小さな命と、ふたりの時間
前世――。
紅葉(もみじ)は裏切り、かつての恩を仇で返した結果、恩人たちは城を攻められ、そして……紅葉もまた、殺された。
――そして現代に至る。
記憶を抱えたまま、二人は今を生きていた。
秋になって大気が澄み渡り、乾燥した冷たく新鮮な空気が窓の隙間から部屋へ流れ込んでくる。鳥の声も一緒に紅葉の耳に届いた。
窓をぴしゃりと締め、家計簿を開いている円卓に腰を落とす。
正社員で月給は十二万。昇給もほとんどないまま、元主にこき使われ続けている。
「エアコン、完全に壊れちゃったなぁ……」
ピッピ、とリモコンで何度も動いてくれと念を送りながら操作をしているが、まったく音沙汰がない。
諦める領域にきていた。
青年は寒さにブルリと体をふるわせ、カーディガンを羽織る。
「まいった……」
静けさと優しさの中に、どこか壊れそうな脆さを感じさせる青年だった。
柔らかな黒髪が前髪でわずかに目元を隠し、朝日を受けるたびに絹のように揺れる。指で触れたら溶けてしまいそうなほど繊細だ。
まっすぐな鼻筋と薄い唇。笑えば誰もを安心させる穏やかさを持つが、その瞳の奥には、時折どこか遠い場所を見つめるような寂しさが宿っている。
カーディガンの下に見え隠れるする、細身のスーツ。それに包まれた体は華奢に見えても、長年の忍耐で培われた芯の強さがあった。
声は静かで柔らかく、しかしその響きの奥には、命令に従う癖が抜けきらない“従者”の影が残っている。
もともと部屋に備え付けられていたエアコンだった。
「もし壊れたら自腹で買い替えてね」と、賃貸のオーナーに言われていたのを思い出す。
「中古エアコンだと、いくらだろう」
月の食費は9,000円。老後貯金は月々3,000円。家賃は5万円。
大学の奨学金として借りた学費の返済に、毎月3万円。
その他の生活費を差し引けば、手元にはほとんど残らない。
エアコンを買う余裕なんて、とてもない。
「少しの期間だけなら……副業しても、バレないよね。」
会社では副業が禁止されているが、今回ばかりは致し方ない。
内職をするなら、土日しかチャンスはない。
バレないように、内職の仕事を探すことにした。
一日3,000円を稼げる、バラの折り紙を作る仕事を見つけた。これならできそうだ。
すぐに携帯から採用担当に電話をかける。
なんとか冬本番までには、エアコンを手に入れたい。
仕事検索をしていたせいで、朝食を食べ損ねてしまった。
「死ぬことはない」と自分に言い聞かせ、諦めてそのまま出勤する。
――朝7時には席に着き、不動産の書類に目を通す。
その後、「社長」のスケジュールを確認し、滞りなく会社が円滑に動くようサポートをすることに全力を尽くす。
秘書の仕事は、ただ予定を管理するだけではない。
取引先とのアポイント調整、契約書のチェック、来客や電話の対応、時には物件の現地確認にも同行する。
社長の代わりに礼状を書いたり、会食の手配をしたりと、気を抜く暇などない。
そして、23時に帰宅する。
家に帰ってから明日の弁当を用意し、風呂に入り、少し掃除をして――やっと一息つけるのは夜の1時ごろ。
そこから5時に起きて、出勤準備。
そんな毎日を送っていた。
◇◇◇
「お誕生日おめでとうございます」
「ああ」
手作りの和菓子を毎年彼にプレゼントするのが恒例になっていた。
柊吾(しゅうご)は、おはぎが大好物なのだ。
彼は、まるで完璧に設計された彫像のようだった。
黒髪は丁寧に整えられ、わずかに流した前髪が知的な影を落とす。
白いシャツに黒のベスト、そして細いネクタイ――そのすべてが彼の端正な輪郭を際立たせ、都会的な冷たさと優雅さを同時に纏っていた。
目元は鋭いのに、どこか柔らかい光を帯びている。
見つめられたら、反論の余地なく心を掴まれそうな、そんな静かな支配力があった。
唇の端に浮かぶわずかな笑みさえ、計算された美。
画面を見つめる横顔には一切の隙がなく、その姿だけでひとつの物語が完成してしまうほどだった。
前世――柊吾は、かつてとある城の主であり、自分は忍だった。紅葉は敵国の拷問に耐え切れず、城内の間取り図を描いてしまい、その結果、戦争に敗北してしまった。
死ぬ直前、柊吾は敵側から誰が情報を漏らしたのかを知らされたらしい。
紅葉という裏切り者に強い憎しみを感じながら亡くなったということになる。
記憶が戻ったのは中学の時だった。お互い修学旅行で同じ班になった際、城巡りの途中である蔵書を開き、その瞬間、二人がかつて城で主と忍であったことを思い出したのだ。
記憶が戻ってからは大変だった。柊吾は怒り心頭のまま紅葉を殴りつけ、K.Oさせてしまった。それ以来、紅葉は柊吾に決して逆らわず、どれだけ虐げられても反撃せず、従順に従った。
紅葉には親がおらず、施設で育った。施設の人間は、紅葉が問題を起こさないことを望み、彼の回答を全て信用した。この状況は本人たちが望む関係であり、いじめではないと学校側に説明した。
学校側の教員のほとんどは、これをいじめであると断定していたが、校長が「これは本人たちが望んでいる形だ」と言い切ったため、何も言えなかった。
そして大学を卒業するまで、主従関係は続いた。
「パンを買ってこい」と言われれば、授業中でもどんな時でも必ず走った。「代わりに宿題をやれ」と言われれば、その通りにした。
社会人になったあるとき、なぜか彼は目を合わせてくれなくなった。
不思議に思いながらも、紅葉は心を込めて彼のために尽くし続けた。
柊吾は大学を卒業するとすぐに不動産事業を立ち上げ、成功した若者だった。
ちょうど世間は不動産ブームの真っただ中で、右肩上がりの時代に突入していた。運も味方したこともあり、柊吾の会社はますます成長した。
秘書として雇われていた紅葉は、会社設立時から尽力していた。本来なら役員の立場にあるはずだったが――彼の月収は、会社を作った5年前と変わらず、月12万円のままで昇給はまったくなかった。
けれども、一度たりとも紅葉はこれに関して追求はしなかった。
これが、柊吾の決断なのであれば、喜んで受け入れる。紅葉はそういう人間だった。
会社が波に乗ったころ、柊吾は言った。
「もうお前を解放してやる。昔のことはもう覆せない。水に流し、お互いのことは忘れよう」と。
紅葉はどうしても柊吾の傍に居たかった。
だが、柊吾のその言葉は、すべてを終わらせる宣告のように響いた。
彼にとってこの会社は、ただの職場ではなかった。
一つひとつの企画、一枚の書類、交わす言葉のすべてが、かつての罪を少しでも償うための祈りのようだった。
彼の視線の届く場所で働くことが、唯一の赦しに近いと信じていた。
もしこの場を離れたら、もう二度と彼に触れられない。
「仕事を続けたい」という気持ちは、忠誠よりも切実で、執着に近かった。
紅葉の中では、過去の償いと未来への希望が同じ形をしていたのだ。
「給料はそのままでいい。変わらなくてもいい。ずっと仕えさせてほしい」と紅葉は願った。
柊吾は一度「昔のことは水に流す」と言ったものの、城にいた者たちを死なせた紅葉のことが憎らしい気持ちは、完全には消え去っていなかった。
「ハッ、お前がいいなら、そうしろ」
その言葉に、紅葉は深く頭を下げた。
胸の奥が熱く痛んだが、それでも構わなかった。
彼の下で働ける限り、紅葉にとってこの世界はまだ続いていけるのだから。
こうして、今の状況にある。
副業がバレれば即クビの会社である。紅葉は慎重に内職を進めなければならなかった。
解雇通知をなんとか回避したその夜、会食の帰りで事件は起こった。
タクシーを呼ぶべく手を上げている時だった。
前方で、けたたましいブレーキ音とともに一台の車が歩道に突っ込んできた。
ヘッドライトが激しく揺れ、夜の街を切り裂くように蛇行している。
クラクションを鳴らす間もなく、車体は縁石を乗り越え、電柱にかすって火花を散らした。
運転席の中では、男がハンドルにもたれかかっていた。
頭が前に垂れ、口元からはかすかに泡がこぼれている。
意識を失っている――そう見て取れた。
アクセルを踏み込んだままの足が震え、エンジンの唸りだけが夜気を切り裂いていた。
振り向くと、柊吾はスマートフォンを手に俯いている。
このままでは、柊吾が危ない!
「柊吾さん!こっちに来ます!」
耳にはブルートゥースを付けて何かを聞いていて、今の状況に、気づいていない!
「主(あるじ)様!」
紅葉は両手を伸ばした。
頭の中にはただ一つ――柊吾の命を守る、それだけがあった。
次の瞬間、世界が光に包まれ、タイヤの焦げた匂いと共に轟音が響いた。
◇◇◇
大昔、柊吾のことは「主様」と呼んでいた。
とっさにそう呼んだ以外、何も思い出せない。
目を開けると、同僚の秘書が驚いた顔でこちらを見下ろしていた。
「起きた! 看護師さん、起きました!」
白い服を着た誰かが、紅葉の容体を確認しにやって来る。
「よかったです。重体だったんですよ」
紅葉はゆっくりと体を起こし、自分の状態を確かめた。
悲惨だった。
両脚は白いギプスで厚く固定され、膝から下はまるで石のように動かない。
包帯の隙間から覗く皮膚には擦り傷がいくつもあり、金属の留め具が鈍く光っている。
少しでも動かそうとすれば、骨の奥から鈍い痛みが響いた。
頭にも激痛が走り、後頭部に手を伸ばすと、包帯越しに硬い感触がある。
その瞬間、事故の記憶が断片的に蘇り、胸の奥がぎゅっと締めつけられた。
どうやらここは病院らしい。窓が少し開いており、そこから枯れ葉が一枚、紅葉の膝に落ちた。
「両足骨折に肋骨骨折。頭はえぐれるくらい…いえ、脳に問題はありません。回復すれば、見た目は以前と同じ状況になると先生がおっしゃっていました。命があって、よかったですね」
ぼうっとしていた頭が、少しずつはっきりしてきた。
「主様は?」
「あるじさま?って誰?」
紅葉はもう一人この部屋に誰かがいることに気づいた。同僚の問いには答えず、その人をじっと見つめる。
看護師と同僚の向こう側に、壁にもたれかかっている男性は…柊吾だ!
(無傷だ……守れたんだ……!)
紅葉はそれだけでよかった。
自分は死んでもいい。しかし、彼だけは生きていてほしかった。
「よかったぁ」
柊吾の無事を確認できた紅葉は、その時初めて涙を流し、深く安堵した。
柊吾は数歩歩いて紅葉に近づいたが、舌打ちをして部屋を出て行ってしまった。
感覚が戻るまで、半年かかった。
リハビリを繰り返し、やっと普通に歩けるようになったころには、すでに桜は散っていた。
あれからずっと、柊吾は見舞いに来なかった。
久しぶりに出勤した紅葉は、柊吾を一目見ようと社長室へ向かった。
コンコン、とドアを叩く。
「秋津(あきつ)です」
「どうぞ」と返事をする柊吾の声が聞こえた。
「御堂(みどう)社長、お久しぶりです」
「ああ。治ったのか」
「はい、完治しました」
「……お前、恋人はいるか?」
「……え?」
なんて?
