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たりないふたり

夢小説設定

この小説の夢小説設定
二人組シンガーソングライターユニット「こんばらりあ」
マネージャー→東海林(40代男性)、木野(20代女性歳下)
あなた
あなたの名字
相方

「斉藤さんだ〜!」

テレビの前にちょこんと座る恋人の目には、先の言葉のとおり顔の濃いあの芸人がお決まりのギャグを披露している様が映っていた。恋人——は嬉しそうにオーバーサイズのパーカーに隠れた腕を振りながらそれを復唱して笑う。お気に入りらしい。

「は〜ぁい! えひひっ」

音声だけ聞いていると5歳児が真似をしているかのようなその声に、松永は可愛いと思いながらも心配を隠せずにいた。
には3つの顔がある。まずは女性の顔、2つめが男性の顔。そして3つめが子供の顔である。交際を始めるまではこの3つの中でいう女性の顔しか向けられてこず、最近やっと自分に向けられる男性の顔に慣れてきた松永にとって、子供としてのは仕事でしか見たことがないはずだった。それが同居を始めてからというもの、仕事時に見ていた姿以上のものを度々散見するようになったのだ。妙な奇声を発していたり、リビングで寝落ちしていたところを起こせば半分寝たまま意味不明なことを話していたり、味噌汁が入った鍋の前で不可解な踊りをしていたり。枚挙にいとまがない。
彼女は元々ここまで子供っぽい性格だったのだろうか。それとも、仕事とプライベートとの精神のスイッチングが上手くいっていないのだろうか。

「やれば〜、できる!」

松永の心配をよそに、今度は橙色と笑顔がトレードマークの某芸人の決め台詞を復唱するを見る。この後ろ姿がいつもの彼女なのかどうか、相方であるならわかるのではないだろうか。松永はおもむろに携帯電話を構え、カメラを起動した。



時を同じくして、は自宅で締切に追われていた。あとでやる。明日やると先延ばしにしていたタイアップ曲はまだサビであろう部分にしか波形が作られていない。うんうんと頭を捻っていると、傍らに投げ出された携帯電話が震える。

「誰だこんな時に……」

ディスプレイをちらりと見やると、先輩であり相方の恋人でもある松永からのメッセージだった。作曲の話だろうか、それとも4人での食事会のお誘いだろうか。顔認証でロックを外すと、通知欄に表示されたのは『松永さん さんが動画を送信しました』という文字だった。トーク画面のプレビューにはテレビを観ている相方の後ろ姿が写っている。もしや「自分しか知らない可愛い石橋さんを見つけた」というマウントだろうか。この間完膚なきまでに叩きのめしてやったばかりだというのに、懲りない人である。
それはそれとして暫く見ていない自宅でくつろぐは見たいのでプレビューをタップしようとした瞬間、画面が勝手に切り替わる。電話だ。今日は随分と挑発的である。どう返り討ちにしてやろうかと息巻いて通話アイコンをタップした。

「はい。……あの、せめて一言言ってくれません? 動画まだ見てないんですけど」
『あ、それはごめん。待つから動画見てもらってもいい?』
「はあ」

通話を一旦切り上げ、今度こそプレビューをタップする。表示されていたとおりテレビを観ているの姿が再生された。

『ヤー! パワー!』
『やー! ぱわぁー!』

テレビでは筋肉をアイデンティティとする某芸人がその筋骨隆々な腕を前に出してお決まりのギャグを披露しており、テレビの前に座るが嬉々としてそれを真似ている。数年前同居していた頃によく見た光景である。ははんとは鼻を鳴らすように笑ってから松永に電話を折り返した。

「もしもし」
『動画見た?』
「はい。見ましたよ」
『あのさ……石橋さんって、プライベートでもこんな感じなの?』

松永の声は困惑と心配が入り交じっており、は予想外の展開に一瞬狼狽しかけたがすぐに理解した。
半年前、めでたく結ばれた二人はつい最近同棲を始めたばかりである。最初は照れからか交際する前のツンとした態度をなかなか崩せなかっただが、きっと交際を続けるうちに慣れて、松永の前で気の向くまま心を切り替えられるようになったのだろう。相方として喜ばしい限りである。だが、松永からすれば急に仕事次でしか見たことがなかった彼女が自分の前に現れるようになったのだ。大方仕事とプライベートの切り替えが上手くいっていないのだろうか、などといらぬ心配をしているに違いない。
ならば、自分がとるべき行動はただ一つである。

