たりないふたり
夢小説設定
この小説の夢小説設定二人組シンガーソングライターユニット「こんばらりあ」
マネージャー→東海林(40代男性)、木野(20代女性歳下)
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6月。12カ月ある中で唯一四季から外れた月。梅雨という夏ほど暑くはないが、春ほど涼しくない気温と湿気が活気を奪い、髪が必要以上にうねる月。これ以上何を洗い流せば気が済むのかと思えてくるほどに空が潔癖になる月。人々からは忌み疎まれる月。それがR-指定にとっての6月というものだった。だが、今年からは違う。
6月生まれであることに触れた時、彼女も同じようなことを言っていた。そして、陰気でいつでも外れ者だった自分にはお似合いの月だ、とも。今年はそんな彼女との関係が恋人に変わって初めての、彼女がこの世に生を受けた日を迎えるのである。
仕事柄互いに有給休暇など存在するはずもなく今日もそれぞれ稼働があるのだが、それが終わった後二人で会おうと約束をしている。こういったことに気を回すことが不得手な自分にしては珍しく、飲食店の予約を済ませ、プレゼントも用意した。リュックサックに大事にしまってあるそれを彼女が受け取った時の顔を想像して、R-指定は笑みを浮かべた。
「あーる、なんでニヤニヤしてんの? なんかキメた?」
「ばかたれ。キメてへんし笑てへんわ」
「いや笑ってたよ。自覚ねえのやべえって」
喜ぶ彼女のイメージは隣に座る相方の声によって掻き消される。R-指定は相方——松永を睨んで再度脳内の彼女を呼び戻そうとするが、うまくいかない。
「何考えてたの、今」
「べつに……これ終わった後のこと、考えてた」
「今日だもんな、誕生日」
他の出演者に聞こえぬよう、松永は声を潜めできるだけR-指定に近づいて話す。幸い、スタッフの準備のやり取りや出演者同士の会話の喧騒に紛れ、二人の内緒話に気がつく人物はいない。彼もまた、相方の恋人であり同じ事務所の仲のいい後輩でもある彼女に先ほど誕生日を祝う旨のメッセージを贈っていた。
「おん、もう準備は完璧よ」
R-指定の想像は今いるテレビ局からほど近い広場での待ち合わせまで巻き戻る。まずお祝いの言葉を贈り、店までエスコートして、食事をして、プレゼントを渡して——彼女の嬉しそうな笑顔が脳内で返り咲き、また笑みを浮かべた。店の予約、プレゼントの用意、シミュレーション、やはりすべての準備は完璧である。
「出演者の皆さん、すみません——」
今度はひな壇の前におずおずと現れたスタッフの声によって妄想は再度遮断される。あかん、今はこっちに集中せな。とR-指定は軽く頭を振り、己の意識を目の前の仕事へと切り替えた。
「磨、もう行くの?」
「うんー。この後、待ち合わせしてるんだ」
レコーディングを終え、誰よりも早く荷物をまとめる磨に声をかける。待ち合わせ、という言葉を聞くなり潔は笑みを浮かべた。今日は磨の誕生日である。そんな彼女が今日、自分以外の誰かと待ち合わせをしているとなると、相手は一人しかいない。
「いいねえ〜。どこ行くの?」
「まだわかんないんだよね。行ってからのお楽しみ、だって」
今日の約束を交わした際の彼の台詞をそのまま真似ながら、磨は彼を思い出す。自分から内緒にしておきながら、早く言いたくて仕方がないような声色が可愛らしいと思ったのをよく覚えている。
磨も磨で、数年ぶりの恋人に祝ってもらう誕生日を楽しみにしていた。我ながら年甲斐もないとは思うのだが、自分がこの世に生を受けたことを祝ってもらえるというのは、やはりいくつ歳を重ねても嬉しい。それが想い焦がれる恋人であれば尚更である。彼は今日、どこへ連れて行ってくれるのだろう。どんな行程を考えてくれたのだろう。正直どこへ連れて行ってもらおうが、何をしてもらおうが嬉しい。彼が自分のために時間を割き、どこへ連れて行こうか、何をしようか考えてくれたことが何より嬉しいのだ。
「お楽しみか……気になるな。明日レポよろしく」
「あはは、はいはい」
「あ、磨。明後日仕事終わり時間ある?」
「うん、あるよ」
「毎年恒例のやりましょうや」
