ヒース・リヴィングトンの誕生
テーブルシティを見下ろす、日当たりの良いテラス席。 格式ある高級紅茶店のテーブルには、湯気を立てる極上の紅茶と、美しい白磁のティーカップが置かれていた。
「——というわけでね。あの人はもう、心底うんざりしているのよ」
そう言ってふくよかな口元を緩めたのは、リヴィングトン家当主夫人、ダフネ・リヴィングトンだった。 50代半ばを過ぎてもなお、彼女の周りには春の陽だまりのような温和で穏やかな空気が漂っている。
対面に座るのは、背筋をピンと伸ばし、優雅に扇子を揺らすオレンジアカデミーの歴史教師、アリッサム。 悪の女王を思わせる鋭くも美しい佇まいで、ダフネの言葉に静かに耳を傾けていた。
「『もういいか』、ですか。トレニア様らしいといえば、らしいわね」
「ええ。代々引き継いできたポケモンの保護区に、管理の難しい古代の遺物……。若い頃は血気盛んに立ち向かっていたけれど、親族も減って手も資金も足りなくなってきたでしょう? 直系の血筋が途絶えない限り家名を国に返上することも叶わない。ルールとはいえ、つくづく嫌になるわ」
ダフネは微笑みを浮かべながら、優雅に砂糖をひとつ、カップへ落とした。 その穏やかな語り口の裏には、リヴィングトンのブレーンとして長年家を支え、数々の厄介事を裏で処理してきた策士としての切れ味が隠されている。
「お互いに子供には恵まれなかったものね。あの人は自分が死んだあとに、見知らぬ遠縁へこの重荷が引き継がれるのを何より恐れているのよ。だからこそ……自分の代で、綺麗に『家仕舞い』をつけたいの」
「家仕舞い、ね……」
アリッサムは冷ややかな青い瞳を少しだけ細め、紅茶に口をつけた。 幼少時代からの長い付き合いであり、互いに生きる世界は違えど、心置きなく本音を語り合える唯一無二の親友。
ダフネの背負う苦労も、その夫・トレニアの苦悩も、アリッサムは重々承知していた。
「で? 養子をとって、その子に手続きの一切を委ねるつもりかしら。でもダフネ、生半可な野心を持った者を入れれば、リヴィングトンの残存財産を食い荒らされて終わるわよ」
「ええ、もちろん。だからこそ、困っているの。求めるのは野心家でも豪傑でもないのよ。ただ……文書や歴史に誠実で、細やかで、約束を守れる子。そして……」
ダフネはふっと、どこか愛おしそうな目をした。
「……これから先の時代、直系の子孫を残すことに縛られない子。その子が自分の人生を誇り持って生きられる『名誉』と『居場所』を、あの人は与えたがっているの」
アリッサムの手が、ぴたりと止まった。
カチャリ、と繊細な音を立ててティーカップを皿に戻す。 アリッサムの脳裏に、夏の歴史資料室での光景が浮かんでいた。
ナッペ山から降りてきた、眼鏡をかけた若い学生。 故郷で心ない噂に傷つき、人目を避けるように静かに内に籠もっていた少年。
『ナッペ山の吹雪は、音を奪うんです。だから、本を読むのにちょうどいい』
そう言って静かに微笑んでいた、あの繊細な眼差し。
「……ダフネ」
アリッサムは扇子を静かに閉じると、膝の上でトントンと叩いた。
「一人、心当たりがあるわ」
「あら?」
「オレンジアカデミーの私の教え子よ。ナッペ山出身の、ヒースという子」
ダフネは興味深そうに首を傾げた。
「ナッペ山……。まあ、トレニアが若い頃に散々走り回った場所ね」
「その子はね、自分のセクシャリティのことで故郷に居場所を失い、逃げるようにアカデミーへ来たの。……直系の子を作るつもりはないわ、きっとね」
アリッサムの声は厳格だが、どこか深い温かみが宿っていた。
「真面目で、観察眼に優れ、言葉を何より大切にする子よ。手持ちのポケモンに対しても、勝つためではなく『その子の良さを活かすため』に細やかな工夫を重ねる努力家だわ。……何より、無駄な野心がない」
ダフネは顎に手を当て、アリッサムの言葉をひとつひとつ吟味するように味わった。
「故郷を失った子……。言葉に誠実で、無駄な野心がない……」
「ええ。トレニア様の『孫』として迎えるには、これ以上の逸材はないと思うけれど?」
ダフネの唇が、ゆっくりと綺麗な三日月を描いた。 相手の懐に入り込み、本質を見抜くブレーンとしての瞳が、優しく輝く。
「ふふ……アリッサムがそこまで買い被るなんて、珍しいわね。よほど良い子なのね」
「……ただの、寒がりで不器用な生徒よ。5本指ソックスの有難みも、まだ理解していないようだしね」
「まあ、なにそれ」
ダフネはコロコロと上品に笑った。
「いいわね。ぜひ、そのヒースという子に会わせてちょうだい。あなたが気にいるくらいだもの、あの方も、きっと一目で気に入るわ。失った居場所の代わりに、私たちが最高の『家族の愛』と『居場所』をあげなくちゃね」
春のテーブルシティの風が、二人のいるテラスを優しく吹き抜けていく。
居場所を失った一人の少年と、歴史の幕を閉じようとする古い名家。 二つの運命が静かに交差し、「ヒース・リヴィングトン」の物語が動き始めた瞬間だった。
