ヒース・リヴィングトンの物語


🌹 閑話:黒い戦闘服と、静寂の氷
前編:『準備編』
リヴィングトン邸の鏡の間。
ヒースの身を包むのは、この日のために誂えられた濃紺のスリーピースだった。
夜空のように深い紺色は、ヒースの素朴さを消し去り、洗練された品格と高貴さを引き立たせている。
左胸のポケットには、折りの美しい白リネンのポケットチーフ。
それは、今まさに隣で悠然と佇む祖父・トレニアとお揃いのものだった。
「ふむ……実にサマになっているではないか」
トレニアが満足げに髭を撫でる。
以前、コジオの誕生時に寝癖だらけで叱られた黒髪は、丁寧に梳かされて後ろへと美しく流され、すっきりと額が出されていた。普段の穏やかな印象から一変し、隠されていた眉根の凛々しさと、澄んだオリーブグリーンの瞳が鮮烈に際立っている。
そこへ、静かな絹の擦れる音とともにダフネが歩み寄ってきた。
息を呑むほど美しいドレスを纏った当主は、ヒースの前に立つと、愛おしそうにその襟元を微調整した。
「素晴らしいわ、ヒース。姿形も、その背筋の伸ばし方も……どこに出しても恥ずかしくない、立派な我が家の『顔』ね」
「……ありがとうございます、ダフネおばあ様」
少し照れくさそうにするヒースに、ダフネはそっと手袋を嵌めた手を添え、ふっと春の陽だまりのように、けれど冷徹な美しさを秘めた笑みを浮かべた。
「覚えておきなさい、ヒース。ドレスもスーツも宝石も、私達にとってはただの飾りではないの。社交界という戦場に赴くための——**『戦闘服』**なのよ」
「……戦闘服」
「ええ。あなたのその姿、その隙のない完璧な装いこそが、相手の無礼な刃を弾き返す最初の盾になるの」
トレニアが「よし」と重厚な声を響かせ、胸を張る。
「ヒース、恐れることは何もない。腹に溜め込んだ知識と、その身を包む装いは完璧だ。堂々と参るとしよう」
「……はい!」
ヒースは深く息を吐き出し、胸の白リネンにそっと手を置いた。
鏡の中に映る自分は、もうただの「運の悪い少年」ではない。リヴィングトン家の矜持を背負った、一人の人間だった。
後編:『本番編』
トラブル1:『甘い毒蜜と澄ました微笑』
光り輝くシャンデリア。名士たちの談笑とグラスの触れ合う音が響く、豪華絢爛なパーティー会場。
トレニアとダフネに連れられ、リヴィングトン家の「新しい顔」として姿を現したヒースに、会場中の視線が集中した。
(あらかじめダフネおばあ様と想定していた通りだ……)
グラスを片手に近づいてきたのは、他家でも老獪さで知られる貴婦人と、その取り巻きたちだった。彼らは品の良い笑みを張り張りつかせながら、品踏みするようにヒースを上から下まで見つめる。
「まあ、ダフネ様。こちらが噂の……お可愛らしいお孫様ですの?」
「ええ。私の大切な養子、ヒースですわ」
ダフネが優雅に微笑んでヒースに視線を送ると、ヒースは胸元に手をおき、完璧な角度で深く優雅なお辞儀をした。背筋のライン、指先の揃え方まで一切の乱れがない。
「ヒース・リヴィングトンと申します。お目にかかれて光栄です」
完璧な挨拶に一瞬言葉を詰まらせた貴婦人だったが、すぐに扇子で口元を隠し、甘ったるい毒を含んだ声で畳みかけてきた。
「まあ、なんて素晴らしい所作でしょう。……けれど、ふふ。こんなにも洗練されたお坊ちゃまが、以前はどちらの……失礼、どのような『田舎の貧しいお生立ち』でいらしたのかしら? 一体どういう風の吹き回しで、あの恐ろしい『呪い』を扱うリヴィングトン家のお養子になられたのか、私、気になって夜も眠れませんの」
周りの取り巻きたちが、くすくすと嫌らしい含み笑いを漏らす。
