my sweet heart
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一週間後、ハルは追い詰められていた。
次の仕事へ繋げるためと意気揚々音楽番組のプロデューサーとの会食へ赴き、期待どおり彼はまた別の番組への出演をちらつかせてきたのだが、その代わりに条件をつけてきたのだ。
「ハルちゃんもさ、そろそろ仕事の取り方を覚えないと……ね?」
わざわざ隣に移動して体を密着させ、自分の手の甲を撫でてくる。その粘りつくような手つきに背筋が粟立つ。主語は絶対に言わないが彼の突きつける条件が何なのかわからぬほどハルは鈍感ではない。次の仕事が欲しければ、自分と関係を持てと言っているのだ。いわゆる枕営業を強いられているのである。
ハルは引き攣りまくった顔で「へへぇ……」と空笑いしながら、この状況からどう脱しようか思考をフル回転させていた。自分の音楽ではなく体を売るなど絶対に嫌だし、好きでもない男に抱かれるのもまっぴらごめんだ。だがここで真っ向から拒否すれば彼を怒らせてしまうだろう。こんな人間だが地位はあるし、芸能界での顔も広い。恨みを買ってもしあることないことを吹聴されてしまったら、ナツやマネージャーをはじめとするスタッフ、事務所、果てにはファンと、自分を支えてくれている皆に迷惑がかかってしまう。
ここは誰かに助けを求め、この場からお暇せざるを得ない状況へと持っていかなければ。
ナツ——は駄目だ。今絶賛収録中である。そもそも最愛の相方をこんな場に来させたくない。マネージャーもよろしくない。東海林はナツに付いてテレビ局にいるだろう。木野は休みだろうが、女性であり自分よりも歳下だ。ナツと同じくこんな場に来させたくない。それに、マネージャーを呼ぶなど面と向かって嫌だと言っているようなものだ。呼び出しという体にすればいけなくもないかと思うが、この状況を説明する暇が作れるか些 か自信がない。
そうこう考えている間にもプロデューサーの手は自分の手の甲から腿に移り厭らしくなぞりあげてくる。ハルは全身の毛穴が開きっぱなしだ。もう嫌だ。仕事に一生懸命なだけなのに、どうしてこんな目に遭わなければならないんだ。もう帰りたい。これがせめて想いを寄せる相手だったら、体に熱が灯り思わず声を漏らしてしまったり、こんな生きるか死ぬかの瀬戸際ではなく、このまま身を任せて情を通わせるかまだ焦れるか、駆け引きに右往左往するだろうに。
気色悪さと恐怖が綯い交ぜになってもはや泣きそうになった時、ハルの脳内に一縷の希望がもたらされたように、太陽のような明るい笑顔が思い浮かんだ。
「ちょ、ちょっと私、御手洗行ってきますね〜」
渋るプロデューサーからなんとか逃げ出し御手洗に入った瞬間ハルは鈴木とのトークルームを開く。文面を考えている時間などない。長引けば怪しまれるだろう。手早く一言のみのメッセージと店の位置情報を送信する。どうか来てくれますように。でもなぜか、彼ならすべてを知らずとも必ず来てくれるような気がした。
このまま帰ってしまいたい気持ちを押し殺しながら個室へ戻ると、プロデューサーは待ってましたとばかりにまた自分を奥へと追いやる。その時ポケットに入れていた携帯電話が震えたが、返信の内容も、鈴木からの返信なのかも確認できない。祈るようにポケットに触れ、席についた。
ハルが枕営業の恐怖に打ち震えていた頃。鈴木は行きつけの店で友人と会話に花を咲かせていた。夜も更けていく時分、体内のアルコール度数も上々、話題は専 ら恋の話で、鈴木は名前を伏せつつハルについて話す。逢瀬を重ね、少しずつ自分に心を開いていってくれている彼女が可愛らしくて仕方がない、と緩みきった頬を気にすることもなく惚気る鈴木を眺めながら、年齢柄最近はこういった話題に乏しい友人も楽しそうに頷きつつ耳を傾ける。いつ答えを訊くんだ。いや彼女が自分から言ってくれるまで待つ。もし付き合ったらまず何がしたい? と話が大いに盛り上がってきたところで、鈴木の携帯電話が震える。個人用トークツールの通知画面には今自分が話していた愛しのあの娘 のアイコンが表示されていた。
