完全無欠のサブリーダー
ヒースの家は会社のほど近く、住宅地の中にある。
見た目は古くどこにでもありそうなマンションだが、部屋の中に入ると思った以上に天井が高い。歩くと小さくカチカチと組み木同士が鳴る、ヒースお気に入りのモザイクパーケットの床。
かつては酒やつまみ、時にコーヒーに合う甘いものを持って我が物顔で訪れていたはずなのに。今、フリードは借りてきた猫のように勧められたローチェアにおとなしく座っていた。
「サンドイッチ、サーモンとBLTがあるよ」
温かいコーヒーの入ったマグカップとここまで来る途中で買った2種類のサンドイッチ。コーヒーでも、と誘われるまま、ヒースの家に来たが「フリードからキスをする」課題が出ている以上不必要にドギマギしてしまうのはしょうがない事だった。
いただきますと断りをいれて、厚切りのベーコンの挟まったBLTを手に取って食べるが、前とは違う意味で味がしない。
「BLTは味がしないだろう?」
たしかにバルでヒースと気まずい沈黙の中無理矢理飲み下したから、BLTサンドに苦手意識がある。
フリードはBLTサンドをのみこんで、サーモンサンドに挟まっている葉物を指さした。
「この辛い葉っぱ好きだろ」
「ルッコラだね。覚えてたんだ、ありがとう」
ふっと目を細めて嬉しそうに笑うヒースに、胸の奥がキュッと締め付けられる。
(そんな顔で笑わないでくれ……っ)
お互いプライベートに踏み込まないようにきっちりと線引いていた反動で、プライベート用の柔らかい口調や気の抜けた表情は刺激が強すぎた。許されるなら後ろから抱きしめて体温を感じながら癖の入った黒髪に顔を埋めて一日中話していたい。
が、返事はまだ聞けてない。課題ができなければイエスもノーももらえない。手を出してはいけない。
落ち着かない心を誤魔化すようにマグカップへ口を付けると、香ばしくコクのある苦味が口いっぱいに広がった。
「ヒース、おまえは浅煎りの方が好きだろ?」
「そうだね。久々に君が来たから深煎りにしてみた」
どうだ!と言わんばかりに自信満々なヒースがおかしくて思わず吹き出した。
「ありがとな、美味しいよ」
じんわりと味わうようにコーヒーを少しずつ飲む。
(こんな感じでいいんだよな)
ヒースの好みのサンドイッチ、フリードの好みのコーヒー。
お互いに好きなものを譲り合い、尊重しながらそばにいられたらいいなと。先を想像してフリードの口の端が緩く弧を描いた。
コーヒーもサンドイッチもすっかりなくなり、ヒースがおかわりのコーヒーを淹れるため台所に立った。
フリードはカウンターのそばでドリップポットをにぎる長い指と男らしい大きな手をながめ、話をする柔らかくも低い声を聞いていた。
(ヒースなら…いや、ヒースが、いい)
「フリードからキスをしろ」とは「そういう目で見られるか考えろ」の意味だとフリードは解釈していた。…できない理由はない。
驚かせないようにさりげなくヒースの横に近づき、ドリップポットを置いたところでちゅ、と触れるだけのキスをした。
ヒースは目を見開いたまま固まっている。
(あれ? よくわかんなかったか?)
もう一度。ふに、と柔らかかくて乾いた感触。
角度を変えてもう一度。歯が当たらないように気をつけながらペロリと唇を舐めた。
触れ合った唇の隙間からヒースの息が漏れる。
(少し口、開いてる)
その瞬間にいたずら心と湧き立つ情動が弾けた。うっすらと開いた唇に舌を差し込み、舌を絡め、ざらりとした表面を擦り合わせた。
「ん、ふぁ…っ」
すがりつくように寄りかかられて、倒れないように腰を支えながら、さらに先に進むためヒースのシャツの裾から熱い手を差し込んだ。
直後、肌に触れた指の感触にハッと目を丸くしたヒースが、弾かれたようにフリードの胸を押し返した。
「ステイ! ステイだ、フリード!」
犬を調教するかのような言い方だが、あまりの迫力に言われた通りフリードは止まった。
オリーブグリーンの瞳を潤ませ、真っ赤な顔で手が早い!と怒っている。
この様子なら「課題」は合格だろうが、フリードはいつものようにニッとわらってきいた。
「ヒース、あんたの答え教えてよ」
ヒースは怒るのをやめてフリードを見つめると、観念したように息を吐いた。
「僕の気持ちは変わらないよ、フリード。暴いたのは君なんだから、責任とってね?」
お兄さんぶったような口調に頭の奥に甘い痺れを感じながら、フリードはヒースを抱きしめた。
***
コーヒーのおかわりを持って今度はソファに座る。
低く座面の広いソファは泊めてもらうときの定番の寝床だった。
背の高いフリードが寝転ぶと足は出るが、肩がはみ出ることはないからそう苦ではなかった。
横にヒースが座る。さっきのローチェアの時よりも距離が近い。押し倒してしまえばさっきの続きが叶うだろうが、それはヒースを怖がらせる。
(ステイ、っていわれたしな)
苦笑してコーヒーを飲んだ。今度はヒースの好みの浅煎り。ヒースの家のコーヒーは酸味があっても嫌じゃなかった。
「なんでヒースの家のコーヒーは美味いんだ?」
「? 挽いてドリップしてるから?」
「いや、酸味がさ。苦すっぱい感じじゃないから酸味がうまい」
「コーヒーは酸化すると嫌な酸味がでるからね。早めに使い切るのがコツだよ。僕は酸化した豆はゆるさない」
真面目に何を、とも思ったが楽しそうなのでフリードは相槌を打つだけにとどめておいた。
「なあ、ヒース」
ふと表情を戻し、じっとフリードはヒースのオリーブグリーンの目を見つめた。
「手は出さない。出さないから、抱きしめてもいいか」
マグをテーブルに置いて、フリードは自分の開いた膝の間をポンポンと叩いた。
「今日は、絶対に手を出さない」
警戒するような色が一瞬よぎったがマグを置いたヒースは大人しくフリードの足の間に背を向けて収まった。すかさず後ろから腕を回し、その体を抱きかかえる。
体つきは男らしく堅くがっしりしているが、自分のようなゴツゴツした筋肉質とは違う柔らかさがあった。鼻をくすぐるコーヒーのにおいと石鹸のにおい。癖のある黒髪に指を絡めて梳くと、くすぐったいのか身じろぎをした。そのままヒースの肩に顎を乗せ、無防備な首筋に顔を寄せて呼吸を深める。
「ずっとこうしたかったんだ」
フリードの低いかすれた声と熱い息が首筋にかかって、ヒースは恥ずかしくて逃げ出したくなった。
(こんなに甘くなるなんてきいてない)
抱きしめて手をにぎるだけのささいな触れ合い。ヒースはされるがままにフリードに背中を預け、日が暮れるまで話をつづけていた。