「耳が悪くなったんじゃないのか。もう一度病院で検査してこい」
「あ、いえ……今、恋人はいるか?と聞こえてしまって」
「そう聞いたんだ。合ってる。いるのかいないのか、答えろ」
「い、いません……」
いたことも、ありません。
社長席に座り、とんとんと自分のこめかみを数回指で叩いたあと、柊吾は言った。
「よし、決めた」
「紅葉、お前、俺と結婚しろ」
「え?」
「……頭まで悪くなったんじゃないか? 俺が何を言ったか、一度で理解できないなら、病院へ戻れ」
「あ、い…え、その、結婚しろと…聞こえたもので」
「だからそう言ってるだろ。結婚しろって言ったんだ」
「誰と?」
「俺をイラつかせるな。今からミーティングへ行く。この机の上、片づけておけ」
「あ、か、かしこまりました……」
頭がぼうっとする。
なんて? ケッコンシロ?
なんで??
机を片付けていると、やっと理解した。社長席には山のようにお見合い写真と手紙が積まれていた。
ここまで早く柊吾が会社を大きくできたのは、ひとえに人脈の力によるものも大きい。
柊吾という人物に価値を見いだし、惹かれた人々が力を貸してくれたからこそ、今の地位を築くことができたのだ。
独身の柊吾は、娘を託す相手として申し分ない存在であり、女性たちから見ても非常に魅力的だった。
中には、自ら父親に頼み込んでお見合い写真を送りつけてくる者までいたほどだ。
柊吾は27歳を過ぎたころ、たまたま婚活雑誌『あばんちゅーる』の撮影の仕事を受けたことがある。
そこで、不動産の記事を載せてくれるという約束があったため、あまり深く考えずに仕事に応じた。
見目麗しい若き経営者。これを放っておくほど、世間は甘くない。
それからというもの、柊吾に見合いを頼んでくる件数は月に30件はくだらず、恐ろしいほどの数が殺到していた。
これを止めるには、結婚するしかない。柊吾は、そう結論づけたのだろう。
「僕で、いいのかな」
柊吾が望むのなら、もちろん喜んで結婚する。
先月、男性同士の結婚が日本でも認められたので、問題はないはずだ。
その日のうちに手渡されたのは、婚姻届だった。久しぶりに、紅葉は思い出す。そういえば自分は、柊吾という男に心底惚れていたのだと。顔が熱くなった。
緊張で書く手がうまく動かず、力が抜けてしまい、きれいに書けなかった。もう一枚書き直させてもらえないかとお願いしたが、柊吾は「こんなもの、適当でいい」と言った。
こうして晴れて、自分は戸籍上、柊吾の妻、「御堂 紅葉(みどう もみじ)」になったのだった。
市役所の帰り、タクシーの中で柊吾がネクタイを外しながら言う。
「お前は俺の妻ということになるが、外部には漏らすな。俺は『妻は人前で目立つのを嫌うので』と適当に言い訳する。合わせろ」
「はい、かしこまりました」
つまりは、社長と秘書の関係を続けていくということだ。
何も変わらない関係にほっとしたが、残念な気持ちもほんの少しあった。
それから一年――。
エアコンは新しいものを揃えることができたが、紅葉は内職の折り紙のバラをひそかに続けていた。バレることなく続けられたので、副業も継続できていた。
なぜなら、オメガ特有の発情期の頻度が長引くようになってしまったからだ。
今の医術は進んでおり、病院でもらう薬を服用していれば働くには問題はない。しかし問題は医療費だ。決して高くはないが、安くもない。月給12万の紅葉にとっては大きな出費であり、発情期が長くなったことで家計をさらに圧迫していた。
そこで、あることが頭にひらめいた。
「いっそのこと、噛んでもらえばいいのでは?」と。
発情中に首元を噛んでもらうことで、正式に番となり、発情期が来ても他人に迷惑をかけずに済む。噛まれないまま、発情期のフェロモンを垂れ流しにしていれば多くのαから襲われてしまうが、一度噛まれてしまえば永遠に襲われることはなくなるのだ。
首を噛んで、番となった相手だけにはフェロモンが効いてしまうという難点はあるが……。
ただ、その期間は柊吾と会わないようにすれば問題ないはずだ。
「そうだ……結婚してもらってるし、お願いすればきっと……」
今日は日曜日。発情を抑える最後の薬を服用して、紅葉は立ち上がった。
柊吾のマンションにやって来た紅葉はインターホンで門前払いをされてしまったが、何度もお願いするうちに、やっと部屋に入ることができた。
そこから約二時間の説得を経て――噛んでもらうことができた。
必ず離婚届けをする際は拒否をせず、滞りなく手続きをするという条件で。
そして、その後、大変なことが発覚する。
避妊薬を飲み忘れていた。
金銭面で精神的に落ち込んでおり、また、体力的にも限界が来ていた。番になるときの条件は性行為も含まれる。性行為をすれば、男であっても子供が成せる。少し考えればわかることではあったが、そこまで考えがまわらないほど、紅葉は疲れていたのである。
気づいたのは3か月後。つまり、妊娠しているとわかったその時だった。相手はもちろん、一人しかいない。首を噛んでもらう時に、性行為も行った。その時にデキたのだ。
「ど、どうしよう……」
結婚しているのだから、世間的に見ればごく普通のことではあるのだが、二人はあくまでも偽装結婚であり、いずれ別れることが約束されている夫婦だった。
バレたら怒られるかもしれない。
だけど――。
「本当に、夫婦に……なれるかも…」
妊娠したとなれば、状況は大きく変わることになる。もしかしたら、父親として子どもを一緒に育ててくれるかもしれない。
淡い期待を胸に、紅葉は会社へ出勤した。別居婚であるため、毎週土日は顔を合わせることはない。
妊娠がわかったのは金曜日の夜。土日のあいだに、どうやって伝えるかを考え、食事に誘って話そうと決めていた。
社長室に入り、食事の誘いを切り出そうとしたその時――。
「これを書け」
出されたのは、離婚届だった。
胸と腹に、チクリと何かが刺さったような感覚が走った。
「海外進出を考えている。海外で事業を展開するのであれば、現地の女を妻に迎えた方が、いろいろと手続き面がやりやすくなる」
「なぜ」と言う言葉は出なかった。
納得、してしまった。確かに、そうだからだ。
彼の野望には、自分は邪魔だった。でも、お腹の子は、どうなる?
人生で初めて、逆らうようなことを口にした。
「離婚は、嫌です……」
「何を言ってるんだ?」
「す、好きに…なってしまいました」
「……嘘をつけ」
「ほ、ほんとです…」
「俺は好きじゃない」
好きじゃ、ない。
もともと柊吾の思う通りに物事が運び、それで彼が幸せになれるなら、それをよしとしてきた。
結局、今も昔と変わらず、同じような考え方しかできなかった。
紅葉は腹部をさすりながら、「かしこまりました」と、柊吾の望む言葉を紡ぎ、離婚届にサインした。
それからどうしても、柊吾を目で追ってしまう自分がいた。
仕事中、少しでも傍にいようとする様子は、同僚の目にも見て取れる。
そのわかりやすい態度が気に障った柊吾は、決断した。
紅葉を呼び出し、言った。
「この会社をやめろ」
もちろん、もう少しいさせてほしいと懇願したが、この時、海外事業があまりうまくいっていなかったのか、柊吾の機嫌はとことん悪く、言い返せる雰囲気ではなかった。
妊娠を伝えたとしても、同情の言葉はかけてもらえないだろうと、紅葉は考えていた。
なぜなら、退職届を出したとき、柊吾はこう言ったからだ。
「過去のことはもう忘れたい。お前がいるとどうしても昔を思い出す。二度と俺の前に現れないでくれ」
ここまで言われてしまえば、恋心も冷めてしまう。
もう今は一人の体ではない。お腹に新しい命があるのだ。この子を守るために生きなければならない。
正直に「貴方の子を宿しました」と言えば、中絶を強要されるリスクもある。
紅葉は何も言わず、ただ頭を一つ下げ、会社を去った。
退職金はほとんどなかったが、わずかに受け取ることができた。
雇用保険や出産手当金なども活用したが、生活費はまだ少し足りない。そのため、月に5万円ほど稼げる、パートの働き口を探す必要が出てきた。
近所にケーキショップがあったので、そこで働けるかどうか問い合わせてみることにした。
そこは高齢の夫婦が営むケーキショップで、午前中しか営業していない。味は確かで、行列ができるほどだ。夫婦の体調により臨時休業が多いが、紅葉が老夫婦の代わりにケーキを作って販売できれば、大きな売り上げにつながる。今、ショップに必要なのは“人手”だった。
臨時休業が多い店であるため、もし自分が体調を崩して倒れても、さほど店に影響は出ないだろうという考えもあった。
妊娠しているが、出産ギリギリまで働かせてほしいとお願いしたところ、老夫婦は採用を決めてくれた。
それから3年――。
ケーキショップには男女問わず行列ができ、店の看板ベイビーとしてSNSでも話題になりつつある息子――「夕柊(ゆうひ)」は、今日も元気にベビーベッドからガラスの向こうにいる外の客に向かって手を振っている。
秋の柔らかな陽を浴びた小さな妖精のような子だった。ふわりとした帽子の下からのぞく髪は柔らかく、秋風がそよぐたびに小さく跳ねる。
ぷっくりとした頬にはまだ赤ちゃんの名残があり、何かをじっと見つめるまなざしは真剣そのもの。小さな手でおやつをしっかり握りしめ、口元に運ぶ仕草はぎこちなくも一生懸命で、見ているだけで頬がゆるむ。
店内にはベビーベッドと椅子が二つ置かれていた。
ベビーベッドの傍には老夫婦が背を丸めて座り、ゆっくりとお茶を飲んでいる。
彼らにはもう働けるだけの体力はなく、ただ静かに座っているだけだった。
この店の店主は、現在も変わらず山田次郎さん――息子の傍で静かにたたずんでいる、この人のままだ。
理由は、紅葉自身がパティシエとして一人で店を守りぬくための資格を何ひとつ持ち合わせていないことにあった。
そのうち取得しようとしているものの、子育てに忙しく、資格取得の時間もないのが現実だった。
外の枯れ葉がひらひらと舞い落ちるのが見えた。
(もうこの季節なんだ)
秋晴れの空の下、太陽のまぶしさに思わず目を細める。
冬の気配を感じさせる冷たい空気の中でも、日の光はやわらかく、
そのぬくもりに包まれると、寒ささえ一瞬忘れてしまうような、そんな美しさがこの季節にはあった。
枯れ葉が舞う季節は、彼の特別な人の誕生月。
あのような別れ方をしたとはいえ、恋心が完全に冷めたわけではなかった。
一時は気持ちが消えたと思っていたが、時が経つにつれ、やはりあの人を好きだったのだと痛感する。
柊吾は確かに傲慢で、とくに紅葉に対しては不遜な態度をとることも多かった。
それでも、人としての魅力は誰もが認めるところがあり、彼には人を惹きつける不思議な力があった。
それが恋なのか、尊敬から生まれた想いなのかは自分でもわからない。
けれど、共に過ごした時間は今も紅葉にとって、何にも代えがたい大切な思い出になっていた。
どうしても彼と完全に縁を切るのがつらく、年に一度、この季節になると、知り合いを通して柊吾にカステラを届けている。
おはぎとカステラが大好物なのだ。
おはぎの方が柊吾は好きだが日持ちしない。その点、カステラならまだもつ。
そういった理由で、いつもこの菓子を選んで贈っていた。
カラン、とドアについた小さな鈴が鳴った。次の客が入ってくる。
紅葉は白いコックシャツの袖を少し折り、腰には赤系のストライプエプロンを巻いていた。
濃いグレーの作業パンツは粉糖がところどころついていて、焼き立ての甘い香りと一緒に一日の仕事を物語っている。
赤いベレー帽の下から覗く髪が少し乱れているのに気づき、慌てて直したその瞬間だった。
「いらっしゃいまー」
「いらっしゃいませ」と最後まで言うことはなかった。
入ってきた客の顔を見て、紅葉は固まってしまった。
黒のロングコートが風を受けて、彼の歩みに合わせてわずかに揺れた。
肩のラインはゆるやかに落ちているのに、全体のシルエットには隙がない。
コートの隙間からのぞく白のストライプシャツ、その下の黒いタートルが静かに白を引き締めている。
無駄のない配色と重ね方。
モノトーンだけでこれほど洒落て見えるのは、彼の立ち姿がまっすぐだからだろう。
その男は店に入ると早々、ベビーベッドに近づき、夕柊を抱き上げた。
(夕柊……!)
