短編 / ss
甘い物が好みな自分は、何というか、あの真っ黒で透明感の無い珈琲に手が出せる勇気が無かった。これは俺の単なる勝手な想像だろうが、珈琲とは大人が飲んで嗜むある種の趣味の一環で、その趣味嗜好が俺には無かっただけだ、といつもそう思う。
そうこう考えている内にも、今、俺の目の前でその趣味が嗜まれているのだから、俺は黙ってただ紅茶を啜る。甘めのミルクティーは、洒落た店らしい細身なコップの中に揺れていてストローが刺さっている。容積の半分近くが氷なのではないのかと思うほど高めに積まれたそれをからんと鳴らすと、ちくっと視線を刺された様な気がして、もう一度ぎこちなく紅茶を啜った。
「いらっしゃいませ」
来客を知らせるドアベルの軽快な音と店員の声が交う店内。俺の横には…ステンドグラス、だろうか。窓際の席に座っているお陰で、差し込む光がやけにカラフルだ。手元に出来た三原色を、彼の視線から逃れる様にじっと見つめた。
元より手元の飲み物を頼んだ理由は、ここが景観と内装と店員の雰囲気からわかる、写真映えしそうなお洒落カフェである為だ。目の前に居る自分の先輩兼恋仲の様な人―謙也さんが、俺の好きそうな店があるだとか何でも好きなものを食っていいからとか、そんな口約束をして来たのが事の発端。それに釣られて仕方なく、部活の無い日の放課後に寄り道する羽目になってしまったのだ。テーブルに案内され、置かれたメニューに書かれていたのは珈琲と紅茶とカタカナばかりの成分不明な飲料たち。いちごのパフェを頼むかとか、チョコレートのパンケーキを頼むかだとか首を傾げられたりしつつ、何だか女子が頼んで居そうな組み合わせだと思い、首を横に振った。決して、気を遣った訳では無くて、今は甘いものを詰め込みたい気分では無い感じであった。
だから例えこの紅茶の半分が氷であっても怒りは感じない。向かい合った珈琲を飲むこの人がお茶代を負担してくれるおかげで何だか少しは楽だ。かと言って、もしこの半分の紅茶で喉が潤わなかったり飲み切った後に喉が渇いたとしても、追加で頼もうとは思わない。唯、これも気遣いではない。
そんな俺の思考回路を微塵にも知らない、借りてきた猫の様に畏まった先輩は、俺に痛い程視線を突き刺して来たまんまだ。何か話したい事があるのならさっさと話してくれ、と、思い視線を上げればやはり合った目と目。頼むつもりは記述の通りさらさら無いが、メニューを取ろうと手を伸ばすと途端に手首を取られて再び視線が交う。
「話があるんやけど、」
「…はぁ、…何ですか」
待ってました、とは言わないが、少々期待の眼差しを向けてやればそれを汲み取った彼は顔色を変える。普段より、一層真剣な表情と落ち着いて澄んだ瞳。金髪で目つきの悪さに定評のあるこの人が、もし初対面でこんな表情だったなら不良学生にしか見えないだろうが。本人はたぶん、必死だろう。
「その、…な、デートしたい」
ずず、っと珈琲を啜る音が聞こえ、片眉がぴくりと動いてしまった。なんだ、そんな事か。いやそんな事だろうなとは思っていたが、前置きがあまりにも長すぎた。
ヘタレは相変わらずヘタレなまま、その苦い黒い液体を啜っている。俺の言う大人とは到底掛け離れた、半年違いの先輩。
「デート?どこに」
少し返答が冷たかっただろうか。否、余裕の無いこの人にはそんな事を考えている暇もなく、素直に返答を練っているのだと直感する。
「…財前と外出掛けられれば何処でもええんやけど、…場所決めなあかん?」
だったら家で良いくらいだが、俺はここで敢えて、
「そうっすね、…そんならテニスでもします?」
と、こんな風にして彼を揶揄うのが何よりも好きで。
それに反応して反論しようとするこの人にはやはり余裕が無くて、いつもなら直ぐにツッコミが返ってくる様な答えにも応答せず、ぐぬ、と唯唸るだけなのである。その様子が滑稽で、俺の手の上で転がされている姿が何より愉快で、そんな姿が大好きで居て。
「財前がやりたいんならええで?せやけど、折角なら水族館とか行きたいやん」
「水族館行ってから寿司食いにでも行きましょか。」
「ちょっ……まぁ、財前らしいからええか」
調子を取り戻してきたこの人は、また珈琲を一口啜った。対して俺は、もう氷の溶けた水で薄まってしまった紅茶をストローで吸い上げる。
まだまだ甘い冷たい紅茶と、ころんと鳴る氷の音と、冷房の風が肌を擽る感覚が、何だかこれから来る夏を思わせるので少し頬を緩める。
「もうすぐやな。全国予選」
