たりないふたり
夢小説設定
この小説の夢小説設定二人組シンガーソングライターユニット「こんばらりあ」
マネージャー→東海林(40代男性)、木野(20代女性歳下)
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仕事を終え、自宅へと帰る。リビングに入ると、磨がダイニングテーブルに着き自分を出迎えてくれた。
「ただいま、磨さん」
松永は彼女に帰宅の挨拶を交わし、すぐにキッチンで洋食作りに取りかかった。時刻は深夜1時。この時間まで自分を待ってくれていた磨もきっとお腹を空かせているだろう。
夕食を作っている間も、二人で食卓を囲んでいる間も、松永は磨に今日経験した出来事やそれについて自分が思ったことを事細かに話す。今日は来月に控えているツアーのリハーサルの調子がよかった。相方がまた遅刻してきたのでそろそろ説教しようと思う。持病の痛風で足が痛むのか、変なポーズで歌っていた。森さんから面白い話を聞いた。そんな脈絡なく乱射されていく松永の話を磨は時々相槌をうちつつ聞いてくれる。
「磨さんは絶対遅刻しなかったもんな。今度磨さんからもあーるに言ってやってよ」
つい最近まで名字で呼び合っていた二人称は名前に変わった。理由は互いの左手の薬指に光る指輪である。未だ照れくささが残るものの、こうして当たり前のように彼女の名前を呼べることがすごく嬉しい。
「ごちそうさまでした。磨さん美味かった? よかった」
食器を片づけて、その後はソファーに座り茶を飲みながら二人でまた談笑する。松永はこの時間がいっとう好きだった。
そういえば、もうそろそろ芍薬が見頃らしい。磨の大好きな花だ。この間、互いの相方であるR-指定と潔にプレゼントしてもらい、とても喜んでいたのをよく覚えている。
傍らの端末で調べると、なんと新潟県にも磨の出身地にも芍薬が見られる場所があるそうだ。帰省も兼ねて行ってみないかと提案すれば、磨は嬉しそうに頷いた。
「その時にさ、お互いの親に挨拶しに行こうよ」
自分たちはもうすぐ同じ名字になる。そのために互いの親への挨拶は避けては通れぬ試練だ。磨の親御は厳格であり心配性だと以前聞いたことがある。人付き合いが得意ではない自分が上手くできるか自信はないが、磨と一緒になるためならどんな努力も惜しまないつもりだ。
「え、磨さんも緊張してるの? 大丈夫だよ」
快活で愛想のよい磨なら、きっと自分の親も二つ返事で賛成してくれる。そうでなくとも、たとえ誰が反対しても自分には磨以外など有り得ない。
そう思いつつ、自分にこんな幸せがあっていいのだろうか、とも思う。この毎日がこれから、自分が死ぬまで一生続いていくことが約束されている。この上なく幸せだが、自分にはいささか身分不相応ではないだろうか。そんな謙遜と自己否定に染まりかけた思考に松永が表情を曇らせていると、ソファーに投げ出された左手にコツンと薬指が触れる。眠くなると隣の自分に体を預けてくるのは、磨の可愛らしい癖だ。
「磨さん、もう眠い? そろそろ寝よっか」
磨を抱えて彼女の自室へ行き、ベッドに寝かせてから自分も隣に潜り込む。明日目が覚めた時、最初に見るのがお互いである幸せを噛みしめるように、松永は磨を腕の中に招き入れ目を閉じた。
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人間には、抱え切れる感情のキャパシティが知らず知らずのうちに設けられている。その度合いは人それぞれだが、対象となる感情も喜び、怒り、悲しみとまたそれぞれだ。それを超えてしまうと、所謂“壊れてしまった”状態になるのだろう。今目の前にいる相方のように。
「——でさ、どうしたらいいと思う? プロポーズ」
「え?」
「指輪は受け取ってくれたし、これ以上ない勝ち戦敷いてもらってる分、逆にどう言えばいいかわかんないんだよな」
途中から考え事に囚われて松永の話を半分しか聞けていなかったR-指定は顔を上げ、相方の話に再び耳を傾けた。
「ううん、そやなぁ……もう形式みたいなもんやろ? 妙な小細工せんで、ストレートに伝えたらええんちゃう」
「やっぱそう思う?」
