my sweet heart
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冬至を控えた師走の中旬。ハルは新宿駅の東南口にいた。人を待っている。
灰色に光る空をぼんやり見つめながら、あれからなるべく考えないようにしていたここ数日の色々を思い出す。
一つめは、裏口の喫煙所——だったが、これはやっぱり今も思い出さない方がいいだろう。
二つめは、打ち上げが終わった帰り際。あの後、彼も裏口から戻ってきてからはお互いに何もなかったかのようにそれぞれ相方やメンバーとおしゃべりに花を咲かせ、たまに言葉を交わすも一切あの口づけについて言及しなかった。このままなかったことになるのだろうと思った時、帰り際に彼から連絡先を交換しないかと言われたのだった。なかったことにするつもりはない、ということなのか。先輩としてけじめをつけなければならないが今は無理なので日を改めて、ということなのか。今のところ判断はできない。
三つめは、相方の家。打ち上げが終わり、家に着いた瞬間靴を脱ぐ暇もなく質問の嵐を浴びせられた。ひととおり顛末を話すと、ナツは深刻そうに、かつ少々面白がるような面持ちで頷いた。連絡先を交換したので近いうちにまた会うことになるだろうと付け足すと、涼しげな目元がさらに面白そうに煌めいたのを思い出したところで、ため息をついた。
四つめは、一昨日の自宅。作業部屋で制作に勤しむハルの傍らに置かれた携帯電話が通知を受けて震える。液晶画面には見慣れないアイコンと『14日の夜、空いてる?』というメッセージ。深呼吸を二往復してから、手早く自分も空いている旨を返信し、そのまま相方にも連絡をした。
——14日の夜、JENさんとお会いしてくる
——承知! やっぱさ、JENさんこの間のなかったことにするつもりないんじゃない?
浮ついた台詞を吐くナツに、ハルは自戒の念も兼ねて「どうだろ。謝りたいだけじゃない?」と吐き捨てた。
なかったことにするつもりはない。もしそうだったら自分は嬉しいのか。困るのか。自分のことだけを考えれば、嬉しいに決まっている。11年前、彼を初めてまじまじと見つめた時に抱いた感情は、憧れでもあり、初恋のようなものでもあった。そんな画面の向こうにいた彼が、アーティストとして同じステージで肩を並べた挙句、自分に好意を抱いてくれているとしたら。自分だって、自分だけの胸に秘めてきた想いを彼に伝えたいし、受け入れられたい。
だが、表から見たら彼と自分ではあまりにも差があり過ぎる。年齢の差、積み上げてきたものの差が。誰もが知る国民的バンドのメンバーである彼が、まだ駆け出しのあまりにも未熟な自分と——などと、もし世間に知られれば身分違いにも程があると嘲笑され、彼にも迷惑が及ぶだろう。やはりもしなかったことにするつもりはないと言われたら、きっぱり断ろう。いや、そんなこと、きっと起こるはずがないのだけど。そう思ったところで、少し先に眼鏡をかけた彼がこちらに歩いてくるのが見えた。
「ごめんね待たせちゃって! 寒かったでしょ?」
「お疲れ様です。大丈夫ですよ! 私も着いたばっかりですし」
「ほんとに? わっ、冷た! やっぱ嘘でしょ」
「ちょっ……! JENさ、いや、えっと」
鈴木は上着から覗いている指先を取って握ると驚いたように声をあげてからハルをじとりと見つめた。ハルは勿論それどころではない。鈴木の手から温度が伝わり、あの日の体の火照りが戻ってくるような心地がして、慌てて手を引っ込めた。
「わ、私! 寒いとこ行くと寒くなくても手だけすぐ冷たくなっちゃうんですよ! 変温動物的な……」
「そうなんだ。末端冷え症なのかねえ」
「ですかね……それか遠い親戚に蛇とかいるのかもしれないです」
冗談を言いながらあさっての方向へ歩き出すハルを連れ戻しつつ店を目指して歩く。鈴木はつい先ほど、手を握った瞬間のハルの顔を思い浮かべ、気づかれぬように笑った。
あれから頭に棲みついて離れない数日前の色々を思い出す。
