約束の放課後。


勉強するための準備をしていると、丁度ヒル魔先輩が教室にやって来た。

他の生徒たちが逃げるようにして去っていく。

今更だけど、どの学年の生徒にも本当に怖がられてるんだなあ。

私にはいまいちよくわからないけど。




前の席にどかっと座ったヒル魔先輩は、一呼吸置いた後に机に肘を掛けて身を乗り出した。

急に顔が近くなり、心臓がどきんと跳ねる。

すぐそばの窓から差し込むオレンジ色の陽射しが、先輩の綺麗な髪色を更に引き立てていた。

改めて見ると、ヒル魔先輩って髪も顔も綺麗だなあ……日本人じゃないみたい。



「んで、どこがわかんねえんだ」

「あっ、えと……」



完全に見惚れていた私は、先輩の一言で我に返った。

わたわたとノートを広げて教科書をめくる。


しっかりしなきゃ、私。せっかく貴重な時間をもらってるんだから。

テストのこと忘れるなんてタダでさえ鈍くさいんだし、ちゃんと集中しなくちゃ！


たくさん貼った付箋の一つを掴み、そこをおずおずと広げた。



「ここの文法がわからないんです」

「ああ、こいつはな……」



ヒル魔先輩はその細長い指で教科書を指し示しながら、次々と説明を続ける。

いくつも貼っていた付箋が、見る見るうちに半分以上無くなっていった。


……すごい。授業聞いてても全然わからなかったのに、先輩の説明だと頭にスッと入ってくる。

こんがらがってたところもクリアになった感じ。

ヒル魔先輩って、何をしても完璧だなあ。

アメフトでもみんなが想像つかないような作戦思いつくし、データ収集もばっちりだし。

英語は堪能だし容姿も申し分ないし、きっと他の教科も優秀なんだろうし。



……みんなが知らないだけで、本当は優しいところだってたくさんあるし。



今日だって大会に向けて練習しなきゃいけないはずなのに、私なんかのために時間作ってくれてる。

申し訳ないって思うけど……でも、なんだか嬉しい。



「テメー、さては聞いてねえな」

「え！？　そんなことないですよ、ちゃんと聞いてます！」

「さっきから手が止まったままだぞ」

「……これは、さっきクラゲに刺されて思ったように動かなく」

「嘘下手すぎだろ」



痛いところを突かれて、思わず視線が手元に落ちる。

自分でも思った。とっさに吐いた嘘が下手すぎることを。

そもそも嘘なんかついても、顔に出ちゃう私には意味の無いことなのに。

無駄なあがきが逆に恥ずかしい。

先輩に呆れられたかな……？


自信なさげに、おそるおそる視線を戻す。

先輩はついた肘の先に額を乗せていて、顔がよく見えなかった。

どことなく震えているようにも見える。

もしかして、くだらない嘘吐いたこと怒ってるのかな？



「クラゲってそれ……もっとマシなのなかったのかよ」

「……クラゲが精一杯でした」



私の放ったクラゲがツボに入ってしまっていたらしく、ヒル魔先輩は肩を震わせて笑っていた。

一気に羞恥心が押し寄せてきて耳まで熱くなる。

呆れられるのも嫌だけど、笑われるのもそれはそれで恥ずかしい。


はあ……何で私あんな嘘吐いちゃったんだろう。

せめてもっと説得力のある嘘だったら、まだよかったのかもしれないのに。

いや、それでもヒル魔先輩には見抜かれちゃうか……。



「ケケケ、向かねえことはするもんじゃねえな」

「本当にそう思いま……す……」



しゃべってる途中でヒル魔先輩が顔を上げた。

ずっと笑っていたのか、まだ顔に余韻が残っている。

少しだけ下がった眉。楽しそうに上がった口角。

それに、どこか柔らかいような眼差し……。


先輩のその瞳に、包み込まれているような感覚になった。

その心地良さからか、自然と自分の顔も緩んでしまう。



……先輩といると、心臓がうるさくなったり安心したり、なんだか心が忙しい。

とっさに嘘吐いちゃったりボーっとしちゃったり、自分が自分じゃないみたいだ。

どうしてこんなに落ち着かないんだろう……。



「……あんま時間ねえな。後はこことここやって今日は終まいだ」

「あ、はい！　わかりました」



思った以上に時間は早く過ぎていて、気付けば時計の針はもうとっくに八時を回っていた。

英語の勉強は自分にとって辛いものだと思ってたけど、今日はそうじゃなかった。

それどころか、楽しい。時間を忘れるくらい夢中になっちゃった。

本当は私、英語好きだったのかな。


それとも、ヒル魔先輩との時間が……？




今日のノルマをノートにまとめ上げ、静かに教科書を閉じた。

凝った肩をほぐすように背伸びをする。



「終わった～！」

「ケケケ、お疲れさん。とりあえず六割方終わったな」

「先輩もお疲れ様でした。先輩の説明、すごくわかりやすいです！　英語の担当がヒル魔先生だったらいいのになあ」

「テストの難易度が鬼になるがいいのか？」

「……人生初の0点を取ってしまうかもしれません」

「0点のヤツには、補習と言う名の拷問だ」

「ヒル魔先輩が先生じゃなくて心から良かったと思います」



他愛ない話をしながら帰り支度をする。

ふと窓の外に目を向けると、どっぷりとした暗闇に覆われていた。


五月とはいえ、さすがに九時にもなれば暗くなるよね。

すぐに帰って今日教えてもらったところの復習しないと。


残りの荷物を鞄に手早く詰め込み、ヒル魔先輩に向き直る。



「先輩、今日はありがとうございました！　明日もよろしくお願いします」

「ああ、じゃあな。走ってコケんじゃねえぞ」

「な……私が走って帰ろうとしてること、どうしてわかったんですか！？」

「顔に書いてある」

「……コケないように気をつけます。じゃあ、また明日！」



起こり得そうな事柄に苦笑いしながら一礼し、足早に教室を出る。




この時間のおかげで、先輩との距離が縮まった気がした。

最初に感じていた緊張もいつの間にかどこかへ行ってしまってて、気付いたら自然に話したり笑ったりできるようになってた。

私から見た先輩も、楽しそうだった……と思う。そう思ってくれてるといいなあ。



「……明日の放課後も、楽しみだなあ」




一面の星空の下、はやる気持ちを抑えきれない私は更に足を速めた。