老夫婦は特に危機感を抱かず、「はて?」と呟くだけだった。
夕柊は突然抱き上げられた男に向かって「おねんね、まだよー?」と言っていた。
(なんで、なんでこの人が……!)
頭の中で無数の問いが渦を巻く。
柊吾が夕柊を胸に抱え、レジ側にいる紅葉の方を振り返る。
「紅葉、話がある。仕事が終わるまで、ここで待つ」
「……!」
(落ち着いて、落ち着いて……今はお客さんがいる。動揺するな。仕事をしないと……)
まだ店内には多くの客が待っている。
胸の奥で、何かがきしむ。
焼き菓子を並べる手がわずかに震え、言葉も思うように出てこない。
目の前の景色がかすんで、まるで夢の続きに迷い込んだようだった。
紅葉は自分に冷静になれと何度も言い聞かせ、なんとか客が途切れるまで菓子を販売し続けた。
柊吾がやってきてから1時間後、やっと客足が引いた。
柊吾と目が合う。
(話って、なんだろう?)
菓子を販売している間、山田夫妻が出した茶を静かに飲んでいた。何かを話すこともなく、ただ、立って夕柊や紅葉を交互に眺めているだけだった。
「話はすぐに終わる」
柊吾は紅葉の目を見ただけで、気になっていたことをすぐに答えた。
すぐに終わると言ってはいるが、話が長引く可能性もある。
いつもならこの昼の時間帯には、午後17時から店を再開する旨が書かれた「休憩札」をかけている。しかし今回は、「臨時休業」の札をドアにかけた。
「山田さん、すみません。今日は早く上がらせてもらいます」
店主はコクリと頷き、今日の売り上げを計算していた。
会話には少々不安のある店主だが、手の動きから金を扱うスピードは3年前と変わらず早く、計算も正確だった。
夕柊はいつのまにか柊吾の胸元からベビーベッドの方へと移動していた。
元気にぴょんぴょん跳ねている息子に腕を伸ばす。
「夕柊、ご飯とねんねの時間だよ」
「はーい」
両手をいっぱいに上げ、笑顔で返してくれる。心には大きな疲労があったが、この瞬間だけで元気を取り戻せた気がした。
「すみません、話は僕の家でも大丈夫でしょうか」
「かまわない」
柊吾は淡々と答えた。表情が読み取れない。
心臓がばくばくとしていた。嬉しさ、怖さ、驚き――さまざまな感情が心を渦巻き、今自分が何を感じているのかよくわからない状態だった。
アパートまでは徒歩3分。
息子は帰る道のりを楽しみにしているため、ゆっくり10分ほどかけて歩く。
その間、柊吾は何も言わず、後ろからついてきてくれていた。
部屋に入り、離乳食を食べさせると、息子はすぐにウトウトとまどろみ、眠たそうに「ねんね……」と言った。
離乳食はまだ少し残っていたが、今日は早く寝てくれた方が助かる。
一口水を飲ませ、10分ほど抱っこしていたら自然と眠ってくれた。
「おまたせしました。すぐにお茶を用意しますので…」
店に来てから約2時間、本当に長く待たせている。
まだお茶も出せておらず、申し訳なく思った。
しかし、子どもは毎日繰り返されているルーティーンが崩れると調子を崩し、手がつけられなくなるほど何時間も泣き続けることがある。そうなると話し合いもままならなくなるため、仕方がなかった。
「いや、おかまいなく」
柊吾は眠った子どもを静かに眺めていた。
温かい緑茶を円卓に置き、正座する。
4畳半の狭い部屋に大人が二人いると、少し窮屈に感じる。
手短に話を終わらせ、この人を返そうと思った。
もし昔の自分なら、少しでも彼のそばにいようと思っただろう。
だが今は母親であり、前世の悲劇を気にするほど繊細な人間ではなくなっていた。
茶を一口飲んでから、柊吾が口を開く。
「今はケーキショップで働いているんだな」
「はい、アルバイトで」
「どれくらいになる?」
「会社をやめてからすぐなので、3年くらいです」
「毎日…出勤しているのか?」
「はい。出産した月以外はほとんど休みなく、働かせてもらっています」
「……定休日は?」
「水曜日だけです」
「この子は今何歳だ?」
「2歳になりました」
「…俺の子か?」
問われるだろうなとは、思っていた。しかしいざ本当に聞かれると、雷が頭に落ちたような衝撃を受けてしまい、唇は震え、何も言えなくなってしまった。
そうだと言えば、どうなるだろう。勝手に産んだことを怒られるかもしれない。
「違います」
「……相手はどうした?」
「別れました」
まるで取り調べを受けているようだった。
「柊吾さんはどうされてましたか?」
「アメリカで会社を設立して売却した。今は日本に戻って事業を拡大している」
「そうですか……」
海外で、結婚はしたんだろうか…。
これを聞いたら、未練がましく思われるかもしれない。
指輪はしていなかった。
柊吾は何かに気づいたように眉をひそめる。
「3年……待て、産む直前まで働いて、産んですぐに働き始めたってことか?」
「え、はい、そうです…けど」
何が問題なのだろう?
生活するにはお金が少し足りなかったため、働くしかなかったのだ。
なぜか柊吾は立ち上がり、腕を組んで狭い部屋を行ったり来たりし始めた。
大きく息を吐き、首を横に振ることを5~6回繰り返すと、夕柊のそばにしゃがみ、額に手を当てて停止した。
「大変だっただろう。手伝ってくれる人はいたのか」
「はい。さきほどの山田夫妻が、手伝ってくれました」
「…他には?」
「え? 山田さんたちだけ…ですけど」
柊吾はまた立ち上がり、部屋を行ったり来たりする。
溜息をつき、首を横に振るその様子に、紅葉は困惑した。
なんなんだ? 何が悪いのか、わからない。
「何か問題でも?」
「問題か? 問題だらけだったろう……どうして俺に子どもができたことを言わなかった?」
出産して翌月には、もうケーキショップで菓子を焼き、接客もしていた。
働いている間は店内で山田夫妻が赤ん坊にミルクをあげてくれるので、問題はなかった。
この店に来る客は子持ちの母親が多く、子どもが泣いていても気にしない。むしろあやしてくれる人が多く、常に紅葉の目の届くところに夕柊がいたため、気兼ねなく働くことができていた。
さすがに3時間おきの授乳は骨が折れたが、昼の数時間は山田夫妻が息子を見てくれたので、睡眠時間は確保できていた。
問題があったとは…いや、赤の他人に子どもを任せていたので、問題があったといえば、あったかもしれない。
ただ、近所づきあいが多く、買いに来るのはほとんど顔見知りだったため、警戒する必要はなかった。
責められるほどの問題があったとは、やはり思えなかった。
「なんで…って、無関係の人に夕柊のことを言う必要はない、と思っていたので……」
その言葉で柊吾は歩みをピタリと止め、円卓に座った。
しばし茶を眺め、そして一口飲み干す。
「本当に、俺とは無関係と言いたいのか? この子はこんなにも俺に似ているのに?」
言葉に窮した。
遺伝子検査が発達している現代は、髪の毛や唾液で誰が親なのかはすぐに判明してしまう。違うと意固地に否定することでもないように思えた。
ただ、肯定だけはしない方が良いと思った。その方が柊吾のためになる。
勝手に産んだ子なのだ。認知させたいとは思っていない。
柊吾が自分の幸せを歩んでくれれば、それでよかった。
「柊吾さんは、どうしてここへ?」
「不当な給料の支払いをしていたことを認める」
突然の言葉に紅葉は唖然とする。
「お互いもういい大人だ。一度死んだ過去の記憶を引きずるのはよくないと思うようになった。お前に支払うべきだった額を、今日、振り込みたい」
差し出された明細書を見て、その額に息が止まった。
「驚くな。本来なら、お前は役員と同じ給料をもらうべき人間だったんだ」
「で、でも、これ、こんなに……」
「それで息子に、良い大学に行かせてやれるだろ」
「!」
まだ自分の大学の返済も終わっていない。
このお金があれば、夕柊に自分と同じような苦しい返済生活をさせずに済む。
それは、あまりにも魅力的だった。
「ありがとう、ございます」
心から感謝した。ふと、夕柊が大学生になった姿を想像してしまう。
明細書に涙がぽとりと落ち、紅葉は慌てて袖でぬぐった。
そっと頬に誰かの指が添えられる。柊吾の顔が傍にあった。
「息子の名前は、ゆうひ、だったな。漢字はなんて書くんだ?」
柊吾の指で、優しく涙をぬぐわれた。
「夕焼けに、あなたの柊の字で…夕柊です」
「いい名をつけたな」
突然、柊吾への想いがよみがえった。
(うわ、だめだ……この気持ちは、なかったことにしないと)
水に流すとはいえ、自分は憎まれているはずだ。調子に乗らないようにしなければ。
「今日のところはそれだけだ。金は以前、給料を支払っていた銀行口座と同じでいいか?」
「はい、ありがとうございます」
「ちゃんと受け取れよ。あとで『受け取れません』なんて言わないように。数年もすれば夕柊を良い学校に行かせることになるんだから」
「良い、学校に……」
あれだけのお金があれば、大学はもちろん、好きな習い事にも自由に通わせられる。
働きづめで、親と一緒にいられないという寂しさを味わわせずに済む。とてもありがたかった。
またジワリと瞳がうるんでしまう。
「俺が来ても涙ぐまなかったのに、夕柊のことになると、すぐに泣くんだな」
柊吾は玄関に向かう足を止め、再び紅葉の方に戻ってきて、円卓の傍に腰を下ろす。