その言葉にこくりと頷くと、夏が来る、という言葉と紐付いてしまった全国予選に眉を寄せる。正直、入部してからずっと、この先輩とはやってこれないと思っていた。本当は、俺がレギュラーに抜擢されるべきでもないとも思っていたくらいだ。休憩時間、陽向で寝転ぶ千歳先輩が呟いた、
「財前は予選、地区から出とらんば。白石も期待しとるけん」
という言葉に、まぁどうにかなるのだろうと軽い気持ちでダブルスを組んで、それなりに練習をして、この様なのだから。
「自由気ままな先輩はええですね。でも強いんでしょ、そんなら先輩も出るべきやないんですか」
「俺はもうテニスは出来ん。唯、一試合だけ出来ればそれだけで良かったい。」
猫を抱えて何処かへ消えた先輩は、それ以降部活に顔を出さなくなった。
「すいません、珈琲おかわり。」
右手を上げて店員を呼んだらしいこの人の声でぱっと思考が絶たれる。
「あ、…俺も。紅茶ください」
今日くらいは甘えても許してくれることを信じて声を上げた。どちらかと言うと、もう頼まないと決めた自分に甘えてしまった様なものだけれど。きっとこの人は、俺が善哉を強請っても何を強請っても、困った顔をしながら与えてくれる様な人だ。勿論、悪いとは思っているし、信頼関係もかなり築き上がってしまっている以上、それをぶち壊したりはしたくないから限度はある。唯、お人好し過ぎるその性格のお陰で、今日も羽根を伸ばして居られるのは有難いことだ。
「お待たせしました。」
先程まで飲んでいたコップを下げられ、先程まで飲んでいたコップと同じような二つが用意され、何だかずっとこの時間が続いてしまいそうな気さえする景色にひとつ溜息を吐いた。
彼は珈琲に何も入れない。さっきもそうだ。
俺の想像している、仕事が出来そうな大人とは掛け離れたこの先輩が、だ。目の前で珈琲を口にして、苦そうなそれをうんとも言わずに二杯目だ。やっぱりこの人は大人なのだろうか。
「どないしたん?じろじろ見とって」
にやけてあほづらしてるその顔も、真剣な表情も、全部俺が独り占めしているのだからそれはもう嬉しい事以外何物でもない。唯、その苦そうな口元が緩んで微笑む姿に少し、何処か俺よりも余裕のある表情なのが気に食わなくて。甘いのしか飲めないお前はお子様だとかこの人が言うはずもないのに、何だかそう思われていて可愛いだなんて言われてしまいそうで。
人目を盗んで口付けたのは、俺からだった。
普段は絶対外でこんな事はしない。初めて手を繋いだ日の帰り道で調子乗ったこの人が、別れ際に口付けて来た以来。気が付いたら触れていた唇は、予想通り苦くて、前に食べた珈琲のアイスとは全くの別物だったので、べっと舌を出す。
「え、何した?」
「味見」
じゃあ、どうしたらアンタよりも余裕を持って振る舞う事が出来るだろう。こうやって、自分から口付けられるのは大人なのか?
「えー。可愛ええことするやん」
いいや、たぶん逆効果だった。
もうそんなのはどうでもいいから、もう二度と珈琲を飲んだ後のこの人とはキスをしたくない。苦さを消す様に紅茶を飲むと、肩を落とすというオーバーリアクションを披露してくれたものだから、また頬が緩む。
案外やっぱりこの人はまだ大人じゃない。こんなのは哲学的問題に関わってきそうで難しいから放棄しておこうとは思うが、たぶん珈琲を見る度にこの人を思い出してしまいそうだと思うと表情が緩む。
俺が思っているほど、この人は大人じゃないしかといって俺よりは大人なのが、いつもの姿を見ていると少し不思議で。先輩として初めて顔を合わせた時も、話の目線の高さはだいたい同じだったから。
「財前は最近自然に笑うようなったなぁ」
目線の高さが同じだった、ではなくて、合わせてくれていたのは薄々わかっていた。こう見えて、能天気でスピード狂ってだけじゃない、実は影で誰よりも努力していて頭が良いのは、本当にかっこいいと思う。
「ほんまに?目医者行った方がええんちゃいます」
「なんでや。ええやん、俺は楽しそうにしてる財前も好きやで」
そうやって甘いことを言って、俺の事を可愛がってくれるから。俺はその優しさに甘えてまたこうやって何かと付き添ってしまうんだ。
全部、この人が悪い。
「しゃあないんで俺ん家来てもええですよ。」
「えっ、ほんまに?」
「今日誰も居らへんから。」
ゆっくりできるんとちゃいます?とその一言に、顔を染めるこの人を揶揄うのはやっぱり何よりも楽しい。
