4話 5月30日
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午後の授業が終わった。
退屈な時間も甘川との放課後の約束があるから耐えられたようなもんだ。
アメフトはアメフトでもちろん面白いが、アイツと話すのもまた違った面白さがある。
良い意味で他のヤツとは違う、不思議とそう思わせられんだよな……。
続々と人が出てくる一年の教室に構うことなく一人逆向きに入る。
まだ室内に残っていたヤツらは、俺の姿を見るなりそそくさと出て行った。
普通の反応はこんなもんだ。甘川が珍しすぎるだけで。
一気に人気の無くなった教室には俺と甘川だけが取り残された。
誰もいねえ方が都合が良い。
俺も教えやすいし、コイツも勉強に集中しやすいはずだ。
窓際にある甘川の席の一つ前の場所に、乱暴に腰を下ろす。
さっきまでこの席の持ち主が座っていたせいか座面が生暖かくて気持ち悪い。
嫌な感覚を振り切るように、甘川の机に肘をついて早速講義を始める。
「んで、どこがわかんねえんだ」
「あっ、えと……」
何か考え事でもしていたのか、甘川は弾かれたように手元を漁り出した。
小綺麗な教科書やノートを開くコイツの手指がふと目に入る。
……小せえ手。
甘川はそんなに身長は小さい方じゃねえ。
それなのに小さいなんざ思っちまうのは、その指が細くて華奢だからだ。
しなやかで柔らかそうな手……俺も大概細いが、男の手とはやっぱり比べ物にならねえ。
日焼けひとつしていないその透き通るような手で、甘川はそろそろと一つ目の付箋が貼ってあるページを開いた。
「ここの文法がわからないんです」
「ああ、こいつはな……」
大量の付箋にいささか衝撃を受けながら説明を始める。
一年の中間テストなんざ、基礎中の基礎みてえなもんだ。
なのにこの付箋の多さ……思った以上に英語苦手なんだな。
まあ、文法なんて実際役に立たねえことの方が多いんだが。
甘川は俺の説明を細かくノートにまとめていた――が、ある時その手が止まった。
返事は変わらずしているが、手は一向に動こうとしやがらねえ。
途中から脳内に記録し始めたわけでもあるまいし、と思い俺は鎌をかけてみることにした。
「テメー、さては聞いてねえな」
「え!? そんなことないですよ、ちゃんと聞いてます!」
「さっきから手が止まったままだぞ」
「……これは、さっきクラゲに刺されて思ったように動かなく」
「嘘下手すぎだろ」
本当に騙すつもりあんのかと疑ってしまうほどの下手糞な嘘に、思わず食い気味に突っ込んでしまう。
どっからクラゲが出てきたんだよ。正気か?
少なくとも校内にいてクラゲに刺される可能性はゼロだろ。正気か?
よりによってチョイスされたその単語は、俺のツボをじわじわと侵略してきた。
いても立ってもいられず、表情を隠すように俯き気味で額を支える。
これだからコイツは飽きねえ。
「クラゲってそれ……もっとマシなのなかったのかよ」
「……クラゲが精一杯でした」
気まずそうに呟かれたその返答は、更に俺のツボに追い打ちをかけた。
笑うなっつう方が無理だろこりゃ。
上手く吐けねえなら、嘘なんざやめときゃいいのに。
お前の良さはその素直さだろ?
「ケケケ、向かねえことはするもんじゃねえな」
「本当にそう思いま……す……」
笑いの波がようやく過ぎ去り、進言する風な物言いをしながら顔を上げる。
甘川は顔を赤くしながらばつが悪いような顔付きをしていたが、それは一瞬だけだった。
――ふわりと、柔らかく笑う。
元気良くでもなく、とってつけたようでもなく、ただ慈しむように。
何とも言い表し難いその光景に、俺の目は釘付けになった。
真っ直ぐに見つめてくるコイツの大きな瞳は、吸い込まれるんじゃねえかと感じるほど深く澄んでいる。
……また、心臓が騒ぎ始めてきやがった。
自分の意思に反して大きくなる鼓動を落ち着けようと、ふいと後ろを振り向き時間を確認する。
もう八時半にもなろうとしていた。
外はすっかり暗くなってやがるし、明日のことも考えると今日はそろそろ終わらなきゃならねえ。
終わらなきゃならねえ、が……。
同時に自分の中の小さな欲が顔を出した。
……もう少し、だけ。
「……あんま時間ねえな。後はこことここやって今日は終まいだ」
「あ、はい! わかりました」
強制的に時間を引き延ばし、もうしばらく一緒にいることを成功させる。
明日も時間はたっぷりあんのにも関わらず、だ。
甘川が反対しないことをわかってて言うもんだから、やっぱり俺は性格が悪い。
そうまですんのは、甘川との時間が……。
勉強を終えて教科書を閉じた甘川は、小さくうなりながら背を伸ばす。
開放感に溢れたその顔はこっちまで爽快にさせた。
「終わった~!」
「ケケケ、お疲れさん。とりあえず六割方終わったな」
「先輩もお疲れ様でした。先輩の説明、すごくわかりやすいです! 英語の担当がヒル魔先生だったらいいのになあ」
「テストの難易度が鬼になるがいいのか?」
「……人生初の0点を取ってしまうかもしれません」
「0点のヤツには、補習と言う名の拷問だ」
「ヒル魔先輩が先生じゃなくて心から良かったと思います」
のんびりと話をしちゃいるが、時間はもう九時を過ぎている。
女が一人で帰るには少々心配な時間だ。
送ってやろうかと言いかけたが、ちゃっちゃと荷物をまとめている甘川を見て思い留まった。
真面目なコイツのことだ、どうせ走って帰って復習でもすんだろ。
「先輩、今日はありがとうございました! 明日もよろしくお願いします」
「ああ、じゃあな。走ってコケんじゃねえぞ」
「な……私が走って帰ろうとしてること、どうしてわかったんですか!?」
「顔に書いてある」
「……コケないように気をつけます。じゃあ、また明日!」
やっぱりな。案の定だ。
ここまで読みが当たると、コケるところも本当になっちまうんじゃねえか。
ぺこりと頭を下げて足早に出て行く甘川を見送る。
一人残された教室は、急に温かみが消え去ったように思えた。
……たかが勉強教えただけだ。
それなのに、自分でも驚くほどの充実感を覚えてやがる。
アイツの穏やかな笑顔が頭から離れねえ。
明日もそれを見られるのかと思うと……。
「……ケケケ、楽しみだな」
そうひとりごちた俺は、ぱちりと消灯して教室を後にした。