オトモダチ計画
………
序章
………
仙境の端。一歩進めば人間界へと入るその場所で、一人の青年が深く頭を下げる。
「果心師匠、ここまで送ってくださりありがとうございました」
形の良いツンととがった唇は紅葉のように紅く、ふくらみをもっていた。青年のその唇が柔らかに弧を描く。
深い緑の木々が連なる森には小さな妖精が多くいた。二人を囲うようにこちらを眺めている。頭を下げた時、好奇心が多い妖精から順によじよじと足から登ろうとしてくるのがわかって、青年はクスリと笑った。とろけるような優しい仕草で足元の妖精を地面へ降ろし、顔を上げる。
「一緒に行ってやりたいが、間違いなく今“あいつら“が千里眼を使って俺らのこと監視してるだろうからな…ん、紫穏]、そのガラクタまだ捨ててなかったのか」
弟子の薬指にはめられた木の指輪に気づき、師は嫌いなものを食べたあとのような顔を見せる。師の隠さないその態度に紫穏]は口元を抑えて静かに笑う。
己の指にはめられたその指輪をそっと大切に撫でると胸の奥が満たされると共に、寂しさを感じた。泣きそうな表情を一瞬見せるがすぐに自然な微笑みに戻る。
「これは私の宝物ですから」
その指輪をつくった人を未だ慕っているのが見てとれる。
果心はペッと芝生に唾を吐く。あわてて妖精が果心から離れた。
「お前の正体を知ったとたん簡単に手のひらを返すような最低男の贈り物なんぞ、想い出とまとめて一緒に海へ放り投げてしまえ」
師の教えに背くことはできない。かと言って今更想い人との思い出が詰まった指輪を捨てることも難しい。紫穏]はただ困ったように微笑む。
弟子の心境をよく理解している果心はそれ以上小言は言わず、頑張れと言って人間界へと送り出してくれた。
「今まで、本当にありがとうございました」
ヒンヒンと泣き続ける師弟の頭を撫でてやる。
「録(ろく)、師匠を頼んだよ。この人は酒癖が悪いから心配なんだ」
「ひっぐ、ひぐ………うん…ッ」
「本人の目の前で悪口言うなよ。録、泣き過ぎだ。今生の別れってわけでもないのに」
おさまりかけた涙がまたあふれ出し、ワッと録が声を張り上げる。
「だっ…だって!…師匠がさっきおっしゃったじゃありませんか…ッ仙界を追放された者を追ってはならないという規則があって、それを破ると罰が下る…って…ひぃぃん離れたくないよ紫穏]兄さん――!!」
紫穏]の腰に巻き付こうとした録の顔を果心がつかむ。
「早く行け。ここはオレがくい止める」
「ふふ、困った子だね、録は。師匠、また会えることを祈っています」
紫穏]はもう一度頭を下げ、人間界へと続く道に足を踏み入れる。
青かった空は赤い色に染まる。景色が変わる瞬間、体に粘つく空気を感じた。景色は移り変わり、後ろを振り向くともう仙界の扉は閉じていた。
「え?」
地面がない感覚にヒュッと肝を冷やした。ついクセで指を二本揃え、念じてみる。何も起こらなかった。
体内の神通力の通り道は完全に遮断されているのだから、念じても何も起こりはしない。
もう仙術を使って飛べる体ではなかったのだと、ギリリと悔しげに歯を食いしばる。まさかこんなに早く己の無力さを思い知らされるとは思わなかった。山々に重なる夕日が見える。綺麗な景色だと感慨深くなる余裕はない。重力に従って落ちていく感覚に、紫穏]は涙目で叫ぶ。
「師匠のバカァアアああああぁぁぁーーーーーーーーーーーーーーーーー!」
夕焼けの空に、バカー…バカー…バカー……とこだまする。
紫穏]の師は人間界への扉を開けることができる数少ない仙人だったが、着地点を選ぶのが下手だったことをこの時まですっかり忘れていた。
バキバキバキバキ!
「うっ」
まだ幼く、仙術もろくに使えなかった頃、初めて人間界に連れて行ってくれた時もこうして森に落ちて木に引っかかった。
幼少時と同じ轍を踏んでしまったことを情けなく感じる。ユラユラと左右に揺られながら、落ちる時に背中で折った何本もの枝を眺める。どうりで背中が痛いわけだ。
「あの時は落ちた場所に虎もいたんだっけ…」
昔は果心が守ってくれていたが、これからは一人で身を守らねばならない。仙術を封印され、自己治癒能力も普通の人間と大差のないこの体で。
周囲に熊や虎がいないことを慎重に確認する。身を翻し、一回転して地面へ降りた。
相当な高さから真っ逆さまに落ちた。落ちどころが悪ければ死んでいた。ゾゾっと鳥肌が立つ。
「あなたのおかげで助かった。たくさん枝を折ってしまってすまない」
感謝をこめて大木に触れる。これだけ大きく育った木であれば精霊が宿っていることだろう。よく見ると、幹も枝もうねうねと曲がりくねった特徴を持っていた。曲がりすぎて、蛇のとぐろのよう。根に横になってみると、案外居心地がいい。
その後二百年、ある男と出会うまで、紫穏]はたった一人で山で修行の日々を続けることになるのだった。
[newpage]
………
第一章
仙人、面接に行く①
………
霊和五年八月十日。
体が溶けそうなほどの蒸し暑さだった。
一人は剣の上に、そしてもう一人は雲に座っている。暑さなど全く感じさせず気持ちよさそうに羽ばたいているヒヨドリを数羽抜き、二人は空を横切る速さで飛んでいた。
少年が暑さにやられて疲弊しているのに対し、先頭の深い紅色の長衣を身にまとった美しい長髪の男は汗ひとつかかず、背筋を伸ばしている。
後ろの少年がうめくように言う。
「お師匠、目的地はまだ遠い?そろそろオレ、蒸発して消えちゃうかもしれないです」
「消えるワケないだろ」
「熱中症で死んだら、墓は遊園地あたりでお願いします」
「仙界にも冥界にも存在しない施設を指定するな」
「人間界にはあるでしょう?」
この子供は相手が誰であろうとからかいの対象にしようとする。これ以上戯言につきあってられんとばかりに先導を行く師は速度を速め、急降下する。賢い雲が引き離されないよう追った。
静かになった弟子を横目で確認する。弾力のある雲の上に四肢を投げだし、タコのような状態でうつぶせになって「はひぃ、熱い、はひぃ」と嘆いている。師はやれやれとため息を吐いた。
ピチョン。
汗だくの少年は指先が水辺に触れたのを感じた。
「なんか…涼しい?」
頬を無常に打ちつけていた熱風が、突如ひんやりとした優しい風に切り替わった。暑さで消費した気力がむくむくと回復してくる。顔を上げると目の前には紺碧の世界が広がっていた。湖を囲む緑の木々が連なる森に入ったのだ。
空を飛ぶこの雲には意志があり、乗っている主人が少しでも涼めるようにと湖面スレスレの距離で飛んでくれていた。
喜びを顔いっぱいに表し、少年は紺碧の湖に手を伸ばした。ザザザザザ…と湖面にまっすぐの白い線が走るのを見て楽しむ。
雲は少年が落ちないよう己の厚みを平べったく変化させ、面積を大きくしようと頑張りを見せていた。
「白虎、落ちるぞ」
「はーい」
十分に手を冷やすことはできた。腕をひっこめ、濡れた手をピッピと上下に振って水気を飛ばす。
木々が生い茂る隙間を埋めるようにいたるところに芝生が生えている。師はピタリと剣を止めた。
雲は少年を落っことしてしまわないようキキキ、とブレーキを少しずつかけて木にぶつかる直前で止まる。
「白虎(びゃっこ)、今後の計画を簡単に話す。そこに座りなさい」
弟子はぴょんと飛んで芝生の上に降り立った。ふわふわとしていて、足踏みを数回してから、ちょうどいい高さの大木の根に座る。
丸いものがよじよじと弟子の膝に登ってきた。顔はなく、丸い体に手足がにょきっとはえている。
「うわっなんだ?お前たち」
「妖精だ」
掌に乗るくらいの小さい奴らだった。その気になれば蚊を殺すように手のひらでパンとやれば潰すことができそうだったので、追い払うことはせずによじのぼってくる彼らの好きにさせた。
なんだか可愛く見えてきて、妖精の頭を親指でウリウリと数回撫でる。喜んでいるのか、妖精の頭からコロコロ、パチパチとビー玉が転がったりぶつかり合ったりするような音が断続的に聞こえてきた。
「人間界ではまず仕事と居住地を手に入れる。仙術の修行はそのあとだ。居住地が見つかるまでお前は猫の姿で俺の近くに待機していろ」
弟子は唇を引き上げポカンと師を見上げた。その顔はさながら猫のフレーメン反応時に見受けられる表情のようだと師は思う。
「閻魔(えんま)様から任された任務って、魔物を捕縛することだけ…でしたよね?」
「そうだ」
「家探しはオレのため?もしオレのために探すっていうなら、居住地は不要ですよ。オレ野宿慣れてますもん」
四十八匹の魔物を封印の巻物に吸い込めばいいだけなので、てっきり二、三日で終わるだろうと少年は思っていた。
「この巻物に記された魔物を全員捕まえるのに恐らく一年はかかる」
「そんなに?!」
「人間界では一年も野宿をしていたらホームレス扱いをされてしまうぞ」
「ほーむれす?」
「社会的な信用を得るのが難しい立場の者をさす。気になるならあとでネットで調べなさい」
「お師匠、ネットっていう存在自体がわからないんですけど」
「スマホを買ってやる。触ってみればわかるだろう。使い方はあとで説明する」
師の言う内容はちんぷんかんぷんだったが、あとできっちり説明してくれるなら良しとする。
師は続けた。
「冥界の頂点に立つ閻魔でも見つけられないほど魔物たちはうまく人間界に溶け込んでいる。気配を消す術に長けているんだ。勘づかれれば捕縛するのは難しい。バレないよう俺たちも普通の人間をフリをして、捕縛対象を油断させる必要がある」
コロコロ、パチパチと妖精たちが大合唱をしはじめた。
ふんふんとうなずく。突然グゥと腹の音がしたので真剣な顔で手を挙げて聞いた。
「オレ、お腹空きました。人間界についたらコンビニっていうお店でご飯買いたいです。師匠はお金持ってますか?俺でも仕事したらお金って手に入りますか?人間界の人は子供に優しいと学んだんですが、通りすがりの人間にご飯ほしいってお願いしたら買ってくれますか?」
「通りすがりの奴に金をせびるまねはするな。このカードがあればいくらでも買えるから、欲しい物があれば俺に言うように」
クレジットカードを受け取り、しげしげと見て、強度を確かめる仕草をしたので師がすぐさま取り上げた。
「折ろうとするな。クレジットカードは再発行が手間なんだ。慎重に扱うように」
師がちょっと怒ったのを感じ取って、ポンと風をふかせて愛らしい子猫に変化した。舌をペロっと出して謝罪する。
「へへ、ごめんなさい。人間界の金はその黒い板なんですね。学校の授業では小銭とお札でやりとりしてるって学んだけど」
「厳密に言うとコレは金じゃない。白虎の言う通り、金は小銭と札が主になって動いてる。金の流れの詳細はそのうち教える」
そろそろ話に飽きてきて、あくびを始めた弟子に服を一着袖から出して投げた。
「師匠の袖、どこかに繋がってるんですか?その狭い所からどうやって服を出すんです?」
「風袋(かざぶくろ)と言って、神通力を使用してつくった入れ物だ。たお前の言う通り、俺が用意した空間に繋がっていて、そこに収納している」
「へー」
「それに着替えなさい。人間界の服だ」
「わかった!」
ぽん、と人型に戻ると、わらわらと妖精が少年の頭や膝に乗り上がってきた。
「降りろ降りろ、オレはメリーゴーランドじゃないんだぞ」
頭や肩に乗ってきた妖精を一匹ずつ丁寧に地面に置いて、立ち上がる。
「メリーゴーランドを知ってるのか」
「冥界の学校の教科書に載ってたんです」