一つめは、裏口の喫煙所。あの時衝動的にハルに口づけをし、そして我に返った瞬間走馬灯のように駆け巡った思考から見つけた気持ちは、もう何年も忘れていた恋心だった。口づけを終えた時の彼女の表情は、今でも褪せることなく胸を高鳴らせ締め付ける。思い出すとまた歯止めが効かなくなりそうなのでこれ以上はやめておこう。
二つめは、打ち上げが終わった帰り際。あの後、裏口から戻ってからはお互いに何もなかったかのようにそれぞれメンバーやナツとおしゃべりに花を咲かせ、たまに言葉を交わすも一切あの口づけについて言及しなかった。このままなかったことにはしたくない。だが周りもいる中で話を切り出すのは悪手だろうと思い、帰り際に連絡先を交換しないかと声をかけたのだった。驚いた様子で自分に連絡先を教える彼女が自分を少なからず意識してくれているのか、なかったことにしたいが後輩なので断れず渋々と……なのか。今のところ判断はできない。
三つめは、翌日の自宅。メンバー全員を呼び、ひととおり顛末を話した。桜井と田原は今からでもいいから土下座して謝ってこいと言ったが、自分の気持ちと、メンバーとこんばらりあには極力迷惑をかけないこと、ハルが拒否したら速やかに身を引くことを伝え、かつ中川が擁護してくれたことで、最後には承知し、応援すると言ってくれた。
四つめは、一昨日である。ツアーの合間に獲得した休日をハルに送信する。今の自分では『ごめんなさい14日は……』と言われた場合、たとえ彼女が純粋に予定があったとしても自分に会いたくないゆえに適当な理由をつけているのではと邪推してしまいそうなので、どうかよい返事が来ることを願った。既読がすぐに付いたことに驚き慌てて携帯電話を閉じる。祈るように待つ時間もないほどすぐに端末が震え、画面を凝視すると『14日空いてます! 大丈夫です!』のメッセージとハルのアイコンが表示され、年甲斐もなくガッツポーズをしたのはここだけの話だ。
『14日、ハルちゃんと会ってくる!』
『おお、結構展開早いな。頑張れよ』
『いい報告を待ってます』
『JEN、手出すなよ笑』
応援する旨のメッセージをくれた二人には感謝を、茶化してきた桜井には自戒の念も兼ねて『出さないよ!』と返信した。
あの時、衝動的にハルに口づけをしたのは、きっと酒のせいでも即席の欲に駆られたのでもない。初めて会った時から、ステージで歌う姿を観た時から、あの礼儀正しくも屈託のない人柄に、さまざまな表情を魅せる歌声に、自分でも気がつかないうちに恋をしていたのだ。だからこそ彼女が煙草を吸いに席を立った時、自分だけがそれに気がつき、あとを追いかけたのだと思う。口づけまでは望まず、ただ二人きりになりたかった。数分でも、もう一度彼女を独り占めしたかったのだ。
だが、ハルからしたら自分はあまりにも差があり過ぎる。年齢の差、残された時間の差が。まだうら若く人生のさまざまな楽しみが待っている彼女が、中年と呼ばれる年齢真っ只中の自分と——などと、もし世間に知られれば身分違いにも程があると嘲笑され、彼女にも迷惑が及ぶだろう。それでも今は、彼女以外は考えられない。自分のこの気持ちを大事にしたい。たとえ彼女に断られるとしても、この気持ちを伝えるだけ伝えたいのだ。そう決意したところで、店の看板がすぐ目の前に現れた。
「ハルちゃん、着いたよ」
「え、ここお店なんですか?」
「そうそう〜。普通のお店だと人目気になるし、個室だとハルちゃん緊張するでしょ? だからあんまり人が来ないお店だったらどうかなって」
「お気遣いいただきありがとうございます。すごい! なんだか秘密基地みたいですね!」
先ほどまでの緊張が少し解けたようにはしゃぐハルは、鈴木の後ろをついていくように店に入る。店内は少し暗く落ち着いた雰囲気で、確かに客もほとんどいない。知る人ぞ知る、という店なのだろう。店員に促されるまま、窓際の端の席についた。
「JENさんはビールですか?」
「あっ、いや俺は……とりあえず今はお茶にしようかな」
「……じゃあ、私もそれで」
鈴木が無類の酒好きであることをよく知っているハルは少々驚いたが、先日のこともあるので遠慮してくれているのだろう。間違いの要素はできる限り除くべきだと思い直し、訊き返さなかった。