「!」
柊吾に抱きしめられた。
番になってほしいと首元を噛んでもらったことを思い出す。
体がカッと熱くなるのを感じた。それが柊吾にも伝わったのか、より強く紅葉を抱きしめた。
「あ、あの、柊吾さん?」
「今、恋人か旦那はいるか?」
「いません……」
いるはずもない。前世から、好きになったのは柊吾ただ一人だけだったのだから。
「夕飯はどうする? 家で食べるのか?」
(あ、あれ?帰るんじゃなかったのかな)
「はい。昼も夜も、いつも家で作り置きしているもので済ませています」
「……17時から焼き鳥に行かないか? 三人で」
紅葉はびっくりして、返事に少し時間がかかった。
柊吾は続ける。
「19時には家に戻れるように配慮する。もちろん、おごる。夕柊にはつくねや卵焼きを食べさせられるし、禁煙だから大丈夫だ。どうだ?」
「いいん、ですか?」
「ああ。俺がそうしたい」
また、強く抱きしめられた。
自分は夢を見ているのだろうか。
呆けていると、リリリリと柊吾の携帯が鳴った。
携帯を見て溜息をつき、「あとで迎えに来る」と言い、玄関を出て行った。
「う、そ……」
夢心地の気分だった。今起こったことが本当だったのか、思い出せなかった。
それから16時になると、本当に車で紅葉と夕柊を迎えに来てくれた。
「お仕事は大丈夫なんですか?」
「調整してある。問題ない」
夕柊は車に乗るのが初めてで、非常に喜んでいた。
また、店に来て食事をするのも初めてで、大興奮だった。
以来、すっかり柊吾になつき、この人と一緒にいれば楽しいことが起こると、夕柊はしっかり覚えたのだった。
それから、柊吾は頻繁に親子を食事に誘うようになった。
週の半分以上は一緒に食事をしていたある日、柊吾が次は遊園地に行ってみないかと誘った。
遊園地は紅葉も行ったことがなく、とても興味があった。
実際に行ってみるとやはり楽しく、ほとんどは幼児向けの乗り物しか乗らなかったが、それでも満足できた。
「ちゃー」
2歳になった夕柊は、意味のある言葉を相手に伝えられるようになっていた。
「はいはい、喉が渇いたんだね。ちょっと柊吾さんといい子にして待っててね」
すると、柊吾が千円札を渡してきた。
「俺の分も頼む。ブラックコーヒーで」
「わかりました」
ぴょこん、と夕柊は柊吾の膝から飛び降り、紅葉の足もとの服をつかんだ。
「どうしたの?手伝ってくれるのかな?」
「うん!」
「ありがとう。でも買うのは2本だけだから、お手伝いはいいかな。座って待っててね?」
「あーい」
ちゃんと意味を理解したのか、夕柊は柊吾の膝によじ登り、定位置についた。
「3人分の飲み物を買えよ? 遊園地内じゃ飲み物が高いからって、一本400円とかはしないだろ」
「僕の分もいいんですか?」
「あたりまえだろ」
「すみません、ありがとうございます」
自販機で冷たい緑茶と、温かい緑茶、そしてブラックコーヒーを買った。
戻るときに、柊吾は夕柊を両手で高く持ち上げ「たかいたかーい」と言って二人で遊んでいた。夕柊は嬉しくて、ずっと笑っていた。
胸が、熱くなった。まさか、父親とこうして遊ばせてあげられる日が来ようとは、思ってもみなかった。
「あ、ママが来たぞ」
「まんま!ちゃー」
「おまたせ。冷たいのと温かいの、混ぜるからちょっと待ってね」
ストロー付きの夕柊専用水筒に温冷の緑茶を注ぎ、飲みやすい温度に混ざったのを確認してから、息子に渡した。
本当に喉が渇いていたのだろう。すごい勢いでストローを吸っている。小さいサイズのペットボトルの緑茶を買ったが、この分だと両方この子が飲み切ってしまうだろう。紅葉はまたあとで自分の茶を買うことにした。
空は快晴で、耳には遊園地の楽しい音楽が聞こえる。目の前には、愛しい息子と、かつて好きだった人がいる。
なんて幸せなんだろう。
「紅葉、どうした?どこか痛むのか」
「え…」
緑茶に夢中な2歳児を膝から下ろし、芝生に座らせた。柊吾は立ち上がり、紅葉の目元を親指でぬぐう。
その時、また自分が涙ぐんでいたことに気づいた。
「あ、これは…違うんです。痛いとかじゃなくて」
「痛みじゃないのか?何か悲しいことでもあったのか?」
「そうじゃなくて……ただ、幸せだなって思っていたら、涙があふれてしまったみたいで……」
柊吾は何も言わず、座ったまま紅葉を見下ろし、夕柊を静かに見守っている。
紅葉はその視線が、これまでとは少し違った意味を帯びているように感じ、恥ずかしさに目を背けた。
左手で、右手を包まれる。
ドキリと胸が跳ねた。
ほんの少し、柊吾の手が震えているのを感じ取り、紅葉は彼を見上げた。すると、彼もまた、内側に何かを秘めたような表情をしている。まるで、言いたいことを言えないでいるかのように――。
「ままー。しー」
紅葉はハッとして、息子の声で現実に引き戻される。
慌てて夕柊の傍に寄り、褒めてやった。
「ちゃんと言えたね、すごいね。シー、行こうか。柊吾さん、すみません。この子、トイレトレーニング中なんです。トイレに行ってきますね」
「わかった。荷物は見てるから」
「すみません、お願いします」
◇◇◇
トイレのあと、夕柊は疲れたのか眠ってしまった。二人はお土産コーナーの傍にある、比較的静かで照明の暗いカフェへ移動した。
「色が…オレンジか紫の飲み物しかなかった」
まだ何も飲んでいない紅葉のために、柊吾は店の飲み物を選びに行ってくれていた。柊吾はためらいがちにオレンジ色の飲み物を指さし、「飲めるか?」と尋ねる。
もちろん、紅葉は飲める。感謝の言葉を伝えつつ、その甘ったるくてゴクゴクとは飲めない味わいを「とても美味しいです。これを選んでくれて、嬉しいです」と丁寧に伝えた。
普段、紅葉が水か無糖の紅茶しか飲まないことを、柊吾は知らない。
柊吾は一度夕柊を見てから、真剣な眼差しで紅葉を見つめた。なぜか、口に何かを含む雰囲気ではないと思い、その甘い原色の飲み物のストローを口から離した。
「今までのことを、謝りたいと思っている」
「……柊吾さんが謝ることなんて、一つもありませんよ」
膝の上に置いた手に、柊吾の両手が重なる。
柊吾のその行動に、胸が跳ねた。
「20数年間…俺はお前の人生をめちゃくちゃにしてしまった。一度転生した身なんだから、忘れるべきだったのに」
「柊吾さん、僕は今、幸せです。そんなこと、言わないでください」
「交通事故の時、本当はお前のことが心配だった。手当たり次第、良い医者を探して、お前に傷が残らない病院を探した。でも、傷は残ってしまった」
(え、そんなことしてくれてたんだ…?!というか…)
「あの、いつ、傷口を?」
「毎晩、お前が眠ったあと、看護師に頭の傷口を写真で撮影するように指示していた」
(そうだったんだ……)
「中学から大学まで、いつもお前をパシリに使っていて、悪かった」
「あれは…当然です。僕はあなたに仕える忍だったんですから」
「今世では違うだろ。お前は忍ではなく、秋津 紅葉という人間だ」
「ふふ、どうしたんです? 貴方らしくないですよ……まるで捨て犬のような、かわいらしいご様子です」
「紅葉は、綺麗になった」
「!」
「男に綺麗だと思ったのは、後にも先にもお前だけだ。社会人になってから、お前はどんどんあか抜けて美しくなり、俺を困らせた。大人になってから、ほとんど目を合わせられなくなったのを、気づいていたか?」
衝撃的だった。まさか、目が合わない理由がそんなことだったなんて。
「僕を憎んでいらっしゃるんだと思って……目線については、気づかないふりをしていました」
「……紅葉自身、外見だけでなく、中身も綺麗だった。そんなお前に惚れてしまっている自分が、憎らしくてたまらなかった」
「!」
頬が、胸が、熱くなっていく。
(う、そ……うそだ、そんなことって)
「前世のことを思い出して、お前を憎らしく思う気持ちは確かに残っていた。自分は紅葉が嫌いだと、毎日言い聞かせていた。だが途中から……何もかもが耐えられなくなった。自分の、おかしな気持ちを認められなかった。いっそ、お前がいなくなってしまえばいいと……判断を見誤ってしまった」
「か、海外の方と、ご結婚は……?」
ずっと聞きたかった。どうなったのかを。
「してない。むしろ、お前と過ごしたあの夜以降、誰とも関係を持っていない」
「そ、そうでしたか……」
――“あの夜”。
それは、番になってもらうために首元を噛んでもらった日。
そして、夕柊を授かった日でもある。
「カステラを、毎年ありがとう」
「バレてたんですね…………」
「あたりまえだ。あんなうまい菓子、俺の妹が作れるわけがないだろ」
柊吾とは良い関係を築けなかったが、柊吾の妹・鈴蘭(すずらん)とは仲が良く、
毎年柊吾の誕生日には、鈴蘭にカステラを手渡し、
妹が作ったものとしてプレゼントを渡していたのだ。
「あのカステラは本当にうまかった。なのに、どこで買ったのか教えようとしない。自分で作ったと嘘を言い張るんだ。
箱には店名もロゴも何も書いていない。カステラがうまい店を探し回って、やっと……紅葉がいる店に辿り着いたんだ」
「お給料の話で来たのでは……」
「あれは、思いつきで言った嘘だ」
(思いつき?! 思いつきで、あれだけの額を支払ったのか? この人は!)