師の風袋から通知を知らせる音が鳴る。紺色のカバーがついた板をチェックし、「そろそろ予約の時間だ」と言う。スマホという薄っぺらい機械を師は時折眺めているが、未だに少年はこの光る板のカラクリがよくわかっていない。
「どこに行くんですか?」
「美容院だ」
「びょういん?」
‘病院‘で仕事探しでもするのかと聞こうとしたが、師は剣を宙に浮かせたので、少年も急いで雲に足をかける。
弾力性のある雲に乗ると、瞬く間に上空へ上がった。
人差し指と中指をそろえ、五角形の何かを描く。空に向かって竜泉が「解!」と唱えると、目の前の一部が蜃気楼のように景色がゆがんだ。ある場所で、一瞬だけ空気が体に粘りつく感覚がした。景色が仙界とは全く違う風景だったことから、おそらく人間界に入ったのだろうと白虎は判断する。
「こっちも暑い…お師匠、暑い…仙界と気温変わらないんですね…」
「慣れろ」
犬のように舌を出し、雲の上でバタンと倒れる。ついでに下を見て、人間界の様子を観察した。建物が多く見え、その建物から人間が出入りしているのが見えた。
住宅街かなと白虎は頬杖をついて眺める。冥界の学校で学んだ通りの景色だった。
「速さを上げる。離れないよう気をつけろ」
「だってさ、觔斗雲(きんとうん)。頑張ってくれ」
師のあとを追い、風の音が大きく聞こえるほどの速さで進んでいった。
竜泉と弟子は気づかなかった。仙界と人間界の空間の歪みにまぎれこみ、一匹の魔物が人間界に入り込んできていたことを………。
***
「ああ…オレの髪…」
着いたのは病院ではなく、美容院だった。
「びよういんって、散髪屋の事だったんだ…」
「ん?なぁに?トラくん」
「なんでもないです」
担当の女性から早々にあだ名をつけられた。びゃっこという名前だと先ほどから何度も訂正しているのだが、「OK、わかったワン」と返事をするクセにまたトラ君と呼ばれる。もう訂正するのは諦めた。
きっと彼女の脳みそはそのたゆんたゆんに揺れる乳に流れ込んで、使いものにならなくなってしまったのだろうと思う事にした。
冥界では散髪屋のことは美容院なんて呼ばないし、そこかしこに花が飾られるようなおしゃれな場所でもない。ついでに言うと髪を短くしたいと思ったこともない。恨めし気に隣に座る師を見てから、バサバサと落ちていく白髪を生き別れた恋人を見送るように見つめた。
冥界の学校で、人間界の男は髪を短くするのが当たり前な文化があると歴史で習った。テストに出たくらいだったから、相当大事なことだとは分かっていたけれども、心の準備ぐらいはさせて欲しかった。
師と同じく腰まで伸ばしていた髪がジョキジョキと切られ、なくなっていくのはやはり寂しい。
「ねぇトラ君たち、どこから来たの?すごい綺麗なお顔してるけど、もしかしてハーフだったりする?」
「えーと…」
隣の鏡に反射した師と目が合う。余計な事はしゃべるなよ。と言っているのが視線で伝わる。
「お姉さんの方が…モシュモシュさんの方がオレなんかよりずっと綺麗だよ」
「いやんもー!子供のくせに上手に褒めるのねぇ」
モシュモシュ、と書かれてる胸に付けられた名札が彼女の喜びに合わせて上下にブルンブルンと揺れた。
竜泉を担当する美容師も、器用に毛先を切りながら聞いてくる。胸元にはナムナムと書かれた名札がついていた。
「お客さんたち、テレビのCMで見かけそうな顔してますよね。こんなにイケメンなら、あそこの木下通りとかを歩くと名刺持った芸能関係から声かけられるんじゃないですか?」
「いえ、最近引っ越してきたばかりですので」
「そうなんですかぁ」
バサっと紺色の髪が落ちる。側にいた見習いスタッフがホウキでサッサッと集めていった。
「お客さんの髪、綺麗な紺色ですよね。地毛?かな。初めて見ました。色残しておくとちょっとカッコいいかもですよ」
「地毛です。色は残さず、黒一色に染めてください」
「もったいないなぁ」
「面接があるので」
「あぁ、なるほど。では全部真っ黒に染めちゃいますね」
「はい。お願いします」
白虎達も隣の席で同じように髪色の話し合いをしていた。
「ねぇトラ君。ほんとに全部黒に染めていいの?黒にするくらいなら、今の色のままの方がイケメンよ。目も白いしィ。どうしても染めたいなら金髪にしてみない?」
せっかくの提案だったが、一切モシュモシュが話した内容は白虎には届いていなかった。なぜならモシュモシュがたった今、上掛けを脱いで、下着姿のような上半身をあらわにしたからだ。
白虎はおもわずユサユサと揺れる豊満な二つの実に一点集中してしまい、彼女の言っていることが頭に入らなかったのである。十三歳といえど、男なのだ。
ユサユサの実を二つ持つ女性はクスリと笑い、少年が釘付けになってしまっている胸を隠すように背を向ける。
「無視するのぉ?切るのやめよっかなぁ」
「あっ、ごめん、ごめんなさい。なに?」
にっこりと笑い、ソバカスの顔を向け、モシュモシュは先ほどと同じ質問をした。
この国のイケてる髪色というのはどんなものかはわからないし、このやたらと語尾を長くして話す美容師に全信頼を預ける気持ちにもなれなかったため、「普通に、黒一色でお願いします」と伝えた。
オッケー!わかったわ、と人差し指と親指でたこ焼きが入るぐらいの丸を作り、ほっぺたにくっつける動きをする女性スタッフを横目で見ていた竜泉は少し不安になって、自分の担当をしている男性スタッフに声を抑えてヒソヒソと聞いてみる。
「大丈夫ですか?隣の、…俺の息子を担当してる女性。新人のように見えますが…」
「あ、息子さんだったんですか?兄弟だと思ってました」
この国ではそういう事にする予定だった竜泉は「ええ」と答える。
「モシュモシュさんはうちの店長ですから、安心してください。腕は確かですよ」
「店長?そうですか…」
肩書きは店長でも、ルンルンルゥンと歌いながら髪を切る姿にはやはり心配は拭えず、もし白虎本人が気に入らない髪型にされてしまったら野球少年風にバリカンで坊主にしてもらえばいいかと竜泉は考え、東和国人らしい一般男性に近づく己の様子を映す鏡に目を戻したのだった。
[newpage]
………
仙人、面接に行く②
………
東和国の中心部から少し離れた粛然としたオフィス街。
白色人種のサラリーマンが忙しそうに行き交うのが当たり前だった光景の一部に、Bluetoothで何やら熱く語るオフィスカジュアルの黒人や、カフェでパソコンを開いて優雅にコーヒーを飲む姿が近頃加わるようになった。
実に様々な人種が各々の役目を果たしている中、一人の青年がゴンゴンと電柱やビルにぶつかりながら壁をつたって歩いていた。
「足が…上が、らない…」
人間界へ降りて二百年あまり。東和国で働き始めてからは五年。紫穏]は立派な社畜となっていた。
足はガクガクと笑っていて、目的地である勤め先になかなか到達できない。疲れがたまった体は思うように動いてはくれず、困っていた。カホッ!と咳をすると、たまに血が口から漏れる。ツンととがった形の良い唇からポタリと赤い血が落ちた。今日のコンディションはいつにも増して最悪だ。紺色のレザーシューズとテードーパンツに血が少しついてしまった。常備しているウェットティッシュでふき取り、体を引きずる。
歩くたびにカシャンカシャンとメガネが上下に揺れる。昨日暴れ回る悪霊を封じる時に建物にぶつかり、メガネのフレームの一部が曲がってしまったのだ。少し下を向くだけでスルリと簡単に地面に落ちる。
「あ」
落ちた瞬間パキっとよろしくない音がした。
「あっ」
今度は拾おうとしたのに視界がぼやけ、誤って足先が当たりメガネを蹴ってしまった。メガネが回転しながら歩行道路へと向かう。
「あー!」
通行人に踏まれ、ぱきゃっと本当によろしくない音が聞こえた。足元で踏んだものを確認した人はヤベッという焦り顔をしたが、何事もなかったかのように早足で歩いていった。まさに踏んだり蹴ったりで、紫穏]はもう何もしたくない気持ちになった。
「デスクにスペアがあるし…今は少し休もう」
割れたメガネを取りに行く気力もない。立っているのもやっとだった。近辺に座れそうな場所を探してみると、ちょうどいい場所を発見した。右側に人気の無い路地があり、ゴミ箱がポツンと置かれている。なんとか体をそちらの方へ向かわせ、ゴミ箱の隣へしゃがむ。
「大丈夫?足」
顔を下に向けていた紫穏]は小さく驚いた。どんな大人でも、この都会ではゴミ箱のそばでしゃがんでいる社会人に声をかけるのというのはなかなかに勇気がいることだ。
一体どんな親切な人が心配してくれたのかと胸が温かくなったが、すぐに向上した気分は落ちる。
しゃがみこむ紫穏]の目の前に二人分の足が見えた。
「大丈夫。靴擦れの絆創膏貼ったから」
「よかった。浴衣、よく似合うね。キレイだよ」
「ありがとう。アタシ、あなたと夏祭りを過ごせて嬉しい。たぶん今が人生で一番幸せな瞬間なのかも」
「一番?それはまだ早いんじゃないかな。僕はもっと君を…」
通りすがりのカップルの会話だった。そういえば今日は花火大会の日だ。
誰か心配してくれたのかと思った自分が恥ずかしい。今すぐこの場から逃げ出したくなって、立ち上がった。足が痛くて若干へっぴり腰になるが致し方ない。
ジリジリと照りつける真夏の太陽から身を守るように手を顔の前にかざし、影を作る。フラリと意識を失いそうになるのをこらえた。
昨日、事情聴取で向かった病院がたまたま紫穏]の主治医がいるところだった。調査のあと、ついでにかかりつけ医に診断してもらったら、余命半年と言われてしまった。
長寿ではあるが、不死身ではない。死ぬ時は死ぬ体である。
休養をとりたいところだが、あいにく紫穏]の務める会社の上司は法律通り紫穏]を休ませる気がサラサラない。
紫穏]が任されてる仕事はまだ百件も残っており、もし休みたいと言えば機嫌を損ねて紫穏]の偽造身分証明証を破棄してしまうかもしれない。そうなればこの国で仕事をしていくことができなくなる。
一度社会と関わりをもち、他者から必要とされ、己の実力を存分に発揮できる幸せを知ってしまった。神仙になるという夢も途絶え、何のために生きているのかもわからず孤独に耐えながら山で生活していた頃にはもう戻れない。
左手の薬指に目を向ける。紫穏]は未婚だが、木で彫った指輪を常時薬指につけていた。
指輪に触れると、今でも一人の青年が脳裏に浮かんだ。紫穏]の名を呼ぶ低く優しい声も鮮明によみがえる。幻だったのではないかと思うほど、本当に幸せな日々だった。
この指輪がある限り、あの日々は現実だったと語ってくれる。
「竜泉…今の私なら、君と友人になる資格はあるだろうか」
恋人にはなれなくても、友人としてなら………。
人間界に来てから二百年弱の月日が流れた。彼は今頃神仙になっているかもしれない。
人間らしく過ごしている今の姿を見てもらいたくても、人間界に落ちてしまった以上、こちら側から彼に会いに行くことなど出来はしないのだ。わかってはいても、生きていれば何かが起きるかもしれないと期待をしてしまう。
好きな人の傍にいられるひとかけらの可能性があるのなら、考えずにはいられない。
想い人のことを考えていたらほんの少し活力が湧いてきた。太ももに力を入れ、壁をつたってフラつく足取りで進む。
動物の鳴き声がした。顔を上げると、そこには白猫がいた。まだ子猫だ。首元に紐がかけられており、子供向けの小さなスマートホンをぶら下げている。
(最近の飼い主は猫にスマートホンを持たせるのか。GPSがわり?)