「——というわけでね。あの人はもう、心底うんざりしているのよ」
そう言ってふくよかな口元を緩めたのは、リヴィングトン家当主夫人、ダフネ・リヴィングトンだった。 50代半ばを過ぎてもなお、彼女の周りには春の陽だまりのような温和で穏やかな空気が漂っている。
対面に座るのは、背筋をピンと伸ばし、優雅に扇子を揺らすオレンジアカデミーの歴史教師、アリッサム。 悪の女王を思わせる鋭くも美しい佇まいで、ダフネの言葉に静かに耳を傾けていた。
「『もういいか』、ですか。トレニア様らしいといえば、らしいわね」
「ええ。代々引き継いできたポケモンの保護区に、管理の難しい古代の遺物……。若い頃は血気盛んに立ち向かっていたけれど、親族も減って手も資金も足りなくなってきたでしょう? 直系の血筋が途絶えない限り家名を国に返上することも叶わない。ルールとはいえ、つくづく嫌になるわ」
ダフネは微笑みを浮かべながら、優雅に砂糖をひとつ、カップへ落とした。 その穏やかな語り口の裏には、リヴィングトンのブレーンとして長年家を支え、数々の厄介事を裏で処理してきた策士としての切れ味が隠されている。
「お互いに子供には恵まれなかったものね。あの人は自分が死んだあとに、見知らぬ遠縁へこの重荷が引き継がれるのを何より恐れているのよ。だからこそ……自分の代で、綺麗に『家仕舞い』をつけたいの」
「家仕舞い、ね……」
アリッサムは冷ややかな青い瞳を少しだけ細め、紅茶に口をつけた。 幼少時代からの長い付き合いであり、互いに生きる世界は違えど、心置きなく本音を語り合える唯一無二の親友。
ダフネの背負う苦労も、その夫・トレニアの苦悩も、アリッサムは重々承知していた。
「で? 養子をとって、その子に手続きの一切を委ねるつもりかしら。でもダフネ、生半可な野心を持った者を入れれば、リヴィングトンの残存財産を食い荒らされて終わるわよ」
「ええ、もちろん。だからこそ、困っているの。求めるのは野心家でも豪傑でもないのよ。ただ……文書や歴史に誠実で、細やかで、約束を守れる子。そして……」
ダフネはふっと、どこか愛おしそうな目をした。
「……これから先の時代、直系の子孫を残すことに縛られない子。その子が自分の人生を誇り持って生きられる『名誉』と『居場所』を、あの人は与えたがっているの」
アリッサムの手が、ぴたりと止まった。
カチャリ、と繊細な音を立ててティーカップを皿に戻す。 アリッサムの脳裏に、夏の歴史資料室での光景が浮かんでいた。
ナッペ山から降りてきた、眼鏡をかけた若い学生。 故郷で心ない噂に傷つき、人目を避けるように静かに内に籠もっていた少年。
『ナッペ山の吹雪は、音を奪うんです。だから、本を読むのにちょうどいい』
そう言って静かに微笑んでいた、あの繊細な眼差し。
「……ダフネ」
アリッサムは扇子を静かに閉じると、膝の上でトントンと叩いた。
「一人、心当たりがあるわ」
「あら?」
「オレンジアカデミーの私の教え子よ。ナッペ山出身の、ヒースという子」
ダフネは興味深そうに首を傾げた。
「ナッペ山……。まあ、トレニアが若い頃に散々走り回った場所ね」
「その子はね、自分のセクシャリティのことで故郷に居場所を失い、逃げるようにアカデミーへ来たの。……直系の子を作るつもりはないわ、きっとね」
アリッサムの声は厳格だが、どこか深い温かみが宿っていた。
「真面目で、観察眼に優れ、言葉を何より大切にする子よ。手持ちのポケモンに対しても、勝つためではなく『その子の良さを活かすため』に細やかな工夫を重ねる努力家だわ。……何より、無駄な野心がない」
ダフネは顎に手を当て、アリッサムの言葉をひとつひとつ吟味するように味わった。
「故郷を失った子……。言葉に誠実で、無駄な野心がない……」
「ええ。トレニア様の『孫』として迎えるには、これ以上の逸材はないと思うけれど?」
ダフネの唇が、ゆっくりと綺麗な三日月を描いた。 相手の懐に入り込み、本質を見抜くブレーンとしての瞳が、優しく輝く。
「ふふ……アリッサムがそこまで買い被るなんて、珍しいわね。よほど良い子なのね」
「……ただの、寒がりで不器用な生徒よ。5本指ソックスの有難みも、まだ理解していないようだしね」
「まあ、なにそれ」
ダフネはコロコロと上品に笑った。
「いいわね。ぜひ、そのヒースという子に会わせてちょうだい。あなたが気にいるくらいだもの、あの方も、きっと一目で気に入るわ。失った居場所の代わりに、私たちが最高の『家族の愛』と『居場所』をあげなくちゃね」
春のテーブルシティの風が、二人のいるテラスを優しく吹き抜けていく。
居場所を失った一人の少年と、歴史の幕を閉じようとする古い名家。 二つの運命が静かに交差し、「ヒース・リヴィングトン」の物語が動き始めた瞬間だった。
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