9話 10月10日
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ぴたりと閉じられていた保健室の戸を雑に足で蹴り開けると、そこには誰もいなかった。
ここの主はおそらく救護班と共にグラウンドにいやがるんだろう。
誰もいねえ方がよほどやりやすくて都合がいい。
両腕に抱いていた沙樹を丁寧にベッドへ下ろし、そばにあったリモコンで一気に温度を下げる。
誰もいねえとは言え万が一のことを考えてだろう、エアコンの電源が点いていたのは幸いだ。
適当に引き出しを漁って見付けたタオルで冷凍庫内にあった保冷剤を包み、沙樹の額や首に当ててやりながらうちわで扇ぐ。
目に止まったアイスノンもついでに頭の下に敷いたから、応急処置はこれくらいでいいだろう。
……イメージ的に暑さに弱そうだとは思ったが、やっぱイメージ通りだったな。
白い肌にいっそ映えちまうくらい上気した頬を見つめ、そんなことを思う。
線は細いし暑さには弱えし、マネージャーとは言え運動部っぽくねえんだよな、コイツは。
――だがそれでも弱音吐かずに努力してやがる。
沙樹も立派な選手の一人みてえなもんだ。
うちわの風でまぶたにくっついた髪をはがしてやりながら、俺は横たわった真面目な後輩を心配しつつこっそり感心した。
しばらく扇ぎ続けているうちに沙樹の顔色は徐々に良くなってきた。
不規則で浅かった呼吸も落ち着き、今じゃ心地良さそうな寝息が聞こえてくるほどだ。
とりあえずは大丈夫そうだ、俺は安堵の溜め息を漏らした――が。
沙樹が倒れたときは一刻も早く休ませねえとっつう頭しかなかったくせに、持ち直したとなりゃそれはそれでここまで俺を焦らせたことに不思議と腹が立ってくる。
お役御免になった右手のうちわをいい加減に放り、沙樹の寝顔を少しばかり睨んだ。
「心配かけさせやがって」
すっかり赤みが治まっちまった頬に躊躇なく手を伸ばし、そして――つねった。
途端にふご、という間抜け具合百億万%の鼻声が漏れる。
そこらの女よりもよっぽど女らしい出で立ちしてやがるコイツが、ふご、だと……?
完全に虚を突かれた俺は小さく吹き出す。
起きてたら到底聞くこたできねえだろう沙樹のその声は、俺の見当違いの苛立ちをいとも簡単に解消した。
寝てるときですら笑わせてくるなんざ、普通考えらんねえだろ。
さすがと言うべきか何と言うか……。
俺は自然に湧いて出た好奇心といたずら心に従い、沙樹の頬を何度もつねってみた。
もちろん起こさねえ程度にだ。
その度にコイツはふが、んご、とか発しやがるから、俺はすっかり沙樹の擬音をコンプリートすることに夢中になっていた。
そして気付けば、沙樹の頬は熱中症とは別の理由でほんのり赤くなっていた。
……ちょっと調子に乗り過ぎちまったらしい。
内心少しだけ反省しながら手を引っ込める。
すると、丁度沙樹の頬から一筋涙が流れるのが目に飛び込んできた。
そんなに痛かったかと再び焦りだした俺の耳に、何かが聞こえた。
それはかすれるような――小さな声。
「沙樹……?」
なぜか胸がざわついた俺は、息を殺して沙樹の声に耳をそばだてる。
「……置いて……かない、で…………」
聞いた瞬間、ぎゅっと心臓を掴まれる思いがした。
あの雷の日も、今もそうだ。
コイツは普段は何ともねえような顔してやがる。
それは周りに心配を掛けさせねえためだ。
だが潜在意識下でさえ本音を吐き出さずにいられるほど、その過去は沙樹にとって軽いもんじゃねえ。
……夢にまで見ちまうほどつらいくせに、平気な顔してずっと我慢してんだな。コイツは……。
力なく丸まっていた沙樹の手をゆっくりと取り、自分の手で包むように握る。
「どこにも行かねえよ」
その冷えた手に自分の体温を伝えると共に、ありったけの気持ちを込めた言葉も伝える。
夢ん中でのお前も安心させてやりてえ。
たとえ起きたら忘れちまうとしても。
常につらい思いをし続けてるコイツだ、夢でくらい過去の救いがあったっていいじゃねえか。
夢だろうと現実だろうと……お前に笑っていて欲しいんだよ、俺は。
「――どこにも、行かねえよ」
願うように誓うように、もう一度そっと言葉を降らせる。
握った手になお一層力を伝えながら。
すると、沙樹は穏やかに微笑んだ。
それでも涙が一筋、二筋と伝い、まるで泣き笑いしてるみてえだ。
どうやら安心できたらしい。
沙樹のまとう空気がどこか柔らかくなり、無意識に感じていた俺の緊張もするりと解けた。
何となく自分の中でひと段落ついた後、沙樹がわずかに唸り声を漏らしたかと思えば首を少しだけひねらせた。
丁度俺と顔を見合わせるような角度になる。
――綺麗だ。
改めて沙樹の寝顔を眺めながら、知ってはいたがまともに使ったことのなかったその単語を初めて自然に表現した。
ギシ、と年季の入った古めかしい音が鳴る。
気付けば俺はベッドに体重をかけて前のめりになっていたらしい。
先程よりも近くで聞こえる寝息、はっきりと見て取れる涙の跡。
……おい、なんだこりゃ。
ただの寝顔になんでこんなに引き寄せられてんだ、俺は。
引力みてえなこの力は一体何だっつうんだ。
更に厄介なことに、抗わなきゃならねえっつう自分と流れちまえよっつう極端な自分が存在しちまってることに気付いた。
これがいわゆる良心と邪心の対立か――とか考えてる間にも、俺と沙樹の顔の距離は縮まっていく。
肝心の俺の身体はどこぞの誰かにでも操られちまってるみてえに自由が効かねえ。
……やめろ。おい、止まれ。
(やめねえし止めねえよ)
このまま近付いちまうとどうなっか、ガキでも分かんだろ。
(分かった上での行動だ)
しかも相手は寝てやがんだぞ。寝込みを襲うなんざ最低じゃねえか。
(寝てんだから気付きゃしねえ、だからチャンスなんだろうが)
俺のポンコツ身体はどうなっちまったんだ、一向に言うこと聞きやしねえ。
(テメーの意思じゃねえみてえに言ってんじゃねえよ。これはテメーの本能だ)
あと、数センチ。
やめろ――――――
止まれっつってんだろ、この糞野郎!