子猫がミャオウと鳴いたので、こんにちは、と紫穏]は微笑んで返事をした。
今日は面接希望者との面談日だ。探偵調査業務の他、人材担当も任されている紫穏]は十時までに応接間で面接希望者を待たなければならない。
やっと株式会社寿恩-ジュオン-と彫られたビルに入ることができた。涼しいクーラーの風に救われる。
時間には間に合いそうだ。あとはエレベーターで目的地まで上がるだけだが、何せ視界がぼやけていて足もうまく動かない。一歩方向を間違えれば遅刻確定だ。余裕をもって到着しないといけないので気持ちは焦る。この国はやたらめったら遅刻に厳しいのだ。三秒の遅れさえも許さない。
エレベーターに乗り込めばこっちのものだ。目を細め、エレベータの位置を確認する。無駄に広いこの会社のエントランスが憎らしい。
「大丈夫ですか?」
男性に声をかけられた。術の使いすぎで疲弊して落ちた今の視力では、相手の顔がぼやけてよく見えない。先ほどのように、勘違いかもしれないのでキョロ…と左右を確認する。一階のエントランスには紫穏]と彼しかいない。間違いなく紫穏]の身を案じて声をかけてくれたのだ。
壁をつたって歩いていたが、人の手を借りることができた方が早く応接間に行くことができる。ぼんやりとした視界でも、相手がスーツ姿なのはわかった。スーツでこの会社にいるということは、客ではなく同僚の誰かのはずだ。仲間の誰かだと安心した紫穏]は頼ることにした。
「ちょっと術を使いすぎちゃったんです。悪いけど、五階の応接間まで手をかしてくれませんか」
青年は快く承諾してくれた。ポーン、という機械音が鳴り、一緒にエレベーターに乗り込んだ。
「かなりお疲れの様子ですが、本当に大丈夫ですか?」
「ええ。問題ありません。お心遣いありがとうございます」
「血の巡りが悪いようです。ちょっと失礼しますね」
二本の指をそろえ、紫穏]の首筋にあてた。体からスゥと疲れがなくなっていく感覚があった。
「すごい…体が軽くなったよ!」
「それはよかったです」
うちの社員は陰陽師家の血縁者が多く、こういったことができる人間がいてもおかしくはない。紫穏]はすごい人がいるものだと関心した。
エレベーターは四階で一度開くが、誰も乗ってこない。扉は閉じ、また五階へ向かう。
近づくと、ぼやけた視界でもなんとなく彼がとてもカッコいい風貌の持ち主だということがわかった。昔好きだった人に声が似ている。迂闊にも紫穏]はちょっとドキドキした。
社内恋愛は禁止されていないし、昔の男なんか忘れて新しい恋を見つけろと社長から口を酸っぱくして言われている。彼ならアリかも…と紫穏]は思った。思い切って食事に誘ってみようと決心した。エレベーターは五階へ向かって静かに上がっていく。
「本当に助かった。今から面接があって、ちょっと遅れそうでヒヤヒヤしてたんだ。お礼に食事を奢ります。いま眼鏡がなくてあなたが誰かわかってないんだけど、名前を教えてくれますか?面接が終わったら社内の内線で電話をかけます」
「いえ、私はこちらの会社に面接に来た者でして…」
「あ、そうだったんですか!」
エレベーターが開く。応接間へ案内しようと先に紫穏]が一歩前に出たとき、左側からヒヤリとした空気が流れ込む。紫穏]がそちらの方へ向くと、雪のように冷たい視線と合った。
怒っていても困っていても、彼女の視線は冷たい。紫穏]は慣れているものの、ふいうちだと今のように背筋が張り詰める怖さをいまだに感じる。
「ヒッ、ゆ、雪音君。どうしたの」
雪音は気配を消すのがあまり得意でない。いまだに練習中で、今のように困っていると冷気が漏れてしまう。
「しぃさん、よくないことが起こりました」」
「よくないこと?」
血を吐き、立つのもやっとで、社長のパワハラに怯えるこの日常に加え、さらによくない事が加わるなんて冗談じゃない。さきほどの淡いトキメキを忘れ、違う種類のドキドキを感じて手を胸に当てる。
女性は言いかけ、エレベーター内にいた一人の男性に気づいて言葉をのんだ。
「あとで申し上げます。そちらの方は面接でいらっしゃった方ですね」
「はい」
女性は青年に会釈をし、紫穏]に向き直る。
「先に面接希望者の方を応接室に案内した方がよろしいかと」
雪音の「よくないこと」が気になったが、面接希望者を待たせるわけにはいかない。
「そう、だね。私は自分のデスクからメガネを取ってくるよ」
女性が頷き、スーツ姿の男性を案内する。
「こちらです。どうぞ中へお入りください」
エレベーターの向かい側が応接間になっていた。雪音と青年がそのまま前の部屋へと進む。
青年が前を通り過ぎる際に覚えのある香りが紫穏]の鼻をくすぐった。一体、何の香りだったか思い出せないほど微量なものではあったが、とても気になる。
突如「メェーー」という気の抜ける声に雪音と紫穏]の目が点になった。その動物は何かを食っているのか、クシャ、クシャと租借音がする。
扉の向こうには高級感のあるリッチな空間にそぐわない、白くてもこもこのヤギがいた。
雪音が口を開く。
「しぃさん。彼、紙も食べてしまうんですか?」
「うん…たまにね。眠たいときとか」
紫穏]が一直線に歩いてヤギの傍に寄る。
机のそばで鼻提灯を膨らませ、半分寝ながらモムモムと咀嚼しているヤギの口元に注目する。紫穏]はびっくりして指をさす。
「ヤギ君が食べてるソレ、履歴書じゃないか⁈」
「メヘッ⁈」
ヤギの鼻提灯がパチンと割れた。紫穏]の声と自分の花提灯が割れる衝撃に驚き、口に含んでいたものをポトリも床に落とす。
「ヤギ君…眠い時は隣の部屋で休むようにって言ってあったでしょ…あぁ…履歴書の半分がない。まだ目を通してなかったのに…」
クシャクシャになった無残な姿の履歴書に残っているのは出身大学と志望動機の情報だけとなった。住所や資格の部分があとかたもなくなくなってしまっている。
重なっていた職務経歴書もだめになっている。
人事担当は雪音と紫穏]が担っており、主に雪音が履歴書に目を通し、OKだと判断したあと紫穏]が最終決定を下し、社長に報告する流れとなっていた。
ヤギのツバだらけで臭くなった履歴書を、血を吐いた時用に常備しているウェットティッシュで包む。
ボフ、と風が吹き、青いジーンズのつなぎを着た二〇代半ばの青年が現れる。
「ごごごご、ごめんなさい!僕ぼーっとしてて、美味しそうだなぁって眺めてただけだったんです!いつ口に入れたんだろう?えっそれ、履歴書なんですか?本当にごめんなさい!」
ヤギは人間に戻った状態で膝をつき、ペコペコと頭を下げる。紫穏]と雪音は冷や汗が出る。そして同時に思った。
――――一般人の前で人間化するなよ!!!
