オーレリア戦記
夢小説設定
この小説の夢小説設定二人組シンガーソングライターユニット「こんばらりあ」
マネージャー→東海林(40代男性)、木野(20代女性歳下)
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こんなはずじゃなかった。
「え、好き」
「え?」
同じ事務所のアーティスト二組が一同に会する飲食店の個室。おしぼりで手を拭く動作を突如止めた男から放たれた唐突な告白は、ついでに他の三人の動きも和やかな雰囲気も止めた。
数日前、ずっと憧れ続けていた先輩、ずっと気になり活動を追っていた後輩という間柄だった四人は、みすと潔がパーソナリティを務める深夜ラジオに松永とR-指定がサプライズゲストとして出演したことで邂逅を果たした。あの夜は2時間という長いようで短い放送時間を忘れてしまいそうになるほど話に花を咲かせて惜しみつつ放送を終えたのだが、まだ話し足りないという互いの気持ち、そして放送後に「日を改めて話さないか」と切り出したR-指定の勇気によって、今日初めてプライベートでの食事会と相成ったわけである。
R-指定と潔は言葉も出ないまま松永を凝視した。彼の視線の先には、その場の空気を読むことにおいてこの面子では断トツの鈍さを誇る女——みすが咥えた煙草に火を点けようとジッポーのフリント・ホイールに親指をかけたまま、こちらもまた松永を凝視している。
「好きなんだけど」
松永の唇からは再度愛の告白が紡がれ、R-指定と潔の視線は彼からみすに移る。二人が固唾をのんで見守る中、手元の煙草と松永を交互に見たみすは、期待を裏切らない鈍さ加減を遺憾なく発揮し頓珍漢なことを言い出した。
「え、松永さん煙草吸わないですよね? 副流煙好きってことですか?」
吸い込んだ主流煙は肺に送り込まれることなく口から吹き出す。潔は笑い転げ、煙を吐き出す寸前だったR-指定は噎せて咳き込んでしまった。
「ちょっと、みす! 今の一吸い分返してよ!」
「え? そういうことじゃないの?」
「いや、ちげーから」
調子を狂わされたように思えたが、そうでもないらしい。松永は今度こそ誤解されないようにとみすの目をまっすぐ見つめ、はっきりと言い切った。
「みすさんの顔が、好きです」
「……は?」
温厚なはずのみすの一際低い声は、個室内に再び漂いかけていた和やかな雰囲気を一瞬で凍りつかせた。
斯くして、仲の良い先輩後輩になるはずだった不器用な男と素直になれない女の仁義なき恋の攻防戦は、その火蓋を切って落とされたのである。
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「……なんなの、あの人は」
「あの人って?」
「一人しかいないでしょ」
「あー……松永さんね」
松永。その名前を聞くなりみすは天井を仰いでため息をついた。つい最近関わりをもったばかりのこの先輩に、彼女は調子を狂わされっぱなしなのである。
「だっておかしくない? なんで事務所行ったら百発百中で鉢合わせるのよ」
同じ事務所に所属しているとはいえ、仕事のスケジュールはまったく異なるはずだ。それなのに、みすが事務所のビルに行くと必ず松永がいて、嬉しそうに「みすさん」と自分に笑いかけてくるのだ。気味が悪いことこの上ない。
事務所だけではない。同じ番組に出演した時、リハーサルまでの空き時間を喫煙所で潰していると偶然前を通りかかった松永は自分が出てくるまで待ち伏せしてきたのだ。口を開けば口説いてくるので二人で話したくない。いずれリハーサルの時間が近づけば諦めて戻るだろうと2本目に火を点けてもずっと喫煙所のガラス戸に張りついてニコニコしながらこちらを見ていた顔を思い出し、みすは身震いした。
「まあ、確かにストーカーチックではあるよな」
「チックじゃねえわ。明らかストーカーでしょうよ」
「そうだね、ごめんごめん。まあ会う度あんなに威嚇されてんのによくやるよね、松永さんも」
潔は自分と相方に偶然ラジオのキー局で会った時の松永を思い出す。自分の背中に隠れ、肩越しに怒った猫のごとく「な゙ーー!!」と特有の鳴き声を発するみすに対し、意に介する素振りもなくヘラヘラ笑いながら「照れてんの? 今日もめちゃくちゃ可愛いな」などと下手くそすぎるナンパのようなことを言いながらにじり寄っていた。