“毎年恒例の”とは、お互いの誕生日プレゼントを購入する二人だけの行事のことを指す。その年欲しいものを二人一緒に店へ行き、一緒に吟味する。年に一度ずつのお楽しみである。悪戯っぽい笑みを浮かべる潔に、磨もまた同じような笑みを返した。そういえば、今年は何が欲しいかまだ決めていない。明後日までに考えておかねば。
「おっ、やったぁ〜! 楽しみにしてるね。じゃあまた!」
「うい〜、楽しんでおいで。お疲れ」
廊下にいるスタッフたちにも挨拶をしながら、磨は軽やかにスタジオをあとにし待ち合わせ場所へと急いだ。
「あーる」
「……」
「おい、あーる」
「んぁ。あ、すまん……どした?」
「お前貧乏ゆすりやばいよ」
「え、まじ? すまん……」
相方の足がいつもより多めに床を叩いているのを見かねて松永がやんわりとそれを指摘する。癖であるゆえか、幸いR-指定の感情の機敏を気取っている人物は彼以外にいないようだった。
「大丈夫? 結構時間やばいの」
「おん……まあまあやばい」
R-指定は非常に焦っていた。
収録開始時間が大幅に押している。原因は機材のトラブルらしく、スタッフが申し訳なさそうにそれを自分たち出演者に説明をしてから早1時間。未だ解決には至っていないらしい。自他ともに認める遅刻魔であるゆえに普段なら特に焦ることもなく待っているのだが、今日は違う。磨との約束の時間が刻々と迫っている。たとえ今再開したとしても、終わる頃には急がないと遅れてしまう時間。いつものデートでは先述の遅刻魔ぶりを遺憾なく発揮しているR-指定だが、今日はどうしても遅れたくないのだ。とはいえ時間がその願いを叶えてくれる確率は極めて低く、せめてもしかしたら遅れるかもしれないと磨に連絡をしたいところだが、あいにく携帯電話は楽屋の中で充電ケーブルに繋がれている。戻ろうにも、周りを見回しても誰も一旦楽屋へ戻ろうとする気配もなく、自分一人だけ席を立ちづらい状況である。
「まあでも、遅刻はお前のお家芸みたいなもんじゃん。笑って許してくれんじゃない?」
「いや、あかん。……俺が、遅れたないねん」
仕事でもその意識を持ってくれるとありがたいんだけどな。と誰よりも彼の遅刻癖に悩まされている松永は胸中でのみ小言を垂れつつ、こいつに「遅刻したくない」と言わせる相手が現れるとは。と少し驚いていた。
同じ事務所の先輩と後輩。そんな間柄だったR-指定と磨の仲を進展させるきっかけを作った立役者が松永である。あの時灯した火が、あの頃よりは落ち着きつつも決して消えることなく暖かく燃え続けていることが、相方の幸せを願う自分にとってはとても喜ばしいことだ。
大丈夫。きっと間に合う。そう言うように松永はR-指定の背中を優しく叩いたが、収録が始まる気配はなく、スタッフが慌ただしく動き回る様子を二人揃って不安そうに眺めていた。
数字は、言い渡された待ち合わせ時間から一回り増えて液晶画面に表示されていた。
「恭平さん、何かあったのかな……」
磨はR-指定とのトークルームを開きつつ辺りを見回すが、彼がやってくる気配はない。遅刻をしてくるのはいつものことなので最初は気にすることなく待っていたのだが、連絡すらないとなるとさすがに心配になってくる。急かしては申し訳ないと思いながらも送信した『何かあった? 大丈夫?』というメッセージに返信はなく、既読もつかない。
R-指定を待ちつつ、磨は今までの9カ月をともに過ごしてきた彼に思いを馳せる。ラブストーリーの書き下ろし主題歌という、自分にとって深刻な無理難題を乗り越えさせてくれたのはR-指定だった。誰よりも優しい彼への、苦しくて、心地よくて、優しい、恋心という大きすぎるおまけまで与えて。今までの経験などすべて忘れてしまったかのように初心だった自分を受け入れて、ゆっくり時間をかけて向き合ってくれた。ラジオが終わって深夜に帰宅するのは彼も同じなのに、こんな時間に女の子を一人の家に帰すのは心配だから、と週一回家に泊めてくれた。今思えば互いに忙しくなかなか時間を作れない身であるゆえに、必ず顔を合わせる機会を作りたかったのかもしれない。どちらだとしても、とても嬉しかった。
R-指定の優しい笑顔や言葉、仕草が磨の心を満たしたところで、彼に会いたい。と強く願った。どこにも行けなくてもいい。何もできなくてもいい。特別なんてなくてもいい。ただ彼の顔さえ見られれば、その声を聞ければ、その手に触れられれば、それだけで特別で、自分にとってこれ以上ないほどに幸せな誕生日になるのだから。
