らって、紫苑は痛む足もお構いなしに全速力で駆け出し、ショーンが持っていた絵の端を掴む。そしてそれを思い切り引っ張って、真っ二つに引き千切った。
「やったッ!」
「おや、破れてしまいましたか」
絵から何かを出して来るなら、それを破いて使い物にならなくしてしまえばいい。そう考えていた紫苑は、ショーンが油断する瞬間をずっと狙っていたのだ。絵を破るという作戦は上手く行ったものの、大切な絵が破れたというのにショーンは至って平然としている。同様が微塵も見られないその様子に、紫苑は思わず冷や汗をかいた。
「破ってしまえばこの絵が無効になるとでも考えたのでしょうが……生憎これは私が描いた絵だ。そしてこの絵はまだカラフルアートの能力で本物にする前のもの。能力を使う前ならば、絵の解釈なんていくらでも変えられるんですよ」
そう言うとショーンはカラフルアートの能力を使い、破れた絵の中に手を入れる。そしてそこから美しい毛並みの狼を取り出した。
「う、嘘でしょ……!」
「嘘では無いんですよねぇ、これが。さぁ行きなさい、あの者を喰らい尽くすのです」
ショーンの号令がかかると、狼はよく通る声で遠吠えを一つ上げ、勢いよく紫苑に飛びかかる。紫苑は咄嗟に腕の周りに骨を張り巡らせ、その腕を身体の前に出し身を護る。先程の狐とは比べ物にならない力で目の間に出された腕に噛みつき、グルルル……と唸り声を上げながら腕を引きちぎろうとしてくる狼。しかしその腕は硬い骨によって守られているため、引き千切る事は叶わない。紫苑はそうして狼を片腕で止めながら、この状況から脱する方法を考えていた。
実は狼や狐というように、獲物に噛み付いて攻撃する動物に対しての対処法はわかってきていた。初動で致命傷を食らわなければ、こちらが致命傷を与えるのは容易い。しかし、これよりも大型の肉食獣――例えば熊や、できるかはわからないが恐竜とかが出てきた時には足掻く前に即死である。そういったものを出される前に、なんとかショーンを倒さなければならない。
一体どうすれば……絶望にも似た思いが紫苑の心を覆い尽くそうとした途端、一つの案が思い浮かんだ。
上手くいくかどうかはわからないが、勝って生き残る為にはやるしかない。そう思った紫苑は覚悟を決めた表情になる。そして腕に噛みつく狼から逃れるように、ジタバタと暴れ始めた。獲物が逃げると思った狼は、紫苑の行動を制限するかのように上にのしかかり、その鋭い爪で手や腕を引っ掻いて血だらけにする。自身の両手が傷だらけになったのを見た紫苑は、ショーンにバレないように少しだけ笑みを浮かべると、空いていた方の手をドリルのように変形させ、狼の心臓目掛けて一思いに突き刺した。
そんな紫苑の手慣れた様子を見たショーンは片眉を上げ、感心したように息を漏らした。
「おや、何だかだいぶ慣れてきたようですね。そろそろ次のステージに行ってもいいかもしれません」
「次のステージ……?」
「そう。例えばこれとか……ね」
そう言ってショーンが見せたのは、巨大なヒグマが描かれた絵だった。それを見た紫苑は焦りの表情を滲ませ、よろよろと立ち上がる。
「そ、それは流石に不味い……!その絵を寄越して!ビリビリに引き裂いてやるから……!」
最後の力を振り絞るようにしてショーンの方へと足を進め、ショーンの持つ絵を奪い取ろうとする。しかし紫苑の緩慢な動きを避けるのはショーンにとってとても容易いことであり、それらを軽々と避けながら不快だと言わんばかりに顔を歪めた。
「まだそんな事を言ってるのですか……さっき丁寧に説明したでしょうに」
そう苦言を呈するのもお構いなしに、紫苑はショーンの持つ紙を引き裂こうとするかのように、鉤爪の生えた両手をブンブンと振り回す。それと共に紫苑の両腕から流れ出る血が辺りに撒き散らされ、地面や絵、さらにはショーンの洋服までもを汚していった。