「なに、もしかして噂の彼女?」
「そうそう。何かな〜、もしかして次のお誘、い……」
顔認証でロックを解除した瞬間現れたのは『JENさんすみません、助けてください』というメッセージと位置情報だった。
いったい何があったんだ、どういった状況なのかと尋ねたいところだが、いつも丁寧な内容の返信をくれるハルがこんな簡潔なメッセージのみを送信してくるということは、説明している余裕などないのだろう。わからずとも、自分に助けを求めるということは、自分ならなんとかできる事案なのかもしれない。きっと自分を信頼してくれているのだろう。何より彼女が困っている。そんな時に自分が行かなくて、誰が行くのか。ハルからのSOSを見て一気にアルコールが引いた鈴木は、荷物を持って立ち上がった。
「助けてほしいって……ごめん、俺行くわ」
「お、おう……気をつけろよ」
友人の声色にはいくつか意味が含まれているように聞こえた。何か危ないことに巻き込まれるのではないかという心配の色と、まさか美人局ではないかという疑惑の色。親子ほど年齢が離れていることは先ほど話していたのでそう思うのも無理はない。だが、彼女は自分と同じ。音楽に心血を注ぐ人間なのだ。まあ、それはまだ口が裂けても友人には言えないけれど。とはいえ危ないことに巻き込まれるのは自分とハル共々もちろん御免被りたいので、なんとかのらりくらり躱そうと決心しつつ、安心させるように友人の言葉に頷いた。
店を出た鈴木は、ちょうど通りがかったタクシーに飛び乗り、運転手に住所を伝える。できるだけ急いでください、とも。後ろへ流れていく景色を車窓越しに眺めながら緊迫した表情を浮かべる鈴木に、運転手も気を遣って声をかけない。景色から手元の端末に視線を落とした鈴木は、見ることができないだろうと思いながらも、ハルに『すぐ行くね』とメッセージを送った。
「ハルちゃんはどんなところがいい? 夜景が綺麗なところ? それともベッドが大きいところがいいかな?」
ハルが鈴木に助けを求めて10分。首を縦には振らないが拒絶もしないハルを追い詰めるようにプロデューサーが逢瀬の終着点ともいえる場所のホームページを開き、これから行く場所を吟味していた。端末の画面を見せられてもハルは乾いた笑いと冷や汗を出し続けることしかできない。もう恨まれる覚悟で拒絶するしかないのか。すべてを諦めて抱かれるしかないのか。鈴木はメッセージを見てくれたのだろうか。あわよくば、こちらへ向かってきてくれていたりするのだろうか。
もはや万事休す、煮え切らない態度のハルにいい加減痺れを切らしたプロデューサーがそろそろ「はい」か「YES」と答えないと許されない問いかけをしようとしたところで個室の扉がノックされた。追加の注文はない。まさかと凝視した先、左隣の少し苛ついた声色の返事とともに開いた引き戸から覗いたのは、太陽のようと喩 えたあの笑顔だった。
「あー! 一ノ瀬さん! お久しぶりでーす。あれ、ハルちゃんも?」
「JEN!? なんでここに」
「お店入ったら店員さんが一ノ瀬さんいますよーって教えてくれたんでご挨拶と思って! せっかくだから一緒に飲みましょ〜」
鈴木はハルに密着して座るプロデューサーを見てははあと合点がいったように内心頷く。裏では女癖が悪いことで有名な男だ。新人の、それも人当たりがよく断るのが苦手そうな娘 ばかりを狙う悪質極まりない奴である。
狼狽えるプロデューサーの様子を意に介さず、すべてを察して彼の隣に座った鈴木は、ハルと目が合った一瞬だけ優しい笑みを浮かべ、彼と自分の酒を店員に注文した。