「いや、普段はもうちょい歳相応なはずですよ……」
『! ……そう、か。やっぱそうなんだな』

不安が確信に変わったかのような松永の声。は笑いを堪えるのに必死だった。

「なんかさ、最近仕事とかで石橋さんに変わったこととかあった?」
『いや、特には……だからの中で何があったのか私も気づけなかったんですよね』

相方であるですら気がつかなかった何かがに起こり、心身のバランスを崩してしまった。そしてはそれをにひた隠し、家の中では耐えきれずに露呈してしまっている。松永の中ではその説が確立していた。

「そっか……さん、ありがとね。俺色々調べてみるわ」
『はい、私もちょいちょい気にかけます。じゃあ』

知らなかったとはいえに伝えてしまったのは申し訳ないが、これものため。自分がなんとかを支えてやりたい。
との通話を終えた松永は、の隣に腰を下ろした。

石橋さん、テレビ面白い?」
「うんー。今ね、高岸さんがすっごく面白かったんだよ!」

にこの姿を見せなかったのは、きっと相方に心配をかけたくないという彼女の配慮ゆえの行動だ。なんていじらしいのだろうと松永は楽しそうに自分に笑いかける彼女を見ていると涙が出そうになり、それを隠すようにを強く抱きしめた。

「わわ、松永さんどうしたの?」
「ううん、なんでもない」

必ず、自分がを助けてみせる。
嬉しそうに自分の胸に顔をうずめるの頭を撫でながら、壮大な勘違いを抱えた松永はそう心に決めたのであった。

—————————————————————————

「……いいメンタルクリニックとか知らない?」
「は?」

副調整室に入って開口一番松永から放たれた質問に、R-指定は一時停止されたかのように動きを止めた。
メンタルクリニックとは、精神科を担う無床または19床以下の入院施設をもつ医療機関のことを指す。
と、頭の中を某オンライン百科事典の概要のような文章が通過したところで、いやいやと頭を振った。

「どしたん、松永さん。なんかあったんやったら話してや。解決できるかわからんけどさ、話くらいいくらでも聞くよ?」
「え? あ、ごめん。俺じゃないの」
「あ、そうなん? じゃあ誰が」
「……石橋さん」

今となってはもう聞き慣れた、自分にとっても可愛い後輩ユニットの片割れ、そして松永が愛してやまない恋人の名字である。快活で人懐っこい彼女は一見、心の不調とは無縁そうに思えるが、何かあったのか。

「え、ちゃんなんかあったん」
「いや、最近さ……」

松永が数日前のことを訥々と語ると、R-指定は心配そうに眉尻を下げた。

「そぉか……」
「たぶん、俺が訊いても「大丈夫」って言われると思ってさ」
「そんで、病院やったら話せるんちゃうかって思ったわけか」
「うん、そう。人に話したら楽になったりするかもしれないじゃん。さっきあーるが言ってくれたみたいにさ。もし病気だったら治療も必要だし」

R-指定は松永の心配を取り除いてやりたい、を助けてやりたいと思いつつも妙案が浮かぶことはなく、ブースから自分たちを呼ぶ声に顔を上げた。ひとまず時間切れのようである。

「病院はごめんやけどわかれへん。でも俺も一緒に考えるから、松永さんも思い詰めたらあかんで」
「うん……ありがと、あーる」
「とりあえず今は集中して、行きやしょか」

スタッフの呼びかけに応じ、R-指定はブースへの重たい扉をくぐっていった。
集中しようと意識するものの、レコーディング中も松永の思考はどうしてもに向いてしまう。彼女は今どうしているだろう。何を思っているだろう。辛い思いはしていないだろうか。誰かに傷つけられてはいないだろうか。いったい何が原因で、どうしたら解決できるのか。考えるだけでは答えの出ないそれらが松永の思考を鈍らせる。
結局レコーディングは思うように進まず、いつもの調子がいまいち出ない松永を見かねてR-指定が休憩を提案し、暫しの気持ちを切り替えるための機会を作ってくれた。
御手洗から戻ると、マネージャーを中心にレコーディングエンジニアやスタッフが談笑している。皆で動画を観ているらしい。

