4話 5月30日
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ヒル魔先輩との勉強会、二日目。
昨日と同じく、放課後になると先輩が私の教室にやって来た。
二日続けてやって来るだなんて思ってなかったのか、周りの生徒たちは昨日よりも慌てふためいている。
教室ががらんとして急に静かになった後、早速勉強に取り掛かった。
今日の範囲はそんなに多くないから、昨日よりは早く終わりそう。
復習もちゃんと理解しながら出来たし、終わった後には英語が得意教科になってたりして。
本当に、ヒル魔先輩様様だなあ。
「これで、範囲分は終了だ」
ノートに最後の一文を書き記すのと同時に、ヒル魔先輩の一言が降りかかる。
長かったようであっという間だった勉強時間ももう終わり。
私の予想通り今日の分は早く終わった。
時計をちらっと見ると、まだ七時。
窓の外もまだ明るさが残っていて、校庭では運動部が練習の最中だ。
「筆記用具だけ残して、机の上のもん全部片付けろ」
「え? わかりました、じゃあ教科書とかは仕舞って、と……」
筆記用具だけ残して? 一体どういうことなんだろう。
図りかねたヒル魔先輩の意図はそのままに、言われた通り他のものを鞄に戻す。
するといつの間にか、大きめの白い紙が机の上に置かれていた。
「ヒル魔先輩、これは……?」
「抜き打ち復習テスト。本番と同じで五十分間実施、満点は百点だ。間違えた分は罰ゲームな」
「テス……ってえ!? 罰ゲーム!?」
「おし、スタート」
うろたえる私を尻目に、いやに楽しそうなヒル魔先輩は手元のストップウォッチを容赦無く押す。
どこからこのテストを持ってきたのか、罰ゲームとは一体何なのか、そんなことを考える余裕は無い。
とにかく目の前のテストをなんとかしなきゃ……!
私は急いで紙を裏返し、書かれた文章を理解することだけに意識を集中させた。
――ピッ!
テスト終了の小さな合図が耳に入る。
その瞬間、握っていたシャーペンは手から転げ落ち、全身が強い脱力感に襲われた。
お、終わった……あんまり自信無いけど、出来るだけのことはやった……。
「なら答え合わせすっぞ」
「お、お手柔らかにお願いします」
ためらいがちに先輩へとテストを差し出す。
罰ゲームって何だろう。正座したまま膝に石を乗せられたり、射的の的にされたりとかかなあ。
いや、逆さ吊りにして鞭で打たれるのかもしれない。だとしたらものすごく辛い。
せめて七十点以上は取れてますように……!
しばらく答案を見つめていたヒル魔先輩がぱっと顔を上げた。
「満点だ」
「え、嘘!? ややややった~!」
「ケケケ、オメデトウ」
まさか全問正解だなんて! 本番じゃないけど嬉しい~!
両手を握り締めて喜ぶ私の頭に、先輩の手が優しく触れた。
以前なだめてくれたときと同じように、ポンポン、と。
やっぱりそれは心地良くて、私は更に言いようがないくらいの喜びに包まれた。
「でも先輩、罰ゲームって何する予定だったんですか?」
「ああ、それは……秘密だ。楽しい楽しい罰ゲームだったんだがなァ」
「……満点を取れた嬉しさよりも、罰ゲームを回避できた安心感の方が上回りそうです」
結局内容を教えてくれないヒル魔先輩は、ものすごく楽しそうでものすごく邪悪そうな笑顔をしている。
さっきの私の予想はまだ甘い方だったのかもしれない。
罰ゲームをする羽目にならなくて本当に良かったと、今更ながら冷や汗が出てきた。
……あれ。そういえばこのテスト、どこのだろう。
「これができりゃ本番も上々だろ。作った甲斐あったな」
「それ、まさか先輩の手作りだったんですか?」
「まあな。五分で作った」
「早! ……でも、ありがとうございます」
「ドウイタシマシテ」
返してもらった答案を握り締め、気付かれないように目の前の人を覗く。
ヒル魔先輩、私のためにわざわざ作ってくれたんだ。
時間割いてもらっただけでもありがたいのに、こんなことまでしてくれるなんて。
……やっぱり、優しいなあ。
一人でこっそり微笑んでいると、ふと先輩の雰囲気が変わったことに気付く。
眉をひそめてどこか不満そうな顔付きをしていた。
私、何かしたっけ? 思い当たる節はないんだけど……。
しばらく悩んでいると、ヒル魔先輩は取り出した教科書を開いてとある部分を指した。
「この単語読んでみろ」
「これは……ジュエリー、ですよね」
「……昨日からずっと気になってたんだが、テメー発音悪すぎだ。全部カタカナ英語じゃねえか」
先輩が不機嫌な理由、私の発音の悪さだったのか……。
なるほどと納得した私は気付けば小さく頷いていた。
確かにそれは前から自分でも思ってた。
発音しようとしても下手だから口に出したくなくて、それだと練習にもならないから悪循環。
授業の時間はいつも当てられないかひやひやしてる。
……この機会だから、ついでに先輩に教えてもらっちゃおう。
「私、発音も苦手なんです。どうやったら良い感じに発音できるのか分からなくて」
「日本語と英語は口の開け方が違えんだよ。日本語は横だが、英語は縦だ」
「縦? でも、『い』の母音って縦に開かないですよね。どうやって縦に……むぉ!」
先輩の右手がにゅっと伸びてきたかと思った次の瞬間、両頬を掴まれた。
むぉ、なんて言っちゃった。恥ずかしい……。
意外にも掴む力は優しく、それでいてしっかりとホールドしている風だった。
「この状態ではっきり発音しようと意識すりゃ、少しずつでもマシになんだろ」
「にゃるほろ! これえまいいちれんしゅうしゅれあいいんれしゅね!」
「そういうこった」
今の伝わったんだ! 伝わるなんて思ってなかった!