そこからはまるで魔法のようであった。鈴木はいつの間にかハルをプロデューサーの隣から向かい側に移動させ、終始笑顔で彼に酒を飲ませ話し続けていた。
プロデューサーは完全に鈴木のペースに呑まれ、彼の話に気を良くし、絶え間なく運ばれてくるグラスをことごとく空にして最後にはすっかり泥酔していた。気がつけば鈴木はそんな状態の彼からなんとか住所を聞き出しタクシーに押し込んでいる。
遠ざかっていくタクシーを見送ったところでやっと心を支配していた恐怖心から解放され、ハルは地面にしゃがみ込んだ。そんな彼女を心配して鈴木はすぐさま隣にしゃがみ背中をさする。
「ハルちゃん大丈夫? 気持ち悪い?」
「いえ……なんかホッとしたら力が抜けちゃって……急に呼び出して巻き込んでしまって、すみませんでした」
「謝らないでよ〜。むしろ俺に助け求めてくれてありがとね、間に合ってほんとに良かったよ」
立てる? とハルの手を自分のそれで包み、引っ張り上げてくれる。前にも触れたその温もりに安心したのか、ハルの目から涙がこぼれた。それは止まることなくみるみるうちに頬を濡らしていく。だめだ。散々迷惑をかけたのに、また困らせてしまう。泣き顔を見せまいと俯いて震えるハルを見て、鈴木はまた心配そうに眉根を寄せた。
「ハルちゃん? やっぱ気持ち悪い?」
「いえ……っ、だいじょぶ、です」
震える声だけは隠しきれず、ハルが体調を崩してしまったのではないとわかってしまった鈴木は、そっと彼女の頭に手を置いた。
「俺が来るまでよく頑張ったね。怖かったでしょうに」
「う……、怖かった、っ、こわかった、」
「うん……もう大丈夫だからね」
自分の胸に縋りつき、子供のように泣きじゃくるハルをどうしていいかわからず、おそるおそるその小さい肩を抱く。さてこれからどうしよう。家まで送ってやるのが一番良いのだろうが、今はまだ彼女を独りにしない方がいい気もする。かといってまだお付き合いしていない想い人の家にお邪魔するのも気が引ける。どちらがハルにとって最良か選択できない鈴木は、ずるいと思いつつ目の前でまだ鼻を鳴らしている彼女に判断を委ねることにした。
「ハルちゃん、家まで送るよ。それとも、どこか落ち着けるとこ行く?」
「……まだ、じぇんさんに、いっしょにいてほしいです」
化粧を気にしつつ涙を拭ったハルは、鈴木の目をうまく見ることができないまま俯きながら彼の上着の袖を握った。
「どう? ちょっと落ち着いた?」
今となっては二人の逢瀬の場となった新宿の秘密基地。いつもの席はいつしかあの窓際からこの店に1つだけある個室に変わっていた。
席についてから今まで、鈴木はずっと当たり障りのない話をしてくれていた。最近の出来事やメンバーとの会話など、ユーモアも交えて話されるそれらにハルが少しずつ笑顔を取り戻し始めたところで、鈴木が小首を傾げる。
「はい……すみません、気を遣わせてしまって」
「もう〜また謝ってるし戻ってる! 顔が! 気にしなくていいんだよ」
「……どうして、来てくれたんですか。一言「助けてください」としか言えなかったのに」
ハルはまた鈴木から目を逸らし、手元に置かれたグラスの中を泳ぐ氷を見つめながら呟いた。
あの時鈴木が目の前に現れてくれた時からずっと気になっていたのだ。自分が助けを求めた時、何をしていたのかも知らない。さすがに仕事中ではなかったとは思うが、自宅で貴重な休日を過ごしていたかもしれないし、友人などと会っていたかもしれない。
自分はもちろん鈴木が来てくれたおかげで九死に一生を得たわけだが、自分の都合で彼の時間を奪い、迷惑までかけてしまったことが申し訳なくて仕方がなかった。
「そりゃあ、好きな娘 が困ってたら助けたいじゃない? ハルちゃんこそ、どうして俺に連絡してくれたの?」
鈴木も鈴木で、仮説はたてていたもののどうしてハルが自分を呼んだのか気になっていた。相方である星川やマネージャーは呼べなかった事情があったのだろうが、快活な彼女のことだ。他に親しい友人などもいるだろう。