それぞれ烏龍茶とジャスミン茶を注文し、しばし無言の時間が流れる。鈴木としてはすぐにでも話を始めたいところだが、店員が飲物を運んでくると思うと切り出すに切り出せない。ハルも手持ち無沙汰なのか、テーブルに置かれた灰皿を見つめそわそわしている。
「あ、あの……煙草吸ってもいいですか?」
「うん、もちろん。俺も吸おっかな〜」
鈴木が了承したことに安心し、煙草を取り出すハルの様子を見る。ティップを咥え火を点けるまでの仕草が流れるようで思わずそのまま見蕩れていると、鈴木の視線に気がついたハルが煙を吐きながら気まずそうに目を逸らした。
「あ、あの……あんま見ないでください、恥ずかしいので……」
「あ、ごめんごめん。仕草がすごい綺麗だな〜って」
「ど、どうも……吸い始めた頃は似合わないって総スカン食らってたんですけどね」
「え、そうなの?」
「はい。イメージにないって」
たしかに、自分は煙草を吸っている今のハルしか知らないから違和感がないのであって、礼儀正しく物腰柔らかい彼女が煙草を吸い始めた、と知ればそれ以前を知っている人の中には似合わないと思う人もいるのかもしれない。当時は今と出で立ちも違っていた可能性もある。だが煙草はアクセサリーではない。似合う似合わないで吸うか吸わないかを決めるものではないのだ。彼女にとっては余計なお世話だっただろうな。とその言葉を浴びせられた当時のハルに思いを馳せたところで、店員が洗練された所作でグラスをテーブルに置いた。今のところ他に注文はない。鈴木は緊張で渇いた口内を烏龍茶で潤し、姿勢を正した。
「あの、ハルちゃん」
「はい」
「先日は、本当にごめんなさい」
深々と頭を下げる鈴木を見て、ハルは慌てるように両手を振る。
「いや! JENさんあの時すごく酔ってたし、酔った時の癖を知ってたのに油断した私も悪いので……」
「ハルちゃんはなんも悪くないよ! 俺あの時は、ちゅーしようなんて全然思ってなくて、ただ二人きりになりたかっただけで、なのにハルちゃんの顔見たら止まんなくなっちゃって」
「え? え? あのJENさん、何言って……」
困惑するハルの顔を見て、鈴木の胸中でも不安が押し寄せる。だが怯んではいけない。たとえ断られるとしても、もし気持ち悪がられるとしても、せめてこの気持ちは伝えようと決めたのだ。身勝手であることなど重々わかっている。それでも十数年ぶりにせっかく抱いた恋心を胸に秘めたまま終わらせたくなかった。もしかしたら、これが最後になるかもしれないから——鈴木は顔を上げ、ハルのサングラス越しの瞳を真っ直ぐ見つめた。
「俺、ハルちゃんが好き」
「……え、」
「俺みたいなおじさんが若い娘 にこんなこと言うの気持ち悪いってわかってるけど、でも……あの時のこと、俺はなかったことにしたくない」
「わ……私、じゃ、JENさんと、釣り合わないです。JENさんは、ミスチルのメンバーで、みんなの人気者で……駆け出しの私なんて、身分違いにも程があります」
ハルの頬に、瞬く間に熱が集まっていく。一時 の気の迷い。勘違い。酒のせい。もっともらしい言い訳を封じられうまく言葉が出てこない。
「そんなことない。20年以上早く生まれたから俺の方が長いってだけだよ」
「……でも」
唯一の正直な退路すら絶たれ、口をつぐむ。言い訳はあと残り僅かしかない。自分は鈴木のことを好きではない。親子ほど歳が離れている相手など考えられない。これ以上言い寄られても迷惑だ。そう言わなければならないのに、きっぱり断ると決めたのにやはり自分の心には嘘をつけず、もう何も言えなかった。
ハルの真っ赤な顔を見て、鈴木は困ったように笑った。
「…… ハルちゃん、ずるいよ。そんな顔されたら俺、期待しちゃうじゃない……ねえ、俺のこと嫌い?」
「嫌いなんて、そんな……!」
「じゃあ、好きになってくれない? 俺のこと」
「……かっ、んがえさせて、ください」
うん、わかった。優しく微笑みながら頷く鈴木を見て、熱を抜くようにため息をついた。畏れていたようで心の底では望んでいた展開に最後まで嘘をつき通せなかった自分の意志の弱さが情けない。結局この日は、互いに一滴も酒を飲まずに解散した。
