たりないふたり
夢小説設定
この小説の夢小説設定二人組シンガーソングライターユニット「こんばらりあ」
マネージャー→東海林(40代男性)、木野(20代女性歳下)
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人だけでなく草木も眠り、月と星だけが起きているであろう霜夜。この時分に鳴るはずのない音が磨を揺り起こした。それが自宅のドアが閉まる音であることを認識した瞬間、頭を支配していた眠気が霧散し、磨は寝起きとは思えぬ速さでベッドから抜け家を飛び出した。
「ちょっ、ちょ、松永さん!」
「あ、石橋さんだあ」
フロアをおぼつかない足取りで歩く背中を掴まえると、ゆっくり振り向いた下瞼が僅か上向きに弧を描く。
「松永さん、どこに行くの?」
「アイスたべたいの」
磨の声音から怒られるかもしれないと思ったのか、たどたどしく発せられたその声を聞き、磨は自身の心のスイッチを切り替え安心させるように笑みを浮かべた。
「わかった。でもこのままだと風邪ひいちゃうから、一回戻って暖かくしてから行こう?」
「うん」
スウェット姿の松永の手を引いて一旦家の中に戻り、上着を羽織らせながら磨はすぐそこのキッチンに鎮座している冷凍庫の中身の記憶を呼び寄せていた。この間彼が大量に購入してきたものはまだ半分ほど残っていた気がするが、今の彼のお眼鏡にかなうものは入っていなかったのだろうか。
「松永さんは、なんのアイスが食べたいの?」
「あれ、あれ。あの……自販機のアイス」
等間隔に配置された街灯の下を歩きながら、松永のリクエストを訊く。自販機のアイスとは、おそらく昔からあるあの数字の名前のアイスクリームのことだろう。あれ無性に食べたくなる時があるんだよなあ。たとえば市民プールで散々遊んだ後とか、相方と待ち合わせする駅のホームにぽつんと置かれているのを見た時とか。
確か家から一番近い駅にあった気がする。一番近い、とは言っても少し距離があるし、タクシーに乗る気分ではないらしい。この時間にしては少々長旅になりそうだ。
「石橋さんもアイスたべる?」
「食べようかなぁ」
「一緒にたべよぉ」
子供のように楽しそうに、ふわふわと歩く横顔を見つめる。目が合うと、石橋さん寒いの? 手繋いであげる。と笑って磨の左手をその大きい手で包んだ。きっとこのやり取りも、この左手の冷たさも、明日になれば何もかも忘れているのだろう。
今目の前にいる彼は松永であって松永ではなく、松永ではないが松永である。それが同居してから幾度か目の当たりにしてきた彼を見て磨が出した結論だ。内服薬の副作用にあたるものなのだろうか。服用すると今のように突拍子もなく思うがまま行動し、眠って翌日起きたらその際の記憶はすっぽり抜け落ちているのだ。
睡眠というのは人間にとってやはりどうしても必要なもので、欠いてしまうと体が壊れてしまう。最悪のケースも十分に有り得るわけで、そんなことにならないためにも眠れないのであれば薬に頼ることもまた必要だと思う。だが服用してから一人で家の外に出るのは駄目だ。自分のあずかり知らぬところで事故に遭って……などということが起きてしまったら、自分は一生後悔の底に沈み二度と浮上できなくなるに違いない。今日彼を見失ってしまう前に気がつくことができて本当によかったと磨は人知れず胸を撫で下ろした。
駅の入口に到着し、長い階段を転倒しないよう手を繋いだままゆっくり降りていく。踊り場と呼ぶには広い通路の端に数字の17を模した赤いロゴの自動販売機がひっそりと置かれていた。
「あった〜」
「松永さん、どれにする?」
「ぜんぶ」
「持ちきれないよ〜。袋持ってくればよかったなあ」
「じゃあ、これとこれ」
今しがた全部欲しいと言っていたとは思えぬ慎ましさである。磨は小銭を自動販売機に飲ませ、松永が指さしたフレーバーのボタンを押した。
「磨さんはどれにするの?」
念願のアイスクリームを両手にご満悦そうな松永の横で、磨は顎に指をあてて暫し考えた後、ボタンを押し落ちてきたそれを取り出した。
「私はやっぱこれかな」
「カスタードプリン?」
「結局いつもこれ食べたくなっちゃうんだよね。一番好き」
「一口ちょーだい」
「いいよ」
帰りはせっかく購入したアイスクリームが溶けてしまうので、タクシーを呼んだ。申し訳程度の変装しかしていないので車内で個人が特定できるような話をし始めたらどうしようと少々心配していたが、松永は磨の手とアイスクリームを握ったまま、静かに窓の外を見ている。視線の先では、朝日が昇る前兆のように、空の終わりがうっすら白み始めていた。