「JENさんは、全部説明できなくても、私を信じて来てくれるんじゃないかって、思ったんです。どうしてなんて訊いといて何ですけど」
「そっか」
「……あと、一ノ瀬さんに触られた時、この相手が好きな人だったらって思った時。JENさんが思い浮かんだから、です」
「えっ」
「助けてくださって、ありがとうございました」
やっと謝罪よりも欲しかった言葉をもらえたというのに、もはや鈴木はそれどころではない。ありがとうの前、ハルが言った一言は不意打ちの如く唐突で衝撃的で、鈴木は思わず身を乗り出した。
「ハルちゃん」
「はい」
「もう1回言って」
「助けてくださって、」
「その前!」
「……い、言いたくないです」
感謝の言葉とともに下げられた頭は未だ上がらず、ハルの表情は窺えない。
「言って、ハルちゃん……お願い。一生のお願い」
懇願に見せかけた甘い声色は、脚の間に置いているはずの手をまた包み込まれているような心地がする。ハルは顔に集まった体中の熱を逃がすこともできないまま鈴木の顔を上目遣いで盗み見ると、いつになく真剣な、それでいてあちらもまた体中の熱を集めたような瞳をしていた。いったいどうしてこの人は、プレゼントのリボンを1本ずつ丁寧に解くように人の心を開くのが上手いのだろう。言わなければと身構えずとも、こちらが想いを伝えたくなってしまうほどに。
いや、言い出したのも、伝えたくなったのも私か。
「……い、言い方を、変えます」
「うん」
「わ、私は……JENさんが、好きです」
「……うん」
「私じゃ釣り合わないって、わかってるけど、でも……ちゃんと、自信もってJENさんの隣に立てるくらい大きくなるから、今日みたいなトラブルも自分でなんとかできるくらい大人になるから……根気よく、お付き合いいただけませんか」
自分と鈴木の間に開いている差は、現時点ではやはりどうしても埋められない。だが年齢はともかく積み上げてきたものに至ってはその差を憂うより、自分を奮い立たせる発条 にし、いつか相方とともに彼ら——彼と肩を並べられるほどのアーティストになろう。そう思えば、きっと心のまま鈴木を大事に愛することもできるはず。というのがハルの出した結論だった。
相変わらずハルは顔を上げない。だが逢瀬を重ね、さまざまな心の動きを見てきた鈴木には、彼女が今どんな顔をしているか想像に難くなかった。きっとあの日と同じ色の頬をしているのだろう。いったいどうしてこの娘 は、自分のいっぱいいっぱいの心を惜しげもなく、一生懸命に晒してくれるのだろう。愛おしい。釣り合わない、などとまったく思っていないが、これから先彼女はきっと、何万人もを相手にその心を歌声にのせて届けるアーティストになる。それこそ、うちのヴォーカリストのように。後者に至っては成る必要もない。
「……大人にならなくてもいいよ。この先困ったことがあっても、何度だって助けるから。だから、俺のそばにいてくれる?」
「……っは、はい」
鈴木は内心その場でガッツポーズでもしながら雄叫びをあげたいのを抑えつつ、カーテンのように表情を覆うハルの横髪に触れ、その赤く染まった耳にかけた。
「ねえ、いつから俺のこと好きになってくれたの?」
きっと、自分と一緒だろう。今までのハルを見ていればそんなことは最初からお見通しなのであるが、もっと彼女に自分のことを考えて欲しくて、自分でいっぱいいっぱいになって欲しくて鈴木はつい意地悪をしてしまう。
ハルはハルで、そんな鈴木の悪戯心を見透かしていた。
やられっぱなしは性に合わない。この際すべてぶちまけてしまえとこちらも悪戯っぽい笑みを浮かべた。
「そうですね……強いて言うなら、11年前から」
「えっ?」
「初めてドラムを叩く姿を見てから、JENさんはずっと私の憧れで、初恋だったんじゃないかなと」
「……やだぁ、なにそれ〜…… ハルちゃんずるい〜……」