その後、鈴木とハルから正反対のテンションでこの夜の仔細を聞かされた桜井・田原・中川、そしてナツが近年稀に見るほど沸き立ったのは言うまでもない。
灰色に光る空をぼんやり見つめながら、あれからなるべく考えないようにしていたここ数日の色々を思い出す。
一つめは、裏口の喫煙所——だったが、これはやっぱり今も思い出さない方がいいだろう。
二つめは、打ち上げが終わった帰り際。あの後、彼も裏口から戻ってきてからはお互いに何もなかったかのようにそれぞれ相方やメンバーとおしゃべりに花を咲かせ、たまに言葉を交わすも一切あの口づけについて言及しなかった。このままなかったことになるのだろうと思った時、帰り際に彼から連絡先を交換しないかと言われたのだった。なかったことにするつもりはない、ということなのか。先輩としてけじめをつけなければならないが今は無理なので日を改めて、ということなのか。今のところ判断はできない。
三つめは、相方の家。打ち上げが終わり、家に着いた瞬間靴を脱ぐ暇もなく質問の嵐を浴びせられた。ひととおり顛末を話すと、ナツは深刻そうに、かつ少々面白がるような面持ちで頷いた。連絡先を交換したので近いうちにまた会うことになるだろうと付け足すと、涼しげな目元がさらに面白そうに煌めいたのを思い出したところで、ため息をついた。
四つめは、一昨日の自宅。作業部屋で制作に勤しむハルの傍らに置かれた携帯電話が通知を受けて震える。液晶画面には見慣れないアイコンと『14日の夜、空いてる?』というメッセージ。深呼吸を二往復してから、手早く自分も空いている旨を返信し、そのまま相方にも連絡をした。
——14日の夜、JENさんとお会いしてくる
——承知! やっぱさ、JENさんこの間のなかったことにするつもりないんじゃない?
浮ついた台詞を吐くナツに、ハルは自戒の念も兼ねて「どうだろ。謝りたいだけじゃない?」と吐き捨てた。
なかったことにするつもりはない。もしそうだったら自分は嬉しいのか。困るのか。自分のことだけを考えれば、嬉しいに決まっている。11年前、彼を初めてまじまじと見つめた時に抱いた感情は、憧れでもあり、初恋のようなものでもあった。そんな画面の向こうにいた彼が、アーティストとして同じステージで肩を並べた挙句、自分に好意を抱いてくれているとしたら。自分だって、自分だけの胸に秘めてきた想いを彼に伝えたいし、受け入れられたい。
だが、表から見たら彼と自分ではあまりにも差があり過ぎる。年齢の差、積み上げてきたものの差が。誰もが知る国民的バンドのメンバーである彼が、まだ駆け出しのあまりにも未熟な自分と——などと、もし世間に知られれば身分違いにも程があると嘲笑され、彼にも迷惑が及ぶだろう。やはりもしなかったことにするつもりはないと言われたら、きっぱり断ろう。いや、そんなこと、きっと起こるはずがないのだけど。そう思ったところで、少し先に眼鏡をかけた彼がこちらに歩いてくるのが見えた。
「ごめんね待たせちゃって! 寒かったでしょ?」
「お疲れ様です。大丈夫ですよ! 私も着いたばっかりですし」
「ほんとに? わっ、冷た! やっぱ嘘でしょ」
「ちょっ……! JENさ、いや、えっと」
鈴木は上着から覗いている指先を取って握ると驚いたように声をあげてからハルをじとりと見つめた。ハルは勿論それどころではない。鈴木の手から温度が伝わり、あの日の体の火照りが戻ってくるような心地がして、慌てて手を引っ込めた。
「わ、私! 寒いとこ行くと寒くなくても手だけすぐ冷たくなっちゃうんですよ! 変温動物的な……」
「そうなんだ。末端冷え症なのかねえ」
「ですかね……それか遠い親戚に蛇とかいるのかもしれないです」
冗談を言いながらあさっての方向へ歩き出すハルを連れ戻しつつ店を目指して歩く。鈴木はつい先ほど、手を握った瞬間のハルの顔を思い浮かべ、気づかれぬように笑った。
あれから頭に棲みついて離れない数日前の色々を思い出す。