目が飛び出るほど驚いていた。なんなら「ひぃ!」と声が出そうなほどだ。
けれども、とてもそんな雰囲気ではない。
静かに――つとめて静かに、柊吾の話に耳を傾けた。
「毎日、紅葉のことが頭から離れなかった。
会えば必ず、また俺は前世のことを思い出す。
愛しているのに、憎らしい気持ちが湧き上がってくるんだ。
だから、会いに行けなかった。ずっと」
目の端が赤くなっていくのを感じた。
そんなふうに思ってくれていたなんて、知らなかった。
「つらく当たってしまうくらいなら、俺なんてものはいない方がいいと思っていたんだ。本当に。
もう、会わないつもりで……だが、ケーキショップで、昔の自分にそっくりな幼児と紅葉を見かけて……もう、心が動いてしまった」
「僕のことが憎らしい……のではないですか?」
「そんなこと、どうでもいい! 終わった話だ。
それに……今となっては、前世と今の俺たちはもはや別人なんだ。
紅葉、信じてほしい。お前と離れてから、やっとわかったんだ。
憎らしい気持ちなんてもうない。お前が必要だ……愛しているんだ。夕柊を産んでくれて、ありがとう」
目が熱くなる。
目の前の視界がぼやけた。
涙で邪魔され、必死に真剣さを込めた、この愛しい人の顔をはっきり見ることができない。
「ほ、ほんとう……?」
「ああ。ほんとう…………………………………………
すまない。紅葉、ここではもう、何も言わないことにしよう」
「そ、そんな……なんて気分屋……」
「違う、そうじゃない。 周りを見てみろ」
気づけば、若い子たちにスマホを向けられていた。
大学生くらいの子が、「あ、すみません、感動的なシーンだったから。続けて、続けて」と言った。
「柊吾さん……この子たち、個人情報保護法って言葉、知ってるんでしょうか……」
きっとこの子たちは、自分のアカウントのフォロワーを増やすためだけに、
今、自分が撮影した赤の他人の動画をSNSに流そうとしている。
「知っててやってるんだろ。行くぞ。もうここにはいられない」
十代くらいの子たちが、「ええ~!? 最後まで告白してハッピーエンドまでいってくださいよ~」と大クレームを巻き起こした。
そんな言葉もものともせず、柊吾はベビーカーを押し、紅葉の腕をひっぱりながら店の外へ出ていく。
先ほど通った自販機のそばにある芝生に腰を下ろす。
少し強引にベビーカーを押していたせいか、振動で夕柊は目を覚ましたようだ。
「ままぁ……」
目をこすり、まだ眠そうにしている。
柊吾はまだ言いたげな様子だ。
紅葉はもう少し眠ってもらおうと、息子を抱き上げ、背中をトントンと優しく叩いた。
紅葉(もみじ)は裏切り、かつての恩を仇で返した結果、恩人たちは城を攻められ、そして……紅葉もまた、殺された。
――そして現代に至る。
記憶を抱えたまま、二人は今を生きていた。
秋になって大気が澄み渡り、乾燥した冷たく新鮮な空気が窓の隙間から部屋へ流れ込んでくる。鳥の声も一緒に紅葉の耳に届いた。
窓をぴしゃりと締め、家計簿を開いている円卓に腰を落とす。
正社員で月給は十二万。昇給もほとんどないまま、元主にこき使われ続けている。
「エアコン、完全に壊れちゃったなぁ……」
ピッピ、とリモコンで何度も動いてくれと念を送りながら操作をしているが、まったく音沙汰がない。
諦める領域にきていた。
青年は寒さにブルリと体をふるわせ、カーディガンを羽織る。
「まいった……」
静けさと優しさの中に、どこか壊れそうな脆さを感じさせる青年だった。
柔らかな黒髪が前髪でわずかに目元を隠し、朝日を受けるたびに絹のように揺れる。指で触れたら溶けてしまいそうなほど繊細だ。
まっすぐな鼻筋と薄い唇。笑えば誰もを安心させる穏やかさを持つが、その瞳の奥には、時折どこか遠い場所を見つめるような寂しさが宿っている。
カーディガンの下に見え隠れるする、細身のスーツ。それに包まれた体は華奢に見えても、長年の忍耐で培われた芯の強さがあった。
声は静かで柔らかく、しかしその響きの奥には、命令に従う癖が抜けきらない“従者”の影が残っている。
もともと部屋に備え付けられていたエアコンだった。
「もし壊れたら自腹で買い替えてね」と、賃貸のオーナーに言われていたのを思い出す。
「中古エアコンだと、いくらだろう」
月の食費は9,000円。老後貯金は月々3,000円。家賃は5万円。
大学の奨学金として借りた学費の返済に、毎月3万円。
その他の生活費を差し引けば、手元にはほとんど残らない。
エアコンを買う余裕なんて、とてもない。
「少しの期間だけなら……副業しても、バレないよね。」
会社では副業が禁止されているが、今回ばかりは致し方ない。
内職をするなら、土日しかチャンスはない。
バレないように、内職の仕事を探すことにした。
一日3,000円を稼げる、バラの折り紙を作る仕事を見つけた。これならできそうだ。
すぐに携帯から採用担当に電話をかける。
なんとか冬本番までには、エアコンを手に入れたい。
仕事検索をしていたせいで、朝食を食べ損ねてしまった。
「死ぬことはない」と自分に言い聞かせ、諦めてそのまま出勤する。
――朝7時には席に着き、不動産の書類に目を通す。
その後、「社長」のスケジュールを確認し、滞りなく会社が円滑に動くようサポートをすることに全力を尽くす。
秘書の仕事は、ただ予定を管理するだけではない。
取引先とのアポイント調整、契約書のチェック、来客や電話の対応、時には物件の現地確認にも同行する。
社長の代わりに礼状を書いたり、会食の手配をしたりと、気を抜く暇などない。
そして、23時に帰宅する。
家に帰ってから明日の弁当を用意し、風呂に入り、少し掃除をして――やっと一息つけるのは夜の1時ごろ。
そこから5時に起きて、出勤準備。
そんな毎日を送っていた。
◇◇◇
「お誕生日おめでとうございます」
「ああ」
手作りの和菓子を毎年彼にプレゼントするのが恒例になっていた。
柊吾(しゅうご)は、おはぎが大好物なのだ。
彼は、まるで完璧に設計された彫像のようだった。
黒髪は丁寧に整えられ、わずかに流した前髪が知的な影を落とす。
白いシャツに黒のベスト、そして細いネクタイ――そのすべてが彼の端正な輪郭を際立たせ、都会的な冷たさと優雅さを同時に纏っていた。
目元は鋭いのに、どこか柔らかい光を帯びている。
見つめられたら、反論の余地なく心を掴まれそうな、そんな静かな支配力があった。
唇の端に浮かぶわずかな笑みさえ、計算された美。
画面を見つめる横顔には一切の隙がなく、その姿だけでひとつの物語が完成してしまうほどだった。
前世――柊吾は、かつてとある城の主であり、自分は忍だった。紅葉は敵国の拷問に耐え切れず、城内の間取り図を描いてしまい、その結果、戦争に敗北してしまった。
死ぬ直前、柊吾は敵側から誰が情報を漏らしたのかを知らされたらしい。
紅葉という裏切り者に強い憎しみを感じながら亡くなったということになる。
記憶が戻ったのは中学の時だった。お互い修学旅行で同じ班になった際、城巡りの途中である蔵書を開き、その瞬間、二人がかつて城で主と忍であったことを思い出したのだ。
記憶が戻ってからは大変だった。柊吾は怒り心頭のまま紅葉を殴りつけ、K.Oさせてしまった。それ以来、紅葉は柊吾に決して逆らわず、どれだけ虐げられても反撃せず、従順に従った。
紅葉には親がおらず、施設で育った。施設の人間は、紅葉が問題を起こさないことを望み、彼の回答を全て信用した。この状況は本人たちが望む関係であり、いじめではないと学校側に説明した。
学校側の教員のほとんどは、これをいじめであると断定していたが、校長が「これは本人たちが望んでいる形だ」と言い切ったため、何も言えなかった。
そして大学を卒業するまで、主従関係は続いた。
「パンを買ってこい」と言われれば、授業中でもどんな時でも必ず走った。「代わりに宿題をやれ」と言われれば、その通りにした。
社会人になったあるとき、なぜか彼は目を合わせてくれなくなった。
不思議に思いながらも、紅葉は心を込めて彼のために尽くし続けた。
柊吾は大学を卒業するとすぐに不動産事業を立ち上げ、成功した若者だった。
ちょうど世間は不動産ブームの真っただ中で、右肩上がりの時代に突入していた。運も味方したこともあり、柊吾の会社はますます成長した。
秘書として雇われていた紅葉は、会社設立時から尽力していた。本来なら役員の立場にあるはずだったが――彼の月収は、会社を作った5年前と変わらず、月12万円のままで昇給はまったくなかった。
けれども、一度たりとも紅葉はこれに関して追求はしなかった。
これが、柊吾の決断なのであれば、喜んで受け入れる。紅葉はそういう人間だった。
会社が波に乗ったころ、柊吾は言った。
「もうお前を解放してやる。昔のことはもう覆せない。水に流し、お互いのことは忘れよう」と。
紅葉はどうしても柊吾の傍に居たかった。
だが、柊吾のその言葉は、すべてを終わらせる宣告のように響いた。
彼にとってこの会社は、ただの職場ではなかった。
一つひとつの企画、一枚の書類、交わす言葉のすべてが、かつての罪を少しでも償うための祈りのようだった。
彼の視線の届く場所で働くことが、唯一の赦しに近いと信じていた。
もしこの場を離れたら、もう二度と彼に触れられない。
「仕事を続けたい」という気持ちは、忠誠よりも切実で、執着に近かった。
紅葉の中では、過去の償いと未来への希望が同じ形をしていたのだ。
「給料はそのままでいい。変わらなくてもいい。ずっと仕えさせてほしい」と紅葉は願った。
柊吾は一度「昔のことは水に流す」と言ったものの、城にいた者たちを死なせた紅葉のことが憎らしい気持ちは、完全には消え去っていなかった。
「ハッ、お前がいいなら、そうしろ」
その言葉に、紅葉は深く頭を下げた。
胸の奥が熱く痛んだが、それでも構わなかった。
彼の下で働ける限り、紅葉にとってこの世界はまだ続いていけるのだから。
こうして、今の状況にある。
副業がバレれば即クビの会社である。紅葉は慎重に内職を進めなければならなかった。
解雇通知をなんとか回避したその夜、会食の帰りで事件は起こった。
タクシーを呼ぶべく手を上げている時だった。
前方で、けたたましいブレーキ音とともに一台の車が歩道に突っ込んできた。
ヘッドライトが激しく揺れ、夜の街を切り裂くように蛇行している。
クラクションを鳴らす間もなく、車体は縁石を乗り越え、電柱にかすって火花を散らした。
運転席の中では、男がハンドルにもたれかかっていた。
頭が前に垂れ、口元からはかすかに泡がこぼれている。
意識を失っている――そう見て取れた。
アクセルを踏み込んだままの足が震え、エンジンの唸りだけが夜気を切り裂いていた。
振り向くと、柊吾はスマートフォンを手に俯いている。
このままでは、柊吾が危ない!
「柊吾さん!こっちに来ます!」
耳にはブルートゥースを付けて何かを聞いていて、今の状況に、気づいていない!
「主(あるじ)様!」
紅葉は両手を伸ばした。
頭の中にはただ一つ――柊吾の命を守る、それだけがあった。
次の瞬間、世界が光に包まれ、タイヤの焦げた匂いと共に轟音が響いた。
◇◇◇
大昔、柊吾のことは「主様」と呼んでいた。
とっさにそう呼んだ以外、何も思い出せない。
目を開けると、同僚の秘書が驚いた顔でこちらを見下ろしていた。
「起きた! 看護師さん、起きました!」
白い服を着た誰かが、紅葉の容体を確認しにやって来る。
「よかったです。重体だったんですよ」
紅葉はゆっくりと体を起こし、自分の状態を確かめた。
悲惨だった。
両脚は白いギプスで厚く固定され、膝から下はまるで石のように動かない。
包帯の隙間から覗く皮膚には擦り傷がいくつもあり、金属の留め具が鈍く光っている。
少しでも動かそうとすれば、骨の奥から鈍い痛みが響いた。
頭にも激痛が走り、後頭部に手を伸ばすと、包帯越しに硬い感触がある。
その瞬間、事故の記憶が断片的に蘇り、胸の奥がぎゅっと締めつけられた。
どうやらここは病院らしい。窓が少し開いており、そこから枯れ葉が一枚、紅葉の膝に落ちた。
「両足骨折に肋骨骨折。頭はえぐれるくらい…いえ、脳に問題はありません。回復すれば、見た目は以前と同じ状況になると先生がおっしゃっていました。命があって、よかったですね」
ぼうっとしていた頭が、少しずつはっきりしてきた。
「主様は?」
「あるじさま?って誰?」
紅葉はもう一人この部屋に誰かがいることに気づいた。同僚の問いには答えず、その人をじっと見つめる。
看護師と同僚の向こう側に、壁にもたれかかっている男性は…柊吾だ!
(無傷だ……守れたんだ……!)
紅葉はそれだけでよかった。
自分は死んでもいい。しかし、彼だけは生きていてほしかった。
「よかったぁ」
柊吾の無事を確認できた紅葉は、その時初めて涙を流し、深く安堵した。
柊吾は数歩歩いて紅葉に近づいたが、舌打ちをして部屋を出て行ってしまった。
感覚が戻るまで、半年かかった。
リハビリを繰り返し、やっと普通に歩けるようになったころには、すでに桜は散っていた。
あれからずっと、柊吾は見舞いに来なかった。
久しぶりに出勤した紅葉は、柊吾を一目見ようと社長室へ向かった。
コンコン、とドアを叩く。
「秋津(あきつ)です」
「どうぞ」と返事をする柊吾の声が聞こえた。
「御堂(みどう)社長、お久しぶりです」
「ああ。治ったのか」
「はい、完治しました」
「……お前、恋人はいるか?」
「……え?」
なんて?