意地悪するつもりが返り討ちに遭ってしまった鈴木はずるずるとテーブルに突っ伏した。ただただ愛らしく初心 な娘 だと思っていたら、どうやらそれだけではないらしい。そんな彼女とのこれからを想像すると愉しくて、悦ばしくて、こちらの方が彼女でいっぱいいっぱいになってしまっているような気がした。
「あー…… ハルちゃん、ごめん」
「はい?」
「もう、もう1回キスしてもいい?」
「一応ここ、公共の場ですけど」
「お願い、1回だけ! 一生のお願い!」
「一生のお願い乱用最短記録では? ……1回だけですよ」
鈴木はドアに向かってメニューを掲げ、短い指摘ののちまた染められた頬に触れた。再度記述するが、ここは個室である。こちらから呼ばない限り誰も入ってこないのだから不要ではというハルの指摘は、ようやく再度重ねられた唇によって声に出ることはなかった。
→アフター会話劇
次の仕事へ繋げるためと意気揚々音楽番組のプロデューサーとの会食へ赴き、期待どおり彼はまた別の番組への出演をちらつかせてきたのだが、その代わりに条件をつけてきたのだ。
「ハルちゃんもさ、そろそろ仕事の取り方を覚えないと……ね?」
わざわざ隣に移動して体を密着させ、自分の手の甲を撫でてくる。その粘りつくような手つきに背筋が粟立つ。主語は絶対に言わないが彼の突きつける条件が何なのかわからぬほどハルは鈍感ではない。次の仕事が欲しければ、自分と関係を持てと言っているのだ。いわゆる枕営業を強いられているのである。
ハルは引き攣りまくった顔で「へへぇ……」と空笑いしながら、この状況からどう脱しようか思考をフル回転させていた。自分の音楽ではなく体を売るなど絶対に嫌だし、好きでもない男に抱かれるのもまっぴらごめんだ。だがここで真っ向から拒否すれば彼を怒らせてしまうだろう。こんな人間だが地位はあるし、芸能界での顔も広い。恨みを買ってもしあることないことを吹聴されてしまったら、ナツやマネージャーをはじめとするスタッフ、事務所、果てにはファンと、自分を支えてくれている皆に迷惑がかかってしまう。
ここは誰かに助けを求め、この場からお暇せざるを得ない状況へと持っていかなければ。
ナツ——は駄目だ。今絶賛収録中である。そもそも最愛の相方をこんな場に来させたくない。マネージャーもよろしくない。東海林はナツに付いてテレビ局にいるだろう。木野は休みだろうが、女性であり自分よりも歳下だ。ナツと同じくこんな場に来させたくない。それに、マネージャーを呼ぶなど面と向かって嫌だと言っているようなものだ。呼び出しという体にすればいけなくもないかと思うが、この状況を説明する暇が作れるか
そうこう考えている間にもプロデューサーの手は自分の手の甲から腿に移り厭らしくなぞりあげてくる。ハルは全身の毛穴が開きっぱなしだ。もう嫌だ。仕事に一生懸命なだけなのに、どうしてこんな目に遭わなければならないんだ。もう帰りたい。これがせめて想いを寄せる相手だったら、体に熱が灯り思わず声を漏らしてしまったり、こんな生きるか死ぬかの瀬戸際ではなく、このまま身を任せて情を通わせるかまだ焦れるか、駆け引きに右往左往するだろうに。
気色悪さと恐怖が綯い交ぜになってもはや泣きそうになった時、ハルの脳内に一縷の希望がもたらされたように、太陽のような明るい笑顔が思い浮かんだ。
「ちょ、ちょっと私、御手洗行ってきますね〜」
渋るプロデューサーからなんとか逃げ出し御手洗に入った瞬間ハルは鈴木とのトークルームを開く。文面を考えている時間などない。長引けば怪しまれるだろう。手早く一言のみのメッセージと店の位置情報を送信する。どうか来てくれますように。でもなぜか、彼ならすべてを知らずとも必ず来てくれるような気がした。
このまま帰ってしまいたい気持ちを押し殺しながら個室へ戻ると、プロデューサーは待ってましたとばかりにまた自分を奥へと追いやる。その時ポケットに入れていた携帯電話が震えたが、返信の内容も、鈴木からの返信なのかも確認できない。祈るようにポケットに触れ、席についた。