「飲み込んだやつ、吐き出します!」
「いい!いい!やらなくていいから!もう、やめなさいって!」
もう取り繕う余裕もなくて、紫穏]はいますぐにでもヤギをどこかに隠してしまいたかった。
「吐き出します!おごごごご…っ」
ひ弱な紫穏]の本気では到底ヤギの指を口から引き抜くことができない。紫穏]は体をのけぞらせて彼の腕を引っ張ってみるも、ビクともしない。
「ぐ、力が強すぎる!履歴書が無くても面接はできるから!やめろってば…っ」
二本の指を喉に突っ込み、オエオエしているやたらと力の強い従業員と取っ組み合いをしていたら、低い声でクククと小さく笑う声が聞こえた。ふりむくとスーツの男性がこっちに近づいてくるのがわかった。
「履歴書の内容は書き直すことができますし、口頭でよろしければ何度でも申し上げることができますから、無理はなさらないでください」
ヤギと格闘していた紫穏]はなんだか恥ずかしくなって、立ち上がる。
「ヤギが人間になったことについては驚かれないのですか?」
雪音が感心したように聞いた。
「驚きましたが、俺も普段から人間ならざるものと接触しているので。こういったことには慣れています」
そうだった。彼は一般人だが、悪霊退治を専門としている会社に面接に来ているということは、それなりにソッチ方面の免疫があるということだ。面接に受かれば仲間となるし、取り繕う必要もない。
立ち上がり、膝あたりについたホコリをとるようにパンパンと叩いた。
「面接、始めちゃおうか。十時過ぎてるし。雪音君、ヤギくんを連れてって」
取り乱したヤギも少し冷静になって周囲を見る余裕ができたようだ。スーツ姿の一般人を見つけ、アッとした顔で驚いてから、すごすごと雪音と共に応接間から出て行った。
「そちらにどうぞ。メガネを取ってくるから、ちょっと待っててくれるかな」
「はい」
L型の黒いソファに座るよう促し、急ぎ足で同じ階にある探偵事務所に入る。自分のデスクの引き出しには二〇個以上のメガネがしまってあった。
部下として今後接する相手となる人だ。クールでカッコいい上司だと思われたい。面接を受ける側もそうだが、面接をする方だって緊張はする。もうすでにボロは出ているが、今以上に慌てた面接会とならないよう、紺色のメガネを選んだ。紺色は紫穏]の好きな人の髪色で、これをつけると穏やかな気持ちになれるのだ。
応接間に戻り、面接者の向かい側に落ち着いた。
「予定より面接の時間が遅くなってすみません。私は寧紫穏(ねい しおん)と申します。人事担当のほか、探偵調査、悪霊退治も請け負っています」
よろしくお願いします、と形式通りの挨拶をかわしてから、持っていたメガネをかける。前を向いた瞬間、紫穏]の頭の中が数秒間、真っ白になった。
「………………………」
「………………………」
紫穏]の沈黙があまりに長いので、彼から「自己紹介から始めればよろしいですか?」と尋ねる。紫穏]はなんとか声をふりしぼり、「うん…竜泉…君、からお願いします」とだけ言った。
できる上司としての皮はいとも簡単に剥がれ落ち、紫穏]はガチガチに固まってしまってしまった。
やってきたスーツの男性は、紫穏]の元カレだったのだ!
[newpage]
………
仙人、面接に行く③
………
食い入るようにこちらを見ている。自己紹介をしているというのに、まったくメモを取ろうとしない。
(今言った経歴や資格は関係ないということなのか?)
履歴書の上半分にあった資格取得歴欄と技能欄がなくなったのだから、当然メモをすると思ってゆっくり伝えていたのだが、ずっと顔ばかりみてくる。竜泉は内心で変だなと思いつつ、志望動機も伝えた。コンコンとドアを叩く音がした。「失礼します」と言って女性が入ってくる。
雪音と呼ばれていた女性だ。二人分の緑茶が入った陶磁器を紫穏と竜泉の前に置いてから紫穏]の隣に座り、胸元のペンを取り出して、竜泉の自己紹介と志望動機をメモにとり始めた。
「―――私からは以上です」
竜泉の自己紹介がひと段落ついたところで、雪音はペンを置き、持ってきた資料を机に広げた。
「今日はお暑い中お越し頂きありがとうございます。では会社説明を僭越ながらわたくしからさせて頂きます」
ホームページに掲載されているような内容を聞いている間、女性を観察する。竜泉は一目で彼女が妖族であることを見破った。うまく人間に化けているが、ただよう冷気と妖気を隠しきることはできていない。
もう一人のメガネをかけた青年に意識を向ける。寧紫穏と名乗った彼はずっと驚愕した顔つきで、口を半開きにしたまま動かない。竜泉も紫穏]の洗練された中世的な整った美しさには正直度肝を抜くほど驚いたが、ここまであからさまにはしていなかったはずだ。
己の見た目が他人からどう見られているのか経験上理解しているつもりだった。男女問わず賛美を投げられてきたので、ある程度見てくれには自信を持っている。
(男は普通の人間のようだが……顔色がかなり悪い。さっきからずっとだ。大丈夫なのか?)
隣の席にいる雪のような女性に負けないくらい、男の肌は白かった。蒼白とも言える上、指や足が時折痙攣するように震えている。
「このビルの階はすべて株式会社 寿恩-ジュオン-が所有しています。悪霊退治を専門とし、その他ネットショップをサイドビジネスとして展開しています。一階から四階までの従業員はネットショップに携わる従業員ですので、採用後は下の階の人とあまり関わることはありません。五階を探偵事務所として使用しており、この階の従業員は私と先ほどのヤギ、こちらの寧紫穏を含めた十名で構成されています」
面接は滞りなく進んだ。そろそろ終わるかという頃、ドォン!と何かが衝突するような大きな音が鼓膜に響く。
「なんだ?!事故?!」
弾かれたように紫穏]は竜泉から目を離し、急いで窓を開け、外の様子を確認する。
トラック車が宝石店に突っ込んでいた。歩行者を複数轢いたようで、店のあたりは血と悲鳴で見ていられない惨状となっている。
「雪音君、今すぐ救急車に電話!下の階の従業員とありったけの救急箱を持ってきて。私は先に現場に向かう。竜泉…くん、きみ、今日から採用するからついてきて!給料は本日づけで出るように社長に言っておくから!」
すかさず雪音が「しぃさん、それは…」と不服を訴える。大根が安いからついでに買っちゃおう、というようなノリで採用を決めてはいけない。普通の探偵事務所ではないのだ。即決するなんて信じられない事で、能力が低ければ死に直面する職種でもある。採用に関しては慎重に審議をして決めるべきである。
紫穏]が二本の指をそろえ、空中で何かを描こうとした。一度竜泉を見て、ためらうような顔をしたが、意を決したように花を描くように指先に集中しなおす。
「”開花二式”!」
聞き覚えのある術に竜泉は目を見張る。
両手を自分の胸にあてた瞬間、紫穏]から淡く白い光が放たれた。その光は流れ星のように細くなり、消えていった。
「竜泉君、ついてきて」
「待ってください、しぃさん、先日術を使ったばかりで、あなたの体は限界を……!」
心配する雪音を置いて、紫穏]は竜泉と共にすでに走り出していた。「救急車を頼んだよ!」と言い残してエレベーターへ向かう。
雪音は何か言いたそうな顔をしたが、なんとか飲み込んだように頷き、携帯を取り出した。
竜泉はエレベーター内に乗り込み、寧紫穏という男を深く観察する。彼はメガネを外し、胸元にしまいこんでいた。
先ほど、履歴書に目を通していなかったと言っていたのに、『竜泉』と名を呼ばれた。初対面のはず。竜泉は男のつむじを見下ろした。先ほど術が気にかかる。開花術式。あれは仙界の術だ。
―――寧紫穏、お前は一体何者だ?
[newpage]
………
仙人、面接に行く④
………
エレベーターが一階にたどり着くまで、紫穏]の心境はめちゃめちゃだった。怪我人を助けなければならない。昔好きだった人がそばにいるからといって、頬を緩ませている場合ではないのに、こうしてエレベーターで竜泉といっしょにいると、ついにやけてしまいそうになる。
下では一刻の猶予もない自体で、不謹慎だと感じつつも、もしかしたら…と期待を抱いてしまう。紫穏]とヨリを戻すべくやってきたのではないか、と。他人の空似という可能性もある。慎重にうかがった。
(最後に会ったのは一五歳くらい?だったかな。すごくカッコいい大人に成長したんだなぁ)
"開花術式"で視力がクリアな状態になっているため、はっきりと竜泉の輪郭が見える。
「何ですか?」
つい顔をよく見てしまったらしい。
「あの、竜泉…君。私と過去に会ったことないかな?」
「いえ。初めてお会いするかと」
ガン!と平らな石に頭をぶつけたような感覚になり、紫穏]はしょぼくれるように背を丸めた。でもまだ諦めない。
「子供の頃、君と会ったことがある気がするんだ。ちょっと運命的なものをさっき感じて…あの、面接が終わったら一緒に食事でも…」
「パワハラ、セクハラ、ストハラという言葉をご存じですか?俺には息子がいますので、ご遠慮願いたい」
(ふ、ふわーん!)