帰宅し、手を洗うやいなや松永は椅子に座りアイスクリームの包み紙を剥がし始める。早く食べたかったのか無造作に引かれたそれは外側の厚紙だけが取り払われ、薄紙がアイスクリームにべったり張り付いていた。
「…… 石橋さ〜ん」
「はいはい、貸してね」
薄紙を剥がして手渡すと、松永は嬉々としてそれを受け取り片手に持っていた携帯電話で写真を撮る。その様子を見ながら磨も自分の分を開けて一口齧る。口の中にプリンとカラメルソースの風味が広がるのと同時に冷たさが歯を刺し磨は顔を顰めた。
「はは、石橋さん変な顔。おいしくないの?」
「ほっといて〜、知覚過敏なの〜……あ、一口食べる?」
「うん……うまいじゃん」
「でしょ〜?」
1個めを食べ終えたところで松永の体が小さく左右に揺れる。俯いた顔を覗くと涼やかな目元がとろとろと船を漕いでいた。おねむの時間らしい。
「松永さん、眠い?」
「うん……」
「じゃあお布団入ろっか」
残った1個を冷凍庫にしまい、着たままだった上着を脱がせて部屋に連れていく。松永の寝室のドアを開けようとしたところで、彼は磨の手を掴んでそれを制止した。
「やだ、こっち」
「え、そっち私の部屋よ?」
「石橋さんのふとんで寝る。石橋さんも一緒に寝よ」
「あ、ちょ、ちょっと」
松永は手を引いて部屋に磨を連れ込む。眠気でふらふらした足取りが、驚いてもつれた足が踊るようにフローリングの上でステップを踏んだ。
「ちょっと待って、着替えるから」
磨が寝間着に着替えている間に松永はいそいそとベッドに入り、彼女を待つ。普段は自分が目の前で着替えようものなら女が男の目の前で服を脱ぐなんて云々と恋人とは思えない説教をするくせに、今はまだこちらに来ないのかと言わんばかりに下着姿の自分を凝視してくる。
「まだー?」
「もうちょい待って〜」
「……めちゃくちゃ石橋さんの匂いする」
「そりゃ私のベッドだもの」
「いい匂い」
「お布団嗅いでそう言われると恥ずかしいな」
視線と言葉で急かされながら素早く着替えを終えてベッドに近づけば、先ほど部屋に入った時と同じ要領で手を引かれ布団の中に引きずり込まれる。
「寝れそう?」
「うん……」
腕の中に彼を招き入れ、頭を撫でつつ背中を優しく叩く。しばらく続けるとやがて規則正しい寝息が胸をくすぐり始めた。
音楽を作ること。客の前に立ちパフォーマンスすること。ラジオで話すこと。カメラの前に立つこと。どれもすべて彼を象る大事なものだけど、それと同時に時には彼を追い詰めるものにもなりうる。自分だってそうだ。どこかで折り合いをつけて、なんとかその均衡を保っている。彼は真っ直ぐであるがゆえに、そうすることが少しだけ苦手なのかもしれない。やっと休むことができた彼が、どうか今だけ何もかも忘れて眠ることができますように。
磨は自分も眠りに落ちるまで、松永に愛を注ぐように頭を撫で、背中を叩き続けた。
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目が覚めて最初に感じたのは、心地よい温もりと息苦しさだった。
「……あ、あ? えっ」
昨夜自分は確かに自室の、自分のベッドに入り就寝したはずだ。それなのに、今自分がいるのは恋人の寝床であり、当の恋人は自分を腕の中に閉じ込め未だ寝息をたてている。
「んん〜? あ、まつながさん。おはよぉ」
男としては喜ばしい状況であるものの、驚きと困惑が脳内を占めている松永が小さく身を捩ると、磨は居心地悪そうに声を漏らしまだ微睡みの残る滑舌で彼に朝の挨拶をした。
「俺なんで石橋さんと寝てんの?」
「なんでだろねえ」
「ええ……? いや待って、それよりあの、石橋さん、胸。胸があたってんだけど」
磨の煮え切らない回答に未だ困惑しつつも、松永はやっと自分の頬に触れる「男としては喜ばしい状況」に気がつく。今度は強めに身を捩るが、磨はそれを面白がるように腕に力を込めた。
「なんでだろねえ〜?」
「おいもう起きてんだろ。ちょ、押し付けないで」
彼には教えてあげない。強いて言うなら心配をかけた罰として、まさに自分だけが知る彼の一面があってもいいだろう。そんな磨の意地悪を知らないまま、松永は彼女の胸に顔をうずめることしかできなかった。
彼が冷凍庫にある購入した覚えのないアイスクリームと、投稿した覚えのない写真に気がつくのは、数時間後の話である。