たりないふたり
夢小説設定
この小説の夢小説設定二人組シンガーソングライターユニット「こんばらりあ」
マネージャー→東海林(40代男性)、木野(20代女性歳下)
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『まだ、下がらないですか……』
「うん……さっき計って38.5℃やった」
そうですか、と呟いた潔の声は電話口でもわかるほどに心配を帯びていた。
換気扇の下で煙草を燻らせながら、自室で寝ている磨に思いを馳せる。昨夜突如発熱し、今もまだ下がらず苦しんでいる。同居を始めてから磨が体調を崩したのは初めてだった。
『でもまあ、昨日よりは下がったよ。40.2℃たたき出した時はさすがにやばい思たけど』
「そうですね。それに比べたら良くなった方か」
潔はR-指定の言葉に頷きつつ昨夜彼から連絡をもらった時のことを思い出していた。先日発売したアルバムの制作にこの数カ月ずっと追われ続け、やっと昨日の音楽番組の収録を最後に、一連のプロモーションにひと段落つけたところだったのだ。気が抜けるタイミングである。こういう時だいたい体調を崩すのは自分なのだが、今回はそうならぬよう磨は潔の体調を考えできる限りのフォローをしてくれていた。きっとその疲れが溜まっていたのだろう。一時はR-指定の言うとおり深夜には熱が40.0℃を超え、正直磨の命の危険すら感じた。深夜外来を受け付けている病院が近くにないか片っ端から問い合わせ、苦しむ彼女をタクシーに乗せて病院へ連れて行ってくれたのが彼である。磨は一人で身動きはもちろん、とてもじゃないが連絡などできる状態ではなく、R-指定がいてくれて本当によかったと彼には感謝してもしきれない。現時点でここまで熱が下がったのも、病院で処方してもらった薬と、彼の甲斐甲斐しい看病あってこそである。
『無理してたんだろうなあ……明日については朝の体調見て判断しようと思ってるんで、磨にそう伝えといてもらえますか? ……あと、お大事に。とも』
「おん、わかった。とりあえず今日は俺も休みやから、磨ちゃんのことは任して。潔ちゃんも気ぃつけてな」
『すみません、本当にありがとうございます。よろしくお願いします』
潔との通話を終え、磨の部屋へ向かう。ドアを開けると、ベッドの上で小さい膨らみが苦しそうに上下しているのが見え、慌てて駆け寄った。
「磨ちゃん、大丈夫? 苦しい?」
「きょうへいさん……ごめんね、だいじょうぶだから……あっちいってて」
「なに言うてんねん。俺のことはええから気にせんで」
小さな体で熱にうなされる恋人が可哀想で仕方がない、というようにR-指定は布団に包まれた磨の胸を優しく叩く。いつも元気な姿しか見たことがなかった彼女の弱っている姿は、可哀想だがどこか劣情をそそられ——否、本当に可哀想で心配になる。
額に貼られた熱冷ましシートと頭の下に敷いた氷枕を換えて、汗を拭いてやる。そろそろ薬を飲ませる頃合いだが、そのためには何か腹に入れた方がいいだろう。ゼリー、アイスクリーム、お粥、それとも——そこまで考えたところで、R-指定の脳裏にあるものが浮かんだ。
スープだ。自分が体調を崩した時もっぱらお世話になっていた、そして一番体に良いと信じて疑わないあれを、まさに今こそ磨に振る舞う時ではないか。
「磨ちゃん、元気出るやつ作ったるから、待っててな」
キッチンへ行き、冷蔵庫の野菜室を開ける。必要なのはキャベツとにんじん、玉ねぎ、ブロッコリー。よし、すべて揃っている。きっと今日以降の献立を考えて購入してくれているので使ってしまうのは少々申し訳ないが、今はそうも言っていられない。
ピーラーで手を切りそうになりながらもなんとかにんじんの皮剥きを終え、野菜を順番に切っていく。
「……あれ、キャベツってこんな固かったか?」
真ん中辺りで突っかかってしまった包丁をなんとか押し込む。まな板と包丁のぶつかる音がキッチンに響き渡った。
熱にうなされながら目を覚ます。発熱した時特有の妙なコントラストの部屋中を見回していると、リビングの方からガン、ガンという音が聞こえた。
「なんのおと……?」