「耳が悪くなったんじゃないのか。もう一度病院で検査してこい」
「あ、いえ……今、恋人はいるか?と聞こえてしまって」
「そう聞いたんだ。合ってる。いるのかいないのか、答えろ」
「い、いません……」
いたことも、ありません。
社長席に座り、とんとんと自分のこめかみを数回指で叩いたあと、柊吾は言った。
「よし、決めた」
「紅葉、お前、俺と結婚しろ」
「え?」
「……頭まで悪くなったんじゃないか? 俺が何を言ったか、一度で理解できないなら、病院へ戻れ」
「あ、い…え、その、結婚しろと…聞こえたもので」
「だからそう言ってるだろ。結婚しろって言ったんだ」
「誰と?」
「俺をイラつかせるな。今からミーティングへ行く。この机の上、片づけておけ」
「あ、か、かしこまりました……」
頭がぼうっとする。
なんて? ケッコンシロ?
なんで??
机を片付けていると、やっと理解した。社長席には山のようにお見合い写真と手紙が積まれていた。
ここまで早く柊吾が会社を大きくできたのは、ひとえに人脈の力によるものも大きい。
柊吾という人物に価値を見いだし、惹かれた人々が力を貸してくれたからこそ、今の地位を築くことができたのだ。
独身の柊吾は、娘を託す相手として申し分ない存在であり、女性たちから見ても非常に魅力的だった。
中には、自ら父親に頼み込んでお見合い写真を送りつけてくる者までいたほどだ。
柊吾は27歳を過ぎたころ、たまたま婚活雑誌『あばんちゅーる』の撮影の仕事を受けたことがある。
そこで、不動産の記事を載せてくれるという約束があったため、あまり深く考えずに仕事に応じた。
見目麗しい若き経営者。これを放っておくほど、世間は甘くない。
それからというもの、柊吾に見合いを頼んでくる件数は月に30件はくだらず、恐ろしいほどの数が殺到していた。
これを止めるには、結婚するしかない。柊吾は、そう結論づけたのだろう。
「僕で、いいのかな」
柊吾が望むのなら、もちろん喜んで結婚する。
先月、男性同士の結婚が日本でも認められたので、問題はないはずだ。
その日のうちに手渡されたのは、婚姻届だった。久しぶりに、紅葉は思い出す。そういえば自分は、柊吾という男に心底惚れていたのだと。顔が熱くなった。
緊張で書く手がうまく動かず、力が抜けてしまい、きれいに書けなかった。もう一枚書き直させてもらえないかとお願いしたが、柊吾は「こんなもの、適当でいい」と言った。
こうして晴れて、自分は戸籍上、柊吾の妻、「御堂 紅葉(みどう もみじ)」になったのだった。
市役所の帰り、タクシーの中で柊吾がネクタイを外しながら言う。
「お前は俺の妻ということになるが、外部には漏らすな。俺は『妻は人前で目立つのを嫌うので』と適当に言い訳する。合わせろ」
「はい、かしこまりました」
つまりは、社長と秘書の関係を続けていくということだ。
何も変わらない関係にほっとしたが、残念な気持ちもほんの少しあった。
それから一年――。
エアコンは新しいものを揃えることができたが、紅葉は内職の折り紙のバラをひそかに続けていた。バレることなく続けられたので、副業も継続できていた。
なぜなら、オメガ特有の発情期の頻度が長引くようになってしまったからだ。
今の医術は進んでおり、病院でもらう薬を服用していれば働くには問題はない。しかし問題は医療費だ。決して高くはないが、安くもない。月給12万の紅葉にとっては大きな出費であり、発情期が長くなったことで家計をさらに圧迫していた。
そこで、あることが頭にひらめいた。
「いっそのこと、噛んでもらえばいいのでは?」と。
発情中に首元を噛んでもらうことで、正式に番となり、発情期が来ても他人に迷惑をかけずに済む。噛まれないまま、発情期のフェロモンを垂れ流しにしていれば多くのαから襲われてしまうが、一度噛まれてしまえば永遠に襲われることはなくなるのだ。
首を噛んで、番となった相手だけにはフェロモンが効いてしまうという難点はあるが……。
ただ、その期間は柊吾と会わないようにすれば問題ないはずだ。
「そうだ……結婚してもらってるし、お願いすればきっと……」
今日は日曜日。発情を抑える最後の薬を服用して、紅葉は立ち上がった。
柊吾のマンションにやって来た紅葉はインターホンで門前払いをされてしまったが、何度もお願いするうちに、やっと部屋に入ることができた。
そこから約二時間の説得を経て――噛んでもらうことができた。
必ず離婚届けをする際は拒否をせず、滞りなく手続きをするという条件で。
そして、その後、大変なことが発覚する。
避妊薬を飲み忘れていた。
金銭面で精神的に落ち込んでおり、また、体力的にも限界が来ていた。番になるときの条件は性行為も含まれる。性行為をすれば、男であっても子供が成せる。少し考えればわかることではあったが、そこまで考えがまわらないほど、紅葉は疲れていたのである。
気づいたのは3か月後。つまり、妊娠しているとわかったその時だった。相手はもちろん、一人しかいない。首を噛んでもらう時に、性行為も行った。その時にデキたのだ。
「ど、どうしよう……」
結婚しているのだから、世間的に見ればごく普通のことではあるのだが、二人はあくまでも偽装結婚であり、いずれ別れることが約束されている夫婦だった。
バレたら怒られるかもしれない。
だけど――。
「本当に、夫婦に……なれるかも…」
妊娠したとなれば、状況は大きく変わることになる。もしかしたら、父親として子どもを一緒に育ててくれるかもしれない。
淡い期待を胸に、紅葉は会社へ出勤した。別居婚であるため、毎週土日は顔を合わせることはない。
妊娠がわかったのは金曜日の夜。土日のあいだに、どうやって伝えるかを考え、食事に誘って話そうと決めていた。
社長室に入り、食事の誘いを切り出そうとしたその時――。
「これを書け」
出されたのは、離婚届だった。
胸と腹に、チクリと何かが刺さったような感覚が走った。
「海外進出を考えている。海外で事業を展開するのであれば、現地の女を妻に迎えた方が、いろいろと手続き面がやりやすくなる」
「なぜ」と言う言葉は出なかった。
納得、してしまった。確かに、そうだからだ。
彼の野望には、自分は邪魔だった。でも、お腹の子は、どうなる?
人生で初めて、逆らうようなことを口にした。
「離婚は、嫌です……」
「何を言ってるんだ?」
「す、好きに…なってしまいました」
「……嘘をつけ」
「ほ、ほんとです…」
「俺は好きじゃない」
好きじゃ、ない。
もともと柊吾の思う通りに物事が運び、それで彼が幸せになれるなら、それをよしとしてきた。
結局、今も昔と変わらず、同じような考え方しかできなかった。
紅葉は腹部をさすりながら、「かしこまりました」と、柊吾の望む言葉を紡ぎ、離婚届にサインした。
それからどうしても、柊吾を目で追ってしまう自分がいた。
仕事中、少しでも傍にいようとする様子は、同僚の目にも見て取れる。
そのわかりやすい態度が気に障った柊吾は、決断した。
紅葉を呼び出し、言った。
「この会社をやめろ」
もちろん、もう少しいさせてほしいと懇願したが、この時、海外事業があまりうまくいっていなかったのか、柊吾の機嫌はとことん悪く、言い返せる雰囲気ではなかった。
妊娠を伝えたとしても、同情の言葉はかけてもらえないだろうと、紅葉は考えていた。
なぜなら、退職届を出したとき、柊吾はこう言ったからだ。
「過去のことはもう忘れたい。お前がいるとどうしても昔を思い出す。二度と俺の前に現れないでくれ」
ここまで言われてしまえば、恋心も冷めてしまう。
もう今は一人の体ではない。お腹に新しい命があるのだ。この子を守るために生きなければならない。
正直に「貴方の子を宿しました」と言えば、中絶を強要されるリスクもある。
紅葉は何も言わず、ただ頭を一つ下げ、会社を去った。
退職金はほとんどなかったが、わずかに受け取ることができた。
雇用保険や出産手当金なども活用したが、生活費はまだ少し足りない。そのため、月に5万円ほど稼げる、パートの働き口を探す必要が出てきた。
近所にケーキショップがあったので、そこで働けるかどうか問い合わせてみることにした。
そこは高齢の夫婦が営むケーキショップで、午前中しか営業していない。味は確かで、行列ができるほどだ。夫婦の体調により臨時休業が多いが、紅葉が老夫婦の代わりにケーキを作って販売できれば、大きな売り上げにつながる。今、ショップに必要なのは“人手”だった。
臨時休業が多い店であるため、もし自分が体調を崩して倒れても、さほど店に影響は出ないだろうという考えもあった。
妊娠しているが、出産ギリギリまで働かせてほしいとお願いしたところ、老夫婦は採用を決めてくれた。
それから3年――。
ケーキショップには男女問わず行列ができ、店の看板ベイビーとしてSNSでも話題になりつつある息子――「夕柊(ゆうひ)」は、今日も元気にベビーベッドからガラスの向こうにいる外の客に向かって手を振っている。
秋の柔らかな陽を浴びた小さな妖精のような子だった。ふわりとした帽子の下からのぞく髪は柔らかく、秋風がそよぐたびに小さく跳ねる。
ぷっくりとした頬にはまだ赤ちゃんの名残があり、何かをじっと見つめるまなざしは真剣そのもの。小さな手でおやつをしっかり握りしめ、口元に運ぶ仕草はぎこちなくも一生懸命で、見ているだけで頬がゆるむ。
店内にはベビーベッドと椅子が二つ置かれていた。
ベビーベッドの傍には老夫婦が背を丸めて座り、ゆっくりとお茶を飲んでいる。
彼らにはもう働けるだけの体力はなく、ただ静かに座っているだけだった。
この店の店主は、現在も変わらず山田次郎さん――息子の傍で静かにたたずんでいる、この人のままだ。
理由は、紅葉自身がパティシエとして一人で店を守りぬくための資格を何ひとつ持ち合わせていないことにあった。
そのうち取得しようとしているものの、子育てに忙しく、資格取得の時間もないのが現実だった。
外の枯れ葉がひらひらと舞い落ちるのが見えた。
(もうこの季節なんだ)
秋晴れの空の下、太陽のまぶしさに思わず目を細める。
冬の気配を感じさせる冷たい空気の中でも、日の光はやわらかく、
そのぬくもりに包まれると、寒ささえ一瞬忘れてしまうような、そんな美しさがこの季節にはあった。
枯れ葉が舞う季節は、彼の特別な人の誕生月。
あのような別れ方をしたとはいえ、恋心が完全に冷めたわけではなかった。
一時は気持ちが消えたと思っていたが、時が経つにつれ、やはりあの人を好きだったのだと痛感する。
柊吾は確かに傲慢で、とくに紅葉に対しては不遜な態度をとることも多かった。
それでも、人としての魅力は誰もが認めるところがあり、彼には人を惹きつける不思議な力があった。
それが恋なのか、尊敬から生まれた想いなのかは自分でもわからない。
けれど、共に過ごした時間は今も紅葉にとって、何にも代えがたい大切な思い出になっていた。
どうしても彼と完全に縁を切るのがつらく、年に一度、この季節になると、知り合いを通して柊吾にカステラを届けている。
おはぎとカステラが大好物なのだ。
おはぎの方が柊吾は好きだが日持ちしない。その点、カステラならまだもつ。
そういった理由で、いつもこの菓子を選んで贈っていた。
カラン、とドアについた小さな鈴が鳴った。次の客が入ってくる。
紅葉は白いコックシャツの袖を少し折り、腰には赤系のストライプエプロンを巻いていた。
濃いグレーの作業パンツは粉糖がところどころついていて、焼き立ての甘い香りと一緒に一日の仕事を物語っている。
赤いベレー帽の下から覗く髪が少し乱れているのに気づき、慌てて直したその瞬間だった。
「いらっしゃいまー」
「いらっしゃいませ」と最後まで言うことはなかった。
入ってきた客の顔を見て、紅葉は固まってしまった。
黒のロングコートが風を受けて、彼の歩みに合わせてわずかに揺れた。
肩のラインはゆるやかに落ちているのに、全体のシルエットには隙がない。
コートの隙間からのぞく白のストライプシャツ、その下の黒いタートルが静かに白を引き締めている。
無駄のない配色と重ね方。
モノトーンだけでこれほど洒落て見えるのは、彼の立ち姿がまっすぐだからだろう。
その男は店に入ると早々、ベビーベッドに近づき、夕柊を抱き上げた。
(夕柊……!)