「森さん何見てんすか?」

喫煙所から戻ったであろうR-指定が松永の背後からマネージャー——森に声をかけると、彼は松永とR-指定に端末を差し出した。

「来週出る番組観とこうと思ってさ、そしたらこんばが出演した回があったんだよ」

画面を覗き込むと、ベールを着けていてもわかるほどニコニコ笑うがたどたどしい口調でMCと談笑している姿が映っていた。最近自宅でよく見かける彼女と同じ姿に、松永の顔が瞬く間に曇っていくのを感じ取ったR-指定が心配そうに彼に問う。

ちゃん、ほんまにうちでもこんな感じなん?」
「うん……」

二人の神妙な面持ちと声に森は首を傾げていたが、一緒に番組を観ていたレコーディングエンジニアはあることを思い出していた。
この番組が放送された翌日、こんばらりあの二人に番組を観たと伝えた時に、いつも元気なにしては珍しく収録時体調が優れなかったと言っていたのだ。
Creepy Nutsとこんばらりあ、双方のレコーディングを担当することの多い彼も、松永とが交際していることは知っている。二組がラジオ番組で共演した数日後から松永がしきりにのことを話すようになり、自分にもは何が好きなのか、どういったことをしたら喜ぶのか尋ね、一途に彼女に想いを寄せる松永の姿を目の当たりにしていた身として二人が結ばれたのはとても喜ばしいことだった。
少し前から同棲を始めたことも聞いているが、松永とR-指定の様子から察するに、もしかしたらの体調が芳しくなく、彼らはそれを心配しているのかもしれない。今日松永の調子があまり思わしくないのも、きっとそれが理由だ。そう思った彼は休憩時間を終え、副調整室で準備を整える松永とブースで声出しをするR-指定をしり目に森へその旨を伝えた。

「そうか……俺からも東海林さんに連絡入れてみます」

森は端末の画面を動画から仕事用のチャットツールに切り替え、こんばらりあのマネージャーである東海林に『うちの二人が心配しているんですが、の体調大丈夫ですか?』とメッセージを残した。

—————————————————————————

翌日。

「なんかさあ、妙〜に気遣われてるというか……」
「へえ……どうしたんだろね」
「えへ、なんでちょっと笑ってんの?」

珍しく同じ時間にスタジオに到着したが揃って副調整室へと入る。レコーディングエンジニアは二人に気がつくなりを凝視した。

「おはようございま〜す! 今日もよろしくお願い……な、なんですか?」
、体調大丈夫?」
「え? はい、元気いっぱいです!」
「ならいいんだけど……無理はしないでね? 休憩したい時はいつでも言って」

はエンジニアの言葉に首を傾げる。彼はいつも優しいが、今のは優しさというよりも心配されているニュアンスのように感じた。

「高根さん、どうしたんだろ……?」
「さあ……」

小さな疑問が残ったままレコーディングが始まったが、今日は調子がいいらしくは伸びのある高音を響かせる。それなのに、エンジニアはいまいちな反応しか見せず、未だ心配そうにガラス越しの自分を見つめていた。いったい今の自分のどこに、体調が悪そうに見える要素があるのだろう。ファンやカメラの前ならともかく、仕事に直接影響することだからスタッフの皆の前で体調不良を隠したことなど、今まで一度もないのに。
レコーディングは滞りなく進み、予定していた時間ちょうどに終了した。次は1カ月後に放送を予定している音楽番組の収録だ。これには恋人とその相方である松永とR-指定も出演すると聞いているが、一組ずつの収録となるため共演することはないだろう。ほんの少しだけ残念だ。
喫煙所でと一服してから荷物を取りに戻ると、副調整室には移動車を用意してきた東海林と木野が到着していた。彼らもまた、を見たと同時に心配そうな視線を彼女に向ける。