音の主は間違いなく同居人であるだろうが、いったい何をしているのだろうか。朦朧とする体を引きずってリビングへ向かうと、キッチンで真剣な顔をしている彼を見つけた。いや、真剣というよりは真下の何かを親の仇のように睨みながら、と言った方が正しいかもしれない。その瞬間、同居人——R-指定の体がガクンと下がるのと同時に、先ほど聞いたガン、という音が響いた。
「きょ、きょうへいさん……? なにしてるの」
「え? あ、だめやん磨ちゃん。ちゃんと寝とらんと」
磨に気がついたR-指定は、慌てた様子で手を拭いて彼女に駆け寄る。まだ熱が下がった様子もなく、立っているだけなのに体が僅かにふらふら揺れている。
「うん……寝るよ、寝るけど……恭平さん大丈夫? さっきからすごい音してるよ」
「大丈夫! ちょっとキャベツがな……にんじんがな……」
キャベツとにんじんがどうしたというのか。とりあえず何か作っているのはわかったが、お腹が空いたのだろうか。であれば正直料理はしないで買い置きしてあるインスタントラーメンを食べてほしい。危なっかしくて仕方がない。自分が横で見ている時ですら肝を冷やすのに、そうでない時などもってのほかである。
「本当に大丈夫……?」
「大丈夫やって。磨ちゃんは寝とき。な?」
R-指定に優しく背中を押され、リビングから追い出される。少しだけ見えたが、ひとまず手を切ったりはしていないらしい。よかった。
「包丁使う時の反対の手は猫の手、だからね?」
「わあってる、わあってるよ」
まだ心配そうな顔の磨を半ば無理やりベッドに寝かせ、続きに取りかかる。なんとか野菜を切り終え、水を張った鍋にすべて放り込んだ。あとはこれを10〜20分煮込むだけだ。R-指定は煙草に火を点けつつ、これを食べてすっかり元気になった磨の姿を思い浮かべ、人知れずにこりと笑った。
「磨ちゃん、起きとる?」
「うん。恭平さん手切ってない? 大丈夫?」
「おん、大丈夫よ。ご飯作ったから食べような、ほんで薬飲も」
背中を支えてくれるR-指定の手に体を預けて起き上がると、彼の傍らに盆に乗せられたスープボウルが鎮座しているのが見えた。
「スープ……恭平さん、作ってくれたの?」
「おん。これ食ったらすぐ元気なるから」
「うん、ありがとう」
R-指定の昼食ではなく、自分のために料理をしてくれていたのか。彼の優しさに嬉しい気持ちになるとともに、妙に自信に満ち溢れた声を聞き、磨は前に彼がラジオで話していたある料理を思い出した。まさかこれは、噂に聞くファイトケミカルスープではないか。ボウルの中身を覗くと、ほとんど無色透明のスープの中に聞いたとおりの野菜が沈んでいる。
「はい、口開けえ」
「私、自分で食べれるよ?」
丁寧に息を吹きかけて眼前に運ばれたスプーンにたじろいでいると、R-指定は至極真剣な顔で首を横に振った。
「ええの。ほら、あーん」
「あー……」
R-指定に倣って口を開けると、温かい野菜が口内に入れられる。柔らかくて食べやすい。が、果てしなく味がしない。なんだこれは。スープというよりは野菜の水煮を煮汁ごと食べているような感覚である。熱で鈍る味覚を最大限に稼働させると、うっすらコンソメの味がする気がしないでもない。
「ほんま、これ食ったらすぐ治るからな」
「うん……」
満足げ、かつ慈しむようにファイトケミカルスープを食べ進める自分を見ているR-指定の手前、そんな酷な感想など口が裂けても言えない。だが次にスプーンに乗せられたあるものがさらに磨を苦しめるのだった。
「ゔぁ゙……やだ。ブロッコリーきらい」
「好き嫌いするんやありません。ほら、食って?」
眼前に突きつけられた緑色を磨は顔をしかめつつ食べる。口いっぱいに嫌な風味が広がるが、そもそもスープにほとんど味がないため別の味で誤魔化すこともできない上に、水臭さも相まって最悪だ。
「ん。苦手なもんもちゃんと食って、磨ちゃんはええ子やんな」
もそもそと咀嚼を続けなんとか飲み込むと、R-指定は磨の頭を無造作に撫でた。だが、磨の我慢はもう限界に達していた。
「……恭平さん、マヨネーズほしい」
「え?」
「ブロッコリー、めちゃくちゃ味していや……」