「本当だよ、態度じゃわかんねえのか……? LINEではだいたい普通なんだけどなあ……なんで直接会ったらあんな意思の疎通ができない人間になるのかわからん」
「あ、LINEはしてんの?」
「うん。ていうかあの人が事あるごとに色々送ってくるから返事してるってだけ」
松永との個人用トークツールのルームを開く。送られてくる内容は様々だ。新曲やメディア出演、レギュラーで持っているラジオ番組の感想、そこから脱線しての音楽や世間話、あとは食事のお誘い、とか。前者は彼の話が面白く共感できることも多いのでつい話が広がるような返信をしているが、後者に至っては沈黙を貫いている。
「直接じゃなければ話すのは楽しいのよ、一応ね」
「ふーん……」
拒絶するような態度をとらなければ楽しく会話できるのでは。
そう思いつつ松永がそれで調子に乗るのはなんだか癪だし、なにより今のこの状況が面白すぎる。もう少し楽しみたいので、潔は短い相槌だけをみすに返し、口を閉じた。
「……なんなの、あの人は」
「あの人って?」
「一人しかいねえだろ」
「あー……みすちゃんか」
みす。その名前を聞くなり松永はテーブルに突っ伏した。つい最近関わりをもったばかりのこの後輩に、彼は調子を狂わされっぱなしなのである。
「だっておかしくない? なんでいつどこで会っても百発百中で可愛いんだよ」
同じ表情をしているとはいえ、化粧や服装は毎日同じとはいかないはずだ。それなのに、様々な場所で顔を合わせると必ず「げ」と顔を歪めるみすの顔は美しく、いつ何時も自分の心を毎度新しく撃ち抜いてくるのだ。素直じゃないところも含め可愛らしいことこの上ない。
不機嫌そうな顔だけではない。同じ番組に出演した時、リハーサルまでの空き時間に御手洗から楽屋に戻る途中偶然喫煙所で煙草を燻らすみすを見つけた。煙草を吸う彼女の仕草が好きで、もっと見ていたいのでまだ吸い終えてほしくない。ああもう終わってしまうと残念がると彼女は2本目に火を点けもう一度自分に煙草を吸う姿を見せてくれた。ティップを咥え紫煙を漏らす濃紅色の整った唇を思い出し、松永はため息をついた。
「まあ、確かに結構可愛い顔しとるよな」
「結構じゃねえって。めちゃくちゃ可愛いだろうが」
「そぉやな、ごめんごめん。まあ会う度あんな威嚇されとんのにようやるよな、お前も」
R-指定は自分と相方に偶然ラジオのキー局で会った時のみすを思い出す。ヘラヘラ笑いながら「照れてんの? 今日もめちゃくちゃ可愛いな」などと下手くそすぎるナンパのようなことを言いながらにじり寄ってくる松永に対し、相方である潔の背中に隠れ、肩越しに怒った猫のごとく「な゙ーー!!」と彼女特有の鳴き声を発していた。
「いやあれは照れてるだけだから。LINEはちゃんと返してくれてるし。直接会った時だけ不機嫌なんだよな」
「あ、LINEもしとるん」
「うん。直接だとあんま話せないからさ。まあデートの誘いだけはスルーされ続けてるけど」
みすとの個人用トークツールのルームを開く。送っている内容は様々だ。新曲やメディア出演、レギュラーで持っているラジオ番組の感想、そこから脱線しての音楽や世間話、デートのお誘い。前者は彼女も会話を楽しんでくれているのか話が広がるような文章が返ってくるが、後者に至っては一貫して無視を決め込まれている。
「やっぱ、直接だと照れちゃうんだな。あー……すげえ好き」
「お、おん……そやなぁ」
単に嫌がられているだけなのでは。
そう思いつつ相方を傷つけるのも気が引けるし、なによりその後意味不明な確証に基づいた怒涛の反論が返ってくる面倒な展開が予想されるので、R-指定は短い共感の言葉だけを、ご機嫌そうにまたみすをデートに誘う松永に返し口を閉じた。
「……げ、松永さんからまたお誘い来た」
トークルームに新しく吹き出しが出現する。「18日〜22日でどこか空いてる日ある?」と記されたそれは沈黙を貫いていた食事へのお誘いだ。今しがた潔との会話の際に開いていたせいですぐに既読がついてしまった。最悪だ。
「一回くらい、デート行ってくれば?」
「嫌だよ。そもそもあの人絶対私の顔しか見てないもん」
潔は先ほど松永が調子に乗るのはなんだか癪だ、と思ったものの心から不快そうなみすの顔を見ているとなんだか彼が可哀想に思えてくる。助け舟を出してやったが、みすがそれをぴしゃりと沈没させた。
