ヒース・リヴィングトンの物語
リヴィングトン家に孫として迎えられてからも、ヒースの日常が急激に派手になることはなかった。
アカデミーで家名を名乗る場面などそうそうないし、ペンも鞄も「まだ使えるから」と今まで通りのものを大切に使い続けている。変わったことといえば、奨学金の返済という重荷が消えたおかげで、ディイとの遺跡発掘の手伝いに心置きなく没頭できるようになったことくらいだ。
休みの日にリヴィングトン邸に招かれれば、トレニアのストレートな言葉に困惑しつつも喜び、ダフネと静かにお茶を楽しみ、充実した日々を送っていた。
——だが、その夜。
リヴィングトン邸に作られた自室で眠っていたヒースは、暗闇の中で激しい呼吸の乱れに襲われていた。
『おまえ、男が好きなのか』
『気味が悪い』
視界を埋め尽くすのは、故郷・ナッペ山の凍りつくような吹雪。
そして、ヒースのセクシャリティを知った瞬間に向けられた、かつての友人たちの冷たい視線と、あからさまな嫌悪感。
(逃げなきゃ……)
指先が凍りつくような冷たさに怯えていると、吹雪の中に新たな人影が立った。
アリッサム先生、そしてディイだ。
『先生……ディイ……』
すがりつくように手を伸ばしたヒースだったが、ふたりの瞳に宿っていたのは、あのナッペ山の人々と同じ、底冷えするような冷酷な蔑みだった。
『——君がそんな人間だなんて、失望したよ』
ぶつり、と映像が途切れる。
「……ッハ!……ぁ、……っ」
跳ね起きると、そこは静まり返ったリヴィングトン邸の寝室だった。
ベッドのシーツも、パジャマも、氷のような冷や汗でびっしょりと濡れ、肌に張り付いている。
指先が震え、心臓が肋骨を突き破らんばかりに乱打していた。
ただの悪夢だ。ディイもアリッサム先生も、そんなことを言うはずがない。分かっているのに、一度冷え切ったトラウマの氷は、胸の奥で容易に溶けてはくれなかった。
着替える気力すら湧かず、ベッドの中で膝を抱えたまま、ヒースは浅い呼吸とうつらうつらとした意識の中で朝を迎えた。
コンコン、とドアをノックする音が響いたのは、翌朝の少し早い時間だった。
「……ヒース!?」
朝食の知らせに来たダフネは、ベッドの上で冷や汗に濡れ、顔色を失ってうつらうつらとしているヒースを見るなり、すぐさま異変を察知した。
眼鏡もつけず、浅い呼吸を繰り返すヒースの手を握りしめる。氷のように冷たく、その肌からはどこか冷酷で禍々しい気配が漂っていた。
「まあ……こんなに冷や汗を……。手が氷のように冷たいわ」
「ダ、フネ……おばあ様……。ごめんなさい、なんだか……すごく嫌な夢を……」
悪夢の中でヒースを苛んだのは、故郷での蔑みと、信頼する仲間たちから拒絶される恐怖。
だが、それはヒース自身の不安などではなく、リヴィングトン家が代々鎮めてきた「古代の遺物たちの怨恨」が、新たな家族となったヒースの隙を突いて精神を蝕もうとした結果だった。
ダフネは一瞬でその正体を看破すると、ドアの外の使用人へ冷徹なまでの声で命じた。
「すぐにトレニアを呼びなさい! 『例のものがヒースに出た』と伝えて!」
「は、はい!」
——数分も経たぬうちに、部屋のドアが勢いよく開いた。
駆け込んできたトレニアは、ベッドでうなされるヒースの姿を目にした瞬間、その場に固まった。
そして、その深い緑の瞳に、静かで、やり場のない激しい怒りの炎を立ち上らせた。
「……養子にまで、手を出すというのか。まだこんな子供にまで……!」
トレニアの拳が、みしみしと音を立てて握りしめられる。
代々、どれほど危険を冒して遺物の呪いを無効化し、人々に害が及ばぬよう背負い続けてきたか。それなのに、新しく家族になったばかりの愛しい孫にまでその毒牙が向かったことへの、抑えきれない憤怒だった。
そんな夫の横顔をちらりと見たダフネは、静かに、けれど毅然とした声で促した。
「トレニア。怒るのは後よ。……キョジオーンをお出しなさい」
「……ああ、分かっている」
トレニアは深く息を吐き出すと、腰のモンスターボールを一つ取り出し、静かに投げた。
重厚な地鳴りのような音と共に現れたのは、頑丈な岩塩の体を誇るキョジオーンだった。
「キョジオーン……『きよめのしお』を。この子を包んでおくれ」
トレニアの指示に応え、キョジオーンがその重厚な腕を掲げる。
さらさらと、眩しいほどに澄み切った清らかな塩の粒子がヒースの全身を包み込んでいく。
「ッ……ぁ……」
その瞬間、ヒースの体を縛り付けていた冷たい金縛りのような感覚と、まとわりついていたドロリとした悪意が、まるで春の陽射しに溶ける氷のように一気に消し飛んだ。
呼吸がすーっと楽になり、肌にしがみついていた冷や汗が引き、頬に赤みが戻っていく。
(……あれ? ぼく……何を、そんなに怖がっていたんだろう……?)