泣きたくなった。その視線は遠い昔に向けられた甘い瞳からはほど遠く、むしろ邪見にしている目だった。
(なんだいストハラって!冷たいにも程がある…、君から見て私は上司になるのに。というか父親になっていたのか?嘘だろう………ぐすん)
スキをついてヨリを戻すとか、そんな期待を持つ方がバカらしい。自分の存在を否定された気分になる。
「へんな事を聞いてごめん。そういうつもりじゃない、ほんと、ごめん」
そういうつもりだった。完全にそういうつもりだった。
今後とも仲良くしたい紫穏]はあわてて訂正するほかない。
他人の空似か、もしくは完全に紫穏]を忘れてしまったか、あるいは………紫穏]は寂しい気持ちになり、俯く。それ以上は考えたくなかった。
エレベーターが開かれると同時に、「お母さん!お母さん!」と泣く子どもの声が聞こえる。エントランスを出たビルの外にはむごたらしい光景が広がっていた。ショーウィンドウの割れたガラスが刺さっている人もいれば、トラックにひかれ、血を流して意識を失っている人もいた。
「キャァァァ!」「ワァァッ!」と人々が叫ぶ声のもとへ目を向けると、そこにはおぼつかない足取りで歩く男性が見えた。目は上を向き、どこかへ向かっている。
「屍人だ!」
「しびと?」
「詳細はあと!竜泉君は負傷者の介抱を!」
屍人の見た目は四十代後半。短髪で、肌は青白い。頭からは血を流し、こめかみには何本もの血管が浮き出ている。
宝石店へ突っ込んだ事で使えなくなったトラックを捨て、新たな車を探しているようだ。駐車場を見つけたのか、突如そこに向かって信じられないスピードで走り出す。
周囲の人間は男を取り押さえようと、近くにいた男性数名が押さえ込むも逆にぶん投げられてしまっている。
投げられた内一人の男性は骨が折れたようで、腕が曲がっていた。
これ以上被害を大きくしてはいけない。この術ーーー”開花式”は先日使ったばかりで、体が完治していない。この状態で”開花三式”以上の術は体への負担が大きい。”開花二式”が限度だ。それ以上使えば、今度病院で診察する時に余命三日と言われるかもしれない。
「う、うわぁぁ!」
また誰かが屍人に投げられている。考えている暇はない。
五本の指を広げて自分の心臓にあて、「”開花十二式”!」と唱える。封印されている体の奥に眠っていた神通力が全身にあふれるように流れはじめ、身体中の血肉が一斉に吹き立つ。
急速に紫穏]の走る速度が上がり、あっという間に屍人に追いついた。グワシ!と屍人の襟首をつかんで袖から引き出した札を青白い額に貼る。すると死人にしがみつくように巻き付いていた魂が体から分離され、ふわんと白い魂だけが宙へ浮く。
序章
………
仙境の端。一歩進めば人間界へと入るその場所で、一人の青年が深く頭を下げる。
「果心師匠、ここまで送ってくださりありがとうございました」
形の良いツンととがった唇は紅葉のように紅く、ふくらみをもっていた。青年のその唇が柔らかに弧を描く。
深い緑の木々が連なる森には小さな妖精が多くいた。二人を囲うようにこちらを眺めている。頭を下げた時、好奇心が多い妖精から順によじよじと足から登ろうとしてくるのがわかって、青年はクスリと笑った。とろけるような優しい仕草で足元の妖精を地面へ降ろし、顔を上げる。
「一緒に行ってやりたいが、間違いなく今“あいつら“が千里眼を使って俺らのこと監視してるだろうからな…ん、紫穏]、そのガラクタまだ捨ててなかったのか」
弟子の薬指にはめられた木の指輪に気づき、師は嫌いなものを食べたあとのような顔を見せる。師の隠さないその態度に紫穏]は口元を抑えて静かに笑う。
己の指にはめられたその指輪をそっと大切に撫でると胸の奥が満たされると共に、寂しさを感じた。泣きそうな表情を一瞬見せるがすぐに自然な微笑みに戻る。
「これは私の宝物ですから」
その指輪をつくった人を未だ慕っているのが見てとれる。
果心はペッと芝生に唾を吐く。あわてて妖精が果心から離れた。
「お前の正体を知ったとたん簡単に手のひらを返すような最低男の贈り物なんぞ、想い出とまとめて一緒に海へ放り投げてしまえ」
師の教えに背くことはできない。かと言って今更想い人との思い出が詰まった指輪を捨てることも難しい。紫穏]はただ困ったように微笑む。
弟子の心境をよく理解している果心はそれ以上小言は言わず、頑張れと言って人間界へと送り出してくれた。
「今まで、本当にありがとうございました」
ヒンヒンと泣き続ける師弟の頭を撫でてやる。
「録(ろく)、師匠を頼んだよ。この人は酒癖が悪いから心配なんだ」
「ひっぐ、ひぐ………うん…ッ」
「本人の目の前で悪口言うなよ。録、泣き過ぎだ。今生の別れってわけでもないのに」
おさまりかけた涙がまたあふれ出し、ワッと録が声を張り上げる。
「だっ…だって!…師匠がさっきおっしゃったじゃありませんか…ッ仙界を追放された者を追ってはならないという規則があって、それを破ると罰が下る…って…ひぃぃん離れたくないよ紫穏]兄さん――!!」
紫穏]の腰に巻き付こうとした録の顔を果心がつかむ。
「早く行け。ここはオレがくい止める」
「ふふ、困った子だね、録は。師匠、また会えることを祈っています」
紫穏]はもう一度頭を下げ、人間界へと続く道に足を踏み入れる。
青かった空は赤い色に染まる。景色が変わる瞬間、体に粘つく空気を感じた。景色は移り変わり、後ろを振り向くともう仙界の扉は閉じていた。
「え?」
地面がない感覚にヒュッと肝を冷やした。ついクセで指を二本揃え、念じてみる。何も起こらなかった。
体内の神通力の通り道は完全に遮断されているのだから、念じても何も起こりはしない。
もう仙術を使って飛べる体ではなかったのだと、ギリリと悔しげに歯を食いしばる。まさかこんなに早く己の無力さを思い知らされるとは思わなかった。山々に重なる夕日が見える。綺麗な景色だと感慨深くなる余裕はない。重力に従って落ちていく感覚に、紫穏]は涙目で叫ぶ。
「師匠のバカァアアああああぁぁぁーーーーーーーーーーーーーーーーー!」
夕焼けの空に、バカー…バカー…バカー……とこだまする。
紫穏]の師は人間界への扉を開けることができる数少ない仙人だったが、着地点を選ぶのが下手だったことをこの時まですっかり忘れていた。
バキバキバキバキ!
「うっ」
まだ幼く、仙術もろくに使えなかった頃、初めて人間界に連れて行ってくれた時もこうして森に落ちて木に引っかかった。
幼少時と同じ轍を踏んでしまったことを情けなく感じる。ユラユラと左右に揺られながら、落ちる時に背中で折った何本もの枝を眺める。どうりで背中が痛いわけだ。
「あの時は落ちた場所に虎もいたんだっけ…」
昔は果心が守ってくれていたが、これからは一人で身を守らねばならない。仙術を封印され、自己治癒能力も普通の人間と大差のないこの体で。
周囲に熊や虎がいないことを慎重に確認する。身を翻し、一回転して地面へ降りた。
相当な高さから真っ逆さまに落ちた。落ちどころが悪ければ死んでいた。ゾゾっと鳥肌が立つ。
「あなたのおかげで助かった。たくさん枝を折ってしまってすまない」
感謝をこめて大木に触れる。これだけ大きく育った木であれば精霊が宿っていることだろう。よく見ると、幹も枝もうねうねと曲がりくねった特徴を持っていた。曲がりすぎて、蛇のとぐろのよう。根に横になってみると、案外居心地がいい。
その後二百年、ある男と出会うまで、紫穏]はたった一人で山で修行の日々を続けることになるのだった。
[newpage]
………
第一章
仙人、面接に行く①
………
霊和五年八月十日。
体が溶けそうなほどの蒸し暑さだった。
一人は剣の上に、そしてもう一人は雲に座っている。暑さなど全く感じさせず気持ちよさそうに羽ばたいているヒヨドリを数羽抜き、二人は空を横切る速さで飛んでいた。
少年が暑さにやられて疲弊しているのに対し、先頭の深い紅色の長衣を身にまとった美しい長髪の男は汗ひとつかかず、背筋を伸ばしている。
後ろの少年がうめくように言う。
「お師匠、目的地はまだ遠い?そろそろオレ、蒸発して消えちゃうかもしれないです」
「消えるワケないだろ」
「熱中症で死んだら、墓は遊園地あたりでお願いします」
「仙界にも冥界にも存在しない施設を指定するな」
「人間界にはあるでしょう?」
この子供は相手が誰であろうとからかいの対象にしようとする。これ以上戯言につきあってられんとばかりに先導を行く師は速度を速め、急降下する。賢い雲が引き離されないよう追った。
静かになった弟子を横目で確認する。弾力のある雲の上に四肢を投げだし、タコのような状態でうつぶせになって「はひぃ、熱い、はひぃ」と嘆いている。師はやれやれとため息を吐いた。
ピチョン。
汗だくの少年は指先が水辺に触れたのを感じた。
「なんか…涼しい?」
頬を無常に打ちつけていた熱風が、突如ひんやりとした優しい風に切り替わった。暑さで消費した気力がむくむくと回復してくる。顔を上げると目の前には紺碧の世界が広がっていた。湖を囲む緑の木々が連なる森に入ったのだ。
空を飛ぶこの雲には意志があり、乗っている主人が少しでも涼めるようにと湖面スレスレの距離で飛んでくれていた。
喜びを顔いっぱいに表し、少年は紺碧の湖に手を伸ばした。ザザザザザ…と湖面にまっすぐの白い線が走るのを見て楽しむ。
雲は少年が落ちないよう己の厚みを平べったく変化させ、面積を大きくしようと頑張りを見せていた。
「白虎、落ちるぞ」
「はーい」
十分に手を冷やすことはできた。腕をひっこめ、濡れた手をピッピと上下に振って水気を飛ばす。
木々が生い茂る隙間を埋めるようにいたるところに芝生が生えている。師はピタリと剣を止めた。
雲は少年を落っことしてしまわないようキキキ、とブレーキを少しずつかけて木にぶつかる直前で止まる。
「白虎(びゃっこ)、今後の計画を簡単に話す。そこに座りなさい」
弟子はぴょんと飛んで芝生の上に降り立った。ふわふわとしていて、足踏みを数回してから、ちょうどいい高さの大木の根に座る。
丸いものがよじよじと弟子の膝に登ってきた。顔はなく、丸い体に手足がにょきっとはえている。
「うわっなんだ?お前たち」
「妖精だ」
掌に乗るくらいの小さい奴らだった。その気になれば蚊を殺すように手のひらでパンとやれば潰すことができそうだったので、追い払うことはせずによじのぼってくる彼らの好きにさせた。
なんだか可愛く見えてきて、妖精の頭を親指でウリウリと数回撫でる。喜んでいるのか、妖精の頭からコロコロ、パチパチとビー玉が転がったりぶつかり合ったりするような音が断続的に聞こえてきた。
「人間界ではまず仕事と居住地を手に入れる。仙術の修行はそのあとだ。居住地が見つかるまでお前は猫の姿で俺の近くに待機していろ」
弟子は唇を引き上げポカンと師を見上げた。その顔はさながら猫のフレーメン反応時に見受けられる表情のようだと師は思う。
「閻魔(えんま)様から任された任務って、魔物を捕縛することだけ…でしたよね?」
「そうだ」
「家探しはオレのため?もしオレのために探すっていうなら、居住地は不要ですよ。オレ野宿慣れてますもん」
四十八匹の魔物を封印の巻物に吸い込めばいいだけなので、てっきり二、三日で終わるだろうと少年は思っていた。
「この巻物に記された魔物を全員捕まえるのに恐らく一年はかかる」
「そんなに?!」
「人間界では一年も野宿をしていたらホームレス扱いをされてしまうぞ」
「ほーむれす?」
「社会的な信用を得るのが難しい立場の者をさす。気になるならあとでネットで調べなさい」
「お師匠、ネットっていう存在自体がわからないんですけど」
「スマホを買ってやる。触ってみればわかるだろう。使い方はあとで説明する」
師の言う内容はちんぷんかんぷんだったが、あとできっちり説明してくれるなら良しとする。
師は続けた。
「冥界の頂点に立つ閻魔でも見つけられないほど魔物たちはうまく人間界に溶け込んでいる。気配を消す術に長けているんだ。勘づかれれば捕縛するのは難しい。バレないよう俺たちも普通の人間をフリをして、捕縛対象を油断させる必要がある」
コロコロ、パチパチと妖精たちが大合唱をしはじめた。
ふんふんとうなずく。突然グゥと腹の音がしたので真剣な顔で手を挙げて聞いた。
「オレ、お腹空きました。人間界についたらコンビニっていうお店でご飯買いたいです。師匠はお金持ってますか?俺でも仕事したらお金って手に入りますか?人間界の人は子供に優しいと学んだんですが、通りすがりの人間にご飯ほしいってお願いしたら買ってくれますか?」
「通りすがりの奴に金をせびるまねはするな。このカードがあればいくらでも買えるから、欲しい物があれば俺に言うように」
クレジットカードを受け取り、しげしげと見て、強度を確かめる仕草をしたので師がすぐさま取り上げた。