ハルが枕営業の恐怖に打ち震えていた頃。鈴木は行きつけの店で友人と会話に花を咲かせていた。夜も更けていく時分、体内のアルコール度数も上々、話題は
「なに、もしかして噂の彼女?」
「そうそう。何かな〜、もしかして次のお誘、い……」
顔認証でロックを解除した瞬間現れたのは『JENさんすみません、助けてください』というメッセージと位置情報だった。
いったい何があったんだ、どういった状況なのかと尋ねたいところだが、いつも丁寧な内容の返信をくれるハルがこんな簡潔なメッセージのみを送信してくるということは、説明している余裕などないのだろう。わからずとも、自分に助けを求めるということは、自分ならなんとかできる事案なのかもしれない。きっと自分を信頼してくれているのだろう。何より彼女が困っている。そんな時に自分が行かなくて、誰が行くのか。ハルからのSOSを見て一気にアルコールが引いた鈴木は、荷物を持って立ち上がった。
「助けてほしいって……ごめん、俺行くわ」
「お、おう……気をつけろよ」
友人の声色にはいくつか意味が含まれているように聞こえた。何か危ないことに巻き込まれるのではないかという心配の色と、まさか美人局ではないかという疑惑の色。親子ほど年齢が離れていることは先ほど話していたのでそう思うのも無理はない。だが、彼女は自分と同じ。音楽に心血を注ぐ人間なのだ。まあ、それはまだ口が裂けても友人には言えないけれど。とはいえ危ないことに巻き込まれるのは自分とハル共々もちろん御免被りたいので、なんとかのらりくらり躱そうと決心しつつ、安心させるように友人の言葉に頷いた。
店を出た鈴木は、ちょうど通りがかったタクシーに飛び乗り、運転手に住所を伝える。できるだけ急いでください、とも。後ろへ流れていく景色を車窓越しに眺めながら緊迫した表情を浮かべる鈴木に、運転手も気を遣って声をかけない。景色から手元の端末に視線を落とした鈴木は、見ることができないだろうと思いながらも、ハルに『すぐ行くね』とメッセージを送った。
「ハルちゃんはどんなところがいい? 夜景が綺麗なところ? それともベッドが大きいところがいいかな?」
ハルが鈴木に助けを求めて10分。首を縦には振らないが拒絶もしないハルを追い詰めるようにプロデューサーが逢瀬の終着点ともいえる場所のホームページを開き、これから行く場所を吟味していた。端末の画面を見せられてもハルは乾いた笑いと冷や汗を出し続けることしかできない。もう恨まれる覚悟で拒絶するしかないのか。すべてを諦めて抱かれるしかないのか。鈴木はメッセージを見てくれたのだろうか。あわよくば、こちらへ向かってきてくれていたりするのだろうか。
もはや万事休す、煮え切らない態度のハルにいい加減痺れを切らしたプロデューサーがそろそろ「はい」か「YES」と答えないと許されない問いかけをしようとしたところで個室の扉がノックされた。追加の注文はない。まさかと凝視した先、左隣の少し苛ついた声色の返事とともに開いた引き戸から覗いたのは、太陽のようと
「あー! 一ノ瀬さん! お久しぶりでーす。あれ、ハルちゃんも?」
「JEN!? なんでここに」
「お店入ったら店員さんが一ノ瀬さんいますよーって教えてくれたんでご挨拶と思って! せっかくだから一緒に飲みましょ〜」
鈴木はハルに密着して座るプロデューサーを見てははあと合点がいったように内心頷く。裏では女癖が悪いことで有名な男だ。新人の、それも人当たりがよく断るのが苦手そうな
狼狽えるプロデューサーの様子を意に介さず、すべてを察して彼の隣に座った鈴木は、ハルと目が合った一瞬だけ優しい笑みを浮かべ、彼と自分の酒を店員に注文した。
そこからはまるで魔法のようであった。鈴木はいつの間にかハルをプロデューサーの隣から向かい側に移動させ、終始笑顔で彼に酒を飲ませ話し続けていた。