「あ、雨……」
ふいに小さな雫が磨の鼻先を濡らす。それは彼女の周りのそこかしこにも落ちて地面を深い色に染めあげ、石畳が濡れるような独特の香り——ぺトリコールが辺りに立ちこめる。それを嗅ぎながら、磨は今朝の天気予報で「夜はところによりにわか雨が降るでしょう」とキャスターが言っていたのを思い出した。彼は、その予報を知っているだろうか。ちゃんと傘を持って出かけただろうか。いや、考えずとも答えはわかっている。寝坊助な彼はきっと、天気予報も見ていないし、ドア脇の傘立てなど目もくれずに大慌てで出発したのだろう。大きめの黒いリュックサックを揺らしながら走る背中を思い浮かべながら磨はふふ、と笑みを漏らし、未だ返事の返ってこないトークルームにもう一つだけ吹き出しを増やす。
『雨降ってきたから、来る時は傘買っておいでね!』
送信されたのを確認してから、磨はバッグから常日頃持ち歩いている晴雨兼用の折り畳み傘を取り出して、街灯と雨が白く濁り灰色に煙る空に向かって咲かせた。
自分の人生において最低最悪の日があるとしたら、間違いなく今日である。R-指定はそう思いながら雨の降りしきる街道を一人走り抜けていた。
結局収録は当初の予定より2時間遅れて再開し、焦燥感に追われながらもなんとか滞りなく本番を終えた。スタッフがそれを告げ挨拶をした頃には待ち合わせ時間どころか飲食店の予約時間も大幅に過ぎ去り、せめて一刻も早く磨に遅れる旨を伝えなければと一目散に楽屋へ戻ったはいいものの、端末に繋げていたはずの充電ケーブルはコンセントが抜けていた。サイドボタンを何度押しても表示されるのはロック画面ではなく無くなりかけた電池のマークのみである。
それだけではない。連絡ができない以上とにかく磨のもとへ向かわなければ、と荷物をまとめていた時、R-指定の気道がヒュッと音をたて、体が硬直した。プレゼントがないのである。今朝確かにリュックサックの中に入れたはずの箱は、何度中身をひっくり返して探しても忽然と姿を消していた。
まずは落ち着けと宥める松永の声すら届かないほどパニックに陥ったR-指定は、そのまま弾かれたゴム毬のように局を飛び出し、こうして傘を買うことも忘れ待ち合わせ場所まで一心不乱に走り続けているのである。
彼女は——磨はまだ自分を待ってくれているのだろうか。年に一度の、彼女が生まれた大事な日を連絡すら寄越さずすっぽかした男に、もう愛想を尽かしてしまったのではないだろうか。やっと待ち合わせ場所に着いたとて、彼女が帰ってしまっていたら。それどころか「もう別れたい」なんて言われてしまったら——今までデートですら散々遅刻を繰り返していた過去の自分を殴りたい衝動に駆られつつそんな最悪の未来が瞬く間にR-指定の心に暗雲を立ちこめさせていく。だがそんなことは彼の足を止める理由にはならない。絶対に彼女は自分を待ってくれている、あの待ち合わせ場所で。きっと。たぶん。そうだと嬉しい。
ほうほうの体で待ち合わせ場所までたどり着き、磨は、彼女はどこに——とR-指定が辺りを見回すと、街灯の下に小さな傘が咲いているのを見つけた。
「磨ちゃん!」
R-指定の声に磨はハッと顔を上げる。先ほど思い浮かべた姿と同じ、大きめの黒いリュックサックを揺らしながらこちらへ走る彼を見て顔を華やがせたのも束の間、磨もまた慌ててR-指定に駆け寄った。
「恭平さん、傘は!? びしょ濡れじゃない」
「え、あ……買うの忘れとった……」
磨はR-指定を自分の傘に入れ、バッグからタオルハンカチを取り出して彼の頬に幾筋も流れる水滴を拭う。だがそんな彼女の足元もまた雨で濡れており、地面に落ちた雨粒に跳ねらかされた砂利がまばらに模様を作っていた。
「磨ちゃんやって足ぐしょぐしょやんか。ごめんな待たして……連絡もせんで……」
「いいんだよ。何かあったとかじゃなくてほんとによかった……機材トラブルに充電切れ。災難だったねえ」
磨がずっと待っててくれたこと、そして怒ってもいないことに胸を撫で下ろしながらもやはり申し訳なく、何から釈明したらいいのかわからず口ごもっていると、彼女はまるですべて見ていたかのように先ほど自分が見舞われた災難をさらりと言ってのけた。どうして知っているのだろうか。