「折ろうとするな。クレジットカードは再発行が手間なんだ。慎重に扱うように」
師がちょっと怒ったのを感じ取って、ポンと風をふかせて愛らしい子猫に変化した。舌をペロっと出して謝罪する。
「へへ、ごめんなさい。人間界の金はその黒い板なんですね。学校の授業では小銭とお札でやりとりしてるって学んだけど」
「厳密に言うとコレは金じゃない。白虎の言う通り、金は小銭と札が主になって動いてる。金の流れの詳細はそのうち教える」
そろそろ話に飽きてきて、あくびを始めた弟子に服を一着袖から出して投げた。
「師匠の袖、どこかに繋がってるんですか?その狭い所からどうやって服を出すんです?」
「風袋(かざぶくろ)と言って、神通力を使用してつくった入れ物だ。たお前の言う通り、俺が用意した空間に繋がっていて、そこに収納している」
「へー」
「それに着替えなさい。人間界の服だ」
「わかった!」
ぽん、と人型に戻ると、わらわらと妖精が少年の頭や膝に乗り上がってきた。
「降りろ降りろ、オレはメリーゴーランドじゃないんだぞ」
頭や肩に乗ってきた妖精を一匹ずつ丁寧に地面に置いて、立ち上がる。
「メリーゴーランドを知ってるのか」
「冥界の学校の教科書に載ってたんです」
師の風袋から通知を知らせる音が鳴る。紺色のカバーがついた板をチェックし、「そろそろ予約の時間だ」と言う。スマホという薄っぺらい機械を師は時折眺めているが、未だに少年はこの光る板のカラクリがよくわかっていない。
「どこに行くんですか?」
「美容院だ」
「びょういん?」
‘病院‘で仕事探しでもするのかと聞こうとしたが、師は剣を宙に浮かせたので、少年も急いで雲に足をかける。
弾力性のある雲に乗ると、瞬く間に上空へ上がった。
人差し指と中指をそろえ、五角形の何かを描く。空に向かって竜泉が「解!」と唱えると、目の前の一部が蜃気楼のように景色がゆがんだ。ある場所で、一瞬だけ空気が体に粘りつく感覚がした。景色が仙界とは全く違う風景だったことから、おそらく人間界に入ったのだろうと白虎は判断する。
「こっちも暑い…お師匠、暑い…仙界と気温変わらないんですね…」
「慣れろ」
犬のように舌を出し、雲の上でバタンと倒れる。ついでに下を見て、人間界の様子を観察した。建物が多く見え、その建物から人間が出入りしているのが見えた。
住宅街かなと白虎は頬杖をついて眺める。冥界の学校で学んだ通りの景色だった。
「速さを上げる。離れないよう気をつけろ」
「だってさ、觔斗雲(きんとうん)。頑張ってくれ」
師のあとを追い、風の音が大きく聞こえるほどの速さで進んでいった。
竜泉と弟子は気づかなかった。仙界と人間界の空間の歪みにまぎれこみ、一匹の魔物が人間界に入り込んできていたことを………。
***
「ああ…オレの髪…」
着いたのは病院ではなく、美容院だった。
「びよういんって、散髪屋の事だったんだ…」
「ん?なぁに?トラくん」
「なんでもないです」
担当の女性から早々にあだ名をつけられた。びゃっこという名前だと先ほどから何度も訂正しているのだが、「OK、わかったワン」と返事をするクセにまたトラ君と呼ばれる。もう訂正するのは諦めた。
きっと彼女の脳みそはそのたゆんたゆんに揺れる乳に流れ込んで、使いものにならなくなってしまったのだろうと思う事にした。
冥界では散髪屋のことは美容院なんて呼ばないし、そこかしこに花が飾られるようなおしゃれな場所でもない。ついでに言うと髪を短くしたいと思ったこともない。恨めし気に隣に座る師を見てから、バサバサと落ちていく白髪を生き別れた恋人を見送るように見つめた。
冥界の学校で、人間界の男は髪を短くするのが当たり前な文化があると歴史で習った。テストに出たくらいだったから、相当大事なことだとは分かっていたけれども、心の準備ぐらいはさせて欲しかった。
師と同じく腰まで伸ばしていた髪がジョキジョキと切られ、なくなっていくのはやはり寂しい。
「ねぇトラ君たち、どこから来たの?すごい綺麗なお顔してるけど、もしかしてハーフだったりする?」
「えーと…」
隣の鏡に反射した師と目が合う。余計な事はしゃべるなよ。と言っているのが視線で伝わる。
「お姉さんの方が…モシュモシュさんの方がオレなんかよりずっと綺麗だよ」
「いやんもー!子供のくせに上手に褒めるのねぇ」
モシュモシュ、と書かれてる胸に付けられた名札が彼女の喜びに合わせて上下にブルンブルンと揺れた。
竜泉を担当する美容師も、器用に毛先を切りながら聞いてくる。胸元にはナムナムと書かれた名札がついていた。
「お客さんたち、テレビのCMで見かけそうな顔してますよね。こんなにイケメンなら、あそこの木下通りとかを歩くと名刺持った芸能関係から声かけられるんじゃないですか?」
「いえ、最近引っ越してきたばかりですので」
「そうなんですかぁ」
バサっと紺色の髪が落ちる。側にいた見習いスタッフがホウキでサッサッと集めていった。
「お客さんの髪、綺麗な紺色ですよね。地毛?かな。初めて見ました。色残しておくとちょっとカッコいいかもですよ」
「地毛です。色は残さず、黒一色に染めてください」
「もったいないなぁ」
「面接があるので」
「あぁ、なるほど。では全部真っ黒に染めちゃいますね」
「はい。お願いします」
白虎達も隣の席で同じように髪色の話し合いをしていた。
「ねぇトラ君。ほんとに全部黒に染めていいの?黒にするくらいなら、今の色のままの方がイケメンよ。目も白いしィ。どうしても染めたいなら金髪にしてみない?」
せっかくの提案だったが、一切モシュモシュが話した内容は白虎には届いていなかった。なぜならモシュモシュがたった今、上掛けを脱いで、下着姿のような上半身をあらわにしたからだ。
白虎はおもわずユサユサと揺れる豊満な二つの実に一点集中してしまい、彼女の言っていることが頭に入らなかったのである。十三歳といえど、男なのだ。
ユサユサの実を二つ持つ女性はクスリと笑い、少年が釘付けになってしまっている胸を隠すように背を向ける。
「無視するのぉ?切るのやめよっかなぁ」
「あっ、ごめん、ごめんなさい。なに?」
にっこりと笑い、ソバカスの顔を向け、モシュモシュは先ほどと同じ質問をした。
この国のイケてる髪色というのはどんなものかはわからないし、このやたらと語尾を長くして話す美容師に全信頼を預ける気持ちにもなれなかったため、「普通に、黒一色でお願いします」と伝えた。
オッケー!わかったわ、と人差し指と親指でたこ焼きが入るぐらいの丸を作り、ほっぺたにくっつける動きをする女性スタッフを横目で見ていた竜泉は少し不安になって、自分の担当をしている男性スタッフに声を抑えてヒソヒソと聞いてみる。
「大丈夫ですか?隣の、…俺の息子を担当してる女性。新人のように見えますが…」
「あ、息子さんだったんですか?兄弟だと思ってました」
この国ではそういう事にする予定だった竜泉は「ええ」と答える。
「モシュモシュさんはうちの店長ですから、安心してください。腕は確かですよ」
「店長?そうですか…」
肩書きは店長でも、ルンルンルゥンと歌いながら髪を切る姿にはやはり心配は拭えず、もし白虎本人が気に入らない髪型にされてしまったら野球少年風にバリカンで坊主にしてもらえばいいかと竜泉は考え、東和国人らしい一般男性に近づく己の様子を映す鏡に目を戻したのだった。
[newpage]
………
仙人、面接に行く②
………
東和国の中心部から少し離れた粛然としたオフィス街。
白色人種のサラリーマンが忙しそうに行き交うのが当たり前だった光景の一部に、Bluetoothで何やら熱く語るオフィスカジュアルの黒人や、カフェでパソコンを開いて優雅にコーヒーを飲む姿が近頃加わるようになった。
実に様々な人種が各々の役目を果たしている中、一人の青年がゴンゴンと電柱やビルにぶつかりながら壁をつたって歩いていた。
「足が…上が、らない…」
人間界へ降りて二百年あまり。東和国で働き始めてからは五年。紫穏]は立派な社畜となっていた。
足はガクガクと笑っていて、目的地である勤め先になかなか到達できない。疲れがたまった体は思うように動いてはくれず、困っていた。カホッ!と咳をすると、たまに血が口から漏れる。ツンととがった形の良い唇からポタリと赤い血が落ちた。今日のコンディションはいつにも増して最悪だ。紺色のレザーシューズとテードーパンツに血が少しついてしまった。常備しているウェットティッシュでふき取り、体を引きずる。
歩くたびにカシャンカシャンとメガネが上下に揺れる。昨日暴れ回る悪霊を封じる時に建物にぶつかり、メガネのフレームの一部が曲がってしまったのだ。少し下を向くだけでスルリと簡単に地面に落ちる。
「あ」
落ちた瞬間パキっとよろしくない音がした。
「あっ」
今度は拾おうとしたのに視界がぼやけ、誤って足先が当たりメガネを蹴ってしまった。メガネが回転しながら歩行道路へと向かう。
「あー!」
通行人に踏まれ、ぱきゃっと本当によろしくない音が聞こえた。足元で踏んだものを確認した人はヤベッという焦り顔をしたが、何事もなかったかのように早足で歩いていった。まさに踏んだり蹴ったりで、紫穏]はもう何もしたくない気持ちになった。
「デスクにスペアがあるし…今は少し休もう」
割れたメガネを取りに行く気力もない。立っているのもやっとだった。近辺に座れそうな場所を探してみると、ちょうどいい場所を発見した。右側に人気の無い路地があり、ゴミ箱がポツンと置かれている。なんとか体をそちらの方へ向かわせ、ゴミ箱の隣へしゃがむ。
「大丈夫?足」
顔を下に向けていた紫穏]は小さく驚いた。どんな大人でも、この都会ではゴミ箱のそばでしゃがんでいる社会人に声をかけるのというのはなかなかに勇気がいることだ。
一体どんな親切な人が心配してくれたのかと胸が温かくなったが、すぐに向上した気分は落ちる。
しゃがみこむ紫穏]の目の前に二人分の足が見えた。
「大丈夫。靴擦れの絆創膏貼ったから」
「よかった。浴衣、よく似合うね。キレイだよ」
「ありがとう。アタシ、あなたと夏祭りを過ごせて嬉しい。たぶん今が人生で一番幸せな瞬間なのかも」
「一番?それはまだ早いんじゃないかな。僕はもっと君を…」
通りすがりのカップルの会話だった。そういえば今日は花火大会の日だ。
誰か心配してくれたのかと思った自分が恥ずかしい。今すぐこの場から逃げ出したくなって、立ち上がった。足が痛くて若干へっぴり腰になるが致し方ない。
ジリジリと照りつける真夏の太陽から身を守るように手を顔の前にかざし、影を作る。フラリと意識を失いそうになるのをこらえた。
昨日、事情聴取で向かった病院がたまたま紫穏]の主治医がいるところだった。調査のあと、ついでにかかりつけ医に診断してもらったら、余命半年と言われてしまった。
長寿ではあるが、不死身ではない。死ぬ時は死ぬ体である。
休養をとりたいところだが、あいにく紫穏]の務める会社の上司は法律通り紫穏]を休ませる気がサラサラない。
紫穏]が任されてる仕事はまだ百件も残っており、もし休みたいと言えば機嫌を損ねて紫穏]の偽造身分証明証を破棄してしまうかもしれない。そうなればこの国で仕事をしていくことができなくなる。
一度社会と関わりをもち、他者から必要とされ、己の実力を存分に発揮できる幸せを知ってしまった。神仙になるという夢も途絶え、何のために生きているのかもわからず孤独に耐えながら山で生活していた頃にはもう戻れない。
左手の薬指に目を向ける。紫穏]は未婚だが、木で彫った指輪を常時薬指につけていた。
指輪に触れると、今でも一人の青年が脳裏に浮かんだ。紫穏]の名を呼ぶ低く優しい声も鮮明によみがえる。幻だったのではないかと思うほど、本当に幸せな日々だった。
この指輪がある限り、あの日々は現実だったと語ってくれる。
「竜泉…今の私なら、君と友人になる資格はあるだろうか」
恋人にはなれなくても、友人としてなら………。
人間界に来てから二百年弱の月日が流れた。彼は今頃神仙になっているかもしれない。
人間らしく過ごしている今の姿を見てもらいたくても、人間界に落ちてしまった以上、こちら側から彼に会いに行くことなど出来はしないのだ。わかってはいても、生きていれば何かが起きるかもしれないと期待をしてしまう。
好きな人の傍にいられるひとかけらの可能性があるのなら、考えずにはいられない。
想い人のことを考えていたらほんの少し活力が湧いてきた。太ももに力を入れ、壁をつたってフラつく足取りで進む。
動物の鳴き声がした。顔を上げると、そこには白猫がいた。まだ子猫だ。首元に紐がかけられており、子供向けの小さなスマートホンをぶら下げている。
(最近の飼い主は猫にスマートホンを持たせるのか。GPSがわり?)