「ッ……はぁッ……!!」
「だからさっきも言ったでしょう。この絵を切り裂いたところで無駄なんです」
「やぁッ!」
「ああ……もっと私を楽しませてくれるかと思ったのですが……残念です。どうやら期待外れだったようだ……もう怪我を治す気力すら残っていないようですし、仕方がない。ここで終わりにしましょうか」
ショーンは失望したというような表情でそう呟くと、手に持っていた絵の中から、巨大なヒグマを取り出そうとする。しかし絵の中に手を入れた途端怪訝そうな表情になったかと思うと、すぐさま表情を一変させた。
「な……何だこれは!?腕が引きずり込まれていく……!?」
「……はは、おごり高ぶっていたのは貴方のほうでしたね」
「何?」
紫苑は顔を俯かせたまま笑みをこぼし、満身創痍の身体に鞭打って立ち上がる。ショーンは冷や汗をかきながらその様子を見ていた。
「私が振りかぶった時……貴方は私がその絵を奪おうとしている、もしくはもう一度ビリビリに引き裂こうとしていると思ったようだけど……それはとんだ大間違い。本当の目的は、私の血液を飛ばすこと」
「血液を?……!ま、まさか、血液で絵を ……!」
「そう、そのまさか。そして私が描いたのは『ブラックホール』」
ショーンが慌てて絵を見ると、そこには禍々しい程の深淵が広がっており、紙の縁には血痕が付いている事に気がつく。自身が下に見ていた人物に出し抜かれたという事実に、悔しそうな表情で唇を噛んだ。その間も、どんどんとショーンの腕はブラックホールの中へと引きずり込まれていく。
「き、貴様……わざと自分の怪我を治さなかったな……!」
「そうですよ。どんなに下手な絵でも、作者がこうだと思った物が本物として現れるんですよね。ちょっと歪だったかもしれませんが……私はそれをブラックホールだと思って描いた。自分の血を使って。だからブラックホールが現れた。それに気が付かず安易に手を触れた貴方の負けです」
「くそ……!この私が負けるだなんて……!そんな事、あるはずが……!う、うわあああああッ!」
しばらくジタバタと藻掻きながら必死に腕を引き抜こうとしていたショーンだったが、ブラックホールの吸引力には力及ばず、力が抜けた一瞬の隙に全身が引きずり込まれ、悲痛な叫び声と共にその姿を消した。紫苑もブラックホールの全貌は知らないが、吸い込まれれば全身がバラバラになり、命はないことくらいは知っている。間接的にではあるものの、身を護る為とはいえ人ひとりの命を奪ってしまった事に対し、紫苑は思わず顔を歪めた。
地面に落ちた禍々しいブラックホールが描かれた絵をしばらく見つめていると、ゴゴゴ、という鈍い音と共に小刻みな揺れが紫苑を襲う。辺りに視線を巡らせると、周りの木々や草花からゆらゆらと靄が出ており、先端からゆっくりと消えていくのがわかる。どうやらこの空間を創り出した主が居なくなった事により、この世界の崩壊が始まっているようであった。
これで元の世界に帰れる。そう思った紫苑が長いため息をつくと、視界が白く染まる。眩しさから目を閉じ、再び目を開くと、そこは紫苑達が泊まっているホテルの廊下であった。
「やっと帰って来れた……」
紫苑は心底ホッとした様子でそう零すと、足元に落ちていたキャンバスを拾い上げ、若干覚束ない足取りで部屋の中に入る。キャンバスを適当な場所に立て掛け、確認の為アンの様子を確認すると、あいも変わらずスヤスヤと寝ている様子が目に見て取れた。
あのショーンという男が言っていたように、アンには特に何事もなかったようで良かった。そう思いながらベッドに腰掛け、アイオーンを呼び出して怪我の治療を行っていく。大なり小なり至るところに傷があったため、治すのに大分時間を要した。そこそこの時間をかけてすべての傷を治し終わり窓を見やると、少しだけ空が白んでいるのがわかった。