目の前で考え込む相方は、数ある感情の中でも“幸せ”のキャパシティを大幅に超えてしまったようにも見える。数カ月前のひどく沈んだ様子を思えば喜ばしいことなのか、憐れむべきなのかもうわからないと同時に、自身の中でもどこか大事な感覚が麻痺し始めているのを悟り、背筋が僅かに粟立った。
「場所もさあ、景色いいとこの方がいいかなって思ったんだけどいかにもなとこですんのもなんかな」
「いや、それは……家の方がええんちゃうかな」
「なんで?」
単純にどうしてそう思うのかを聞きたいというように発せられた質問に、危うく真理が口を突いてこぼれ落ちそうになり、R-指定は口を噤む。それは言えない、言ってはいけない事実で、松永がたった一つ受け入れることを拒んだ事実だからだ。
どこかそわそわしながら自分の返答を待っている松永は、本当に幸せそうだ。たとえそれが、儚く今にも消えてしまいそうなものだったとしても。彼に再びあの事実を突きつけてしまったら、彼の中に今構築されている感情のパズルの最後のピースをはめてしまったら、きっとそこからすべてが崩れて、松永は本当の意味で壊れてしまうかもしれない。
今話しているプロポーズだって、あんなことが起きなければ心から祝福してやれたのに。どんな言葉で伝えればいいか、どんな場所ですればいいか納得のいく答えが出るまでひとしきり一緒に考えてやれたのに。
あれから恒例だった食事会もできていない。今の松永を、磨の相方である潔に会わせることはできないからだ。
どうしてこんなことになってしまったんだろう。どうして磨は——
「あーる?」
「んぁ、ごめん……えっと、磨ちゃんてそういう畏まった場所とか苦手なんちゃうかなって」
「それは確かにそうだな……」
再び考え込む相方を前に、R-指定は今日も“事実”を言えないまま口を閉じた。
「ただいまあ」
「おかえりなさい。思ったより早かったですね」
「おん、俺も思ってたより早く終わった」
家中に漂ういい匂いを辿っていくと、キッチンで潔が夕食を作っていた。最近お決まりとなってきた帰宅の挨拶を交わしつつ、リビングの隅にリュックサックを置く。もう自宅には何日も帰っていない。仕事も、唯一無二の相方も失い塞ぎ込んだ恋人が一人で泣くことのないように。しかしまだお互いに前を向く元気はなく、ゆえに半同棲のような生活が続いている。まったく支障がないと言えば嘘になるが、今はできるだけ彼女の傍にいたかった。
R-指定はリュックサックを置いた足でそのまま窓際へ向かう。設置されているキャビネットの上には、磨の写真が飾られている。その場に腰を下ろし、静かに手を合わせた。
「いつもすみません、ありがとうございます」
「いや……磨ちゃんにも、ちゃんと挨拶したいから」
R-指定がそう言うと、潔は嬉しそうに、だがやはり寂しそうに笑った。
数カ月前の記憶は昨日のことのように覚えており、未だ鮮明に海馬を支配している。
「お疲れ様ですー。どしたんすか、こんな時間に」
『潔。どうか取り乱さずに、落ち着いて聞いてくれ』
「え、なんすか……」
『……磨が、亡くなった』
マネージャーから潔へ伝えられた言葉は、あの瞬間から自分たちのすべての時を止めてしまった。
「取り乱すな」など到底無理な話で、動揺しきった潔の代わりにたまたまその場に居合わせたR-指定がマネージャーから話を聞き、潔を磨の待つ警察署へ連れて行った。
マネージャーの話によると、磨は自宅のエントランスの前で倒れていたところを通行人に発見されたという。胸や腹を何度も刺され、救急車が到着した頃には既に息を引き取っていたそうだ。
「……松永さん」
「……あーる。潔さん」
警察署に到着し霊安室へ案内される。そこには松永がいた。彼は霊安室の扉に手を掛けたまま、入る勇気が持てず立ち尽くしているようだった。
そんな松永を押し退けるように潔が霊安室へ入る。その後に続いて入ると、中央に置かれた台に誰かが打ち覆いを被せられた状態で寝かされていた。昔二時間ドラマで観たような光景はあまりにも現実味がなく、寝かされている誰かが磨であるなどまったく信じられない。赤の他人だと思いたかった。
だが、そんな希望的観測などあっけなく打ち捨てられる。潔が遺体に近づき打ち覆いをめくると、変わり果てた磨の亡骸が現れたのだった。
