8話 9月22日
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嵐もすっかり過ぎ去って、ほのかに秋らしさを感じる平和な日常に戻った。
後から知ったことだけど、あの雷雨は台風の影響だったらしい。
そうだよね、珍しいくらい酷い天気だったもん。
たまたま居残りしたタイミングであれだけ悪化するなんて私も運が悪い。
うだうだと考えながら、モップを握り締めて小さく溜め息を吐いた。
「沙樹ちゃんどうしたの? 具体でも悪い?」
「あ、いえ! 大丈夫ですよ!」
急いで笑顔を作って振り向くと、まもり先輩はひとまず安心してくれたみたいだった。
今は練習後、先輩と部室の掃除中。
私は床のモップがけ、先輩はロッカー内部の拭き掃除をしている。
先輩は手早く作業を進め、みるみる内に部屋内が綺麗になっていく。
すごいなあ、まもり先輩って本当いいお嫁さんになれそう……。
ポテンシャルの高さに圧倒されながらすっかり整えられた部室を見渡すと、『ヒル魔』と書かれたロッカーのプレートが目に入った。
……私、そういえばヒル魔先輩に助けられてばっかりだ。
入りたての頃に十文字くんたちに絡まれたのもそうだし、テスト勉強が危なかったときもだし、海で溺れたときだってそう。
なんだかんだ、ヒル魔先輩に手を焼かせてる。
それにこの前の嵐の日、私を抱き締めてなだめてくれたことも……。
『お前を一人になんざ、絶対にしねえ。俺がいる』
「……わあぁぁぁ!」
「沙樹ちゃん!?」
あのときの私に向けられた言葉と真面目な顔付きを思い出し、つい叫んでしまった。
急激に顔や耳が熱くなるのが分かる。
力任せに掃除ロッカーに押し込んだモップが跳ね返り、ホコリと共に頭に被さった。
「わぷ! げほっ、げほ……!」
「大丈夫!? ちょっと下向いてて、ホコリ払ってあげるから」
「うう……ありがとうございます、先輩……」
少ししてからもう大丈夫よと声を掛けられ、うなだれていた姿勢を正した。
何やってるんだろう私……バカみたい。
空回りするみっともない自分が嫌になる。
すると、不安げな表情の先輩が私の顔を覗き込んできた。
「沙樹ちゃん、やっぱり変よ。最近溜め息吐いたり、今みたいにらしくないドジすること多いじゃない。何かあったんじゃないの?」
「いえ何でも! 何でもないですよ!」
「――もしかして、ヒル魔くんのこと?」
「……えっ」
……どうしてバレたの!?
でももしかしてって言ったし、確信があるわけじゃないんだよね、きっと!
いやでも何かしらの根拠があるからこそ、ヒル魔先輩の名前が出てきたのかもしれないし……。
ああああ、どうしよう!!
何とか取り繕おうとうまい言い訳を探していると、まもり先輩はお姉さんみたいな温かい笑みを向けた。
まるで、分かってるから大丈夫、とでも言うように。
そうだ。まもり先輩は気遣いの出来る人だから、きっと人の心の動きにも鋭い。
私の気持ちにも気付いていたのかもしれない。
だとしたら……一人で抱えるには重過ぎる、私の気持ちを聞いて欲しい。
私はごくりと生唾を飲み込み、真っ直ぐに先輩の瞳を見据えた。
気付いてしまった。
知ってしまった。
私の頭の中をいつも占めている、あの人。
何かに夢中になっててもふと思い出してしまう、あの人。
あの人の笑った顔が見たい。
できればそれは、私に向いていて欲しい。
初めて抱くこの気持ちが何という名前のものか、私はもう知っている。
――これは、恋。
「私……実は、ヒル魔先輩のこと好きなんです」
そう。私はヒル魔先輩のことが好き。
自覚したのはごく最近だけど、もしかすると、初めて会ったときから惹かれてたのかもしれない。
小さな小さな恋心が、芽生えてたのかもしれない。
改めて『好き』という言葉と意味を頭で繰り返すと、なんだか恥ずかしくなる。
照れくさくなった私は、先輩から目線を逸らさずにはいられなかった。
「ふふっ、そうだと思った」
「……どうして分かったんですか?」
「沙樹ちゃんの視線がいつもヒル魔くんに向いてたから。お見通しよ」
「周りにも分かるほどバレバレだったんですね……」
感情だけでなく行動すら隠し切れない、自分の単純さを呪う。
……それにしても周りにも分かるってことは、もしかしてヒル魔先輩にも?