「結構な時間が経っちゃったな……明日も早いし、はやく寝ないと」
血だらけになってしまった寝間着を手早く脱いで代わりの物に着替え、身体にこびりついた血はタオルで拭い取る。そうして寝る準備を整えると、急いでベッドへと潜り込んだ。
目をつむると直ぐに睡魔がやってくる。それに抗うことはせず、紫苑はどんどんと沈む意識に身を委ねたのだった。
「よし、描けたわ!はい次、紫苑の番よ」
「どれどれ……えーっと、さっき私がルーレットを描いたから……これは、もしかしてトンネル……?また"る"じゃん!もう無いよ〜」
アンの描いた絵を見て頭を抱える紫苑。そう、夕食も食べ終え入浴も済ませた二人は、寝るまで暇だったので絵しりとりで遊んでいたのだ。
「ほらほら、早く描かないと3分経っちゃう!」
「そんな事言われてもなぁ……うーん、ルーペもルビーもさっき描いちゃったし、あと他に"る"で描けそうなやつあったっけ……」
アンは楽しそうにニヤつきながら手に持った時計を見ている。紫苑はそんなアンに急かされつつ必死に頭を回転させて次に描く絵を考えるものの、中々いい案が思いつかない。何を隠そう、もう5回も"る"で終わるものを描かされているのだ。描けるものはもう描き尽くしてしまったものに近い。紫苑が悩んでいるその間も、3分という制限時間が刻々と迫ってくる。
「えっと……他に描いてないやつ……る……る……」
「…………はいそこまで!時間切れよ、私の勝ちね!」
「うわ〜負けちゃったかぁ……アンちゃん強いね」
「私が強いんじゃあなくて、紫苑が弱すぎるのよ。何も考えずに書きやすそうなものから描いてたじゃない」
「う……」
アンに容赦なくダメ出しされ、紫苑は思わず渋い顔で口ごもる。アンは満面の笑みを浮かべながらひょいと椅子から降りると、楽しそうに軽やかな足取りでベッドに飛び込み、ベッドサイドチェストに置いてあったリモコンでテレビを付けた。
「それにしても災難ね。勘違いで警察に捕まっちゃうなんて」
「あ〜うん、そうだね」
アンは特に見たい番組も無いのか、片手でリモコンを操作しながらぼーっとテレビを眺めている。アンの言っている勘違いで警察に捕まってしまったというのは、ポルナレフの事である。実を言うと勘違いでも何でもなく、襲われたから返り討ちにしただけとはいえ、ポルナレフが呪いのデーボを再起不能にしたのは事実だ。でもそんな事をアンに正直に言うわけにもいかなかったので、とりあえず今は『ポルナレフは濡衣を着せられている』という事にしておいてある。紫苑は絵しりとりで使った紙とペンを片付けながら、アンと会話を続けた。
「ポルナレフはちゃんと出られそうなの?」
「ジョースターさんが掛け合ってくれてたみたいだし、明日には開放されるだろうって言ってたよ」
「ふーん」
「だから心配しなくても大丈夫。それより、明日も早いからそろそろ寝ないと。起きられなくなっちゃう」
「えーっと、明日は7時に朝ごはん食べたあと、すぐに列車のチケットを買いに行くんだっけ?」
「そうそう。準備もあるし、1時間くらい前には起きておかないとね」
「ちゃんと起きれるかしら。……ふぁぁ、ずっとボートにいてろくに寝れてないから眠くなってきたわ」
アンは大きなあくびをすると、眠たそうにしながら目を擦る。うつらうつらと船を漕ぎ、まぶたも閉じかかっている所を見るに、どうやら限界のようだ。
「じゃあもうテレビも電気も消しちゃおうか。アラームセットしてある?」
「さっきやっといたわよ」
「ありがとう」
テレビの電源を落とし、ドア付近にある照明のスイッチを押すと、一気に部屋が薄暗くなり静寂が訪れる。紫苑とアンはそれぞれ自分のベッドに潜り込み、眠る態勢に入った。
「おやすみ、アンちゃん」
「うん、おやすみなさい……」