子猫がミャオウと鳴いたので、こんにちは、と紫穏]は微笑んで返事をした。
今日は面接希望者との面談日だ。探偵調査業務の他、人材担当も任されている紫穏]は十時までに応接間で面接希望者を待たなければならない。
やっと株式会社寿恩-ジュオン-と彫られたビルに入ることができた。涼しいクーラーの風に救われる。
時間には間に合いそうだ。あとはエレベーターで目的地まで上がるだけだが、何せ視界がぼやけていて足もうまく動かない。一歩方向を間違えれば遅刻確定だ。余裕をもって到着しないといけないので気持ちは焦る。この国はやたらめったら遅刻に厳しいのだ。三秒の遅れさえも許さない。
エレベーターに乗り込めばこっちのものだ。目を細め、エレベータの位置を確認する。無駄に広いこの会社のエントランスが憎らしい。
「大丈夫ですか?」
男性に声をかけられた。術の使いすぎで疲弊して落ちた今の視力では、相手の顔がぼやけてよく見えない。先ほどのように、勘違いかもしれないのでキョロ…と左右を確認する。一階のエントランスには紫穏]と彼しかいない。間違いなく紫穏]の身を案じて声をかけてくれたのだ。
壁をつたって歩いていたが、人の手を借りることができた方が早く応接間に行くことができる。ぼんやりとした視界でも、相手がスーツ姿なのはわかった。スーツでこの会社にいるということは、客ではなく同僚の誰かのはずだ。仲間の誰かだと安心した紫穏]は頼ることにした。
「ちょっと術を使いすぎちゃったんです。悪いけど、五階の応接間まで手をかしてくれませんか」
青年は快く承諾してくれた。ポーン、という機械音が鳴り、一緒にエレベーターに乗り込んだ。
「かなりお疲れの様子ですが、本当に大丈夫ですか?」
「ええ。問題ありません。お心遣いありがとうございます」
「血の巡りが悪いようです。ちょっと失礼しますね」
二本の指をそろえ、紫穏]の首筋にあてた。体からスゥと疲れがなくなっていく感覚があった。
「すごい…体が軽くなったよ!」
「それはよかったです」
うちの社員は陰陽師家の血縁者が多く、こういったことができる人間がいてもおかしくはない。紫穏]はすごい人がいるものだと関心した。
エレベーターは四階で一度開くが、誰も乗ってこない。扉は閉じ、また五階へ向かう。
近づくと、ぼやけた視界でもなんとなく彼がとてもカッコいい風貌の持ち主だということがわかった。昔好きだった人に声が似ている。迂闊にも紫穏]はちょっとドキドキした。
社内恋愛は禁止されていないし、昔の男なんか忘れて新しい恋を見つけろと社長から口を酸っぱくして言われている。彼ならアリかも…と紫穏]は思った。思い切って食事に誘ってみようと決心した。エレベーターは五階へ向かって静かに上がっていく。
「本当に助かった。今から面接があって、ちょっと遅れそうでヒヤヒヤしてたんだ。お礼に食事を奢ります。いま眼鏡がなくてあなたが誰かわかってないんだけど、名前を教えてくれますか?面接が終わったら社内の内線で電話をかけます」
「いえ、私はこちらの会社に面接に来た者でして…」
「あ、そうだったんですか!」
エレベーターが開く。応接間へ案内しようと先に紫穏]が一歩前に出たとき、左側からヒヤリとした空気が流れ込む。紫穏]がそちらの方へ向くと、雪のように冷たい視線と合った。
怒っていても困っていても、彼女の視線は冷たい。紫穏]は慣れているものの、ふいうちだと今のように背筋が張り詰める怖さをいまだに感じる。
「ヒッ、ゆ、雪音君。どうしたの」
雪音は気配を消すのがあまり得意でない。いまだに練習中で、今のように困っていると冷気が漏れてしまう。
「しぃさん、よくないことが起こりました」」
「よくないこと?」
血を吐き、立つのもやっとで、社長のパワハラに怯えるこの日常に加え、さらによくない事が加わるなんて冗談じゃない。さきほどの淡いトキメキを忘れ、違う種類のドキドキを感じて手を胸に当てる。
女性は言いかけ、エレベーター内にいた一人の男性に気づいて言葉をのんだ。
「あとで申し上げます。そちらの方は面接でいらっしゃった方ですね」
「はい」
女性は青年に会釈をし、紫穏]に向き直る。
「先に面接希望者の方を応接室に案内した方がよろしいかと」
雪音の「よくないこと」が気になったが、面接希望者を待たせるわけにはいかない。
「そう、だね。私は自分のデスクからメガネを取ってくるよ」
女性が頷き、スーツ姿の男性を案内する。
「こちらです。どうぞ中へお入りください」
エレベーターの向かい側が応接間になっていた。雪音と青年がそのまま前の部屋へと進む。
青年が前を通り過ぎる際に覚えのある香りが紫穏]の鼻をくすぐった。一体、何の香りだったか思い出せないほど微量なものではあったが、とても気になる。
突如「メェーー」という気の抜ける声に雪音と紫穏]の目が点になった。その動物は何かを食っているのか、クシャ、クシャと租借音がする。
扉の向こうには高級感のあるリッチな空間にそぐわない、白くてもこもこのヤギがいた。
雪音が口を開く。
「しぃさん。彼、紙も食べてしまうんですか?」
「うん…たまにね。眠たいときとか」
紫穏]が一直線に歩いてヤギの傍に寄る。
机のそばで鼻提灯を膨らませ、半分寝ながらモムモムと咀嚼しているヤギの口元に注目する。紫穏]はびっくりして指をさす。
「ヤギ君が食べてるソレ、履歴書じゃないか⁈」
「メヘッ⁈」
ヤギの鼻提灯がパチンと割れた。紫穏]の声と自分の花提灯が割れる衝撃に驚き、口に含んでいたものをポトリも床に落とす。
「ヤギ君…眠い時は隣の部屋で休むようにって言ってあったでしょ…あぁ…履歴書の半分がない。まだ目を通してなかったのに…」
クシャクシャになった無残な姿の履歴書に残っているのは出身大学と志望動機の情報だけとなった。住所や資格の部分があとかたもなくなくなってしまっている。
重なっていた職務経歴書もだめになっている。
人事担当は雪音と紫穏]が担っており、主に雪音が履歴書に目を通し、OKだと判断したあと紫穏]が最終決定を下し、社長に報告する流れとなっていた。
ヤギのツバだらけで臭くなった履歴書を、血を吐いた時用に常備しているウェットティッシュで包む。
ボフ、と風が吹き、青いジーンズのつなぎを着た二〇代半ばの青年が現れる。
「ごごごご、ごめんなさい!僕ぼーっとしてて、美味しそうだなぁって眺めてただけだったんです!いつ口に入れたんだろう?えっそれ、履歴書なんですか?本当にごめんなさい!」
ヤギは人間に戻った状態で膝をつき、ペコペコと頭を下げる。紫穏]と雪音は冷や汗が出る。そして同時に思った。
――――一般人の前で人間化するなよ!!!