でも、口を縦にかあ。口の形なんて考えたことなかったな。早速今日からやってみようっと。
……にしてもヒル魔先輩、さっきからなんだか私のほっぺ、むにむにしてるような……?
見れば、先輩は真顔で私の両頬をまじまじと眺めていた。
その間もずっと指を動かすことを忘れていない。
……うん、きっとこれは気のせいじゃないと思う。
この状態は一体何なんだろう。私はどうすればいいんだろう。
ただ、先輩に頬を触られても嫌な気持ちにはならない……どころか、少し嬉しい気もする。
いや、だとしても先輩の考えがいまいちよく分からない。
私が考えあぐねていると、不意にヒル魔先輩は目線を合わせてきた。
いつものニヤリという効果音が似合うあの不敵な笑顔付きで。
「ケケケ、柔らけえとこと甘党なとこは兄そっくりだな」
「……ふぇっ!?」
分かりやすく言葉に詰まる。
何かと疑問に思ってはいたものの、まさか私の頬の柔らかさを確かめていたなんて。
それは真顔ですることじゃないでしょ……! いやだからと言って笑顔でされても困るけど!
嬉しいやら恥ずかしいやら居たたまれないやらで、私の体温は急上昇する。
と、とにかく今すぐ離してもらおう! このままじゃ恥ずかしすぎる!
深呼吸するみたいに息を大きく吸い込んで、一気に頬を膨らませる。
ぽんっという小さな破裂音と共に、掴んでいたヒル魔先輩の指は弾かれた。
「もう、あんまりからかわないでくださいよ!」
「おーおー怖え。まるでフグみてえだな。昨日のクラゲといい、海の生き物シリーズか?」
「そんなつもりじゃありませんー!」
私が怒っている素振りを見せているのにも関わらず、先輩は気にも留めない調子でせせら笑っている。
年上のはずなのに、こうやって笑い合っている時はそう思えないから不思議。
先輩でもなく友達でもなく、何かもっと近いような感覚。
だから居心地が良いって思えるのかな……。
ふと、校庭の方から運動部の終わりの挨拶らしき声が耳に入ってきた。
なんだかんだでもう八時半になっている。
まとめのテストも終わったし、今日の勉強はここまでかなあ。
そうだ、アレ渡すなら今が良いチャンスかも……!