お互いに声を掛け合い、目をつむる。やはりそれなりに疲労が溜まっていたのか、紫苑は横になるとすぐに眠気がやってきて、数分もしないうちに夢の世界へと旅立っていったのだった。
深夜、紫苑はふと目を覚ます。何処かで微かに物が落下した音がしたような気がしたのだ。寝起きで動くのも億劫だったため、薄くまぶただけ開いて周囲を確認する。しかしざっと見たところ、部屋の中に特に変わった所は見られない。気のせいか、と思いもう一度目を閉じて寝ようとすると、今度はコンコンと扉が叩かれる音が耳に入ってきた。その瞬間、朧気だった紫苑の意識は急に覚醒する。ガバリと起き上がり、音の発生源である扉をジッと見つめた。ちらりと時刻を確認するが、今はまだ起きるには早すぎる真夜中である。こんな夜中に扉を叩いてくるとしたらジョセフや承太郎といった旅の仲間たちであるとは思うが、この時間帯の呼び出しだとすれば余程の緊急事態のはずだ。そうしたらもっと強めに扉を叩くだろうし、ましてや寝てても気が付くように何度も叩いたりするのが普通だろう。それにも関わらず、先程のノックはとても控えめな音かつ一度きりで終わっていた。――だとすると、誰なのだろうか。そんな一抹の不安を胸に抱えながら、紫苑は音をたてないようにゆっくりとベッドから降り、ドアスコープをそうっと覗いてみる。
「……誰もいない」
紫苑が穴をいくら覗き込んでも、人の姿は見当たらなかった。その代わり、紫苑の部屋の扉の目の前に、何かが落ちているのが微かに視認できた。もしかしたら、誰かがこの部屋の前を通ったときに落とし物をして、それが扉に当たってノックのように聞こえたのかもしれない。そう考えながら紫苑は扉を開け、落ちているものを拾い上げる。
「なんだろうこれ……絵?」
廊下に落ちていたのは、一枚のキャンバスだった。そのキャンバスには、まるでアマゾンの一画のように青々と生い茂った木々が、何故か上から見下ろしたような不思議な構図で描かれていた。またそんな描きづらい構図であるにも関わらず、その絵は写真と見紛うほどリアルであった。
この絵を描いた人の技術に感心した紫苑は、なんとはなしにその絵を指でなぞる。すると突然、指が引っ張りられるような感覚がしたと同時に、絵を撫でていた指先がキャンバスの中に沈んだのだった。
「なッ!え、絵の中に引っ張られてる!」
慌ててもう片方の腕でキャンバスを引き剥がそうとするものの、キャンバスが紫苑を引きずり込もうとする力の方が強く、びくともしない。そればかりか、どんどんと身体が引きずり込まれていくのがわかる。
「ちょっと待って、今は皆寝てるし距離が遠いから助けなんて呼べないのにッ!……きゃあっ!?」
二の腕辺りまで飲み込まれた途端、今までとは比べ物にならない程の力で思い切り引っ張られ、バランスを崩した紫苑は為すすべもなく全身がキャンバスの中へと引き込まれる。支えを失ったキャンバスがガタンと音を立てて床に落ちると、人が居なくなった廊下には再び静寂が訪れた。
一方キャンバスに飲み込まれた紫苑は、視界が一瞬白んだかと思った次の瞬間、急激な浮遊感に襲われていた。驚いて目を見開くと、眼下には先程キャンバスに描かれていたような鬱蒼と生い茂った森が広がっていた。
「ッ!あ、アイオーン!」
急激に迫りくる地面。兎にも角にも、このままの速度で落下したら怪我ではすまないだろうと思った紫苑は、慌ててホワイトアイオーンを呼び出し、彼女に紫苑を抱えながら近くの木の枝を掴んでもらう事によって落下の衝撃を抑えようとする。内蔵が飛び出しそうになるくらいの衝撃はあったものの、生い茂った葉がクッションになったこともあり、紫苑は特に大きな怪我なく地面に着地することができた。
「うっ……助かった……ありがとうアイオーン」