さっきまで自分を絶望の淵に突き落としていたはずの悪夢の記憶が、まるで遠い他人事のように霧散していく。眼鏡をかけると呆然と自分の手を見つめた。
「ふう……顔色が戻ったわね。よかった……」
ダフネは心底安堵したように胸を撫でおろし、小さなお守り袋を取り出すと、キョジオーンが放った輝く岩塩の結晶をいくつか拾い集めてその中へ納めた。そして、それをヒースの手に優しく握らせる。
「ヒース、これはお守りよ。常に持ち歩きなさいね。……キョジオーンの『きよめのしお』は、並の呪いや悪意ならすべて弾き返してくれるわ」
「ダフネおばあ様……トレニアおじい様……ありがとうございます」
まだ少し困惑気味のヒースに、トレニアはゆっくりと歩み寄った。
その表情からは先ほどの激昂は消えていたが、代わりに当主としての、そして「祖父」としての固い決意が宿っていた。
トレニアはヒースの肩に優しく、けれど強く手を置いた。
「……ヒース。こうなった以上、君にはもう一つ、大切な役目をお願いしなければならなくなった」
「もう一つの……役目、ですか?」
「少し、待っていておくれ」
トレニアはそう言うと、静かに部屋を出て行った。
残されたダフネは、まだ少しぼんやりとしているヒースのパジャマの襟元を整えながら、柔らかく微笑んだ。
「ヒース、あなたを苛んだあの悪夢は、我が家が代々祓ってきた、古代の遺物たちの『残留思念』なのよ。リヴィングトンに連なる者として、あなたが正式に一員となったからこそ、その悪意に狙われてしまったの」
「僕が……リヴィングトンの人間になったから……」
「ええ。でもね、怯える必要はないわ。我が家には我が家の、代々受け継がれてきた『護り手』がいるのだから」
カチャリ、とドアが開き、トレニアが戻ってきた。
その腕には、布で大切に包まれた、ずっしりと重みのあるポケモンの卵が抱えられていた。
表面にはキョジオーン特有の、清らかな塩の層を思わせる幾何学的な模様が浮かんでいる。
トレニアはヒースのベッドの脇に腰を下ろすと、愛おしそうに、けれど真剣な眼差しでその卵をヒースの膝の上へと静かに手渡した。
「ヒース。……これは、私のキョジオーンの卵だ。この子を受け取り、育ててはくれないだろうか」
「トレニアおじい様……この卵を、僕に……?」
突然の申し出に、ヒースは卵のぬくもりを壊さないよう、慌てて両手で優しく包み込んだ。
「そうだ。我が家を狙う残留思念や悪意を祓うには、清めの塩を宿す塩ポケモン……コジオの力が不可欠だ。この子が生まれ、君の相棒となれば、もうあのような悪夢に怯えることはなくなる」
そこまで理路整然と語っていたトレニアだったが、ふと視線を泳がせ、その目元を少しだけ照れくさそうに緩ませた。
「……それにね、ヒース。恐ろしい思いをさせてしまったというのに、不謹慎で申し訳ないのだが……」
トレニアはすっとヒースのオリーブグリーンの瞳を見つめ、どこか子供のように誇らしげで、けれど愛おしさに満ちた笑みを浮かべた。
「……私も昔、父から初めて贈られたポケモンが、あのお守りのコジオの卵だったのだよ」
「え……」
「君にこの卵を手渡した時……ああ、私は今、本当の意味でヒースの『父親』に……『祖父』になれたのだなと、胸が熱くなってしまったのだ。……苦しんでいた君の前で、こんなことを言って笑われるかもしれないが……私は、とても嬉しいんだよ」
恥ずかしそうに、けれど溢れ出す愛情を隠しきれずに語るトレニア。
(……本当に、そういうところですよ、トレニアおじい様……!)
ヒースは心の中で、ダフネと同じように苦笑いを浮かべそうになった。けれど同時に、膝の上の卵から伝わってくるじんわりとした温もりが、胸の奥深くまで染み渡っていくのを感じていた。
自分の親は、結局自分の存在を認めてはくれなかった。
けれど今、目の前にいるこの人は、自分を守るための力を授けてくれ、自分と家族になれたことを心から喜び、涙ぐみそうな笑顔を向けてくれている。
「……トレニアおじい様」
ヒースは卵をぎゅっと優しく抱きしめ、眼鏡の奥の瞳を和らげた。
「ありがとうございます。僕……この子を、大切に育てます。おじい様が僕を守ってくれたように、この子と一緒に、僕もリヴィングトン家を守れるようになりますから」
「ヒース……っ!」
ヒースの頼もしくも愛おしい返答に、トレニアは「ああ、やっぱり君は私の最高の孫だ……!」と、今にもヒースごと卵を抱きしめそうな勢いで身を乗り出したのだった。
「ふふ、トレニアったら。卵を潰してしまわないようにしなさいねぇ」
傍らでダフネが、いつも通りの上品で温かな笑い声を響かせていた。