「おはようございます」
「おはようございます、東海林さん木野さん」
「おはよう。、この後の収録出れそうか? 大丈夫か?」
「え? はい、もちろん……どうしてですか?」
「森さんから連絡もらったんだが、Creepyの二人がお前が体調悪いかもしれないって心配してると聞いてな」

東海林の言葉にはまたもや首を傾げる。と同時に、数日前から松永が妙に自分に気を遣っていると感じたこと、そして双方と繋がりのあるレコーディングエンジニアが自分の体調を心配していたのはこれが理由かと悟った。

「松永さんとRさんがどうして私の体調を心配してるのかはわからないですけど、私はとりあえず元気ですよ!」
「よかった……でも無理はしちゃ駄目ですからね。何かあったらすぐ言ってください」

木野の優しい言葉に頷き、は駐車場へ向かうべく荷物を手に副調整室をあとにした。

「やっべ、でもウケるな」
「ん? 、何か言ったか?」

ちょっとした悪戯のつもりが、周りの人間も巻き込んで随分大ごとになってしまったと、この場で唯一ことの顛末を知るは一人苦笑する。これ、松永さんにバレたらしばかれるだろうな。と若干の焦燥感を抱きながらリュックサックを背負い込んだ。

「いえ、私もが心配だなあって」



テレビ局に到着し、は楽屋に入る前にスタジオを覗きに行く。お互いそれぞれ交際している身であるが、4人揃えば表向きは公私ともに仲の良い、同じ事務所の先輩後輩である。このくらいは問題ないだろう。
スタジオでは松永とR-指定がパフォーマンスの準備を粛々と進めていた。先にマイクの確認を終えたR-指定が彼女たちに気がつき、隣の松永に声をかける。

「おはようございまーす」
「がぁんばってくださぁい!」

スタジオの入口横から挨拶とエールを送ると二人はにこやかに、かつどこか曇りのある表情で手を振っていた。

「やっぱなんか、心配されてるな……」
「んっふふ、そうみたいだね。ほら、私たちも準備しよ」
「うん……」

これはのちほど誤解を解く機会が必要そうだ。に促されながら、は松永とR-指定に手を振りつつ楽屋へと向かった。
松永は松永で、大手を振って去っていくを心配そうに見送る。

「松永さん、あとで東海林さんに話聞きに行こ。そしたらなんかわかるかもしれんし」
「うん……そうだね」

今はとりあえず、目の前の仕事に集中しなければ。松永は頬を軽く叩き、ターンテーブルの準備を再開した。
仕事としてはいつもと変わらぬの姿を見ることができたからか、前日のレコーディングと比べて収録はミスもなくいつもどおり完了することができた。自分たちの仕事は無事終了したが、松永とR-指定は帰り支度もせずまたスタジオへと足を踏み入れる。先刻まで自分たちが立っていたセットには、今はが立ちパフォーマンスへの準備を整えている。その様子をモニター越しに見守っていた彼女たちのマネージャーは、二人に気がつくと軽く手を振りながら革靴を鳴らしこちらに近づいてきた。

「東海林さん、お疲れ様です」
「お疲れ様です」
「ああ、お疲れ。二人とものこと心配してくれてるんだって? ありがとう」

おそらく森から彼に連絡がいっていたのだろう。東海林の言葉に二人して会釈をする。先輩として、恋人として、を心配するのは当然である。それと同時に、向ける想いは違えど自分以外にも彼女を心配し大事にする人間がたくさんいるということが、松永にとって嬉しく、ありがたくもあった。
だが、次に東海林の口から放たれた言葉は、松永にとって著しく見当違いなものであった。

「とりあえず体調面に異常はないらしいから、安心してくれ」
「え? いや、それは知ってますけど……それよりも精神面っていうか」

きっとどこかで食い違いがあったのだろうと、松永は東海林にここ最近の自宅でのの様子を事細かに説明した。隣では相方がうんうんと頷きながら聞いてくれていたが、当の東海林はいまいち話の脈略を掴めていないような表情をしている。頭の上にクエスチョンマークが見えるようである。