老夫婦は特に危機感を抱かず、「はて?」と呟くだけだった。
夕柊は突然抱き上げられた男に向かって「おねんね、まだよー?」と言っていた。
(なんで、なんでこの人が……!)
頭の中で無数の問いが渦を巻く。
柊吾が夕柊を胸に抱え、レジ側にいる紅葉の方を振り返る。
「紅葉、話がある。仕事が終わるまで、ここで待つ」
「……!」
(落ち着いて、落ち着いて……今はお客さんがいる。動揺するな。仕事をしないと……)
まだ店内には多くの客が待っている。
胸の奥で、何かがきしむ。
焼き菓子を並べる手がわずかに震え、言葉も思うように出てこない。
目の前の景色がかすんで、まるで夢の続きに迷い込んだようだった。
紅葉は自分に冷静になれと何度も言い聞かせ、なんとか客が途切れるまで菓子を販売し続けた。
柊吾がやってきてから1時間後、やっと客足が引いた。
柊吾と目が合う。
(話って、なんだろう?)
菓子を販売している間、山田夫妻が出した茶を静かに飲んでいた。何かを話すこともなく、ただ、立って夕柊や紅葉を交互に眺めているだけだった。
「話はすぐに終わる」
柊吾は紅葉の目を見ただけで、気になっていたことをすぐに答えた。
すぐに終わると言ってはいるが、話が長引く可能性もある。
いつもならこの昼の時間帯には、午後17時から店を再開する旨が書かれた「休憩札」をかけている。しかし今回は、「臨時休業」の札をドアにかけた。
「山田さん、すみません。今日は早く上がらせてもらいます」
店主はコクリと頷き、今日の売り上げを計算していた。
会話には少々不安のある店主だが、手の動きから金を扱うスピードは3年前と変わらず早く、計算も正確だった。
夕柊はいつのまにか柊吾の胸元からベビーベッドの方へと移動していた。
元気にぴょんぴょん跳ねている息子に腕を伸ばす。
「夕柊、ご飯とねんねの時間だよ」
「はーい」
両手をいっぱいに上げ、笑顔で返してくれる。心には大きな疲労があったが、この瞬間だけで元気を取り戻せた気がした。
「すみません、話は僕の家でも大丈夫でしょうか」
「かまわない」
柊吾は淡々と答えた。表情が読み取れない。
心臓がばくばくとしていた。嬉しさ、怖さ、驚き――さまざまな感情が心を渦巻き、今自分が何を感じているのかよくわからない状態だった。
アパートまでは徒歩3分。
息子は帰る道のりを楽しみにしているため、ゆっくり10分ほどかけて歩く。
その間、柊吾は何も言わず、後ろからついてきてくれていた。
部屋に入り、離乳食を食べさせると、息子はすぐにウトウトとまどろみ、眠たそうに「ねんね……」と言った。
離乳食はまだ少し残っていたが、今日は早く寝てくれた方が助かる。
一口水を飲ませ、10分ほど抱っこしていたら自然と眠ってくれた。
「おまたせしました。すぐにお茶を用意しますので…」
店に来てから約2時間、本当に長く待たせている。
まだお茶も出せておらず、申し訳なく思った。
しかし、子どもは毎日繰り返されているルーティーンが崩れると調子を崩し、手がつけられなくなるほど何時間も泣き続けることがある。そうなると話し合いもままならなくなるため、仕方がなかった。
「いや、おかまいなく」
柊吾は眠った子どもを静かに眺めていた。
温かい緑茶を円卓に置き、正座する。
4畳半の狭い部屋に大人が二人いると、少し窮屈に感じる。
手短に話を終わらせ、この人を返そうと思った。
もし昔の自分なら、少しでも彼のそばにいようと思っただろう。
だが今は母親であり、前世の悲劇を気にするほど繊細な人間ではなくなっていた。
茶を一口飲んでから、柊吾が口を開く。
「今はケーキショップで働いているんだな」
「はい、アルバイトで」
「どれくらいになる?」
「会社をやめてからすぐなので、3年くらいです」
「毎日…出勤しているのか?」
「はい。出産した月以外はほとんど休みなく、働かせてもらっています」
「……定休日は?」
「水曜日だけです」
「この子は今何歳だ?」
「2歳になりました」
「…俺の子か?」
問われるだろうなとは、思っていた。しかしいざ本当に聞かれると、雷が頭に落ちたような衝撃を受けてしまい、唇は震え、何も言えなくなってしまった。
そうだと言えば、どうなるだろう。勝手に産んだことを怒られるかもしれない。
「違います」
「……相手はどうした?」
「別れました」
まるで取り調べを受けているようだった。
「柊吾さんはどうされてましたか?」
「アメリカで会社を設立して売却した。今は日本に戻って事業を拡大している」
「そうですか……」
海外で、結婚はしたんだろうか…。
これを聞いたら、未練がましく思われるかもしれない。
指輪はしていなかった。
柊吾は何かに気づいたように眉をひそめる。
「3年……待て、産む直前まで働いて、産んですぐに働き始めたってことか?」
「え、はい、そうです…けど」
何が問題なのだろう?
生活するにはお金が少し足りなかったため、働くしかなかったのだ。
なぜか柊吾は立ち上がり、腕を組んで狭い部屋を行ったり来たりし始めた。
大きく息を吐き、首を横に振ることを5~6回繰り返すと、夕柊のそばにしゃがみ、額に手を当てて停止した。
「大変だっただろう。手伝ってくれる人はいたのか」
「はい。さきほどの山田夫妻が、手伝ってくれました」
「…他には?」
「え? 山田さんたちだけ…ですけど」
柊吾はまた立ち上がり、部屋を行ったり来たりする。
溜息をつき、首を横に振るその様子に、紅葉は困惑した。
なんなんだ? 何が悪いのか、わからない。
「何か問題でも?」
「問題か? 問題だらけだったろう……どうして俺に子どもができたことを言わなかった?」
出産して翌月には、もうケーキショップで菓子を焼き、接客もしていた。
働いている間は店内で山田夫妻が赤ん坊にミルクをあげてくれるので、問題はなかった。
この店に来る客は子持ちの母親が多く、子どもが泣いていても気にしない。むしろあやしてくれる人が多く、常に紅葉の目の届くところに夕柊がいたため、気兼ねなく働くことができていた。
さすがに3時間おきの授乳は骨が折れたが、昼の数時間は山田夫妻が息子を見てくれたので、睡眠時間は確保できていた。
問題があったとは…いや、赤の他人に子どもを任せていたので、問題があったといえば、あったかもしれない。
ただ、近所づきあいが多く、買いに来るのはほとんど顔見知りだったため、警戒する必要はなかった。
責められるほどの問題があったとは、やはり思えなかった。
「なんで…って、無関係の人に夕柊のことを言う必要はない、と思っていたので……」
その言葉で柊吾は歩みをピタリと止め、円卓に座った。
しばし茶を眺め、そして一口飲み干す。
「本当に、俺とは無関係と言いたいのか? この子はこんなにも俺に似ているのに?」
言葉に窮した。
遺伝子検査が発達している現代は、髪の毛や唾液で誰が親なのかはすぐに判明してしまう。違うと意固地に否定することでもないように思えた。
ただ、肯定だけはしない方が良いと思った。その方が柊吾のためになる。
勝手に産んだ子なのだ。認知させたいとは思っていない。
柊吾が自分の幸せを歩んでくれれば、それでよかった。
「柊吾さんは、どうしてここへ?」
「不当な給料の支払いをしていたことを認める」
突然の言葉に紅葉は唖然とする。
「お互いもういい大人だ。一度死んだ過去の記憶を引きずるのはよくないと思うようになった。お前に支払うべきだった額を、今日、振り込みたい」
差し出された明細書を見て、その額に息が止まった。
「驚くな。本来なら、お前は役員と同じ給料をもらうべき人間だったんだ」
「で、でも、これ、こんなに……」
「それで息子に、良い大学に行かせてやれるだろ」
「!」
まだ自分の大学の返済も終わっていない。
このお金があれば、夕柊に自分と同じような苦しい返済生活をさせずに済む。
それは、あまりにも魅力的だった。
「ありがとう、ございます」
心から感謝した。ふと、夕柊が大学生になった姿を想像してしまう。
明細書に涙がぽとりと落ち、紅葉は慌てて袖でぬぐった。
そっと頬に誰かの指が添えられる。柊吾の顔が傍にあった。
「息子の名前は、ゆうひ、だったな。漢字はなんて書くんだ?」
柊吾の指で、優しく涙をぬぐわれた。
「夕焼けに、あなたの柊の字で…夕柊です」
「いい名をつけたな」
突然、柊吾への想いがよみがえった。
(うわ、だめだ……この気持ちは、なかったことにしないと)
水に流すとはいえ、自分は憎まれているはずだ。調子に乗らないようにしなければ。
「今日のところはそれだけだ。金は以前、給料を支払っていた銀行口座と同じでいいか?」
「はい、ありがとうございます」
「ちゃんと受け取れよ。あとで『受け取れません』なんて言わないように。数年もすれば夕柊を良い学校に行かせることになるんだから」
「良い、学校に……」
あれだけのお金があれば、大学はもちろん、好きな習い事にも自由に通わせられる。
働きづめで、親と一緒にいられないという寂しさを味わわせずに済む。とてもありがたかった。
またジワリと瞳がうるんでしまう。
「俺が来ても涙ぐまなかったのに、夕柊のことになると、すぐに泣くんだな」
柊吾は玄関に向かう足を止め、再び紅葉の方に戻ってきて、円卓の傍に腰を下ろす。
「!」
柊吾に抱きしめられた。
番になってほしいと首元を噛んでもらったことを思い出す。
体がカッと熱くなるのを感じた。それが柊吾にも伝わったのか、より強く紅葉を抱きしめた。
「あ、あの、柊吾さん?」
「今、恋人か旦那はいるか?」
「いません……」
いるはずもない。前世から、好きになったのは柊吾ただ一人だけだったのだから。
「夕飯はどうする? 家で食べるのか?」
(あ、あれ?帰るんじゃなかったのかな)
「はい。昼も夜も、いつも家で作り置きしているもので済ませています」
「……17時から焼き鳥に行かないか? 三人で」
紅葉はびっくりして、返事に少し時間がかかった。
柊吾は続ける。
「19時には家に戻れるように配慮する。もちろん、おごる。夕柊にはつくねや卵焼きを食べさせられるし、禁煙だから大丈夫だ。どうだ?」
「いいん、ですか?」
「ああ。俺がそうしたい」
また、強く抱きしめられた。
自分は夢を見ているのだろうか。
呆けていると、リリリリと柊吾の携帯が鳴った。
携帯を見て溜息をつき、「あとで迎えに来る」と言い、玄関を出て行った。
「う、そ……」
夢心地の気分だった。今起こったことが本当だったのか、思い出せなかった。
それから16時になると、本当に車で紅葉と夕柊を迎えに来てくれた。
「お仕事は大丈夫なんですか?」
「調整してある。問題ない」
