7話 9月7日
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一ヶ月半にも及ぶ夏休みはあっという間に過ぎた。
夏祭りで綿あめを頬張ったわけでも、空に咲く花火に目を奪われたわけでもない。
海での一件はあったけど、それも遊びというよりかは特訓に近い。
高校初の夏休みは、ただただアメフトの練習漬けだった。
デス・マーチ後は、みんなひと回り大きくなったように思える。
顔付きも凛々しくなったし、どこかたくましい雰囲気をまとっていた。
筋力やテクニックもそうだけど、気持ちも引き締まったのかもしれない。
それはもちろん、あの人も例外じゃなくて……。
「スラント、ジグアウト! スライスイン! おら、しっかり走りやがれ!」
まだ夏の暑さが残る中、アメフト部はグラウンドでポジション別に練習をしている。
汗と砂にまみれて必死に身体を動かす部員たちに、怒号と銃声を飛ばすヒル魔先輩。
いつも通りの練習風景。
そう、いつも通りのはずなのに。
私の瞳に映るヒル魔先輩は、なぜかひときわ輝いて見える。
その金髪が光を反射させるからか、それともこの間溺れたときに助けてくれた恩人だからか、
それとも――
……さすがにデス・マーチには、そんな付加効果はないよね。
あり得ない考えを自分自身で打ち消し、手元のドリンクを一口すする。
――それにしても。
まだ半分以上残っているドリンクを握り直し、飲みもしないのにストローを咥えた。
アメリカ帰りで少し焼けた肌と、更に引き締まったその身体に、つい視線が行ってしまう。
先輩は元々色白だったけど、ちょっと小麦色になったらなったで似合うなあ、なんて。
やっぱり私は筋骨隆々よりも、程よく付いてる方がいいなあ、なんて。
いろんな感想が勝手に頭の中に湧き出てきてしまう。
だめだめ集中しなきゃ、なんて思って逸らすけど、気付いたらまた先輩の方を向いてしまってる。
目が合ったときの言い訳なんてとっさに出ないんだから、変な癖が付くと困るのに。
本当に、私ってば……。
煩悩を振り払うように頭を振ると、暑さのせいか頭が重く感じて足元がふらついた。
その割には『なぜ輝いて見えるのか』という探求心は、振り払っただけじゃ消えなかった。
今度は無意識じゃなく、意識的に対象の方向に目線をやる。
やっぱり、何度見ても輝いてる。
ゆらゆらと立ち上がる蜃気楼の中で楽しそうに機敏に動く、スポーツマンの風体をしてないスポーツマン。
「……ヒル魔先輩、かっこいいなあ……」
あ、思わず口に出しちゃった。
反射的に手で口元を覆うと、視線の先にいたヒル魔先輩が突然動きを止めた。
……ヒル魔先輩、こっち見てる?
……え、まさか聞こえてた?
「一旦休憩すんぞ! 水分補給したらすぐに再開だ!」
みんなに大声で合図をした後、ヒル魔先輩はこちらに向かってずんずんと歩いて来た。
……やっぱり聞こえてたのかも!
どうしよう、何て答える!?
『またまた、冗談ですよ~』
失礼にも程がある! おちょくってるみたいじゃん!
『え、聞き間違いじゃないですか?』
相手はあの先輩。上手く言い逃れ出来る自信なんてないな……。
『つい本音が漏れちゃって』
……いやそれはそれで恥ずかしい!
頭の中の分身たちが大慌てになっている中、ついにヒル魔先輩は私の前までたどり着いてしまった。
妙な威圧感と存在感に、ごくりと生唾を飲む。
別に悪口を言ったわけでもないのに、私の胸にはやましさが広がっていた。
「せ、先輩、練習お疲れ様です」
「おう」
先輩は特に変わった様子もなく、短く返した。
あまりの呆気なさに、どんな顔をしていればいいのか一瞬分からなくなる。
さっきまで耳にも入らなかった蝉の鳴き声が、急に近くで聞こえた。
……聞こえてなかったみたい。
そうだよね。あんなに離れてたんだし、小さく呟いただけなんだから聞こえるはずがないよね。
変な心配しちゃったよ。
私はどうも、冷静さってものが足りないなあ。
早とちりした自分にダメ出しをしつつタオルを渡そうと目線を上げると、先輩はドリンクを飲んでいた。
あれ? ヒル魔先輩、いつの間にドリンク取ってきたんだろう。
向こうのベンチで配られてるけど、真っ直ぐこっちに来たよね。
不思議なこともある……あれ?
私のドリンクは?
飲もうと右手に力を入れたけど、私の指は失敗したUFOキャッチャーのようにスカスカと空を切った。
あるはずのドリンクが無い。
落とした感覚なんてなかったのに。
目の前には、何食わぬ顔でストローを加えているヒル魔先輩。
……ん? ということは?
「え? 先輩、それもしかして私のじゃないですか?」
「まあ、そうっちゃそうだな」
「いやそうっちゃなくても私のですよね!?」
嘘!? ヒル魔先輩が私のドリンク飲んでる!
いつの間に私の手から音もなく取っていったの!?
いや、そんなことより。
とっさによぎったのは、口に出すのがなんとなく憚られるあの単語。
イメージ的には、付き合いたてのカップルがするようなあの行為。
……ううん。まさか先輩に限って、そんなこと考えるわけがない。
ただ水分を補給するのに、丁度目の前に適当なドリンクがあっただけのこと。
きっと私のじゃなくても取ってってただろうし。
保険を掛けるように納得出来そうな理由を並べるけど、どうしてもひと欠片の『期待』は消えない。
……でも、もしそうじゃなかったら?