(「血筋と素性」を洗うネチネチ攻撃……完全にダフネおばあ様の予想通りだ)
あらかじめ「故郷のことは一切明かすな。有象無象に情報を渡す必要はない」と固く言い渡されていた。
普通の少年なら、自分の生い立ちを侮辱されたことに動揺し、顔を赤くするか、言い淀んで隙を見せてしまう場面。
だが、ヒースの頭の中にはダフネの言葉が静かに響いていた。
『どんなに胸の中で感情が渦巻いていても、表面は優雅に、澄ました顔で微笑んで見せること』
ヒースはオリーブグリーンの瞳を静かに細め、完璧な角度でふっと優雅に微笑んだ。
動揺も、怒りも、怯えも一切見せない。まるで相手の言葉が「ただの退屈な挨拶」であるかのように。
「ご心配いただき、恐縮です。……ただ、我がリヴィングトン家におきましては、過去の生い立ちよりも『これからどのような知性と覚悟を持って家業を全うするか』こそが、何より重んじられております」
「……な、なんですって?」
「私の故郷や過去について夜もお眠りになれないほどご興味をお持ちくださるお心遣いは感謝いたしますが……どうか今夜は、あまりご無理をなさらず、ぐっすりとお休みになられますよう」
ヒースは全く乱れない澄ました顔で、むしろ相手の体調を優雅に気遣うトーンで完璧に言い返した。
遠回しな**「あなたのくだらない興味につきあう気はないから、黙って寝ろ」**という極上の皮肉。
「つ、気遣い……?? ッ……」
貴婦人は顔を真っ赤にし、扇子を握りしめたまま絶句した。
周りの取り巻きたちも、あまりに隙のない美しすぎる対応に、もはや茶化す言葉すら失っている。
少し離れた場所でグラスを傾けていたダフネは、春の陽だまりのようにあたたかく、そして月のように悪戯っぽく「くふくふ」と可憐に微笑んだ。
トラブル2:『庭園の夜風と、静寂の氷』
無礼な貴婦人を優雅に退けたヒースに、ダフネは満足げな笑みを深めていた。
「ヒース」
ふと、重厚な声に呼ばれて振り向くと、会場の大きな窓辺に佇むトレニアが、グラスを手に夜の庭園を見下ろしていた。ヒースは「失礼いたします」と周囲に会釈し、そっと祖父の隣へと歩み寄る。
「……おじい様」
「ふむ。見事な返答だったぞ、ヒース。ダフネの仕込みを実によく自分のものにしている」
トレニアは目を細めて孫を褒めると、視線を窓の外、月光に照らされた広い庭園へと向けた。
「外の子らが、どうにもお前と遊びたくてウズウズしているようだ。……少し立ちすくんで疲れたフリでもして、夜風に当たるついでに揉んでやってきなさい」
「今日は少々暑いからな、ヒース。……確か、アリッサムに相談していたのだろう? 存分にやっておいで」
「……! はい、おじい様!」
トレニアの意図を察したヒースは、胸のポケットチーフをさりげなく整えると、少し疲れたような仕草で額に手を当て、自然な動作でテラスの扉から夜の庭園へと出て行った。
月明かりと街灯が優しく照らす庭園。
ひんやりとした夜風に当たっていると、草むらの影から忍び寄る複数の足音が聞こえた。
「やあ、リヴィングトン家の『新しいお坊ちゃま』。パーティーの熱気にやられて疲れてしまったかい?」
現れたのは、ヒースと同世代くらいの着飾った少年たちだった。口元に嫌らしいニヤニヤ笑いを浮かべ、わざとらしく胸を張っている。
中心に立つ少年が、勝ち誇った顔でモンスターボールを投げ放った。
「さあ、自慢の手持ちを出したらどうだ! 焼き払われて泣き出しても、誰も助けてくれないぞ!」
光とともに姿を現したのは、メラメラと燃える炎を纏うブーバーだった。
(……ブーバー? 僕の手持ちが『草タイプ』中心だって知っている……?)