自身のスタンドに感謝を述べながら様々な草花が乱雑に生えている地面に手をついて立ち上がり、体の至るところにくっついた青々とした葉っぱを払い落とす。周囲を見渡してみると、ここら一面には背の高い木々が数多く生えており、それらがさんさんと照りつける太陽光を遮断して広範囲に木陰を作り出していた。
肌を撫でるぬるい風に、至るところから聞こえてくる昆虫や野鳥の声。それらを感じ取った紫苑は、絵の中の世界にしてはやけにリアルだな、といった感想を抱いた。
「いやぁ、良かった良かった。貴方をこちらへ呼び込んだのは良いものの、うっかり手を離してしまいましてね。勝手に死んでしまったらどうしようかと」
背後からガサリと草をかき分けるような音と共に、男性の声が聞こえてくる。紫苑が振り返ると、そこには白いワイシャツに黒いベスト、灰色のスラックスに焦げ茶色の革靴といった、かっちりとした服装を身にまとった男がお手本のような笑みを貼り付けて立っていた。男は両手で称賛の拍手を送りながら、やや演技ががった口調で紫苑の無事を喜んでいる。
「……貴方が私を倒しに来た新手のスタンド使い、ってことですね」
「ご名答。と言っても、ここに連れてこられた時点でどんな阿呆でも察しはついていたのでしょうが」
こちらを見下すようにして鼻で笑う男に対し、紫苑は思わず眉間に皺を寄せる。そんな紫苑の苛ついた表情を見た男は目を細め、更に笑みを深めた。
「おや、怒らせてしまいましたかね。これは失敬」
「……別に。そんなことより、勿体ぶらずに早く名乗ったらどうですか?」
「そう急かさなくともちゃあんと名乗ってあげますよ。私の名前はショーン。スタンドはトートタロットにおける
ショーンが名を呼ぶと、彼のスタンドの
「私のスタンド『
ショーンは肩に掛けていたショルダーバッグから数枚の紙を取り出し、その中の一枚を見せびらかすようにしてひらりと掲げてみせた。
「ここに様々な果物が描かれた絵があるでしょう。これをよく見ていてください」
ショーンがそう言うと、ショーンの側で控えていたカラフルアートが絵に手を伸ばし、その手を絵の中にめり込ませる。そして何かを探るように数度腕を動かしたあと、ゆっくりと手を引き抜くと、その手の中にはみずみずしく、赤く熟れたりんごが存在していた。
「え……絵の中からりんごが出てきたッ!?」
「ふふ……そう、絵の中から『本物』を取り出すこともできるのですよ。さて、説明はこのくらいにして……そろそろ本番といきましょうか」
まるでファンタジーのような光景に驚きを隠せない紫苑をよそに、ショーンはりんごだけがきれいに消えた絵をバッグの中にしまう。そして今度は違う絵の描かれた紙を取り出すと、その紙をカラフルアートに手渡した。
また絵の中から何かを引っ張り出して来るのだろう。そう考えた紫苑はカラフルアートの手元を見ながら、自身もホワイトアイオーンを呼び出して警戒心を強める。
「とはいえ直ぐに再起不能になられてはつまらない……まずはウォーミングアップがてら、彼らのお相手をしてもらいましょう」
そうしてカラフルアートが取り出して来たのは――数十羽のカラスだった。次々に出てくるカラス達は、カァカァと鳴きながら紫苑の頭上をクルクルと旋回している。
「さて、こんなものでしょう。さぁ行きなさい!」
「嘘、取り出した生き物を操る事もできるの?って、うわぁッ!?」
ショーンの掛け声がかかると同時に、カラス達は一斉に紫苑に向かって襲いかかる。
「この絵は『私に忠実なカラス』の絵ですからね。どんなに下手な絵だろうと、傍から見たら違う物に見える絵だろうと、作者の意図を完全再現して現実にすることが出来る……それがカラフルアートの能力なんですよ」
ショーンの楽しそうな声を耳に入れながら、紫苑はカラスを追い払おうと必死に両手を振り回す。しかしカラス達はそれらを気にも留めずかいくぐり、すきを見てはその嘴で紫苑を的確に攻撃していく。