意識した上での行動だったら?
先輩が……望んでそれをしたんだとしたら?
相反する感情が頭の中をぐるぐる回る。
気付かなかった振りをして、なかったことにしてもいいのかもしれない。
でもうやむやにするのも、後からモヤモヤしてしまうような気もする。
私は意を決して聞いてみることにした。
「……先輩。それ……間せ」
「テメーら練習始めんぞ、さっさと戻りやがれ!」
耳を貫く大声に阻まれ、私の決死の言葉は掻き消えた。
……もう、無理だ。
二度は聞けない。
あの単語を二度も発する気にはなれない。
固めたはずの私の意志は、先輩のたった一言の風圧でいとも簡単に崩れ落ちてしまった。
カラッとした今日の天気とは真逆で、安心したようながっかりしたような複雑な気持ちの私は、少しだけ肩を落とす。
……でも、聞いたら聞いたでどう答えられたか分からないし。
そうだ、って言われても、そうじゃない、って言われても、きっと私は反応に困っただろうし。
聞けなくて良かったの、かも?
すると肩にわずかな衝撃が落とされ、私は逆光の中顔を上げた。
「ケケケ、ドリンクサンキューな。沙樹」
そう言いながら先輩は、飲み終えたらしい容器を私に差し出す。
顔には影が落ちていたけど、笑っているのが分かった。
それが、さっきの怒声からは想像できないほどの爽やかな表情だったから、私はなんだか毒気が抜かれてしまった。
「……はい。どういたしまして!」
つられて笑顔になった私は、返事をした後にふふ、と自然に笑いが漏れた。
私はきっと考えすぎだ。
間接キスだとかなんだとか、先輩はそんなこと考えてない。
私が深読みしすぎただけ。
……そう考えると、一人で突っ走ったみたいで恥ずかしいけど。
早くもまた冷静さを失っていたことに気付いた私は、この先落ち着きのないまま大人になるのかも、と将来に若干の不安を感じた。
「残り、飲んでいいぞ」
短い言葉と共に、ヒル魔先輩の身体に遮られていたはずの光が急に目に射し込み、一瞬視界を奪われる。
返事をする間もなく、気付けば先輩の顔は私の耳のすぐそばにあった。
触れてしまいそうなほどの近さに、どきりと胸が鳴る。
「――間接キスでも、良けりゃあな」
「……え」
鼓膜を優しく揺らしたのは、思考が鈍るほどの衝撃発言だったような。
何、今なんて?
カンセツキス、って私には聞こえた気がしたけど。
カンセツ……間接?
……え!?
今ヒル魔先輩、間接キスって言った!?
「ええっ!?」
ようやく事態を飲み込めた私の第一声は、裏返ったまぬけな感嘆詞だった。
しかも渦中の先輩はすでに練習に引き返していて、ただの大きめのひとり言は宙に霧散しただけだった。
知らぬ間に私のドリンクを取っていって。
しれっとした顔で間接キスして。
何もなかったかのように返して。
そして最後に爆弾投下。
暑さのせいとは思えないほど、尋常じゃない汗がにじみ出てくる。
……ヒル魔先輩、確信犯だ。
全部分かった上でやってたんだ。
「あ~もう、もう……ヒル魔先輩ぃ……」
いたたまれなくなった私は、その場でゆるゆるとしゃがみ込む。
先輩って、本当に策士。
私の考えも全部見透かされてたのかな、なんて思うと、頭がいろいろとキャパオーバーになって弾けてしまいそう。
ふと右手に感じた液体の揺り返しが、ボトルの中身が残っていることを思い出させる。
……先輩、飲んでいいって言ってた。
でも、間接キスだと分かった上で飲むのと、知らずに飲むのとではえらい違いだ。
って言っても、捨てるのももったいない。
それに、元々は私が飲んでたものだし……。
唸りながら数分考えてようやく結論を出した私は、お手洗いに行くとまもり先輩に伝えて手にボトルを握ったまま走り出した。
やがて人気のない教室に滑り込み、腰を下ろすこともなく、ままよと勢い良くストローを咥える。
勢いを付けたまま残りの中身を吸い上げ、そして――むせた。
……吸いすぎた! 苦しっ……!
浅い呼吸が戻っていくと共に、変に高ぶっていた気持ちも落ち着いていく。
長い息を吐きながら近くにあった椅子に身を預け、力が抜けたように机に突伏する。
すっかり空っぽになった手中のボトルの側面に、結露した水が一筋垂れた。
「ヒル魔先輩と、間接キス……かあ」
漫画やテレビでは見たことあるけど、まさか自分が実際にすることになるなんて。
しかも相手は、ヒル魔先輩。
しかも……確信犯。
思い出したように恥ずかしさが込み上げてきて、机の上で組んだ腕におでこを目一杯押さえ付けた。
どうしよう。嬉しい。
嬉しすぎてニヤけるのが止まらない。
……どうしてこんなに胸が高鳴るのか、その理由を私はもう知っている気がする。
ヒル魔先輩は私をからかってるの?
それとも、本気で……。
ぐったりとした身体を無理やり起こし、そっと両頬に手を当ててみる。
普段より明らかに高い体温は、このムシムシとした暑さのせいなのか、それともさっき起きたばかりの大事件のせいなのか、私には分からなかった。