ヒース・リヴィングトンの誕生
「……ヒース」
トレニアは、膝の上で組んだ手に少しだけ力を込め、静かに語り始めた。
「単刀直入に言おう。我がリヴィングトン家は、私の代で幕を引く……いわゆる『家仕舞い』を執り行っている最中なのだ」
「家仕舞い……ですか?」
ヒースは聞き慣れない言葉に、首を小さく傾ける。
「そうだ。我が家は過去に王家から依頼され広大なポケモンの保護区や古代の遺物の管理など、名誉と引き換えに金ばかりかかる事業をいくつも背負ってきた。……だが親族も減り、手も資金も足りない。私はこの肩書と負の遺産を、国や適切な機関へ正しく分割・譲渡して、綺麗に返上したいのだよ」
「……」
「だがな、パルデアの法規上、直系の血筋が生きている限り家名の返還は認められない。私に子がいればまだしも、我々夫婦には子供が恵まれなかった。このまま私が死ねば、顔も見たことがない遠縁の者にこの重荷と複雑な利害関係がのしかかり、家は醜く食い荒らされるだろう」
トレニアは、どこか寂しげに、けれど決意の籠もった目でヒースを見つめた。
「そこでだ。私どもの『養子』……形式上は『孫』としてリヴィングトンに入り、私と共にこの家の始末……『家仕舞い』を手伝ってくれる、信頼できる若者を探していたのだよ」
唐突で大きすぎる話に、ヒースは息をのんだ。
アカデミーの一生徒に過ぎない自分に、なぜそんな重厚な家の後始末を託そうとするのか。
そこで、隣に座るアリッサムが扇子をパチンと静かに閉じ、口を開いた。
「ヒース。リヴィングトン家が求めるのは、家財を欲しがる野心家ではないわ。文書や歴史に対して誠実で、細やかで……そして」
アリッサムはほんの少し言葉を濁し、気遣うようにヒースへ視線を向けた。
「……将来的に、自らの直系の子孫を残すことのない立場である者よ。……分かるわね?」
先生が気を遣ってぼかしてくれた意図を、ヒースはすぐに理解した。
ナッペ山で傷つき、故郷を追われる原因となった、自身の根底にある秘密。
ヒースは一瞬だけぎゅっと拳を握りしめたが、逃げずに、ゆっくりと顔を上げた。
静かなオリーブグリーンの瞳で、トレニアとダフネの目をまっすぐに見つめ返す。
「……はい。アリッサム先生、お気遣いありがとうございます。……トレニア様、ダフネ様。僕には、女性を愛することはできません。男性が好きです。ですから……僕がどなたかと結ばれたとしても、この家に直系のお子を残すことは叶いません」
自分の弱みとも言えるセクシャリティを、包み隠さず、静かで誇りある声で打ち明けたヒース。
その言葉を聞いた瞬間、トレニアとダフネの表情が和らいだ。
「……素晴らしいな。ごまかさず、自分という存在と誠実に向き合っている」
トレニアが感心したように深く頷けば、ダフネもまた柔らかな笑みを深めた。
「ええ。アリッサムから聞いた通りの、本当にまっすぐで素敵な子ね。自分の事情を言い訳にせず、堂々と相手に伝えられる……その『誠実さ』こそ、私たちが何よりも求めていたものよ」
ダフネは優雅に紅茶のカップを置くと、ヒースへ向けてふんわりと微笑みかけた。
「もちろん、あなたにだけ苦労をさせるつもりはないわ、ヒースくん。あなたがリヴィングトンの名を引き受けてくれるなら、相応のメリットを用意させて戴戴くわ」
ダフネは指を一本立てた。
「まず一つ。あなたがアカデミーを卒業するまでの学費は、すべてリヴィングトン家が全額負担します。……今借りている奨学金も、返済義務を含めてすべて私どもで完済させるわ。学業と、あなたの好きな歴史の研究に何一つ不自由はさせないわよ」
「っ……学費を、全額……!?」
奨学金の返済に不安を抱いていたヒースにとって、それは喉から手が出るほどありがたい、けれど破格すぎる申し出だった。
「そして、もう一つ。……『リヴィングトン』の姓を名乗ることそのものよ」
ダフネはうっとりとした口調で、けれどその奥に凄まじい策士の切れ味を秘めた瞳で微笑んだ。
「単なる『歴史ある家柄の箔がつく』なんて生易しいものじゃないわ。……このパルデアの、特に特定の業界や古い名家の方々にとっては……リヴィングトンの名を背負う人間というだけで、相応の警戒と恐怖を抱くはずよ。……ふふ、まあ、これはおまけのようなものだけれどね」
意味深にクスクスと笑うダフネ。
その一瞬見せた春の陽だまりの中に吹いた一陣の北風のような冷たさに、ヒースは背筋が寒くなるような、けれど抗いがたい知的な凄みを感じていた。
「どうだい、ヒースくん」
トレニアがヒースに問いかける。
「急な話で驚いたろう。すぐに答えを出す必要はない。だが……私どもは、君という若者をとても気に入っているよ」
広間には、白磁のカップから立ち上る紅茶の湯気と、重厚な沈黙が流れていた。
ヒースは自分の手元と、自分をまっすぐに見つめる二人の顔を、交互に見つめ返していたのだった。