プロデューサーは完全に鈴木のペースに呑まれ、彼の話に気を良くし、絶え間なく運ばれてくるグラスをことごとく空にして最後にはすっかり泥酔していた。気がつけば鈴木はそんな状態の彼からなんとか住所を聞き出しタクシーに押し込んでいる。
遠ざかっていくタクシーを見送ったところでやっと心を支配していた恐怖心から解放され、ハルは地面にしゃがみ込んだ。そんな彼女を心配して鈴木はすぐさま隣にしゃがみ背中をさする。
「ハルちゃん大丈夫? 気持ち悪い?」
「いえ……なんかホッとしたら力が抜けちゃって……急に呼び出して巻き込んでしまって、すみませんでした」
「謝らないでよ〜。むしろ俺に助け求めてくれてありがとね、間に合ってほんとに良かったよ」
立てる? とハルの手を自分のそれで包み、引っ張り上げてくれる。前にも触れたその温もりに安心したのか、ハルの目から涙がこぼれた。それは止まることなくみるみるうちに頬を濡らしていく。だめだ。散々迷惑をかけたのに、また困らせてしまう。泣き顔を見せまいと俯いて震えるハルを見て、鈴木はまた心配そうに眉根を寄せた。
「ハルちゃん? やっぱ気持ち悪い?」
「いえ……っ、だいじょぶ、です」
震える声だけは隠しきれず、ハルが体調を崩してしまったのではないとわかってしまった鈴木は、そっと彼女の頭に手を置いた。
「俺が来るまでよく頑張ったね。怖かったでしょうに」
「う……、怖かった、っ、こわかった、」
「うん……もう大丈夫だからね」
自分の胸に縋りつき、子供のように泣きじゃくるハルをどうしていいかわからず、おそるおそるその小さい肩を抱く。さてこれからどうしよう。家まで送ってやるのが一番良いのだろうが、今はまだ彼女を独りにしない方がいい気もする。かといってまだお付き合いしていない想い人の家にお邪魔するのも気が引ける。どちらがハルにとって最良か選択できない鈴木は、ずるいと思いつつ目の前でまだ鼻を鳴らしている彼女に判断を委ねることにした。
「ハルちゃん、家まで送るよ。それとも、どこか落ち着けるとこ行く?」
「……まだ、じぇんさんに、いっしょにいてほしいです」
化粧を気にしつつ涙を拭ったハルは、鈴木の目をうまく見ることができないまま俯きながら彼の上着の袖を握った。
「どう? ちょっと落ち着いた?」
今となっては二人の逢瀬の場となった新宿の秘密基地。いつもの席はいつしかあの窓際からこの店に1つだけある個室に変わっていた。
席についてから今まで、鈴木はずっと当たり障りのない話をしてくれていた。最近の出来事やメンバーとの会話など、ユーモアも交えて話されるそれらにハルが少しずつ笑顔を取り戻し始めたところで、鈴木が小首を傾げる。
「はい……すみません、気を遣わせてしまって」
「もう〜また謝ってるし戻ってる! 顔が! 気にしなくていいんだよ」
「……どうして、来てくれたんですか。一言「助けてください」としか言えなかったのに」
ハルはまた鈴木から目を逸らし、手元に置かれたグラスの中を泳ぐ氷を見つめながら呟いた。
あの時鈴木が目の前に現れてくれた時からずっと気になっていたのだ。自分が助けを求めた時、何をしていたのかも知らない。さすがに仕事中ではなかったとは思うが、自宅で貴重な休日を過ごしていたかもしれないし、友人などと会っていたかもしれない。
自分はもちろん鈴木が来てくれたおかげで九死に一生を得たわけだが、自分の都合で彼の時間を奪い、迷惑までかけてしまったことが申し訳なくて仕方がなかった。
「そりゃあ、好きな
鈴木も鈴木で、仮説はたてていたもののどうしてハルが自分を呼んだのか気になっていた。相方である星川やマネージャーは呼べなかった事情があったのだろうが、快活な彼女のことだ。他に親しい友人などもいるだろう。