確かめようもないけど、本人にだけはバレてないといいなあ……神様、どうかお願いします。
困ったときだけ頼る都合のいい相手に願掛けしていると、まもり先輩はやや興奮気味に迫って来た。
「ちなみに、きっかけは何だったの?」
「えっと、この間の台風があった日に、ちょっといろいろあって私が泣いてしまって……そのときにヒル魔先輩がなだめてくれたんです」
「ふうん、あのヒル魔くんがねえ……意外だわ。もちろんお礼は伝えたのよね?」
「それが……言えてないんです。恥ずかしくて」
「恥ずかしがるようなことじゃないでしょう、お礼なんて」
恥ずかしいのは、お礼を伝えることに対してじゃないんです。
面と向かうことがすでに恥ずかしいんです。
それはどうして、って言われたら。
……抱き締められたからです。
さすがにこんなこと、まもり先輩には言えない。
「まだお礼伝えてないなら、早いとこ伝えておいた方がいいわよ。時間経つともっと言いにくくなるから」
「そうですよね。何とか……頑張ってみます」
「その勢いで告白もしたらいいんじゃないかしら」
「えっ! こ、告白っ!?」
思ってもみない発言に、変にどもってしまった。
告白!?
私がヒル魔先輩に!?
あんなにかっこよくて優しくてモテそうな人に!?
いや無理本当無理絶対無理無理無理無理!
「無理ですよ、ヒル魔先輩に告白なんて! 私なんか釣り合いませんって!」
「そうかしら? だってヒル魔くんは沙樹ちゃんにだけは優しくしてるように見えるし、案外両思いかもしれないわよ?」
「両思いなんて、そんなの考えられませんよ……それに」
「それに?」
私はスカートのひだを雑に握り込み、下唇をぎゅっと噛んだ。
私が泥門高校に来た元々の理由。
それは、離れて暮らしてたお兄ちゃんと楽しく過ごしたかったから。
思い出を作りたかったから。
お兄ちゃんに会いたくて来たこの場所のはず――それなのに、今はヒル魔先輩のことしか考えられない。
なんて薄情で現金な自分。
こんな卑しい自分が、幸せになっていいわけがない。
「……自分の気持ちは、伝えないって決めてるんです」
耳に届いた自分の声は、驚くほどか細く震えていた。
「釣り合わないからって、さっき言いましたけど……でも、それだけじゃないんです。伝えたいだなんて思わない。一緒に過ごす時間があるだけで十分なんです」
「沙樹ちゃん……」
――『一緒に過ごす時間があるだけで十分』。
私は自分の口から発した言葉を頭の中でループさせた。
確かに、私はヒル魔先輩のことが好き。
笑った顔が見たいと思う。
でも、悲しむ顔や困った顔は見たくない。
ましてや自分がそうさせてしまったとしたら……。
告白なんてできない。絶対に。
もし私の気持ちを伝えることで、先輩を困らせてしまったら。
そんなつもりじゃなかったのに、だなんて思わせてしまったら。
『じゃあね、沙樹』
……またあのときみたいに、離れていってしまうかもしれない。
一人になってしまうかもしれない。
それに『愛人の子』なんかに好かれたって、先輩もきっといい迷惑だ。
そんな嫌な思いをさせてしまうくらいなら、今のままの方がいい。
部活の後輩として、近くにいられるだけでいい。
私を特別な存在にして欲しいだなんて望みません。
隣にいたいだなんて望みません。
だから……今はただ、好きでいさせてください。
何も言わずに下りた夜の帳は、黙ったままの私たちを見守るように包み込んでいた。