お勘定を、と席を立ったのを見計らって、ほんの少し残った飲み掛けの珈琲を啜れば、まだ自分には早いと思えたその苦味も口内に溶けて、唯幸せだった。
そうこう考えている内にも、今、俺の目の前でその趣味が嗜まれているのだから、俺は黙ってただ紅茶を啜る。甘めのミルクティーは、洒落た店らしい細身なコップの中に揺れていてストローが刺さっている。容積の半分近くが氷なのではないのかと思うほど高めに積まれたそれをからんと鳴らすと、ちくっと視線を刺された様な気がして、もう一度ぎこちなく紅茶を啜った。
「いらっしゃいませ」
来客を知らせるドアベルの軽快な音と店員の声が交う店内。俺の横には…ステンドグラス、だろうか。窓際の席に座っているお陰で、差し込む光がやけにカラフルだ。手元に出来た三原色を、彼の視線から逃れる様にじっと見つめた。
元より手元の飲み物を頼んだ理由は、ここが景観と内装と店員の雰囲気からわかる、写真映えしそうなお洒落カフェである為だ。目の前に居る自分の先輩兼恋仲の様な人―謙也さんが、俺の好きそうな店があるだとか何でも好きなものを食っていいからとか、そんな口約束をして来たのが事の発端。それに釣られて仕方なく、部活の無い日の放課後に寄り道する羽目になってしまったのだ。テーブルに案内され、置かれたメニューに書かれていたのは珈琲と紅茶とカタカナばかりの成分不明な飲料たち。いちごのパフェを頼むかとか、チョコレートのパンケーキを頼むかだとか首を傾げられたりしつつ、何だか女子が頼んで居そうな組み合わせだと思い、首を横に振った。決して、気を遣った訳では無くて、今は甘いものを詰め込みたい気分では無い感じであった。
だから例えこの紅茶の半分が氷であっても怒りは感じない。向かい合った珈琲を飲むこの人がお茶代を負担してくれるおかげで何だか少しは楽だ。かと言って、もしこの半分の紅茶で喉が潤わなかったり飲み切った後に喉が渇いたとしても、追加で頼もうとは思わない。唯、これも気遣いではない。
そんな俺の思考回路を微塵にも知らない、借りてきた猫の様に畏まった先輩は、俺に痛い程視線を突き刺して来たまんまだ。何か話したい事があるのならさっさと話してくれ、と、思い視線を上げればやはり合った目と目。頼むつもりは記述の通りさらさら無いが、メニューを取ろうと手を伸ばすと途端に手首を取られて再び視線が交う。
「話があるんやけど、」
「…はぁ、…何ですか」
待ってました、とは言わないが、少々期待の眼差しを向けてやればそれを汲み取った彼は顔色を変える。普段より、一層真剣な表情と落ち着いて澄んだ瞳。金髪で目つきの悪さに定評のあるこの人が、もし初対面でこんな表情だったなら不良学生にしか見えないだろうが。本人はたぶん、必死だろう。
「その、…な、デートしたい」
ずず、っと珈琲を啜る音が聞こえ、片眉がぴくりと動いてしまった。なんだ、そんな事か。いやそんな事だろうなとは思っていたが、前置きがあまりにも長すぎた。
ヘタレは相変わらずヘタレなまま、その苦い黒い液体を啜っている。俺の言う大人とは到底掛け離れた、半年違いの先輩。
「デート?どこに」
少し返答が冷たかっただろうか。否、余裕の無いこの人にはそんな事を考えている暇もなく、素直に返答を練っているのだと直感する。
「…財前と外出掛けられれば何処でもええんやけど、…場所決めなあかん?」
だったら家で良いくらいだが、俺はここで敢えて、
「そうっすね、…そんならテニスでもします?」
と、こんな風にして彼を揶揄うのが何よりも好きで。
それに反応して反論しようとするこの人にはやはり余裕が無くて、いつもなら直ぐにツッコミが返ってくる様な答えにも応答せず、ぐぬ、と唯唸るだけなのである。その様子が滑稽で、俺の手の上で転がされている姿が何より愉快で、そんな姿が大好きで居て。
「財前がやりたいんならええで?せやけど、折角なら水族館とか行きたいやん」
「水族館行ってから寿司食いにでも行きましょか。」
「ちょっ……まぁ、財前らしいからええか」
調子を取り戻してきたこの人は、また珈琲を一口啜った。対して俺は、もう氷の溶けた水で薄まってしまった紅茶をストローで吸い上げる。
まだまだ甘い冷たい紅茶と、ころんと鳴る氷の音と、冷房の風が肌を擽る感覚が、何だかこれから来る夏を思わせるので少し頬を緩める。
「もうすぐやな。全国予選」