「磨ちゃん……」
相方でなくとも、恋人でなくとも、自分も磨のことを後輩として愛していた。自分だけじゃない。いつも笑顔で、礼儀正しく、人懐こくて、誰からも愛されていた。決して恨まれるような人ではなかった。それなのに、どうして磨がこんな目に遭わなければならないのか。
そこまで考えたところで、R-指定の心は自身の悲しみから潔と松永へと移る。自分が出会うよりずっと前から親友として、相方として磨と苦楽をともにしてきた潔。恋人として磨を愛し、大事にしていた松永。二人の悲しみは計り知れなかった。
「磨」
潔は静かに磨の頬に触れる。霜夜の風にあてられたそれよりもずっと冷たく、それがもうこの体の中に磨がいないことをより鮮明に潔に思い知らせた。
「……磨、痛かったよね。怖かったね。もう大丈夫だよ、私たちがいるから。だから、目え覚まして」
「潔ちゃん」
「私を、っ、置いてかないで……」
叶うことのない切なる願いは、嗚咽となり霊安室の冷えた空気に溶けていく。R-指定は堪えきれなかった涙を零し、磨の頬を包んだまま泣きじゃくる潔の肩を抱いた。
潔がひとしきり泣いた頃、今度は松永が磨の遺体に近づく。何も言わないまま、表情すら表に出さないまま磨の傍らに立つ松永を見て、R-指定は潔を支えつつ霊安室をあとにした。
声には出さずとも、何か言葉をかけているのだろう。表情には出さずとも、心で泣いているのだろう。愛し合う者同士、しばらく二人きりにしてあげたい。今となっては手遅れな話だが、この時磨と松永を二人きりにすべきではなかった。R-指定はそう思っている。
松永の異変に気がついたのは、磨の通夜と葬儀が執り行われた約3週間後のことだった。彼がいつもの調子で磨との生活の様子を話し始めたのである。昨夜初めて作った献立を美味しいと言ってくれた。自分のまだ作りかけのトラックをかっこいいと言ってくれた。婚約指輪を受け取ってくれた。まるで磨が今も生きているかのように話す松永に最初は狼狽せざるを得なかったが、きっとそれが彼の悲しみから目を背けられる唯一の逃げ道だったのだろう。そう推測したR-指定は磨がもうこの世にいない現実を突きつけるようなことはせず、松永に合わせて話をしてやっていた。
やけに明瞭に語られるその内容に、松永は自宅でどう過ごしているのだろうと心配になり、ある日仕事終わりに彼の家を訪ねた時、未だそこに住まう磨を目の当たりにしたのだった。
「ほら、磨さん。あーるが遊びに来たよ」
「……松永さん。それ、は」
愛おしむように“それ”に話しかける松永を見て眩暈がする。一体いつ、どこで手に入れたのか。棺に入れられている状態では隠れていたため誰も気がつかなかったのだ。
目の前に広がる異様な光景に、R-指定はただ立ち尽くすことしかできなかった。
「もうそろそろ七七日ですね。磨はあっちに行っちゃうのか。寂しいなあ」
「うん……」
「……野上さん、どうしたんすか? 何かあったの」
「いや、その……」
まだ前に進めずとも、少しずつ磨の死を受け入れようとしている潔に、松永のことを伝えるべきなのだろうか。相方だけを置いていき、自分たちだけが前に進もうとするのもどうなのか。R-指定の心は揺れていた。
「何かあったなら、話してください。聞きますから」
寂しそうに見つめる潔の瞳が自分を射抜く。R-指定は深呼吸を一つしてから、潔の目を見返した。
「……松永さんがな、磨ちゃんの」
R-指定の話を聞き、潔は絶句した。松永も相当のショックを受けていることはもちろん悟っていたが、やっていいことと悪いことがある。松永本人はそれで満足していても、あまつさえ磨を傷つけ、そして未だ縛りつけているようなものである。到底許せることではなかった。
「……野上さん、明日松永さんの家に行きましょう。これじゃいつまで経っても、磨もあっちに行けないだろうから」
「……うん、そぉやな」
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翌日、潔とR-指定が松永の自宅を訪ねると、彼は嬉しそうに二人を出迎えた。
「磨さん、あーると潔さんが遊びに来たよ。嬉しい? 潔さんとはあれから会えてなかったもんな」