机の横に掛けてあった鞄を手に取って膝の上にどさっと置く。
潰れないように一番上に入れてあったから、お目当てのものはすぐに見付かった。
私は上機嫌で薄茶色の紙袋を取り出し、ヒル魔先輩の目の前に差し出す。
「ヒル魔先輩、昨日今日と勉強付き合ってくださってありがとうございます! これ、ささやかですけどお礼です」
「んだこりゃ……コーヒーか」
「好きなものはコーヒーって聞いたので。私の家の割と近くに、コーヒーの専門店があるんです。ただ豆の好みまでは分からなかったので、何種類かの詰め合わせですけどね」
「……わざわざ買って来たのか」
「わざわざって言うほどでもないですよ。何かお返ししたいと思ってたので、丁度良かったです!」
ヒル魔先輩は目を丸くさせながら手元の紙袋を見つめている。
その表情は日頃あまりお目にかかれないようなものだったから尚更、私の中にジワジワと嬉しさが込み上げてきた。
物を贈るって、お互いが幸せになれる素敵な行為だと思う。
物と一緒に、気持ちも贈ることができるから。
「私の勝手なイメージですけど、無糖で飲む人って、そうじゃない人よりも味にこだわりがあるんじゃないかって思うんです。だから、いっそのこと本格的な物の方がいいかなって」
「……俺はミルクと砂糖入れる派だ」
「え!? 歓迎会のときブラックで飲んでましたよね!?」
「ケケケ、嘘だ。んなもん入れるか」
「あ~びっくりした……私の記憶違いかと思っちゃいましたよ。でも、コーヒーってあんなに種類があるんですね。知りませんでした。私も飲めれば良いのになあ」
「テメー、コーヒー飲めねえのか」
「実はそうなんです……ちょっとずつ慣らしていけば、先輩みたいに飲めるようになりますか?」
「まあそうだな。甘ったる~いヤツから始めりゃいけんだろ」
からかわれながらも先輩のアドバイスで背中を押してもらう。
コーヒーは飲めないけど、香りは好きなんだよね。
あの香ばしくてほっとするような香り……飲めたらきっと、もっと堪能できるのにな。
魅力的な紙袋に憧れの眼差しを向けていると、ギシ、と音を立ててヒル魔先輩が斜めに座り直した。
丁度私からは顔が見えなくなる。
――あれ、気のせいかな。
先輩の耳が少し赤いような……。
「……専門店ともなりゃあ、初心者でも飲みやすいヤツなんざいくらでもある。俺が選んでやるから、今度行くぞ」
想像もしていなかった言葉を掛けられた私は、すぐに意味を理解できなかった。
ヒル魔先輩の台詞を脳内で何度もリフレインさせる。
俺が選んでやるから、俺が……先輩が私のために選んでくれる?
今度行くぞ、って……一人でじゃないよね。一緒に、ってことだよね……。
やっと飲み込めたそのとき、すでに自分が反射的に返事をしていたことを知った。
「ケケケ、気の利くテメーへのご褒美だ」
「……ありがとうございます、楽しみにしてますね!」
ぐりんと首を大きく回して再び目が合った先輩は、いつもと変わらない顔付きをしている。
耳も赤くはなかった。
やっぱり、さっきのは気のせいだったんだ。
光の具合で赤くなっているように見えただけかもしれない。
先輩が照れるだなんて、そんな私みたいなこと……きっとあるはずないもんね。
「あと、『貸し』の件だが」
ニタニタと笑いながらヒル魔先輩が続ける。
そういえばそんなこと言われてた……!
一体何を言われるんだろう。でも、私が先輩に出来ることなんてたかが知れてる。
自分に出来ることだったらいいんだけど。
「今後テメーのことは名前で呼ぶぞ。マネ二号じゃ呼びにくいからな」
「へ……あ、はい、分かりました。……けど、それで『貸し』を返したことになるんですか?」
「呼ぶときの時間短縮、発声することによる疲労軽減、分かりにくさ削減」
「お、おぉ……思いの外いっぱいある……」
予想もしてなかった効果を並べ立てられてその説得力に押される。
そもそもマネ二号は私が言い出したことじゃないけど、地味に先輩の負担になってたのかな。
まあでも貸しも返せるみたいだし、プラスの面が多いならいっか。
私は特に深く考えることもせず帰り支度をした。
「どうせ今日も走って帰んだろ」
「その通りです! 先輩に作ってもらったテストも見直したいですから」
「ケケケ、張り切りすぎて空回りしなきゃいいがな」
「そ、そうならないように頑張ります……じゃあ、先輩も帰りお気を付けて!」
「ああ。じゃあな、沙樹」
――ドクン。
はっきりと分かるほど、私の胸は高鳴った。
顔に全身の熱が集まるのを感じる。
内側からじわじわとにじみ出てきた喜びや気恥ずかしさが、口元を強制的に緩ませた。
ああ、また私、顔に出ちゃってる……どうかバレませんように。
そう心の中で願いながら、慌てて教室を後にした。
名前……そうか、名前って苗字のことじゃないもんね。下の名前。
ヒル魔先輩、私のこと……沙樹って呼んでくれた。
友達に呼ばれても何とも思わないのに。先輩だと自分の名前が特別に聞こえるみたい。
どうしよう。ものすごく、嬉しい……。
『沙樹』
たったそれだけの短い言葉を、ヒル魔先輩の声で何度も脳内再生する。
わずかにひんやりとする空気に熱を帯びた顔を冷ましつつ、私は急ぎ足で家へと向かった。