「沙樹ちゃん!」
躊躇なく戸が開かれる音と金切り声にも近い声とが同時に響き、俺の身体と思考を縛った。
その一瞬で持ち直した俺は、素早くかつ不自然じゃねえように沙樹から離れる。
こんなときでも戸を閉めることは忘れねえ律儀さでバタバタと耳障りな足音を立てながら俺の横に立ったのは、案の定糞マネだった。
自分の競技を終えて急いで駆け付けたんだろう。
「沙樹ちゃんは大丈夫!?」
「でけえ声出すんじゃねえよ。起きるだろうが」
「そ、そうよね……ごめんなさい」
「コイツは問題ねえ。よだれ垂らしながらのん気にグースカ寝てやがる」
「そう、よかった……」
糞マネの返事を聞くやいなや俺は席を立ち、そのままつかつかと出口に向かった。
「後はテメーが看とけ」
「ちょっと、ヒル魔君! ついててあげないの?」
「俺は糞チビ共しごかなきゃなんねえからな。それに……」
「それに、何?」
……いや、やっぱ言えねえ。
沙樹の寝顔見てっと理性が吹っ飛んじまいそうだから――いや、実際にだいぶ吹っ飛んでやがった、なんざ。
ただの獣じゃねえか。
もし糞マネがあのとき来なかったらどうなってたか……ンなこと考えねえでも分かる。
面倒くせえ女だが今回はファインプレーってことで一ミリだけ株上げといてやる、と自分のしようとしたことはまあ見事に棚に上げて上から目線でひっそり上方修正した。
俺は沙樹を起こさねえように極力静かに戸を開けた。
糞マネの疑問には言葉を返さなかったが、それ以上追求されることはなかった――どうやら勝手に納得しやがったらしい。
廊下に一歩踏み出そうとしたところでぴたりと足を止める。
――そういえば俺が運んだこと、周りのヤツらはもちろん糞マネも知ってやがる。
まあ真っ白な人型サイズのうさぎが猛ダッシュしてりゃ、大抵のヤツは見るわな。
……つうか俺着ぐるみ着たまんまじゃねえか。
顔は出していたものの首から下はうさぎ真っ只中だ。
見た目の滑稽さと長時間気付けなかった迂闊さも相まり、それを雑に脱いですぐさま床に投げ捨てる。
このバカらしい格好してんの忘れたまんま運ぶほどだ。
今になって思えば、あんときの俺は相当切羽詰まってたように見えただろう。
柄にもなく必死になってたことが、周りだけじゃなく沙樹にも知れたら……
「……おい糞マネ」
「何?」
「俺がコイツを運んだこと、コイツには絶対言うなよ」
「えっ、どうして? 沙樹ちゃんだってきっと感謝してるわ。お礼も言いたいはずだし」
「うるせえ、ガシャガシャ言うな。どうしてもだ」
「でも……」
しつこく食い下がる糞マネを無視して扉を閉め、閑散とした廊下を進む。
多分、いや確実に沙樹は俺に感謝するだろうな。
アイツの性格だ、それも大袈裟なほどに。
だが俺が手を出しそうになったこたあ沙樹は知らねえ。
さすがに惚れた女に真っ直ぐな瞳で感謝されながら不祥事未遂を無かったことにできるほど俺は堕ちてねえぞ。
必死になって運んだのは寝込みを襲うためだったのか、なんざ思われちまうのは不本意だ。
……結果だけ見りゃそうだとも言えなくもねえが。
「……チッ」
苛立ちを舌打ちと共に吐き出し、髪を雑に掻き回した。
言い訳するくらいなら最初からすんな、と正論が自分を責める。
仕方ねえだろ止めらんなかったんだ、とこれまた反論がやり返す。
堂々巡りだ。
優先すんのは沙樹のことだっつうのによ。
とにかく大事にならねえでよかった、と半ば取ってつけたような台詞で締め、俺はグラウンドに向かった。