しばらく攻防を続けたものの、このままではひたすら攻撃を受け続けるだけで埒があかないと思った紫苑は、腹をくくってストレングスとの戦いの時のように鋭い鉤爪を生やす。そしてその鉤爪を振り回し、自身に群がるカラス達を一思いに切り裂いた。
グアァ、という断末魔を上げながらバタバタと地に落ちていくカラス達。それを見たショーンは、さらに笑みを深めながら目を輝かせた。
「そうそう、私はそれが見たかった。ようやく腹をくくったようですね」
「……罪のない生き物達を戦わせるなんて、随分と悪趣味ですね」
「そう怒らないでください。退屈はさせませんから」
「そういう事じゃあないんだけど……」
微妙に話が通じないことに嫌気が差した紫苑は、ホワイトアイオーンで切り傷を治しながら思わず苦い顔を浮かべる。そんな紫苑をよそに、ショーンは何かを思い出したように目を見開くと、ショルダーバッグの中を漁りだした。
「そういえば、先程こちらの紙を拾いまして……次はこの中から選んで出しましょうか」
「なッ、それは!ポケットに入れておいたはずなのに……!」
ショーンが取り出したのは、紫苑とアンが寝る前にやっていた絵しりとりの紙だった。それを見た紫苑がハッとして急いで寝間着のポケットに手を入れるが、何も見当たらない。おそらく空から落ちてきた時にでも落としたのだろう。
しかし一つの疑問が頭をよぎる。その絵はショーンではなく、紫苑とアンが描いたものだ。他人が描いた絵でも実物に出来るのだろうか?そう思った途端、ショーンは堪えきれないと行った様子でクツクツと笑いだした。
「その顔……この絵は私が描いたものじゃないのに、本物にすることができるのかって顔ですね。それじゃあお見せしましょうか」
ショーンはそう言うと紙に描かれている絵に一通り目を通し、絵の中に手を入れる。紫苑がその様子を見ながら絵しりとりで何を描いたか思い出していると、ショーンがゆっくりと紙から何かを引きずり出す。そうして出てきたのは、狐であった。
「他人が描いたものでも本物にはできるんですよ。さて、次は狐です。小柄ながらも鋭い爪と牙を持つ狐とどう戦うのか、見ものですね」
「やっぱり、悪趣味……!」
腹が減っているのか、ダラダラと涎を垂らしながら物凄い勢いで紫苑に向かって駆け寄って来る狐。流石に危機感を感じた紫苑は、慌てて遠くへ逃げようと走り出した。木々の間をすり抜け、草を掻き分けながら必死に足を動かすが、やはり走る速さは動物には叶わない。ジワジワと距離を詰められその差が1mを切った途端、狐は紫苑に飛びかかり、紫苑の左足に思い切り噛み付いた。
「うあッ……!」
小型とはいえ、肉食の獣に噛みつかれ激痛が走る。反射的に鉤爪を狐の胴体に突き刺すと、狐は悲痛な声を上げて口を放す。しかし再び大きく口を開けると、今度は右腕に噛み付いてきた。
紫苑は痛みにのたうち回りながらもなんとか反撃しようと何度も鉤爪で狐を突き刺す。そうしてしばらくの間もみ合っていると、狐は遂に力尽きたのかフッっと噛みつく力が消えた。これは好機だと思った紫苑は息絶えた狐をわしづかみ、いつの間にか近くにいたショーンに向かって思い切り放り投げた。
「おりゃあッ!!」
「おっ……と」
思わぬ不意打ちにそれを避けようとしたショーンが体勢を崩したのを見計らって、紫苑は痛む足もお構いなしに全速力で駆け出し、ショーンが持っていた絵の端を掴む。そしてそれを思い切り引っ張って、真っ二つに引き千切った。
「やったッ!」
「おや、破れてしまいましたか」
絵から何かを出して来るなら、それを破いて使い物にならなくしてしまえばいい。そう考えていた紫苑は、ショーンが油断する瞬間をずっと狙っていたのだ。絵を破るという作戦は上手く行ったものの、大切な絵が破れたというのにショーンは至って平然としている。同様が微塵も見られないその様子に、紫苑は思わず冷や汗をかいた。