R-指定は磨の要望に僅かショックを受けながらも、彼女がいつも苦手な食べ物にはどうかと思うほど調味料をかけて味を消して食べていたこと、そして自分がこれを作る上で味付けを疎かにしていたことを思い出した。だが今の磨にマヨネーズを与えるのはよくない。申し訳ないと思いながらも心を鬼にして彼女を優しく諭す。
「あかん。絶対気持ち悪なるよ? 我慢して食って。ほら、良薬口に苦しって言うやん」
「ん゙ん゙〜〜〜……」
口を真一文字に結び唸る磨。不満がっている時のお決まりの癖だ。
「ええ子やから。な?」
「子供扱いしてるぅ……」
「今の磨ちゃん、子供みたいやもん」
なんとかブロッコリーも食べさせ、ボウルを空にした磨に薬を飲ませる。これであとはぐっすり眠ればきっと体調も回復するはずだ。布団にくるまって眠る磨の頭を撫でながら、R-指定は窓から差す午後の暖かい陽の光を眺めて目を細めた。
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「ごめん、私今日このまま帰るね」
「あーい。Rさんにお大事にって伝えといて」
「わかった、ありがと。お疲れ様です、お先に失礼します!」
収録が終わるや否や磨は素早く身支度を済ませキー局を飛び出す。
磨が回復して数日後、今度はR-指定が体調を崩してしまったのだ。自分を甲斐甲斐しく看病してくれたことで彼にうつしてしまったのではないかと申し訳なく思いながらも、仕事に穴を開けることはできなかった。
帰路の途中でスーパーマーケットに寄り、以前自分が使い切ってしまった体調不良時の必需品をカゴに放り込んでいく。そういえば、キャベツとにんじん、玉ねぎ、ブロッコリーあったかな。冷蔵庫の中身の記憶をたどりつつ、青果コーナーで足りないものもカゴに追加した。
帰宅して手洗いうがいを済ませ、すぐに彼の部屋へ向かう。R-指定は布団の中でぐったりとしていた。
「ただいま。恭平さん、大丈夫?」
「おかえり、磨ちゃん……熱また上がったっぽい」
「あらら……あ、薬お昼の分飲んでないでしょ。もう」
熱を出してもなおぐうたらなところは健在らしい。まったく仕方のない恋人である。とりあえず汗を吸った衣類を着替えさせ、熱冷ましシートと氷枕を換えてから磨はキッチンへ向かった。
布団の中で動けないままじっとしていると、自室のドアを開けて磨が入ってくる。それと同時に、温かな匂いが空の胃袋を刺した。
「……ええ匂い」
「スープ作ってきたよ。恭平さんが全幅の信頼をおいてるファイトケミカルスープ」
盆を傍らに置き、背中を支えてR-指定を起き上がらせる。その際彼の目に映ったボウルの中身は聞いた名前のものとは違う色をしていた。
「なんか、赤い……?」
「ああ。ちょっとね、トマトベースにしてみたんだ。ミネストローネみたいな感じで」
磨はスープを一口分掬い、丁寧に息を吹きかけてからR-指定の眼前にスプーンを差し出した。
「はい、恭平さん」
「いや……な、なんか恥ずいな」
「お互い様でしょ。ほら、あーん」
磨に倣って口を開け、一口食べるや否やR-指定は熱でうまく開かない目を僅かに見開いた。
「……うまい」
「よかった。ほら、良薬口に苦しって言っても、やっぱり美味しくできるならその方がいいじゃない?」
なるほど。自分がひとり暮らしをしていた頃にはなかった発想だった。キャベツとにんじん、玉ねぎ、ブロッコリーだけ。それをスープにして食べればいいだけ。味などは正直どうでもいいと思っていたし、食事というよりは薬だと思っていた。磨に振舞った時もそう考えていたわけでは決してないが、今までそう作ってきたため相手のために味をつけるという発想に至らなかったのだった。
食欲などまったくないと思っていたのに瞬く間に完食し、薬を飲む。再度布団に潜り込むと、磨が自分の胸を優しく叩く。眠気が少しずつ足音を鳴らしてやってくる。眠りに落ちる少し前に、R-指定はおもむろに口を開いた。
「…… 磨ちゃん」
「なぁに」
「今度味付けの仕方、教えてや」
もしまた磨が体調を崩す時が訪れたら、今度は自分もこれを作りたい。彼女が苦手なブロッコリーも難なく食べられるように。
「もちろん」
磨の嬉しそうな声を最後に、眠りに落ちる。次目が覚めた時にはもう熱など治り、完全復活しているはずだ。