「まあ……いやでもあの人、今までお前が相手にしてきたどの男よりも真面だぞ?」
確かに松永はみすの顔が相当好みなのか、顔を合わせれば必ず「可愛い」を連呼してくる。みすは異性に自分の顔を評価されるのが嫌いなのだ。外面のいい彼女は、秋の空よりころころと変化する内面を普段はひた隠しにしている。交際を始めてからそれを目の当たりにした異性に「やっぱ無理」と突き返されることを何度も経験した。だからこそ、自分の顔だけを毎回褒めて口説いてくる松永を毛嫌いしているに違いない。
しかし、しつこいほどにみすを追いかける松永を見ていると、どうも彼は彼女の顔だけが好きだというわけではない、ということが潔にはだんだんとわかってきた。直情的な上にアプローチの仕方が下手だからみすに届いていないだけなのだ。
「……それは、そうかもしれないけど。いや、べつに、松永さんのこと嫌いってわけじゃないのよ。でも……」
みすは、松永が素敵な人であることをよくわかっていた。ステージに立ちターンテーブルを華麗に演奏する姿も、まるで別の人間が作ったのかと思ってしまうほどにバラエティに富んだトラックを生み出してしまう彼の持つ世界も、直情的でデリカシーはないが実は優しくてまっすぐで涙脆いところも、そのすべてが彼の魅力であることも。
だが、せっかく先輩後輩としてよい関係を築いていけそうな彼と交際して、今までと同じような終わり方をしてしまったら、彼とも、最近食事会の回数が増えている四人でも仲良くすることができなくなるだろう。みすはそれが何より怖かった。口を突いて出そうになったその本音を、みすはすんでの所で飲み下した。
俯くみすの心をすべて見透かしている潔は、見透かしている上でもう一度松永に対する助け舟を、この両者一歩も引かない押し問答の海原に放った。
「やっぱり行ってきなよ、デート」
「……一回だけね」
自分の恐れを理解してもなお念を押す相方の言葉には、きっと自分にはわからない彼女の考えがあるのだろう。一回行けばいいだけ。それだけだ。そう思い、みすは小さく頷いてトークルームに空いたスケジュールを打ち込んだ。
「そんで、そこのサビの言い回しが……あっ待って、みすさんからLINE来た」
松永お得意のマシンガントークに乗せられたみすの魅力、そこから脱線した彼女の創り出す詞の魅力にR-指定が相槌をうつことすら放棄し始めた頃、松永の携帯電話が震える。松永は即座に反応し、誰かから奪うように携帯電話を引ったくり液晶画面に注目した。
「……え」
「なん、どうした」
固まったままの松永の横に移動し、彼の手に握られたままの液晶画面を覗くと、そこには「来週木曜、18時以降なら空いています」とあった。
「あ、あーる。これってさ」
「マジか。やったやん松永さん、これデート行ってもええですよってことやろ?」
「う、うん。やっぱそうだよな」
途端にそわそわし始める松永の背中を叩く。ずっとスルーされ続けていたお誘いに「YES」の返事が来たのだ。アプローチの仕方はともかく、松永がみすを好きである気持ちは本物である。それを誰よりも理解しているR-指定は自分のことのように喜びが胸の中に溢れるのを感じた。
「え、どうしよ。何着てけばいいんだ、どこ行こう」
「まま、それはこれから考えようや。な? まずはみすちゃんに返事しとき」
震える指で了解の旨を返信する。どうしよう。何を着ていったらいいだろうか。どこへ連れていけばみすは楽しんでくれるだろうか。松永は千載一遇のチャンスに不安も募るものの、やはり心が躍ってしまうのだった。
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木曜日の17時50分。品川駅は高輪口の改札を抜けると、出口の横に松永が立っていた。うわ、もういる。
小綺麗なセットアップに身を包み佇む彼はやはり様になっており、そしてものすごく目立っている。女性と二人で出かけるというのに変装もしないとは一体どういうつもりなのか。待ち合わせ早々呆れているみすに反して、当の松永は彼女に気がつくと嬉しそうに笑った。
「お疲れ、やっぱ来んの早いね。あと今日も可愛い」
「お疲れ様です。いや……まあ、10分前行動は基本ですから」
「うわ、今のあーるに聞かせてやりたい」
「というか、貴方なんで変装してないんですか」
「俺、変装しなくても気づかれないから」