「破ってしまえばこの絵が無効になるとでも考えたのでしょうが……生憎これは私が描いた絵だ。そしてこの絵はまだカラフルアートの能力で本物にする前のもの。能力を使う前ならば、絵の解釈なんていくらでも変えられるんですよ」
そう言うとショーンはカラフルアートの能力を使い、破れた絵の中に手を入れる。そしてそこから美しい毛並みの狼を取り出した。
「う、嘘でしょ……!」
「嘘では無いんですよねぇ、これが。さぁ行きなさい、あの者を喰らい尽くすのです」
ショーンの号令がかかると、狼はよく通る声で遠吠えを一つ上げ、勢いよく紫苑に飛びかかる。紫苑は咄嗟に腕の周りに骨を張り巡らせ、その腕を身体の前に出し身を護る。先程の狐とは比べ物にならない力で目の間に出された腕に噛みつき、グルルル……と唸り声を上げながら腕を引きちぎろうとしてくる狼。しかしその腕は硬い骨によって守られているため、引き千切る事は叶わない。紫苑はそうして狼を片腕で止めながら、この状況から脱する方法を考えていた。
実は狼や狐というように、獲物に噛み付いて攻撃する動物に対しての対処法はわかってきていた。初動で致命傷を食らわなければ、こちらが致命傷を与えるのは容易い。しかし、これよりも大型の肉食獣――例えば熊や、できるかはわからないが恐竜とかが出てきた時には足掻く前に即死である。そういったものを出される前に、なんとかショーンを倒さなければならない。
一体どうすれば……絶望にも似た思いが紫苑の心を覆い尽くそうとした途端、一つの案が思い浮かんだ。
上手くいくかどうかはわからないが、勝って生き残る為にはやるしかない。そう思った紫苑は覚悟を決めた表情になる。そして腕に噛みつく狼から逃れるように、ジタバタと暴れ始めた。獲物が逃げると思った狼は、紫苑の行動を制限するかのように上にのしかかり、その鋭い爪で手や腕を引っ掻いて血だらけにする。自身の両手が傷だらけになったのを見た紫苑は、ショーンにバレないように少しだけ笑みを浮かべると、空いていた方の手をドリルのように変形させ、狼の心臓目掛けて一思いに突き刺した。
そんな紫苑の手慣れた様子を見たショーンは片眉を上げ、感心したように息を漏らした。
「おや、何だかだいぶ慣れてきたようですね。そろそろ次のステージに行ってもいいかもしれません」
「次のステージ……?」
「そう。例えばこれとか……ね」
そう言ってショーンが見せたのは、巨大なヒグマが描かれた絵だった。それを見た紫苑は焦りの表情を滲ませ、よろよろと立ち上がる。
「そ、それは流石に不味い……!その絵を寄越して!ビリビリに引き裂いてやるから……!」
最後の力を振り絞るようにしてショーンの方へと足を進め、ショーンの持つ絵を奪い取ろうとする。しかし紫苑の緩慢な動きを避けるのはショーンにとってとても容易いことであり、それらを軽々と避けながら不快だと言わんばかりに顔を歪めた。
「まだそんな事を言ってるのですか……さっき丁寧に説明したでしょうに」
そう苦言を呈するのもお構いなしに、紫苑はショーンの持つ紙を引き裂こうとするかのように、鉤爪の生えた両手をブンブンと振り回す。それと共に紫苑の両腕から流れ出る血が辺りに撒き散らされ、地面や絵、さらにはショーンの洋服までもを汚していった。
「ッ……はぁッ……!!」
「だからさっきも言ったでしょう。この絵を切り裂いたところで無駄なんです」
「やぁッ!」
「ああ……もっと私を楽しませてくれるかと思ったのですが……残念です。どうやら期待外れだったようだ……もう怪我を治す気力すら残っていないようですし、仕方がない。ここで終わりにしましょうか」