ブーバーを出された瞬間に、ヒースの頭の中でパズルのピースが繋がった。
ただの嫌がらせなら、もっと一般的なポケモンを出してくるはずだ。ピンポイントでこちらの弱点を突いてきたということは——アカデミーでの僕の情報が、彼らの手に渡っている。
(……情報漏洩か。アカデミー内に彼らの手のものがいるのかもしれない。……あとでおじい様たちに相談しよう)
ヒースは顔色一つ変えず、冷ややかなオリーブグリーンの瞳でブーバーを見つめると、腰のボールを迷わず一つ取った。
「お願い、ユキ」
光の中から現れたのは、愛くるしい姿のユキカブリ(ユキ)だった。
相手の少年たちは一瞬目を疑い、直後にお腹を抱えて大爆笑した。
「ハハハ! バカじゃないのか!? ユキカブリは『くさ・こおり』タイプだぞ!? ブーバーの炎を受けたら4倍ダメージだ! 相性も分からないでリヴィングトンを名乗っていたのか!」
「燃やし尽くせ、ブーバー!『かえんほうしゃ』!!」
激しい炎の濁流が夜の庭園を照らし、ユキカブリの体を包み込む。
少年たちが勝利を確信して勝ち誇った笑みを浮かべた——その時。
「……ユキ、『ねむる』」
炎が晴れた中心で、ユキカブリは小さな体を丸め、規則正しい寝息を立てていた。4倍のダメージを負いながらも、圧倒的な体力回復によって、負った傷と炎の熱を完全にリセットしてみせたのだ。
「なっ……!? 『ねむる』だと!?」
相手が絶句した瞬間、ユキカブリの目がパチッと開いた。
「起きたね。……『みずのはどう』」
「ユキッ!」
ユキカブリの手から放たれた高圧の水しぶきが、丸腰のブーバーを直撃する。炎ポケモンにとって予期せぬ水属性の猛攻に、ブーバーは悲鳴を上げて大きくよろめいた。
「ヒッ、水技なんて聞いてないぞ……っ! 怯むな、もう一度火を——」
「弱点の対策なんて、できていて当たり前です」
相手の指示を遮るように、ヒースの声が夜の静寂に低く響いた。
普段の温厚な少年はそこにはいない。アリッサムの論理を宿した、冷徹なトレーナーの顔だった。
「ずぶ濡れの身体に……『こごえるかぜ』」
ユキカブリが息を吹き出すと、直前に「みずのはどう」で濡れそぼっていたブーバーの全身が一瞬で凍りつき、まるで美しい氷の彫刻のようにカチコチに固まった。分子運動ごとフリーズさせられたブーバーは、指一本動かせず倒れ込む。
「……っ……あ……っ」
圧倒的な完封劇。
炎を対策し尽くしたロジックの前に、少年たちは言葉を失い、恐怖でガタガタと震え出した。
ヒースはすっかり冷え切った夜風の中で、ユキカブリを優しく抱き上げると、相手に向かってダフネ直伝の完璧で澄ました微笑みを向けた。
「お見苦しいところをお見せしました。……今日は少々暑いですから、みなさんも冷たいお水でも飲んで、頭を冷ややされた方がよろしいかと」
「ひっ……!!」
逃げ出すように去っていく有象無象の背中を見送りながら、ヒースはふうと息を吐いた。
テラスの窓からその光景を見ていたトレニアは、豪快にグラスの酒を飲み干して「くはは!」と満足げに笑い、ダフネは春の陽だまりのように「くふくふ」と可憐に目を細めるのだった。
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