「JENさんは、全部説明できなくても、私を信じて来てくれるんじゃないかって、思ったんです。どうしてなんて訊いといて何ですけど」
「そっか」
「……あと、一ノ瀬さんに触られた時、この相手が好きな人だったらって思った時。JENさんが思い浮かんだから、です」
「えっ」
「助けてくださって、ありがとうございました」
やっと謝罪よりも欲しかった言葉をもらえたというのに、もはや鈴木はそれどころではない。ありがとうの前、ハルが言った一言は不意打ちの如く唐突で衝撃的で、鈴木は思わず身を乗り出した。
「ハルちゃん」
「はい」
「もう1回言って」
「助けてくださって、」
「その前!」
「……い、言いたくないです」
感謝の言葉とともに下げられた頭は未だ上がらず、ハルの表情は窺えない。
「言って、ハルちゃん……お願い。一生のお願い」
懇願に見せかけた甘い声色は、脚の間に置いているはずの手をまた包み込まれているような心地がする。ハルは顔に集まった体中の熱を逃がすこともできないまま鈴木の顔を上目遣いで盗み見ると、いつになく真剣な、それでいてあちらもまた体中の熱を集めたような瞳をしていた。いったいどうしてこの人は、プレゼントのリボンを1本ずつ丁寧に解くように人の心を開くのが上手いのだろう。言わなければと身構えずとも、こちらが想いを伝えたくなってしまうほどに。
いや、言い出したのも、伝えたくなったのも私か。
「……い、言い方を、変えます」
「うん」
「わ、私は……JENさんが、好きです」
「……うん」
「私じゃ釣り合わないって、わかってるけど、でも……ちゃんと、自信もってJENさんの隣に立てるくらい大きくなるから、今日みたいなトラブルも自分でなんとかできるくらい大人になるから……根気よく、お付き合いいただけませんか」
自分と鈴木の間に開いている差は、現時点ではやはりどうしても埋められない。だが年齢はともかく積み上げてきたものに至ってはその差を憂うより、自分を奮い立たせる
相変わらずハルは顔を上げない。だが逢瀬を重ね、さまざまな心の動きを見てきた鈴木には、彼女が今どんな顔をしているか想像に難くなかった。きっとあの日と同じ色の頬をしているのだろう。いったいどうしてこの
「……大人にならなくてもいいよ。この先困ったことがあっても、何度だって助けるから。だから、俺のそばにいてくれる?」
「……っは、はい」
鈴木は内心その場でガッツポーズでもしながら雄叫びをあげたいのを抑えつつ、カーテンのように表情を覆うハルの横髪に触れ、その赤く染まった耳にかけた。
「ねえ、いつから俺のこと好きになってくれたの?」
きっと、自分と一緒だろう。今までのハルを見ていればそんなことは最初からお見通しなのであるが、もっと彼女に自分のことを考えて欲しくて、自分でいっぱいいっぱいになって欲しくて鈴木はつい意地悪をしてしまう。
ハルはハルで、そんな鈴木の悪戯心を見透かしていた。
やられっぱなしは性に合わない。この際すべてぶちまけてしまえとこちらも悪戯っぽい笑みを浮かべた。
「そうですね……強いて言うなら、11年前から」
「えっ?」
「初めてドラムを叩く姿を見てから、JENさんはずっと私の憧れで、初恋だったんじゃないかなと」
「……やだぁ、なにそれ〜…… ハルちゃんずるい〜……」
意地悪するつもりが返り討ちに遭ってしまった鈴木はずるずるとテーブルに突っ伏した。ただただ愛らしく
「あー…… ハルちゃん、ごめん」
「はい?」
「もう、もう1回キスしてもいい?」
「一応ここ、公共の場ですけど」
「お願い、1回だけ! 一生のお願い!」
「一生のお願い乱用最短記録では? ……1回だけですよ」
鈴木はドアに向かってメニューを掲げ、短い指摘ののちまた染められた頬に触れた。再度記述するが、ここは個室である。こちらから呼ばない限り誰も入ってこないのだから不要ではというハルの指摘は、ようやく再度重ねられた唇によって声に出ることはなかった。
→アフター会話劇