「——こんな感じなんですけど、さん大丈夫なんですか」

予想外の反応に心が挫けそうになりながらもなんとか説明を終えた松永に対し、東海林は話を聞きながらもずっと胸中で燻っていた感想をそのままぶつけた。

「いや、振る舞いに関しては普段からそんな感じだよ」
「……え?」

自分の言葉に固まったままの二人を見て、東海林は前日から続いている関係各所のに対する心配が杞憂であったことに安堵しつつ、あることを思い出していた。この二組の仲良しユニットの中には、稀代の悪戯好きが一人いること。そして、そいつは今、相方の恋人をおちょくることを何よりのマイブームにしていることである。

「松永くん。の様子がおかしいって話、誰から聞いた?」
さん、ですけど」
「あー……二人とも、心配してくれてありがとうな。でもは大丈夫だよ。だから、あのー……すまん」

申し訳なさそうに頭を下げる東海林の姿を見て、ここで松永とR-指定もようやく真相にたどり着いたのだった。
松永とR-指定がスタジオを去って数分後。パフォーマンスを終えたは満足げに笑みを浮かべながらとともに東海林のもとへ向かう。本番前に大好きな松永とR-指定の顔を見ることができたからか、先のレコーディングに続き今の収録もこれまた絶好調だった気がする。きっと東海林も、自分たちの歌をいつも以上に褒めてくれるに違いない。

「東海林さん! どうでした? 今日いつも以上に良かったと思うのですが!」
「ああ、すごく良かったよ。あと、さっきの話は忘れてくれ。Creepyの二人にも伝えといたから」

さっきの話、というのはおそらく自分の体調のことだろう。期待に満ち溢れた表情のを待っていたのは、数日前から現在進行形で続いている疑問の話題だった。

「え? はあ……あの、なんでさっきからそんな話が出てたんですか?」
「それはまあ、説明するのは俺より適任がいるから。なあ?
「げっ……は、はい」

東海林の呆れを含んだ声色に肩を強張らせたは、観念したように返事をした。



「あんたあの人おちょくるのも大概にしときなさいよ……いつか本当にしばき倒されちゃうよ」
「だって面白いんだもーん。あんなおちょくり甲斐のある人なかなかいないよ? まあ今回周りも巻き込んじゃったのは反省してるけどさあ」
「本当にね……高根さんにもあとで連絡しておかなきゃ」

すべての戦犯であったに説教しつつ楽屋へ戻る。レコーディングエンジニアだけではない。松永にR-指定、二人のマネージャーである森にも心配をかけた謝罪の連絡を入れておこうと携帯電話を置いたテーブルに近づくと、自分のものではない方のそれがけたたましく震えていた。

、なんか電話かかってきてるよぉ」
「え? 誰……うわ、松永さんだ」

きっとお叱り——というよりは怒りに任せた罵詈雑言を浴びせられる。そう直感したは通話に応じることもせず赤いアイコンをタップしたが、間髪入れずにまた『松永さん』の文字とともに着信画面が表示され携帯電話が震える。

「……出れば?」
「い、いや……」

あっちが諦めるまで拒否しよう。そんなの愚策を見越してか、またもや応答拒否アイコンに指をかけたところで画面上部に『出ろ』『楽屋にいるのはわかってんだぞ』『出ろって』『おい』『殺すぞ』といった物騒なメッセージのバナーが立て続けに表示されていく。

「ヒイ…… 助けてえ」

これは罵詈雑言だけでは済まされないと悟ったは震えあがりながらに縋りつくような視線を向けた。今の松永の怒りを鎮められる人間は、この世で彼女以外存在しない。

「あんたね……もう、しょうがないな」

は自分で蒔いた種に怯えるに呆れつつ、ここで唯一無二の相方を失うわけにもいかないので自身の携帯電話を手に取り松永へ不在着信を残した。すると今しがたまで喧しくバイブ音を響かせていたの携帯電話が黙り、代わりにのそれが震える。