一つめは、裏口の喫煙所。あの時衝動的にハルに口づけをし、そして我に返った瞬間走馬灯のように駆け巡った思考から見つけた気持ちは、もう何年も忘れていた恋心だった。口づけを終えた時の彼女の表情は、今でも褪せることなく胸を高鳴らせ締め付ける。思い出すとまた歯止めが効かなくなりそうなのでこれ以上はやめておこう。
二つめは、打ち上げが終わった帰り際。あの後、裏口から戻ってからはお互いに何もなかったかのようにそれぞれメンバーやナツとおしゃべりに花を咲かせ、たまに言葉を交わすも一切あの口づけについて言及しなかった。このままなかったことにはしたくない。だが周りもいる中で話を切り出すのは悪手だろうと思い、帰り際に連絡先を交換しないかと声をかけたのだった。驚いた様子で自分に連絡先を教える彼女が自分を少なからず意識してくれているのか、なかったことにしたいが後輩なので断れず渋々と……なのか。今のところ判断はできない。
三つめは、翌日の自宅。メンバー全員を呼び、ひととおり顛末を話した。桜井と田原は今からでもいいから土下座して謝ってこいと言ったが、自分の気持ちと、メンバーとこんばらりあには極力迷惑をかけないこと、ハルが拒否したら速やかに身を引くことを伝え、かつ中川が擁護してくれたことで、最後には承知し、応援すると言ってくれた。
四つめは、一昨日である。ツアーの合間に獲得した休日をハルに送信する。今の自分では『ごめんなさい14日は……』と言われた場合、たとえ彼女が純粋に予定があったとしても自分に会いたくないゆえに適当な理由をつけているのではと邪推してしまいそうなので、どうかよい返事が来ることを願った。既読がすぐに付いたことに驚き慌てて携帯電話を閉じる。祈るように待つ時間もないほどすぐに端末が震え、画面を凝視すると『14日空いてます! 大丈夫です!』のメッセージとハルのアイコンが表示され、年甲斐もなくガッツポーズをしたのはここだけの話だ。
『14日、ハルちゃんと会ってくる!』
『おお、結構展開早いな。頑張れよ』
『いい報告を待ってます』
『JEN、手出すなよ笑』
応援する旨のメッセージをくれた二人には感謝を、茶化してきた桜井には自戒の念も兼ねて『出さないよ!』と返信した。
あの時、衝動的にハルに口づけをしたのは、きっと酒のせいでも即席の欲に駆られたのでもない。初めて会った時から、ステージで歌う姿を観た時から、あの礼儀正しくも屈託のない人柄に、さまざまな表情を魅せる歌声に、自分でも気がつかないうちに恋をしていたのだ。だからこそ彼女が煙草を吸いに席を立った時、自分だけがそれに気がつき、あとを追いかけたのだと思う。口づけまでは望まず、ただ二人きりになりたかった。数分でも、もう一度彼女を独り占めしたかったのだ。
だが、ハルからしたら自分はあまりにも差があり過ぎる。年齢の差、残された時間の差が。まだうら若く人生のさまざまな楽しみが待っている彼女が、中年と呼ばれる年齢真っ只中の自分と——などと、もし世間に知られれば身分違いにも程があると嘲笑され、彼女にも迷惑が及ぶだろう。それでも今は、彼女以外は考えられない。自分のこの気持ちを大事にしたい。たとえ彼女に断られるとしても、この気持ちを伝えるだけ伝えたいのだ。そう決意したところで、店の看板がすぐ目の前に現れた。
「ハルちゃん、着いたよ」
「え、ここお店なんですか?」
「そうそう〜。普通のお店だと人目気になるし、個室だとハルちゃん緊張するでしょ? だからあんまり人が来ないお店だったらどうかなって」
「お気遣いいただきありがとうございます。すごい! なんだか秘密基地みたいですね!」
先ほどまでの緊張が少し解けたようにはしゃぐハルは、鈴木の後ろをついていくように店に入る。店内は少し暗く落ち着いた雰囲気で、確かに客もほとんどいない。知る人ぞ知る、という店なのだろう。店員に促されるまま、窓際の端の席についた。
「JENさんはビールですか?」
「あっ、いや俺は……とりあえず今はお茶にしようかな」
「……じゃあ、私もそれで」
鈴木が無類の酒好きであることをよく知っているハルは少々驚いたが、先日のこともあるので遠慮してくれているのだろう。間違いの要素はできる限り除くべきだと思い直し、訊き返さなかった。