「そういう問題じゃない……はあ、とりあえずこれ着けててください」
みすはバッグからマスクを取り出し、松永に差し出した。
「うお、黒だ。俺黒着けたことないな」
「だったら尚更好都合です」
自分はサングラスをかけている上に元々半分顔が割れていないからいいものの、松永はそうではない。女性と二人で食事などしているところが見つかれば、ゴシップ誌の格好の餌食である。みすはとりあえず彼が素直にマスクを着用してくれたことに胸を撫で下ろした。
「じゃあ行こ、すぐそこだから」
「はい」
みすは松永の一歩後ろを追うように歩く。彼の背中を見つめながら、彼女は今までとは違う不安を覚えていた。
思えば、いつも顔を合わせれば口説かれる、断るの押し問答ばかりで、彼と一対一でまともに会話をするのは初めてのような気がする。いったい何を話せばいいのだろう。いや、今日もお決まりの一方通行を繰り返すだけなのかもしれない。それもそれで骨が折れる話ではあるが。なにせ、今日は彼にブレーキをかけてくれる頼もしい二人もいないのだ。
「みすさん」
「あ、え? なんですか」
「着いたよ」
松永の声に顔を上げると、眼前には現代的なデザインの白い建物が鎮座していた。メインマーキーには水を想起させる名前が冠されている。
「水族館ですか?」
「うん。もしかして好きじゃない?」
「いえ。食事だとばかり思っていたので、少しびっくりしただけです」
「みすさん、人前で飯食うの苦手でしょ。だからこういうのどうかなって」
松永が安堵しつつ発した言葉に、みすはサングラスの奥の瞳を瞬かせた。彼にその話をしたことがあっただろうか。
松永の言うとおり、みすは人前、特に異性の前で食事をするのが苦手だ。自分の顔が元々好きではない上に、無防備に口を動かすことを強制される食事の時など以ての外である。相手から見えているであろう自分が食べ物を口に入れ、咀嚼して飲み込む一連の動作を想像するだけで食欲が減退していく。ゆえに、みすにとって異性と二人で食事に行くことはとてもハードルの高い行為なのだ。
そんな誰に言っても疑問を抱かれるか笑われる難儀な苦手意識を、松永は普段の自分から感じ取って疑問も持たず、笑うこともなく今日の予定を組んでくれたのか。みすは少しだけ、言葉にできないような気持ちが心の奥底から足音を鳴らしてくる予感がして、逃げるように頭を振った。
「みすさん? 行こう」
「あ、はい……あの、ここでみすって呼ばないでもらっていいですか、変装すべて台無しなので。今は石橋と呼んでください」
「石橋?」
「名前です。……私の」
みすの言葉を聞いた瞬間、松永は急にニヤニヤと薄気味悪い笑みを浮かべた。
「へえ〜、石橋さんていうんだ。名前」
「そうですけど」
「石橋さん」
「なんですか」
「石橋さん」
「だからなんです」
「石橋〜、さん」
「だああ鬱陶しい! もう、早く行きますよ」
早足で入口へと歩いていくみすは、早くも松永に自分の名前を教えたことを後悔していた。こうなるなら、適当に偽名を名乗っておけばよかった。鬱陶しいし、彼の声で自分の名前が奏でられることがなぜかひどく小っ恥ずかしい。
あとを追いかけてきた松永からチケットを受け取り、パークエントランスに足を踏み入れる。その瞬間、水を映した壁一面のモニターが二人を出迎えた。
「すごい。エントランスからもうとっても綺麗」
「うん……そうだね」
松永の視線はモニターより真横のみすの手に注がれていた。表示されていた閉館時間まであと1時間半ほどだが、人気なのか平日のこの時間でも人が多い。また光や映像を駆使した展示が持ち味だからか、館内は思っていたよりも暗かった。
みすの声色は感嘆と高揚感が入り交じっていた。興味があるものにはまっしぐらに向かってしまう性分の彼女である。すぐにでも水槽に張りついて中にいる魚たちを眺めたいと思っているだろう。今横にいる自分の存在など忘れて、置いてきぼりにされてしまうに違いない。それでも松永はそんなみすが好きで、できれば今日だけはそんなみすを手の届く範囲に留めて見つめていたいのだ。だが、彼女の手を握る勇気など生憎この男は持ち合わせていない。
「石橋さん」
「もうそのくだりやめてもらっていいですか」
「いや、違くて」
松永はみすの手首を取り、自分の腕に持っていく。これが精一杯だった。
「……はぐれるといけないから、こうしてて」
「は、はい……」