ショーンは失望したというような表情でそう呟くと、手に持っていた絵の中から、巨大なヒグマを取り出そうとする。しかし絵の中に手を入れた途端怪訝そうな表情になったかと思うと、すぐさま表情を一変させた。
「な……何だこれは!?腕が引きずり込まれていく……!?」
「……はは、おごり高ぶっていたのは貴方のほうでしたね」
「何?」
紫苑は顔を俯かせたまま笑みをこぼし、満身創痍の身体に鞭打って立ち上がる。ショーンは冷や汗をかきながらその様子を見ていた。
「私が振りかぶった時……貴方は私がその絵を奪おうとしている、もしくはもう一度ビリビリに引き裂こうとしていると思ったようだけど……それはとんだ大間違い。本当の目的は、私の血液を飛ばすこと」
「血液を?……!ま、まさか、
「そう、そのまさか。そして私が描いたのは『ブラックホール』」
ショーンが慌てて絵を見ると、そこには禍々しい程の深淵が広がっており、紙の縁には血痕が付いている事に気がつく。自身が下に見ていた人物に出し抜かれたという事実に、悔しそうな表情で唇を噛んだ。その間も、どんどんとショーンの腕はブラックホールの中へと引きずり込まれていく。
「き、貴様……わざと自分の怪我を治さなかったな……!」
「そうですよ。どんなに下手な絵でも、作者がこうだと思った物が本物として現れるんですよね。ちょっと歪だったかもしれませんが……私はそれをブラックホールだと思って描いた。自分の血を使って。だからブラックホールが現れた。それに気が付かず安易に手を触れた貴方の負けです」
「くそ……!この私が負けるだなんて……!そんな事、あるはずが……!う、うわあああああッ!」
しばらくジタバタと藻掻きながら必死に腕を引き抜こうとしていたショーンだったが、ブラックホールの吸引力には力及ばず、力が抜けた一瞬の隙に全身が引きずり込まれ、悲痛な叫び声と共にその姿を消した。紫苑もブラックホールの全貌は知らないが、吸い込まれれば全身がバラバラになり、命はないことくらいは知っている。間接的にではあるものの、身を護る為とはいえ人ひとりの命を奪ってしまった事に対し、紫苑は思わず顔を歪めた。
地面に落ちた禍々しいブラックホールが描かれた絵をしばらく見つめていると、ゴゴゴ、という鈍い音と共に小刻みな揺れが紫苑を襲う。辺りに視線を巡らせると、周りの木々や草花からゆらゆらと靄が出ており、先端からゆっくりと消えていくのがわかる。どうやらこの空間を創り出した主が居なくなった事により、この世界の崩壊が始まっているようであった。
これで元の世界に帰れる。そう思った紫苑が長いため息をつくと、視界が白く染まる。眩しさから目を閉じ、再び目を開くと、そこは紫苑達が泊まっているホテルの廊下であった。
「やっと帰って来れた……」
紫苑は心底ホッとした様子でそう零すと、足元に落ちていたキャンバスを拾い上げ、若干覚束ない足取りで部屋の中に入る。キャンバスを適当な場所に立て掛け、確認の為アンの様子を確認すると、あいも変わらずスヤスヤと寝ている様子が目に見て取れた。
あのショーンという男が言っていたように、アンには特に何事もなかったようで良かった。そう思いながらベッドに腰掛け、アイオーンを呼び出して怪我の治療を行っていく。大なり小なり至るところに傷があったため、治すのに大分時間を要した。そこそこの時間をかけてすべての傷を治し終わり窓を見やると、少しだけ空が白んでいるのがわかった。
「結構な時間が経っちゃったな……明日も早いし、はやく寝ないと」
血だらけになってしまった寝間着を手早く脱いで代わりの物に着替え、身体にこびりついた血はタオルで拭い取る。そうして寝る準備を整えると、急いでベッドへと潜り込んだ。
目をつむると直ぐに睡魔がやってくる。それに抗うことはせず、紫苑はどんどんと沈む意識に身を委ねたのだった。