その言葉にこくりと頷くと、夏が来る、という言葉と紐付いてしまった全国予選に眉を寄せる。正直、入部してからずっと、この先輩とはやってこれないと思っていた。本当は、俺がレギュラーに抜擢されるべきでもないとも思っていたくらいだ。休憩時間、陽向で寝転ぶ千歳先輩が呟いた、
「財前は予選、地区から出とらんば。白石も期待しとるけん」
という言葉に、まぁどうにかなるのだろうと軽い気持ちでダブルスを組んで、それなりに練習をして、この様なのだから。
「自由気ままな先輩はええですね。でも強いんでしょ、そんなら先輩も出るべきやないんですか」
「俺はもうテニスは出来ん。唯、一試合だけ出来ればそれだけで良かったい。」
猫を抱えて何処かへ消えた先輩は、それ以降部活に顔を出さなくなった。
「すいません、珈琲おかわり。」
右手を上げて店員を呼んだらしいこの人の声でぱっと思考が絶たれる。
「あ、…俺も。紅茶ください」
今日くらいは甘えても許してくれることを信じて声を上げた。どちらかと言うと、もう頼まないと決めた自分に甘えてしまった様なものだけれど。きっとこの人は、俺が善哉を強請っても何を強請っても、困った顔をしながら与えてくれる様な人だ。勿論、悪いとは思っているし、信頼関係もかなり築き上がってしまっている以上、それをぶち壊したりはしたくないから限度はある。唯、お人好し過ぎるその性格のお陰で、今日も羽根を伸ばして居られるのは有難いことだ。
「お待たせしました。」
先程まで飲んでいたコップを下げられ、先程まで飲んでいたコップと同じような二つが用意され、何だかずっとこの時間が続いてしまいそうな気さえする景色にひとつ溜息を吐いた。
彼は珈琲に何も入れない。さっきもそうだ。
俺の想像している、仕事が出来そうな大人とは掛け離れたこの先輩が、だ。目の前で珈琲を口にして、苦そうなそれをうんとも言わずに二杯目だ。やっぱりこの人は大人なのだろうか。
「どないしたん?じろじろ見とって」
にやけてあほづらしてるその顔も、真剣な表情も、全部俺が独り占めしているのだからそれはもう嬉しい事以外何物でもない。唯、その苦そうな口元が緩んで微笑む姿に少し、何処か俺よりも余裕のある表情なのが気に食わなくて。甘いのしか飲めないお前はお子様だとかこの人が言うはずもないのに、何だかそう思われていて可愛いだなんて言われてしまいそうで。
人目を盗んで口付けたのは、俺からだった。
普段は絶対外でこんな事はしない。初めて手を繋いだ日の帰り道で調子乗ったこの人が、別れ際に口付けて来た以来。気が付いたら触れていた唇は、予想通り苦くて、前に食べた珈琲のアイスとは全くの別物だったので、べっと舌を出す。
「え、何した?」
「味見」
じゃあ、どうしたらアンタよりも余裕を持って振る舞う事が出来るだろう。こうやって、自分から口付けられるのは大人なのか?
「えー。可愛ええことするやん」
いいや、たぶん逆効果だった。
もうそんなのはどうでもいいから、もう二度と珈琲を飲んだ後のこの人とはキスをしたくない。苦さを消す様に紅茶を飲むと、肩を落とすというオーバーリアクションを披露してくれたものだから、また頬が緩む。
案外やっぱりこの人はまだ大人じゃない。こんなのは哲学的問題に関わってきそうで難しいから放棄しておこうとは思うが、たぶん珈琲を見る度にこの人を思い出してしまいそうだと思うと表情が緩む。
俺が思っているほど、この人は大人じゃないしかといって俺よりは大人なのが、いつもの姿を見ていると少し不思議で。先輩として初めて顔を合わせた時も、話の目線の高さはだいたい同じだったから。
「財前は最近自然に笑うようなったなぁ」
目線の高さが同じだった、ではなくて、合わせてくれていたのは薄々わかっていた。こう見えて、能天気でスピード狂ってだけじゃない、実は影で誰よりも努力していて頭が良いのは、本当にかっこいいと思う。
「ほんまに?目医者行った方がええんちゃいます」
「なんでや。ええやん、俺は楽しそうにしてる財前も好きやで」
そうやって甘いことを言って、俺の事を可愛がってくれるから。俺はその優しさに甘えてまたこうやって何かと付き添ってしまうんだ。
全部、この人が悪い。
「しゃあないんで俺ん家来てもええですよ。」
「えっ、ほんまに?」
「今日誰も居らへんから。」
ゆっくりできるんとちゃいます?とその一言に、顔を染めるこの人を揶揄うのはやっぱり何よりも楽しい。
お勘定を、と席を立ったのを見計らって、ほんの少し残った飲み掛けの珈琲を啜れば、まだ自分には早いと思えたその苦味も口内に溶けて、唯幸せだった。
1/1ページ