4話 5月30日
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「――ヒル魔先輩っ!」
屋上の扉を開けると同時に、救世主になってもらえるかもしれない人の名前を叫ぶ。
どうやらヒル魔先輩はお昼の時間は教室におらず、屋上にいるらしかった。
二年生の教室に行って、お兄ちゃんに聞いたから間違いない。
名前を出した瞬間、一気に教室の中がざわついてホラー映画みたいな空気になってしまったけど……。
「ヒル魔先輩、どこですか?」
入ったことのない場所に初めて足を踏み入れたせいか、少しワクワクする。
屋上なんて入る機会無かったからなあ。
……結構砂とかホコリが落ちてる。誰も入らないから、誰も掃除しないのかも。
それにしても肝心の先輩が見当たらないけど、どこにいるんだろう。
見た感じ、いるようには見えない……。
「おい」
頭上から声が聞こえて反射的に顔を上げた途端、太陽の光に襲われた。
……眩しっ!
反射的に手をかざして光を遮ったけど、眩んだ目はすぐには元に戻らない。
慣れてきた頃にそっとまぶたを開けてみる。
さっきの声の主であろう人が顔だけ出して覗いているみたいだけど、逆光でシルエットしか見えない。
でもこのツンツンした形のシルエットは、絶対ヒル魔先輩だ。
そう確信を持った私は、とりあえずはしごを上った。
上にはヒル魔先輩が一人、あぐらを掻いていつものようにパソコンを広げていた。
いつもの光景だけど、部活以外で見るのってなんだか新鮮。
屋上のここが先輩のお気に入りの場所なのかな。
でもお兄ちゃんと同じクラスなのに、どうして一緒にいないんだろう。
そういえば先輩はもうお昼ご飯食べたのかな。
ガム食べてるところしか見たことないけど、食べ物は何が好きなんだろう。
私、ヒル魔先輩のこと結構知らないことだらけだなあ……。
「おい、テメー何しに来たんだ」
無意識に見つめ続けていたらしい私に、ヒル魔先輩が声を掛けた。
ハッと気付いて自分の目的を思い出す。
ダメ元でいいから、お願いしてみるって決めた。
迷惑になるようだったら諦めるけど、もしそうじゃないのなら……。
「あの、ヒル魔先輩……大変言いにくいんですけど、その……っ英語、教えてもらえませんか!?」
「はあ?」
ただの部活の後輩がそんなお願いをするのはお門違いだってわかってる。
今は練習も忙しいし、そんなことに構ってる暇なんてないかもしれないことも。
でも、でもヒル魔先輩なら、もしかしたら……。
決死の覚悟で伝えたつもりだったけど、案の定ヒル魔先輩は呆れたような顔をしている。
……ダメ元! ダメ元だから!
「明後日、テストじゃないですか。私、英語がものすごく苦手でして……。ヒル魔先輩に、教えてもらえたらなって思ったんです」
「……ほお」
先輩は間を空けて返事をした後、パソコンを閉じた。
険しそうな表情で私の方をじっと見ている。
やっぱり、ダメかあ……。
そうだよね。私なんかが、先輩の貴重な時間を割くわけにいかないよね。
これは徹夜決定かな……。
「なんで俺なんだ? テメーのクラスに英語得意なヤツだっているだろうし、仲良い糞マネだってそうだろ」
「それは……」
断られると思って肩を落としていたところに、先輩の突然の質問が降ってきた。
言われてみれば確かにそうだ。
そんなに話す方じゃないけど、同じクラスに英語が得意な子はいる。
優等生で有名なまもり先輩だって、成績はお墨付きだし優しいから言えばきっと教えてくれる。
でも……。
握っていたこぶしにきゅっと力を込めた。
「真っ先に浮かんだのが、ヒル魔先輩だったからです」
理由を口にした瞬間、先輩の顔から少しだけ険しさが消えた気がした。
嘘でも何でもない、本当の理由。
正直、クラスの友達もまもり先輩も、選択肢に無かった。考えもつかなかった。
真っ先にどころか、ヒル魔先輩しか浮かばなかったから。
「……赤点取られて練習に参加できねえんじゃ困るかんな。しゃあねえ、教えてやるよ」
「……え! 本当ですか! ありがとうございます、先輩!」
予想外の返事がきたことに私の脳は一瞬戸惑う……けど、すぐに理解したのか口角は自然と上がっていく。
私に先輩みたいなポーカーフェイスは無理だってことは、ずっと前から分かってた。
長い間、いろんなことを我慢してきた反動なのかもしれない。
抑えようとしても身体が素直に反応しちゃうから、自分の気持ちが相手にバレバレになるのが恥ずかしい。
って、思ったところでどうしようもないんだけど……。
とにかく、ヒル魔先輩がいいって言ってくれて良かった!
徹夜もしないで済むし、一気に不安が解消したみたい。
「ただし、やるからにはみっちりやるぞ。今日と明日の放課後、集中講義だ。他のヤツらには俺から伝えておく。授業終わったら教室で待ってろ」
「はい、よろしくお願いします!」
「それと、今回の件は『貸し』だからな」
「『貸し』? ……わ、分かりました」
先輩の言う『貸し』の意味がいまいちわからなかったけど、あれよあれよと決まり、私は上機嫌で返事をする。
苦手な英語の勉強をするはずなのに、なぜかその時間が待ち遠しくなっていた。
……あ、予鈴だ。もう行かないと。
そうだ、もう一つ先輩に聞いておかなきゃ。
はしごを下りようと手を掛けていた私は、もう一度ヒル魔先輩の方に顔を向ける。
「そういえば、ヒル魔先輩の好きなものって何ですか?」
「あ? 何だ急に」
「参考のために教えて欲しいんです」
「……コーヒー」
「コーヒーですね、わかりました! じゃあ、また放課後に」
よし、ちゃんと聞けた。
コーヒー苦手な私はコーヒー牛乳ですら飲めないのに、ヒル魔先輩って大人。
私も少しずつ挑戦してみようかなあ。
……とにかくこれで一つ、先輩のことを知ることができた。
小さく鼻歌を歌いながら、私は教室までの道を急いだ。