リビングに入るなり、松永はダイニングテーブルに置かれた瓶に話しかける。中には青紫色に染められた細長い何かが入れられ、底に指輪が沈んでいた。
これがあるから、磨は安心してあの世へ行くことができない。松永も前に進むことができない。潔は松永を諭すように声をなるべく荒げないよう努め口火を切った。
「……松永さん、それを渡してください」
「それ、って何。磨さんのこと物みたいに言うなんて潔さんらしくないじゃん」
「それは磨の一部であって磨じゃないです」
「磨さんだよ。わかんないの?」
「磨は、亡くなったんですよ」
今まで松永に言えなかった事実を潔が率直に突きつけたことに対して、いささか肝を冷やしつつR-指定は松永の挙動を見守る。取り乱したらどうしよう。最悪松永まで磨の後を追おうとしてしまったら。だがそんな心配はよそに、松永はR-指定も潔も予想していなかった言葉を口にした。
「わかってるよ。そんなこと」
「え……?」
「でも俺には磨さんが見えるし、声も聞こえる。ここに磨さんがいるから」
松永は愛おしそうに瓶を取り、その腕で包み込むように抱きしめた。
あの日のことは一度も忘れたことはないし、この先一生忘れることはできないだろう。
あの日はいつも伝えてくれる帰宅時間を過ぎても磨が帰ってこなかった。今日は大事な話があると伝えていた松永は、準備もそぞろに携帯電話を何度も見返すが、帰宅が遅れる旨の連絡はない。
交際を始めて3年。同棲を始めて2年半。お互い仕事も歳も順調に重ね、そろそろこの先二人で生きていく約束を交わすよい頃合ではないか。数日前そんな考えに至った松永は磨の秘密裏に約束の前置きを用意したのだった。きっと承知してくれる。そう思いながらもやはり不安がないわけではなく、ビロード張りの箱に仕舞われたそれをお守りのように握りしめた。
何か必要なものを思い出し、コンビニエンスストアに寄り道でもしているのか。そうでなければ、何かあったのか。連絡を寄越しても一向に返事はなく、痺れを切らし迎えに行こうと上着を羽織ったところで、外からつんざくような悲鳴が聞こえた。驚いて窓の外を見ると、エントランスの前に誰かが倒れており、その横でまた見知らぬ誰かが震えながら電話をしている。倒れていた二人のうち、一人は今朝仕事へ向かった恋人と同じ服を着ていた。
違う。あれは石橋さんじゃない。たまたま同じような服を着た人が、たまたま自宅の前で倒れているだけ。そう自分に言い聞かせながらも家を飛び出しそこへ向かう。だが、松永の願いを打ち壊すようにエントランスに到着した彼の前に現れたのは、大量の血を流しながら倒れる磨の姿だった。
霊安室で磨の亡骸に縋って泣く潔とR-指定を眺め、松永は先ほど警察から受けた説明を思い出していた。磨を殺したのは一緒に倒れていた男で間違いなく、そいつも既に死んでいたらしい。後日わかった話だが、部屋から遺書が見つかり、そこには彼が元々磨のファンであり、いき過ぎた恋心の末の犯行であることが窺える旨が記されていたという。
潔とR-指定が霊安室をあとにしてから、松永は上着のポケットから指輪を取り出し、磨の薬指に通した。眠っている隙にサイズを測り、どんなものが似合うか店で幾度も吟味を重ねたそれは、磨の薬指にぴったりと収まり、派手すぎないデザインが彼女の細い指によく似合っている。
欲しい。そう思った。この指は磨が自分の愛する人である証で、自分が磨と生きていきたいと決意した証なのだ。数日後には磨は火葬され灰になってしまう。すぐにでも行動に移さなければならない。そう思い立った松永は自宅へ戻り、準備を始めたのだった。
警察署で数日安置されたあと、通夜と葬儀、そして火葬。警察署や納棺前ではすぐに知られてしまう。誰にも知られずにことを運ぶには、葬儀と火葬場への出棺の間のほんの短い時間を狙うしかなかった。喪服にナイフを忍ばせ、その時間が来ると松永は暫し二人きりにしてほしいと葬儀社の人間に伝えた。二人きりになった葬儀場で手早く棺を開け、綿を剥がし、磨の左手を取って薬指のみを切り落とした。冷たく血の通っていない指から出血することはなく、ホッとしたのをよく覚えている。布に包み、火葬と骨壷へ収められるのを見送ってから大事に持って帰った。