「え、なんでそれ」
「松永さんがさっき連絡くれたの。怒らないでやって、って」
「ああ、そぉか……」
心の中で相方に感謝しつつ、なるほどそうかと納得した。松永も磨の連絡先を知っているのだから、自分の携帯電話の充電がないことに気がついた時点で代わりに連絡をしてもらうべきだったのだ。おかげで磨を自分が来るのかどうかわからない不安な状態で、随分な時間待たせてしまった。それなのに、磨はR-指定を責めることもなく「やっぱハンカチじゃ拭ききれないね、ごめん」なんて笑いながら謝っている。
「で、でも俺、店間に合わんかったし、その……プレゼントも、忘れてしもて……」
「お店予約してくれて、プレゼントまで用意してくれてたんだ」
「当たり前やん」
「ありがとう、すっごく嬉しい。でも私、今はお店とかプレゼントより、恭平さんがなりふり構わずまっすぐここに走ってきてくれたのが何より嬉しいの。ごめん、してもらう側が「より」なんて言っちゃだめだよね」
「い、いや……そんなんええんよ、全然」
自分がここに来ただけで嬉しいと笑う磨を抱きしめたい衝動に駆られるが、今の自分が触れたら彼女も濡れてしまう。もどかしい気持ちを抱えつつ、R-指定はさあどうしようとこの後の予定について頭を巡らせる。あと3時間ほどで今日は終わってしまう。それまでになんとか、彼女の誕生日を祝いたい。だが店はもう行けないし、プレゼントもない。一体どうしたら——
「と、とりあえず……俺んち、行く?」
自分でもうんざりするほど色気のないプランではあるが、リュックサックに入れたはずが消えたプレゼントは間違いなく自宅にある。プレゼントだけは渡すことができる。それに、こうして話している間も雨足が弱まる気配はない。雨の中2時間以上も待たせたうえにここで話し込んで風邪をひかせてしまうなど以ての外である。
「いいの? 行く!」
周辺の道路にタクシーが通りがかる様子もないので、とりあえず見つかるまで歩こうとR-指定の自宅がある方向へ進むが、磨は不思議そうに足を止める。どんなに傘を向けても、彼が中に入ろうとしないのだ。
「恭平さん、どうしたの? 傘入って。風邪ひいちゃうよ?」
「ああいや、俺入ったら磨ちゃん濡れてまうから……」
近づけばずぶ濡れの自分が磨に触れてしまう。遠ざかれば優しい磨は肩が濡れることも厭わず自分をすっぽり傘に入るようにしてくれるだろう。自分はどうせもう全身濡れているのだ。タクシーを拾うまでの間そのまま歩いていても大して変わらない。R-指定のそんな考えを読み取った磨は、きっと自分が何を言っても彼は頑なに傘には入らないだろうと悟った。
「……じゃあ、私もいいや!」
「えっ?」
「あはは! 冷たくて気持ちいい」
R-指定が止める間もなく、磨は傘を閉じて雨を全身に浴びた。雨は瞬く間に彼女の服を濡らし、その髪をより深い濡れ羽色に染めていく。夏が近いといえど6月の夜はまだ涼しい。R-指定は慌てて磨の傘を取ろうとしたが、彼女は逃げるように走り出してしまった。
「磨ちゃん! 風邪ひくよ!?」
「そうだね。このままだと風邪ひいちゃう」
それならどうして、と言いたげなR-指定のことを磨は足を止め、可笑しそうに見つめた。
「恭平さんのおうちに着いたらすぐお風呂に入れてもらって、服も洗濯させてもらわなきゃ。全部やってたら随分夜遅くなっちゃうね」
「う、うん……」
「だから今日泊めて! ……それで、一緒にいてよ。朝まで」
この気持ちを、なんと言葉にしたらいいのだろうか。形容しがたい気持ちが満ちて胸が苦しくなり、なんとか言葉にして落ち着かせたいと思うものの、考えている暇などない。早く了承したい。この彼女の世界一可愛らしい我儘を、一刻も早く受け入れたいのだ。
「……おん、わかった」
濡れて街灯の光が反射し、宝石のように光る道を二人雨に打たれながら帰る。そこでやっとR-指定は、今日のうちに、日付が変わる前に伝えるべき気持ちを思い出した。
「磨ちゃん」
「うん?」
「誕生日、おめでとぉ」
愛する人の心からの祝福に、磨は心から嬉しそうに笑う。その笑顔はまるで、天からの恵みを受けて輝きながら咲く紫陽花のようにR-指定の目に映った。