霊界探偵編

第一幕



 
​ 第一幕 三つの顔を持つ女・月華げっか
 
​「闇の三大秘宝?」
 
​ その“仕事”の話を聞かされたのは、彼の家で夕飯の支度をしていた時だった。
 出し抜けに投げつけられた物騒な単語に指先が跳ね、鍋の中に醤油がひと筋多く滴り落ちる。

「いきなり何を……。盗賊は、もう足を洗ったんじゃなかったの?」

 私は慌てて水を足し、お玉で味を整えながら問い返す。この数年、人間・南野秀一として生きる彼に、かつての妖狐の影を重ねることは少なくなっていた。

​「霊界大秘蔵館の情報収集と結界の解除を、月華――お前に手伝ってほしい。結界を操る情報屋『青華せいか』として」

​ 冗談めかして笑い飛ばそうとしたが、隣に立つ彼は眉一つ動かさず、とんでもないことを口にした。驚きに私の長い黒髪が小さく揺れる。

「あんた、本気?  ――っていうか、正気なの?」
「本気だし、正気だ。それに、冗談を言える状況でもない」

​ 闇の三大秘宝。降魔の剣、餓鬼玉、そして暗黒鏡。
 人間界の三種の神器になぞらえられた、魔の秘宝。
 かつて魔界にいた私にとって、それらはおとぎ話ではない。特に『暗黒鏡』は、満月の夜に命と引き換えに願いを叶えるという、最悪の代償を求める呪具だ。
 そこまで考えを巡らせて、私は目の前の男が何をしようとしているのかを痛いほどに理解した。
 
​「まさか……志保利さん、そんなに……?」
「このままだと、あと一ヶ月ももたないらしい」
 
​ 彼――蔵馬は、絞り出すような悲痛な声で言った。
 私は鍋の火を止め、その瞳をまっすぐに見つめる。そこには焦りと自分自身への苛立ち、そして、何ものにも揺るがない強固な覚悟が浮かんでいた。

 ……何を言っても無駄だと、瞬時に悟る。
 
 十六年前、死にかけの得体の知れない妖怪だった私を拾い、家族として愛してくれたのは人間だった。「霧夜小春きりやこはる」という名をくれた私の家族。彼らから教わった「愛情」を、蔵馬もまた、志保利さんから受け取ったのだろう。
 このまま放っておけば、こいつは間違いなく鏡に自分の命を差し出す。そんな最悪の結末、許せるはずがない。彼が死んだら、あの優しいお母さんがどれほど悲しむか。

​「……分かった」
「止めないんだな」
「止めたところで、あんたは聞かないでしょう?  なら、せめてこれ以上とんでもない無茶をしないように、私が見張っとかなきゃ」

 霊界から秘宝を盗む。そんな大博打、こいつ一人で行かせる訳にはいかない。

「でも、少し時間を頂戴。準備に……そうね、三日あればいいわ」
「ああ、頼む。それと――これから一緒に盗みをする連中と合流するんだ。『助っ人』を連れて行くって言ってある、付いて来てくれ」
「えぇ?  今から!?  ……あんた、最初から私を巻き込むつもりだったわね……」
 
​ 例え私が断っても、彼は言葉巧みに私を丸め込み、無理やりにでも参加させるつもりだったのだろう。
 その用意周到さに、私はじとっとした視線を投げつける。だが、彼は私の抗議をさらりと受け流し、確信犯的な笑みを浮かべて言い放った。

「支度してきて。すぐ隣だろう? おばさんに怒られないうちに。その煮物は後で食べるとしてね」
​「……はいはい、分かりましたよ、狐さん。本当、性格が悪いんだから……」
 
 とりあえず、鍋の中の里芋の煮物はまだ食べられないらしい。
​ 私はエプロンを脱ぎ捨て、隣にある霧夜の家へと足早に向かった。
 これから会うのは、蔵馬が選んだ「共犯者」たちだ。
 人間・霧夜小春のままでは、魔界の猛者たちに舐められるのは目に見えている。
 
 私は自室のクローゼットの奥から、この数年使っていない古びたローブを取り出し、頭からかぶった。
 鏡の前で、ハーフアップにしていた髪を解き、首元で一つに括る。
 そこに映るのは、愛される人間の娘の「小春」ではない。かといって、冷徹な情報屋「青華」にもなりきれていない。
 ただ、蔵馬という一人の男に、その真実の名を呼ばれることを許した、一匹の妖怪としての「月華」の顔だ。
 一度目蓋を閉じ、頭を振る。切り替えなければ、この平和な日常から、闇に生きるあやかしへ。
 再び鏡に映る自身を見据え、「青華」の冷徹な瞳を確認すると、私は闇へと身を躍らせた。
 
   ***
 
 ベランダで待っていた蔵馬と共に、屋根の上を駆け抜ける。しばらく駆けていると家並みが途切れ、代わりに裸の木が並ぶ寒々しい森へ出た。
 住宅街の喧騒が遠のき、静まり返った森の冷気がローブの隙間から入り込む。
 先を行く蔵馬の背中は、南野秀一としての柔らかな輪郭を削ぎ落とし、獲物を狙う鋭い「狐」のそれへと変貌していた。
​「――来たか」
​ 森の開けた場所、ひときわ大きな枯れ木の枝に、その影はいた。
 低く、地を這うような声。
 飛び降りると同時に、刃のような鋭い視線が私の全身を貫く。飛影だ。
 
