6話 7月14日
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わけが分からないまま成り行きに任せていると、浮き輪を引っ提げたセナくんが砂煙を上げながらこちらへ猛ダッシュして来た。
機嫌急下降のヒル魔先輩のオーラにあてられてか、セナくんは哀れに思うくらい必死な顔をしてい――あ、コケた。
その付近には小さな子供たちがいたから、きっと思わず足が引っ掛かっちゃうような穴でも掘ってたんだろう。
ぽーんと滑るように空を舞う、パンパンに太った色とりどりのドーナツたち。
抵抗もなく次々と海に飛び込んでいくけど、そこはやっぱり浮き輪らしく、私のように無様に沈んだりはしなかった。
「おうテメーら、今から海ん中で筋トレだ。浮き輪付けたヤツらを一人が泳いでひたすら引っ張る。波に逆らってな」
ヒル魔先輩は淡々と組み合わせを発表した。
セナくんはモン太くん、お兄ちゃんは十文字くんとまもり先輩とケルベロス、黒木くんは戸叶くん、そしてヒル魔先輩は私と……。
あれ? なんだかヒル魔先輩と私だけパワーの差がありすぎるような。
でも水の中だから、力はあんまり関係ないのかな。
強いて言うなら体重の問題?
「よし、行けテメーら!」
さすがに塩水の中には銃器を持ち込んでなかったヒル魔先輩が、代わりに大声で合図をする。
部員たちがはまった浮き輪の紐を身体にしっかりとくくりつけた先頭は、一斉に地平線に向かって激しい波しぶきを上げながら進み始めた。
「行くぞ沙樹。しっかり捕まってろよ、さもねえと置いてっちまうぞ」
「大丈夫です、ちゃんと浮き輪掴んでますから!」
そしてワンテンポ遅れて私たちも出発する。
押し寄せる波に逆らうわけだし、重り代わりの私も付いているんだから、そんなにスピード出ないだろう……なんて思っていた自分がバカだった。
アメフト部の部長、という肩書は決して伊達じゃない。
波も重りも何のそので、前を泳いでいた部員たちをあっという間に抜き去り、独走……いや独泳状態。
ヒル魔先輩細いから、水の抵抗が少なくて済むのかも。
……なんて悠長に考えてる余裕は本当はない!
荒い水しぶきが容赦なく顔を襲ってきてとんでもなく痛い!
漫画みたいなスピードのせいで浮き輪が水面と垂直になって、割と全身浮いてるから怖い!
「あば、あばばばっ! せ、先、輩っ! は、速すぎ、で、すって!」
「ンだって? 聞こえねえぞ!」
「……っ! ひゃっ……」
他のとは比べ物にならないほどの大きな波が来たかと思ったら、次の瞬間、私は呼吸が出来なくなった。
それと同時にさっきまで耳に入っていた雑音は一切消え失せ、代わりにボコボコという音だけがすぐ近くに聞こえる。
腰に携えていた命綱である浮き輪は、いつの間にかなくなっていたらしい。
身体中を襲うひやりとした感覚に、怖くて目も開けられない。
息が。
息が出来ない……苦しい。
もう、ダメ……。
「――沙樹、おい沙樹! 大丈夫か!?」
「ッ、ゲホッ! ゲホ……ッ」
呼吸が……できる。
ひとしきりむせたあと、ここぞとばかりに空気を貪り、酸素不足だった肺を満たす。
頭が上手く働かずにぼんやりしていた視界も、少しずつだけどクリアになってきた。
……そっか、私浮き輪からすっぽ抜けて溺れちゃったんだ。
水中で息が出来なくて、必死にもがいて。
どこもかしこも冷たく感じて、このまま死ぬんじゃないかって思って。
私は気付けば誰かに身体を預けていたらしく、ぼんやりしながらその人の首元に擦り寄る。
助かったという安堵感。
今生きているということを実感できる、人肌の温度。
……怖かった。大袈裟かもしれないけど、本当に死ぬかと思った。
溺れている間がすごく長く感じた。
助けてもらえて、本当に良かった……。
……ところで、私がしがみ付いてるこの人は?
完全に脳が回復したところで、期待と不安が入り混じる中、恐る恐る顔を上げてみる。
そこには、切羽詰ったような彼の表情があった。
「……ヒル魔、先輩……」
「沙樹、大丈夫か? 悪い、怖い思いさせちまって……」
先輩が謝るところなんて初めて聞いた、なんて考えられるほどに私の頭は余裕が出てきたみたい。
いや、そんなことより。
私がしがみ付いてるってことは、先輩が助けてくれたってことだよね……?
「私なら大丈夫です。心配かけてすみません」
「……そうか。なら良かった」
私はこれ以上心配させまいと、笑顔で振る舞った。
対してヒル魔先輩は、いつもと違う覇気のない返事と、海水に浸かったせいで少しへたれ気味の髪。
それがまるでしゅんと落ち込んだ小型犬のように見えて、不謹慎だけどなんだか可愛く思える。
……先輩に『可愛い』だなんて、絶対に口には出せないけど。
「……先輩が、私を助けてくれたんですか?」
「たりめーだろ! お前を溺れさせちまった責任もあるし、それに……」
「それに?」
「……いや、何でもねえ。とにかく無事で良かった」
そう言うと先輩は、私の両肩を掴む手を緩めて溜め息を一つ吐いた。
必死になったり声を荒げたり落ち込んだり、こんなにコロコロ変わる先輩を私は初めて見た。
……すごく、心配してくれたみたい。
「ヒル魔先輩……ありがとうございます」
「礼なんざ言われることじゃねえが……まあ、どういたしまして」
心からのお礼を伝えて目線を合わせると、ほんの少し目が合っただけで、またすぐに逸らされてしまう。
でも、それは私のことが嫌でそうしたわけじゃないって何となく分かった。
先輩は感謝の言葉を真っ直ぐ受け取れるほど素直じゃないって、もう知ってるから。
どことなく気恥ずかしそうにしているヒル魔先輩の手が私の肩から離れると、ちょうどみんなが波をかき分けてやって来た。
遠くから異変を感じ取って、何事かと心配して集まってくれたらしい。
何でもねえよ、と不安を煽らないためにか先輩が一蹴し、次は比較的浅い足の着く場所でトレーニングをすることに決まった。
しっかりと腰回りに浮き輪を身に付けたことを確認した私が、最後尾から岸まで泳ごうとすると、その紐をヒル魔先輩がすいっと手に取った。
さっきとは違って、今度は波をうまく回避しながら丁寧に引っ張ってくれる。
太陽に照らされて透き通るように光る先輩の後ろ髪を、私は何のけなしに眺めた。
……責任感から助けてくれたみたいだけど、それでも私は嬉しかった。
他の誰かじゃなくて、ヒル魔先輩に助けてもらったことが。
溺れて良かったこともあった、なんて現金なこと言ったら……先輩は怒るかな? それとも呆れるかな?
怖い思いはしたけど、同時に貴重な体験も出来た青い海にほんの少し感謝して、心地良い波の揺れと先輩の気遣いに身を委ねた。