「飲み込んだやつ、吐き出します!」
「いい!いい!やらなくていいから!もう、やめなさいって!」
もう取り繕う余裕もなくて、紫穏]はいますぐにでもヤギをどこかに隠してしまいたかった。
「吐き出します!おごごごご…っ」
ひ弱な紫穏]の本気では到底ヤギの指を口から引き抜くことができない。紫穏]は体をのけぞらせて彼の腕を引っ張ってみるも、ビクともしない。
「ぐ、力が強すぎる!履歴書が無くても面接はできるから!やめろってば…っ」
二本の指を喉に突っ込み、オエオエしているやたらと力の強い従業員と取っ組み合いをしていたら、低い声でクククと小さく笑う声が聞こえた。ふりむくとスーツの男性がこっちに近づいてくるのがわかった。
「履歴書の内容は書き直すことができますし、口頭でよろしければ何度でも申し上げることができますから、無理はなさらないでください」
ヤギと格闘していた紫穏]はなんだか恥ずかしくなって、立ち上がる。
「ヤギが人間になったことについては驚かれないのですか?」
雪音が感心したように聞いた。
「驚きましたが、俺も普段から人間ならざるものと接触しているので。こういったことには慣れています」
そうだった。彼は一般人だが、悪霊退治を専門としている会社に面接に来ているということは、それなりにソッチ方面の免疫があるということだ。面接に受かれば仲間となるし、取り繕う必要もない。
立ち上がり、膝あたりについたホコリをとるようにパンパンと叩いた。
「面接、始めちゃおうか。十時過ぎてるし。雪音君、ヤギくんを連れてって」
取り乱したヤギも少し冷静になって周囲を見る余裕ができたようだ。スーツ姿の一般人を見つけ、アッとした顔で驚いてから、すごすごと雪音と共に応接間から出て行った。
「そちらにどうぞ。メガネを取ってくるから、ちょっと待っててくれるかな」
「はい」
L型の黒いソファに座るよう促し、急ぎ足で同じ階にある探偵事務所に入る。自分のデスクの引き出しには二〇個以上のメガネがしまってあった。
部下として今後接する相手となる人だ。クールでカッコいい上司だと思われたい。面接を受ける側もそうだが、面接をする方だって緊張はする。もうすでにボロは出ているが、今以上に慌てた面接会とならないよう、紺色のメガネを選んだ。紺色は紫穏]の好きな人の髪色で、これをつけると穏やかな気持ちになれるのだ。
応接間に戻り、面接者の向かい側に落ち着いた。
「予定より面接の時間が遅くなってすみません。私は寧紫穏(ねい しおん)と申します。人事担当のほか、探偵調査、悪霊退治も請け負っています」
よろしくお願いします、と形式通りの挨拶をかわしてから、持っていたメガネをかける。前を向いた瞬間、紫穏]の頭の中が数秒間、真っ白になった。
「………………………」
「………………………」
紫穏]の沈黙があまりに長いので、彼から「自己紹介から始めればよろしいですか?」と尋ねる。紫穏]はなんとか声をふりしぼり、「うん…竜泉…君、からお願いします」とだけ言った。
できる上司としての皮はいとも簡単に剥がれ落ち、紫穏]はガチガチに固まってしまってしまった。
やってきたスーツの男性は、紫穏]の元カレだったのだ!
[newpage]
………
仙人、面接に行く③
………
食い入るようにこちらを見ている。自己紹介をしているというのに、まったくメモを取ろうとしない。
(今言った経歴や資格は関係ないということなのか?)
履歴書の上半分にあった資格取得歴欄と技能欄がなくなったのだから、当然メモをすると思ってゆっくり伝えていたのだが、ずっと顔ばかりみてくる。竜泉は内心で変だなと思いつつ、志望動機も伝えた。コンコンとドアを叩く音がした。「失礼します」と言って女性が入ってくる。
雪音と呼ばれていた女性だ。二人分の緑茶が入った陶磁器を紫穏と竜泉の前に置いてから紫穏]の隣に座り、胸元のペンを取り出して、竜泉の自己紹介と志望動機をメモにとり始めた。
「―――私からは以上です」
竜泉の自己紹介がひと段落ついたところで、雪音はペンを置き、持ってきた資料を机に広げた。
「今日はお暑い中お越し頂きありがとうございます。では会社説明を僭越ながらわたくしからさせて頂きます」
ホームページに掲載されているような内容を聞いている間、女性を観察する。竜泉は一目で彼女が妖族であることを見破った。うまく人間に化けているが、ただよう冷気と妖気を隠しきることはできていない。
もう一人のメガネをかけた青年に意識を向ける。寧紫穏と名乗った彼はずっと驚愕した顔つきで、口を半開きにしたまま動かない。竜泉も紫穏]の洗練された中世的な整った美しさには正直度肝を抜くほど驚いたが、ここまであからさまにはしていなかったはずだ。
己の見た目が他人からどう見られているのか経験上理解しているつもりだった。男女問わず賛美を投げられてきたので、ある程度見てくれには自信を持っている。
(男は普通の人間のようだが……顔色がかなり悪い。さっきからずっとだ。大丈夫なのか?)
隣の席にいる雪のような女性に負けないくらい、男の肌は白かった。蒼白とも言える上、指や足が時折痙攣するように震えている。
「このビルの階はすべて株式会社 寿恩-ジュオン-が所有しています。悪霊退治を専門とし、その他ネットショップをサイドビジネスとして展開しています。一階から四階までの従業員はネットショップに携わる従業員ですので、採用後は下の階の人とあまり関わることはありません。五階を探偵事務所として使用しており、この階の従業員は私と先ほどのヤギ、こちらの寧紫穏を含めた十名で構成されています」
面接は滞りなく進んだ。そろそろ終わるかという頃、ドォン!と何かが衝突するような大きな音が鼓膜に響く。
「なんだ?!事故?!」
弾かれたように紫穏]は竜泉から目を離し、急いで窓を開け、外の様子を確認する。
トラック車が宝石店に突っ込んでいた。歩行者を複数轢いたようで、店のあたりは血と悲鳴で見ていられない惨状となっている。
「雪音君、今すぐ救急車に電話!下の階の従業員とありったけの救急箱を持ってきて。私は先に現場に向かう。竜泉…くん、きみ、今日から採用するからついてきて!給料は本日づけで出るように社長に言っておくから!」
すかさず雪音が「しぃさん、それは…」と不服を訴える。大根が安いからついでに買っちゃおう、というようなノリで採用を決めてはいけない。普通の探偵事務所ではないのだ。即決するなんて信じられない事で、能力が低ければ死に直面する職種でもある。採用に関しては慎重に審議をして決めるべきである。
紫穏]が二本の指をそろえ、空中で何かを描こうとした。一度竜泉を見て、ためらうような顔をしたが、意を決したように花を描くように指先に集中しなおす。
「”開花二式”!」
聞き覚えのある術に竜泉は目を見張る。
両手を自分の胸にあてた瞬間、紫穏]から淡く白い光が放たれた。その光は流れ星のように細くなり、消えていった。
「竜泉君、ついてきて」
「待ってください、しぃさん、先日術を使ったばかりで、あなたの体は限界を……!」
心配する雪音を置いて、紫穏]は竜泉と共にすでに走り出していた。「救急車を頼んだよ!」と言い残してエレベーターへ向かう。
雪音は何か言いたそうな顔をしたが、なんとか飲み込んだように頷き、携帯を取り出した。
竜泉はエレベーター内に乗り込み、寧紫穏という男を深く観察する。彼はメガネを外し、胸元にしまいこんでいた。
先ほど、履歴書に目を通していなかったと言っていたのに、『竜泉』と名を呼ばれた。初対面のはず。竜泉は男のつむじを見下ろした。先ほど術が気にかかる。開花術式。あれは仙界の術だ。
―――寧紫穏、お前は一体何者だ?
[newpage]
………
仙人、面接に行く④
………
エレベーターが一階にたどり着くまで、紫穏]の心境はめちゃめちゃだった。怪我人を助けなければならない。昔好きだった人がそばにいるからといって、頬を緩ませている場合ではないのに、こうしてエレベーターで竜泉といっしょにいると、ついにやけてしまいそうになる。
下では一刻の猶予もない自体で、不謹慎だと感じつつも、もしかしたら…と期待を抱いてしまう。紫穏]とヨリを戻すべくやってきたのではないか、と。他人の空似という可能性もある。慎重にうかがった。
(最後に会ったのは一五歳くらい?だったかな。すごくカッコいい大人に成長したんだなぁ)
"開花術式"で視力がクリアな状態になっているため、はっきりと竜泉の輪郭が見える。
「何ですか?」
つい顔をよく見てしまったらしい。
「あの、竜泉…君。私と過去に会ったことないかな?」
「いえ。初めてお会いするかと」
ガン!と平らな石に頭をぶつけたような感覚になり、紫穏]はしょぼくれるように背を丸めた。でもまだ諦めない。
「子供の頃、君と会ったことがある気がするんだ。ちょっと運命的なものをさっき感じて…あの、面接が終わったら一緒に食事でも…」
「パワハラ、セクハラ、ストハラという言葉をご存じですか?俺には息子がいますので、ご遠慮願いたい」
(ふ、ふわーん!)
泣きたくなった。その視線は遠い昔に向けられた甘い瞳からはほど遠く、むしろ邪見にしている目だった。
(なんだいストハラって!冷たいにも程がある…、君から見て私は上司になるのに。というか父親になっていたのか?嘘だろう………ぐすん)
スキをついてヨリを戻すとか、そんな期待を持つ方がバカらしい。自分の存在を否定された気分になる。
「へんな事を聞いてごめん。そういうつもりじゃない、ほんと、ごめん」
そういうつもりだった。完全にそういうつもりだった。
今後とも仲良くしたい紫穏]はあわてて訂正するほかない。
他人の空似か、もしくは完全に紫穏]を忘れてしまったか、あるいは………紫穏]は寂しい気持ちになり、俯く。それ以上は考えたくなかった。
エレベーターが開かれると同時に、「お母さん!お母さん!」と泣く子どもの声が聞こえる。エントランスを出たビルの外にはむごたらしい光景が広がっていた。ショーウィンドウの割れたガラスが刺さっている人もいれば、トラックにひかれ、血を流して意識を失っている人もいた。
「キャァァァ!」「ワァァッ!」と人々が叫ぶ声のもとへ目を向けると、そこにはおぼつかない足取りで歩く男性が見えた。目は上を向き、どこかへ向かっている。
「屍人だ!」
「しびと?」
「詳細はあと!竜泉君は負傷者の介抱を!」
屍人の見た目は四十代後半。短髪で、肌は青白い。頭からは血を流し、こめかみには何本もの血管が浮き出ている。
宝石店へ突っ込んだ事で使えなくなったトラックを捨て、新たな車を探しているようだ。駐車場を見つけたのか、突如そこに向かって信じられないスピードで走り出す。
周囲の人間は男を取り押さえようと、近くにいた男性数名が押さえ込むも逆にぶん投げられてしまっている。
投げられた内一人の男性は骨が折れたようで、腕が曲がっていた。
これ以上被害を大きくしてはいけない。この術ーーー”開花式”は先日使ったばかりで、体が完治していない。この状態で”開花三式”以上の術は体への負担が大きい。”開花二式”が限度だ。それ以上使えば、今度病院で診察する時に余命三日と言われるかもしれない。
「う、うわぁぁ!」
また誰かが屍人に投げられている。考えている暇はない。
五本の指を広げて自分の心臓にあて、「”開花十二式”!」と唱える。封印されている体の奥に眠っていた神通力が全身にあふれるように流れはじめ、身体中の血肉が一斉に吹き立つ。
急速に紫穏]の走る速度が上がり、あっという間に屍人に追いついた。グワシ!と屍人の襟首をつかんで袖から引き出した札を青白い額に貼る。すると死人にしがみつくように巻き付いていた魂が体から分離され、ふわんと白い魂だけが宙へ浮く。
1/3ページ