夕柊は車に乗るのが初めてで、非常に喜んでいた。
また、店に来て食事をするのも初めてで、大興奮だった。
以来、すっかり柊吾になつき、この人と一緒にいれば楽しいことが起こると、夕柊はしっかり覚えたのだった。
それから、柊吾は頻繁に親子を食事に誘うようになった。
週の半分以上は一緒に食事をしていたある日、柊吾が次は遊園地に行ってみないかと誘った。
遊園地は紅葉も行ったことがなく、とても興味があった。
実際に行ってみるとやはり楽しく、ほとんどは幼児向けの乗り物しか乗らなかったが、それでも満足できた。
「ちゃー」
2歳になった夕柊は、意味のある言葉を相手に伝えられるようになっていた。
「はいはい、喉が渇いたんだね。ちょっと柊吾さんといい子にして待っててね」
すると、柊吾が千円札を渡してきた。
「俺の分も頼む。ブラックコーヒーで」
「わかりました」
ぴょこん、と夕柊は柊吾の膝から飛び降り、紅葉の足もとの服をつかんだ。
「どうしたの?手伝ってくれるのかな?」
「うん!」
「ありがとう。でも買うのは2本だけだから、お手伝いはいいかな。座って待っててね?」
「あーい」
ちゃんと意味を理解したのか、夕柊は柊吾の膝によじ登り、定位置についた。
「3人分の飲み物を買えよ? 遊園地内じゃ飲み物が高いからって、一本400円とかはしないだろ」
「僕の分もいいんですか?」
「あたりまえだろ」
「すみません、ありがとうございます」
自販機で冷たい緑茶と、温かい緑茶、そしてブラックコーヒーを買った。
戻るときに、柊吾は夕柊を両手で高く持ち上げ「たかいたかーい」と言って二人で遊んでいた。夕柊は嬉しくて、ずっと笑っていた。
胸が、熱くなった。まさか、父親とこうして遊ばせてあげられる日が来ようとは、思ってもみなかった。
「あ、ママが来たぞ」
「まんま!ちゃー」
「おまたせ。冷たいのと温かいの、混ぜるからちょっと待ってね」
ストロー付きの夕柊専用水筒に温冷の緑茶を注ぎ、飲みやすい温度に混ざったのを確認してから、息子に渡した。
本当に喉が渇いていたのだろう。すごい勢いでストローを吸っている。小さいサイズのペットボトルの緑茶を買ったが、この分だと両方この子が飲み切ってしまうだろう。紅葉はまたあとで自分の茶を買うことにした。
空は快晴で、耳には遊園地の楽しい音楽が聞こえる。目の前には、愛しい息子と、かつて好きだった人がいる。
なんて幸せなんだろう。
「紅葉、どうした?どこか痛むのか」
「え…」
緑茶に夢中な2歳児を膝から下ろし、芝生に座らせた。柊吾は立ち上がり、紅葉の目元を親指でぬぐう。
その時、また自分が涙ぐんでいたことに気づいた。
「あ、これは…違うんです。痛いとかじゃなくて」
「痛みじゃないのか?何か悲しいことでもあったのか?」
「そうじゃなくて……ただ、幸せだなって思っていたら、涙があふれてしまったみたいで……」
柊吾は何も言わず、座ったまま紅葉を見下ろし、夕柊を静かに見守っている。
紅葉はその視線が、これまでとは少し違った意味を帯びているように感じ、恥ずかしさに目を背けた。
左手で、右手を包まれる。
ドキリと胸が跳ねた。
ほんの少し、柊吾の手が震えているのを感じ取り、紅葉は彼を見上げた。すると、彼もまた、内側に何かを秘めたような表情をしている。まるで、言いたいことを言えないでいるかのように――。
「ままー。しー」
紅葉はハッとして、息子の声で現実に引き戻される。
慌てて夕柊の傍に寄り、褒めてやった。
「ちゃんと言えたね、すごいね。シー、行こうか。柊吾さん、すみません。この子、トイレトレーニング中なんです。トイレに行ってきますね」
「わかった。荷物は見てるから」
「すみません、お願いします」
◇◇◇
トイレのあと、夕柊は疲れたのか眠ってしまった。二人はお土産コーナーの傍にある、比較的静かで照明の暗いカフェへ移動した。
「色が…オレンジか紫の飲み物しかなかった」
まだ何も飲んでいない紅葉のために、柊吾は店の飲み物を選びに行ってくれていた。柊吾はためらいがちにオレンジ色の飲み物を指さし、「飲めるか?」と尋ねる。
もちろん、紅葉は飲める。感謝の言葉を伝えつつ、その甘ったるくてゴクゴクとは飲めない味わいを「とても美味しいです。これを選んでくれて、嬉しいです」と丁寧に伝えた。
普段、紅葉が水か無糖の紅茶しか飲まないことを、柊吾は知らない。
柊吾は一度夕柊を見てから、真剣な眼差しで紅葉を見つめた。なぜか、口に何かを含む雰囲気ではないと思い、その甘い原色の飲み物のストローを口から離した。
「今までのことを、謝りたいと思っている」
「……柊吾さんが謝ることなんて、一つもありませんよ」
膝の上に置いた手に、柊吾の両手が重なる。
柊吾のその行動に、胸が跳ねた。
「20数年間…俺はお前の人生をめちゃくちゃにしてしまった。一度転生した身なんだから、忘れるべきだったのに」
「柊吾さん、僕は今、幸せです。そんなこと、言わないでください」
「交通事故の時、本当はお前のことが心配だった。手当たり次第、良い医者を探して、お前に傷が残らない病院を探した。でも、傷は残ってしまった」
(え、そんなことしてくれてたんだ…?!というか…)
「あの、いつ、傷口を?」
「毎晩、お前が眠ったあと、看護師に頭の傷口を写真で撮影するように指示していた」
(そうだったんだ……)
「中学から大学まで、いつもお前をパシリに使っていて、悪かった」
「あれは…当然です。僕はあなたに仕える忍だったんですから」
「今世では違うだろ。お前は忍ではなく、秋津 紅葉という人間だ」
「ふふ、どうしたんです? 貴方らしくないですよ……まるで捨て犬のような、かわいらしいご様子です」
「紅葉は、綺麗になった」
「!」
「男に綺麗だと思ったのは、後にも先にもお前だけだ。社会人になってから、お前はどんどんあか抜けて美しくなり、俺を困らせた。大人になってから、ほとんど目を合わせられなくなったのを、気づいていたか?」
衝撃的だった。まさか、目が合わない理由がそんなことだったなんて。
「僕を憎んでいらっしゃるんだと思って……目線については、気づかないふりをしていました」
「……紅葉自身、外見だけでなく、中身も綺麗だった。そんなお前に惚れてしまっている自分が、憎らしくてたまらなかった」
「!」
頬が、胸が、熱くなっていく。
(う、そ……うそだ、そんなことって)
「前世のことを思い出して、お前を憎らしく思う気持ちは確かに残っていた。自分は紅葉が嫌いだと、毎日言い聞かせていた。だが途中から……何もかもが耐えられなくなった。自分の、おかしな気持ちを認められなかった。いっそ、お前がいなくなってしまえばいいと……判断を見誤ってしまった」
「か、海外の方と、ご結婚は……?」
ずっと聞きたかった。どうなったのかを。
「してない。むしろ、お前と過ごしたあの夜以降、誰とも関係を持っていない」
「そ、そうでしたか……」
――“あの夜”。
それは、番になってもらうために首元を噛んでもらった日。
そして、夕柊を授かった日でもある。
「カステラを、毎年ありがとう」
「バレてたんですね…………」
「あたりまえだ。あんなうまい菓子、俺の妹が作れるわけがないだろ」
柊吾とは良い関係を築けなかったが、柊吾の妹・鈴蘭(すずらん)とは仲が良く、
毎年柊吾の誕生日には、鈴蘭にカステラを手渡し、
妹が作ったものとしてプレゼントを渡していたのだ。
「あのカステラは本当にうまかった。なのに、どこで買ったのか教えようとしない。自分で作ったと嘘を言い張るんだ。
箱には店名もロゴも何も書いていない。カステラがうまい店を探し回って、やっと……紅葉がいる店に辿り着いたんだ」
「お給料の話で来たのでは……」
「あれは、思いつきで言った嘘だ」
(思いつき?! 思いつきで、あれだけの額を支払ったのか? この人は!)
目が飛び出るほど驚いていた。なんなら「ひぃ!」と声が出そうなほどだ。
けれども、とてもそんな雰囲気ではない。
静かに――つとめて静かに、柊吾の話に耳を傾けた。
「毎日、紅葉のことが頭から離れなかった。
会えば必ず、また俺は前世のことを思い出す。
愛しているのに、憎らしい気持ちが湧き上がってくるんだ。
だから、会いに行けなかった。ずっと」
目の端が赤くなっていくのを感じた。
そんなふうに思ってくれていたなんて、知らなかった。
「つらく当たってしまうくらいなら、俺なんてものはいない方がいいと思っていたんだ。本当に。
もう、会わないつもりで……だが、ケーキショップで、昔の自分にそっくりな幼児と紅葉を見かけて……もう、心が動いてしまった」
「僕のことが憎らしい……のではないですか?」
「そんなこと、どうでもいい! 終わった話だ。
それに……今となっては、前世と今の俺たちはもはや別人なんだ。
紅葉、信じてほしい。お前と離れてから、やっとわかったんだ。
憎らしい気持ちなんてもうない。お前が必要だ……愛しているんだ。夕柊を産んでくれて、ありがとう」
目が熱くなる。
目の前の視界がぼやけた。
涙で邪魔され、必死に真剣さを込めた、この愛しい人の顔をはっきり見ることができない。
「ほ、ほんとう……?」
「ああ。ほんとう…………………………………………
すまない。紅葉、ここではもう、何も言わないことにしよう」
「そ、そんな……なんて気分屋……」
「違う、そうじゃない。 周りを見てみろ」
気づけば、若い子たちにスマホを向けられていた。
大学生くらいの子が、「あ、すみません、感動的なシーンだったから。続けて、続けて」と言った。
「柊吾さん……この子たち、個人情報保護法って言葉、知ってるんでしょうか……」
きっとこの子たちは、自分のアカウントのフォロワーを増やすためだけに、
今、自分が撮影した赤の他人の動画をSNSに流そうとしている。
「知っててやってるんだろ。行くぞ。もうここにはいられない」
十代くらいの子たちが、「ええ~!? 最後まで告白してハッピーエンドまでいってくださいよ~」と大クレームを巻き起こした。
そんな言葉もものともせず、柊吾はベビーカーを押し、紅葉の腕をひっぱりながら店の外へ出ていく。
先ほど通った自販機のそばにある芝生に腰を下ろす。
少し強引にベビーカーを押していたせいか、振動で夕柊は目を覚ましたようだ。
「ままぁ……」
目をこすり、まだ眠そうにしている。
柊吾はまだ言いたげな様子だ。
紅葉はもう少し眠ってもらおうと、息子を抱き上げ、背中をトントンと優しく叩いた。
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