「はい」
石橋さん、そっちに馬鹿いると思うんだけど代わってくれない?』

松永の声はこれ以上ないほどに怒気を孕んでいた。自分に向けられているものではないとわかっていても怖い。だが、それほどまでに自分を心配してくれていたことを思えば嬉しくもあった。
楽屋に怒鳴り込んで来ない辺り、自分の言葉を聞いてくれる理性はあるのだろうと察したはあえて異なるベクトルから松永の説得を試みた。

「だめ。あのね松永さん、あんまり他の女の子にお電話してたら私妬いちゃう!」
『! それは、ごめん』
「ううん。このあと取材があるから22時くらいに帰ると思うんだけど、帰ったらお話したい。いい?」
『……うん』

帰宅後の答え合わせの約束を取りつけ、通話を終える。なんとか死を免れたは胸を撫で下ろしの肩を抱いた。

「いやぁ〜終わったと思ったわ。さっすが
「あんた本当に反省してる?」



自宅のドアを開け、靴を脱いでいるとリビングからスリッパの足音が自分を迎え入れてくれる。顔を上げると、恋人が立っていた。

「おかえり」
「ただいま、松永さん」

玄関に上がれば、靴を揃える間もなく彼の腕が自分を包み込む。顔を覗き込むと、まだ怒っているような、心配しているような複雑な表情をしていた。

「怖いお顔〜。折角かっこいいのに勿体ないよ?」
「ごめん」
「ううん。どうする? もうお話する? それともお風呂とご飯済ませてから?」
「……全部終わってから」
「わかった。急いでお風呂入ってくるね」

入浴を終え、一緒に食卓を囲んでから、茶を淹れて二人ソファーに並ぶ。話をしようとは言ったものの、どこから話そうか。

「えっと。何があって松永さんが、その……勘違いしちゃったのかは東海林さんから聞いてるんだよね?」
「うん。あいつはとりあえず殺すから」
「私の片割れ殺されんのは困るなぁ〜。許してあげてよ。私も急に思いっきり自我出してたのも悪いんだし」
石橋さんは何も悪くないでしょ」
「松永さんと一緒にいるのに慣れてきて、ちょっと気が抜けすぎてたの」

想いを寄せられていた間、そして交際を始めて最初の頃は以前と同じ轍を踏みたくないと自分でもタイミングの読めない心の切り替わりをなるべく彼に見せないようにしていたが、松永と心を通わせていくうちに、やっと前に彼がくれた言葉を本当に信頼できるようになったのだろう。それが、同居して長い時間をともにするようになって彼の目に見えるほど現れるようになった。というのがの出した結論である。おかげで彼を驚かせてしまい、いらぬ心配までかけさせてしまった。

「ごめんね、びっくりさせちゃって……私松永さんが思ってるよりもずっと子供っぽいの」
「いや、精神的に追い詰められてるとかじゃなくて本当によかったし、素を見せてくれんのは嬉しいし。……言ったじゃん、全部いっぱい見せてって」
「本当にいいの? 子供っぽい私、嫌いじゃない?」

前と同じ言葉を言ってくれた松永に念を押すように尋ねるが、次に彼から放たれる言葉はもう決まっている。彼は愛のことになるといつ何時も、の欲しがる言葉を心からくれるのだ。
少女のように自分を見上げるの手を握り、松永は彼女が待ち望むその言葉を口にした。

「嫌いじゃない。それが石橋さんだったら、俺は全部好き」
「……こういう時は手だけじゃなくて、体ごとぎゅってするのよ」
「いや、したいとは思ったんだけどさ。なんか、クセェかなって」
「いーの! したい時にして? あい!」

ぱっと両手を広げるに素直に従って胸の中に小さい体を閉じ込めると、背中に細い腕が触れ、絹髪が人懐っこく左右に揺れる。今の彼女は子供の気分らしい。

「……受けとめてくれてありがとう、松永さん。大好きよ」
「うん、俺も」
「えへへ、やったあ」

愛おしげに自分の頭を撫でる松永を見ては安堵した。ありのままの自分を受け入れてくれたこともそうだが、きっとこれで自分に対する心配も、への怒りも取り払われたに違いない。

「でもやっぱは次会ったら殺すわ」
「ん゙あ゙ー!!」
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