手を繋ぐことと何も変わらない。それどころか更に恋人らしい出で立ちになっていることに松永はまったく気がついていないようだった。おそらく善意でやってくれていることに対して自分だけが変に意識していると思われるのも嫌なので、みすはそのまま松永の腕に手を添えることしかできなかった。
お互いどこかぎこちないままエントランスを抜けると、大きなメリーゴーランドが目に入る。木馬の代わりにイルカやサメ、アザラシなど海の生き物があしらわれたこれにみすは見覚えがあった。
「あ……そういえばこれ品川にあったんだっけ」
「知ってんの?」
「これだけ、子供の頃に乗ったことがあるんです」
みすが9歳あたりの頃、家族と横浜旅行に行った帰りにここに寄ったのである。水族館に入った記憶がないので、なぜかこれだけに乗ったのだがどんな経緯があったかは思い出せない。
「へえ〜……どれ乗ったの」
「タツノオトシゴで、確か弟がイルカ……だったかな」
「よく覚えてるね」
「タツノオトシゴだけ立ってるみたいでしょ? なんか面白いなあって思ったんです」
松永は目の前を悠々と旋回していくタツノオトシゴを見つめながら、そこに乗っていたであろう幼いみすに思いを馳せた。
「石橋さん、乗ってくれば? 手振っててあげるよ」
「親か? 結構です。松永さんどうぞ、動画撮って潔とRさんに送って差し上げます」
「差し上げさせねえから。絶対乗らねえから」
結局二人ともメリーゴーランドには乗らず、展示の方へと歩を進めた。
そこからは亀の歩みである。水槽を見つけた瞬間みすは松永を引きずるように駆け寄り、一つ一つ時間をかけて眺めた。そんなみすが一番お気に召したのはクラゲの展示だった。建物の柱と同化している円柱型の水槽に、色とりどりにライトアップされたクラゲがふわふわと浮遊している。
誰よりも長く、みすが満足するまで展示を見ていたからか、今この展示ブースには人はほとんどいない。松永は自分の腕から離れ、水槽に駆け寄るみすの背中をぼんやり見つめる。待ち合わせした時より随分緊張は解けたようだった。暫し会話が途切れるも、みすのそんな様子を見れば、松永には彼女が心から楽しんでいるのが伝わる。時折バッグから小さいノートを取り出して何かメモをとっている姿を見つつ、ここに連れてきてよかった、と一緒にデートプランを考えてくれた相方に心の中で密かに感謝した。
「そんなところで何やってるんですか?」
いつまで経っても隣に来ない松永を訝しんでみすが振り向く。その瞬間、松永の呼吸が止まった。
仕事以外での彼女のトレードマークであるサングラスは外され、胸元に掛けられている。今松永の目の前に立っているのは初めて見る、“みす”ではなく少女の面影を色濃く残した一人の女性であった。
惚けたように自分を見つめたまま立ち尽くす松永に、みすは困惑するように再度声をかける。
「あの……?」
「……石橋さん、サングラス」
「あ……ちゃんと、見たいので」
今まで見たことがなかったみすの本当の素顔に松永は展示を眺めるどころではない。そんな彼に気がつかないまま、みすはまた水槽の中を悠々と漂うクラゲに視線を戻した。
「今日はありがとうございました」
「いや、それはこっちの台詞だから。ありがとね」
閉館時間を迎えた水族館を出た二人は、品川駅のターミナルでタクシーを待っていた。
松永は横目でみすを見る。先ほどまで胸元に掛けられていたサングラスはもう彼女の目元を縁どり、その瞳を青紫色に霞ませていたが、脳裏にはそれを取り去ったみすの素顔が焼きついていた。もう一度、いやもっと、できることなら何度でも見たい。彼女はそれを許してくれるだろうか。
そんなことを考えているうちに、タクシーが一台目の前に停まる。ここにみすを一人残したくないので先を譲り、彼女が開いた後部座席に乗り込む寸前、松永はなけなしの勇気を総動員させて今しがた心に芽生えた気持ちを伝えるにはあまりにも足りない言葉を呟いた。
「あの、また行きませんか」
「……考えておきます」
タクシーのドアが閉められ松永の前から走り去る間際、窓の奥のみすの頬は少し紅く染まって見えた。やはり彼女は直接だと照れ屋になってしまうらしい。でも、自惚れてもいいのなら、それだけじゃなければいいな。
次にターミナルに到着したタクシーに小さくクラクションを鳴らされるまで、松永は遠ざかっていくみすの乗ったタクシーを見つめていた。