問題は、どう保管するかだった。そのままにしていればいつか腐敗してしまう。何かよい方法はないかと思案していた時、磨が好きだと言っていたあるものを思い出した。透明骨格標本である。いつか二人で水族館へ行った時、売店で売られていたそれに目を輝かせていた彼女を思い出す。きっとこれなら、喜んでくれるに違いない。だが基本的に魚で作られるこれを、人間の体の一部で作ることなどできるのだろうか。松永はすぐに作成方法を調べて必要なものを購入し、入念に予行練習を重ねてから作成に取り掛かった。
まずは薬指を綺麗に水洗いし、10倍に稀釈したホルマリン液に漬ける。3日置いて交換しながら1日水に入れ、皮膚を剥いでから軟骨染色液に1日入れる。この染色の工程が、松永にとっての鬼門だった。磨のこんばらりあとしてのイメージカラーであり、彼女が一番愛した色である青紫色に染めてやりたかったのだが、染色液の調節が上手くいくか不安だった。
まずは軟骨の染色を行う。アルシャンブルーの量を調節し、軟骨染色液を作って薬指を入れる。どうなっているか不安に思いつつ、翌日エタノールに浸しながらまた色素の染まり具合を調節した。その後2週間かけて筋肉部分の透明化を行うと、深い青色に染まった軟骨が姿を見せる。鬼門の一つが無事に終わり、松永は胸を撫で下ろした。
最後の鬼門が硬骨の染色である。アリザリンレッドの量は少なめにして、染まり具合を確認しながら増やしていった。こうして付きっきりで見ていると、いつか磨が体調を崩した時を思い出す。あの時も、一晩中彼女の様子を気にして、氷枕を作ってやったり、汗を拭いてやったりと看病したものだ。
翌日染めあがったものを見て、松永は歓喜した。磨の細く美しい指は、彼女が愛したとおりの深い青紫色へと変化していたのだ。グリセリン処理を施し、仕上げに彼女の指輪を入れた。本当は指にはめてやりたかったが、標本に触ることはできないため、致し方ない。
完成した標本を松永は肌身離さず傍らに置いて生活した。最初はそれを磨に見立て色々と話しかけていたが、ある日を境に松永の目には瓶に入れられた薬指の標本ではなく、薬指に指輪をはめた磨自身が見えるようになったのである。彼女は生前と何も変わらない笑顔で自分の話に笑い、自分を慈しみ愛してくれる。あの日止まってしまった時が再び動き出したようだった。やはり自分のしたことは間違っていなかった。磨はあの男に連れていかれることなく、自分の元へ帰ってきてくれたのだ。
「やっぱ磨さんは、俺にしか見えないんだ。寂しい? うん……でも磨さんには俺がいるから、大丈夫だよ」
悲しそうに目を伏せる磨に優しく声をかける。結局潔は最後まで自分には見える磨の存在を認めてはくれず、先の話を聞かせたら取り乱し嘔吐してしまった。とてもじゃないが話ができる状態ではなくなり、R-指定が連れ帰ったのだった。
相方に存在を認めてもらえないのはさぞ寂しいことだろう。自分だけがいればいいなんて思わない。磨がいろんな人に愛され、磨もまたいろんな人を愛していることを自分は誰よりも知っている。それでも、せめて自分だけはずっとそばにいることで少しでも安心してほしかった。
「……ねえ、磨さん。その……俺と、結婚してくれませんか」
松永がそう言った瞬間、磨は目を見開いてから悪戯っぽく笑った。
「結婚したいから、指輪受け取ったんだよ?」
「まあそれはわかってんだけどさ、まだちゃんと言えてなかったから改めて言っておかなきゃって」
「意外とそういうとこ真面目だよねえ」
「意外とって何……じゃなくて、ねえ。返事は」
耳を赤く染め、いじけたように口を尖らす松永の左手を包み、磨は嬉しそうに微笑みながら頷いた。
「もちろん。ずっと一緒にいようね、邦彦さん」
「……うん」
人生で最も幸せな瞬間である。婚姻届を提出することも、結婚式を挙げることもできないが、彼女と一生を生きる約束を交わすことができるなんて、夢のようだ。もう身分不相応などとは思わない。自分が磨を選び、磨もまた自分を選んでくれたのだから。
「磨さん、好きだよ。すげえ好き」
「私も、邦彦さんが大好きよ」
薬指を手に取り、口づけを落とす。沈んだ指輪が、瓶底の縁に当たりカラ、と小さく音をたてた。