7話 9月7日
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あれほどカンカンに照りつけていた太陽はどこかに追いやられ、今は三歩先も見えないほどの豪雨が幅を利かせていた。
「天気予報じゃ、ずっと晴れの予定だったのに……」
私は一人部室に残り、べちゃべちゃに濡れたボールを拭いている。
泥まみれになった道具を置いておくと、乾いてこびり付いてしまって落とすのが更に大変になる。
明日が倍大変になるくらいなら、と私は居残りしてまでも作業を終わらせることを決めた。
水を吸い切ったタオルはもう三枚目。ボールはまだ山のようにある。
それなりに時間はかかりそう。
「作業自体はそんなに手間じゃないけど、一人だとちょっと寂しいなあ」
まもり先輩は今日は用事があるとかで、申し訳なさそうに帰って行った。
他の部員たちは手伝おうかと気を遣ってくれたけど、厳しい練習をしてるんだから身体を休めてと断った。
じっとりしたタオルを往復させる手を止め、何とはなしに窓の外を見つめる。
外は雨のカーテン、私は一人。
まるで、自分がこの世界から隔離されたみたい。
他のみんなは、私がいない世界で平和に暮らして。
私がいないことにも気付かないで。
私だけが、ここにポツンと取り残されたようで。
「……ダメだ。独り言でも呟いてなきゃ、なんだかネガティブな感じになっちゃ――ひゃあっ!」
突然、激しい雨の音を一瞬で打ち消すほどの轟音が鳴り響いた。
雷だ――私の苦手な。
悠長に座ってなんかいられず、ボールもタオルも手放して部屋の隅に丸まった。
震える両手で力一杯耳を押さえ、固く目を瞑る。
いつ鳴り止むかは分からない。
それでも、鳴り止むまでは少しも聞きたくない。
雨はどれだけ降っても平気……でも、雷は。
雷だけは――。
「やああっ!」
二度目の雷鳴が鳴った。
防ぐために覆った手も虚しく、その音は私の耳をつんざく。
嫌だ。やめて。
これ以上、鳴らないで。
これ以上、思い出させないで。
やめて……っ!
こんなときには、決まってあの日を思い出す。
あの日も酷い土砂降りだった。
おかあさん、どこいくの?
寝ているはずの幼子に声を掛けられ、びくりと肩を跳ねさせる彼女。
ちょっとそこまで出るだけよ。
彼女はしゃがみ込み、眠そうに目をこする我が子の頭を優しく撫でる。
あめふってるよ?
大きなトランクを携えていることには一切の違和感を覚えず、ただ彼女の身を案じて投げ掛けた言葉だった。
大丈夫よ。
彼女は紅を引いた唇の端を上げ、立ち上がって戸の取手に手を掛けた。
すぐかえってくるよね?
もちろん、という意味を含んだ確認のつもりの問い掛け。
でも、彼女はそれに答えはしなかった。
その代わりだったのか何なのか、その着飾った全身で小さな命を包んだ。
強く、強く。
じゃあね、沙樹。
諭すように耳元で囁いて、そのまま振り返ることなく彼女は出て行った。
お父さんもお兄ちゃんも出払っていたあの日。
思えば、あえてそのときを見計らったのかもしれない。
私は広い家に一人。
空が更に崩れたのは、その直後だった。
やああっ!
無防備な身体に低い地響きが突き抜ける。
思わずしゃがみ込んだ途端、無情にも電気が消えた。
轟音、暗闇、一人きり。
ありとあらゆる恐怖が襲う。
必死にまぶたを閉じ、願った。
取り残された私は、心の中で願うことしか出来なかった。
おかあさん、おかあさん、おかあさん。
はやくかえってきて。
おねがいだから、はやく。
そう願い続けていれば叶うものだと、子供ながらに信じていた。
信じて、いたのに。
雷が鳴り止んでも、日が明けても、しばらく経っても、彼女は帰って来なかった。
置いて行かれた、そう理解したのは物心がついてからだった。
どうしてとか、ひどいとか、そんなことを考える時期はとっくに乗り越えた。
それでも雷が鳴る日だけは、嫌でもあのときの記憶が鮮明に浮かび上がる。
「いやああっ! 置いてかないで……私を捨てないでえっ!」
あのとき、二度と帰らないと知っていたなら。
あのとき、もう愛情なんて残っていないと気付いていたなら。
もしも分かっていれば、私はきっと、今頃一人ぼっちにはなっていなかった。
私はバカだ。
何も気付かず、バカみたいに彼女を見送った。
私のせいで、彼女は行ってしまった。
「お願い、帰って来て……一人にしないで……」
何もかも今更だけど。
失ったものはもう戻っては来ないって、知ってるけど。
それでもまだ願い続けてしまう。
あの日と同じように。
突然、身体が何かに包まれた。
雨のせいで気温が下がった室内に、私以外のもう一つの温もり。
ゆっくりとまぶたを持ち上げるとそこには。
いるはずのないヒル魔先輩が、真っ直ぐに私を見つめていた――。
……どうして、先輩が?
まるで私の心の声が聞こえていたみたいに、それに返事をするように、もう一度私を抱き締めた。
さっきよりも一層、強い力を込めて。
雨音に混じって先輩のかすかな息遣いがすぐそばで聞こえた。
「……沙樹、大丈夫だ。置いてったり、捨てたりなんざしねえ」
そう先輩が呟いた瞬間。
嘘みたいに、私の世界から雨と雷の音が消えた。
本当に、ここだけ世界が隔離されたように。
でもさっきとは少し違う。今は一人ぼっちじゃない。
今は、ヒル魔先輩も一緒に――。
先輩は私に言い聞かせるように、耳元で何度も大丈夫だと繰り返し、そっと頭を撫でてくれた。
「……お前を一人になんざ、絶対にしねえ。俺がいる」
優しく心地良い声が、切望と後悔に疲れ果てた全身に染み渡る。
それを噛み締めながら瞳を閉じると、さっきから視界をぼやけさせていたものが頬に伝った。
……温かい。
包まれている身体だけじゃなくて、心も。
自分の中の不安や恐怖が剥がれていくような感覚がした。
寒色だった私の感情が、安心や歓喜の暖色に塗り替えられる。
――こんなに心から安心しきったの、いつぶりだろう。
しかも、自分の部屋でも家でもない場所で。
またこんな気持ちになるなんて、思いもしなかった……。
ふと聴覚に意識を集中してみると、雷の音はもう聞こえなかった。
遠くへ行ってしまったのかもしれない。
ほっとひと安心すると同時に、意外と自分が冷静さを取り戻していることに気付いた。
気付いたのは、いいけれど。
……私、なんだかまたドキドキし始めてきた。
雷への恐怖とはまた違った種類の。
なだめてくれたのが、他の誰でもないヒル魔先輩だから?
それとも単に今、すごく近い距離にいるから?
それとも触れられてるから?
きっと……どれも正解。
先輩だから、身体を預けられる。
他の人だったら、そうは思わなかったかもしれない。
ただの吊り橋効果だなんて一蹴するほど、この気持ちは理論的に生まれた単純なものじゃない。
そう、私はもう気付いてしまった。
――ヒル魔先輩への気持ちに。