​「……蔵馬。貴様の言う『助っ人』とはそれか?」
 
 飛影は私の前で足を止めると、鼻で笑うように吐き捨てた。
 
「妖力はカス同然。蔵馬、貴様の鼻も人間界の空気に腐ったか?」
 
​ その言葉が終わるより早く、背後から地響きのような足音が迫る。
 
「おいおい、冗談だろ?  こんな吹けば飛ぶような小娘が、霊界の結界を破るってのか」
 
 現れたのは、岩のような筋肉を震わせる巨漢――剛鬼だ。彼は私を見下ろし、威圧するように拳を鳴らした。

 ローブのフードを深く被り直し、蒼い瞳で剛鬼の膝の古傷と、飛影の重心の癖を冷めた目で見据え、挑発的に言い返した。
 
​「図体だけは立派ね、剛鬼。でも、霊界の結界を力任せにこじ開けるつもり?  その瞬間に警報が鳴って、あんたの首は霊界特防隊の槍で飾られることになるわよ」
「……あァ!? 今、何て言いやがった、もういっぺん言ってみろ!」
「聞こえなかったの? 図体がでかいだけの脳筋じゃ、すぐにその首は胴体から離れるわよって言ったの」
「っ……!てめえ!!」
 
​ 剛鬼の低い唸り声が、夜の森に響く。
 丸太のような腕が振り上げられたかと思うと、猛烈な風圧とともに巨大な拳が私の顔面目掛けて突き出された。
 
​​「――『拒』」
 
 私は瞬き一つせず、スッ、と手を掲げ小さく呪文を呟く。
 衝突の直前、私の目の前の空間がわずかに歪んだ。
 瞬間、耳をつんざくような高音が響き、剛鬼の拳が目に見えない「壁」に阻まれて止まる。

​「なっ……!?」
「いいの? そんなに大きな音を立てて。霊界の人間が近くまで来ているわよ」

​ 私は冷ややかに告げた。
 実際には、今の結界は剛鬼の怪力に耐えられるほど強固ではない。拳の勢いをわずかに「逸らした」だけに過ぎないのだ。だが、剛鬼からすれば、自分の全力の一撃を小娘に指一本で止められたように見えたはずだ。

「このアマ……小細工をッ!」

 顔を真っ赤にした剛鬼が、さらに力を込めようと踏み込んだその時。

「そこまでだ、剛鬼。彼女に手を出すのはやめてもらおうか」

 蔵馬の冷徹な声が響くと同時に、ヒヤリとした、刃のような妖気が剛鬼の喉元をかすめる。剛鬼は忌々しげに拳を引いたが、その目は依然として私を疑い、品定めするように見つめていた。

​「おい蔵馬。……まさか、お前の言ってた『結界の専門家』ってのは、このガキのことかよ?」

​ 蔵馬は一歩前に出ると、私の肩に軽く手を置いた。その手は、先ほどまでの「秀一」の温もりとは違う、冷たく、それでいて心強い重みがあった。

「ああ。紹介しよう。彼女が、僕がこの計画に不可欠だと言った助っ人だ」

​ 蔵馬が、私の目をまっすぐに見つめ、一拍置いてからその名を呼んだ。

「――月華」
​「……あァ? 『月華』?  なんだそいつは。聞いたこともねえぞ」

 剛鬼が鼻で笑い、飛影もまた「無名の小娘か」と言わんばかりに目を細める。
​ 私はフードの下で口角をわずかに上げた。蔵馬はあえて、私の「本名」をこいつらの前で呼んだのだ。自分と同等の、対等な「妖怪」として扱うために。
 私は蔵馬の期待に応えるべく、一歩前に出る。

​「あんた達には、こっちの名前の方が馴染み深いかもね。――情報屋の『青華』」
​「……っ!! 」

 その名が出た瞬間、剛鬼の表情が劇的に変わった。
 大きな顎がガクリと下がり、血走った目がこぼれんばかりに見開かれる。

「せ、青華ァ!?  嘘つけ!  あの血も涙もねえ妖怪ババアが、こんなガキだってのかよ!?」

​ 驚いたのは剛鬼だけではなかった。
 先ほどまで無関心を装っていた飛影の瞳に、鋭い光が宿る。

「……ほう。死人の口からでも情報を聞き出すという、あの胡散臭い情報屋か」

​ 飛影の言葉に、私は努めて冷ややかに言い放った。

「光栄ね、お二人さん。私の噂、悪いことばかりじゃなかったみたいで」

 蔵馬はそんな私の横顔を、どこか楽しげに、そして誇らしげに見守っている。
 
​ そして私は、剛鬼の失礼な言い草に鼻で笑って返した。
 
​「それに、悪かったわね、ババアじゃなくて。……でも、私の結界がなければ、あんたたちが秘蔵館の奥に辿り着く前に、霊界特防隊に囲まれて終わりよ。それでもいいなら、今ここで私を追い出せば?」
「…………チッ、勝手にしやがれ」

 剛鬼はそれ以上は反論せず、腹立たしげに木の根元に座りこんだ。

  一方で、飛影は依然としてその鋭い視線を外さない。彼は音もなく私の側まで歩み寄ると、耳元で冷たく囁いた。

「……小細工は一度きりだ。足手まといになれば、霊界の槍より先に俺の剣が貴様の喉を裂くぞ」
「……肝に銘じておくわ」

 私はフードの奥で、微かに微笑わらって返した。その脅しさえ、かつての魔界では日常の挨拶のようなものだったから。

​「決まりだね」

 場を支配する空気の変化を読み取り、蔵馬が静かに、だが拒絶を許さないトーンで告げた。

「決行は一週間後。三日後に一度打ち合わせをする……月華、頼んだよ」
「ええ。あんたたちが死なないように、精々いい道を作ってあげるわ」

私達の決死の大博打は、今、こうして幕を上げた。
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