それぞれ烏龍茶とジャスミン茶を注文し、しばし無言の時間が流れる。鈴木としてはすぐにでも話を始めたいところだが、店員が飲物を運んでくると思うと切り出すに切り出せない。ハルも手持ち無沙汰なのか、テーブルに置かれた灰皿を見つめそわそわしている。
「あ、あの……煙草吸ってもいいですか?」
「うん、もちろん。俺も吸おっかな〜」
鈴木が了承したことに安心し、煙草を取り出すハルの様子を見る。ティップを咥え火を点けるまでの仕草が流れるようで思わずそのまま見蕩れていると、鈴木の視線に気がついたハルが煙を吐きながら気まずそうに目を逸らした。
「あ、あの……あんま見ないでください、恥ずかしいので……」
「あ、ごめんごめん。仕草がすごい綺麗だな〜って」
「ど、どうも……吸い始めた頃は似合わないって総スカン食らってたんですけどね」
「え、そうなの?」
「はい。イメージにないって」
たしかに、自分は煙草を吸っている今のハルしか知らないから違和感がないのであって、礼儀正しく物腰柔らかい彼女が煙草を吸い始めた、と知ればそれ以前を知っている人の中には似合わないと思う人もいるのかもしれない。当時は今と出で立ちも違っていた可能性もある。だが煙草はアクセサリーではない。似合う似合わないで吸うか吸わないかを決めるものではないのだ。彼女にとっては余計なお世話だっただろうな。とその言葉を浴びせられた当時のハルに思いを馳せたところで、店員が洗練された所作でグラスをテーブルに置いた。今のところ他に注文はない。鈴木は緊張で渇いた口内を烏龍茶で潤し、姿勢を正した。
「あの、ハルちゃん」
「はい」
「先日は、本当にごめんなさい」
深々と頭を下げる鈴木を見て、ハルは慌てるように両手を振る。
「いや! JENさんあの時すごく酔ってたし、酔った時の癖を知ってたのに油断した私も悪いので……」
「ハルちゃんはなんも悪くないよ! 俺あの時は、ちゅーしようなんて全然思ってなくて、ただ二人きりになりたかっただけで、なのにハルちゃんの顔見たら止まんなくなっちゃって」
「え? え? あのJENさん、何言って……」
困惑するハルの顔を見て、鈴木の胸中でも不安が押し寄せる。だが怯んではいけない。たとえ断られるとしても、もし気持ち悪がられるとしても、せめてこの気持ちは伝えようと決めたのだ。身勝手であることなど重々わかっている。それでも十数年ぶりにせっかく抱いた恋心を胸に秘めたまま終わらせたくなかった。もしかしたら、これが最後になるかもしれないから——鈴木は顔を上げ、ハルのサングラス越しの瞳を真っ直ぐ見つめた。
「俺、ハルちゃんが好き」
「……え、」
「俺みたいなおじさんが若い
「わ……私、じゃ、JENさんと、釣り合わないです。JENさんは、ミスチルのメンバーで、みんなの人気者で……駆け出しの私なんて、身分違いにも程があります」
ハルの頬に、瞬く間に熱が集まっていく。
「そんなことない。20年以上早く生まれたから俺の方が長いってだけだよ」
「……でも」
唯一の正直な退路すら絶たれ、口をつぐむ。言い訳はあと残り僅かしかない。自分は鈴木のことを好きではない。親子ほど歳が離れている相手など考えられない。これ以上言い寄られても迷惑だ。そう言わなければならないのに、きっぱり断ると決めたのにやはり自分の心には嘘をつけず、もう何も言えなかった。
ハルの真っ赤な顔を見て、鈴木は困ったように笑った。
「…… ハルちゃん、ずるいよ。そんな顔されたら俺、期待しちゃうじゃない……ねえ、俺のこと嫌い?」
「嫌いなんて、そんな……!」
「じゃあ、好きになってくれない? 俺のこと」
「……かっ、んがえさせて、ください」
うん、わかった。優しく微笑みながら頷く鈴木を見て、熱を抜くようにため息をついた。畏れていたようで心の底では望んでいた展開に最後まで嘘をつき通せなかった自分の意志の弱さが情けない。結局この日は、互いに一滴も酒を飲まずに解散した。
その後、鈴木とハルから正反対のテンションでこの夜の仔細を聞かされた桜井・田原・中川、そしてナツが近年稀に見るほど沸き立ったのは言うまでもない。