悪魔と殺人鬼
名を刻もう
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「昼には戻る」
「何かあるんで?」
視線だけが私に向けられる。質問には質問で返すことが多い彼だが、今日の彼は無言の返しを与えてきた。玄関で取り残された私はまた今日という1日がスタートするのだと溜息を吐いて朝食の片付けへ向かう。
窓から差し込む光なんてないこの世界。ただ少し薄暗い、インクのような青黒さに染まる空は一応この世界ではまだ夜ではないのだと示していた。最近の私の生活はパターン化されていて、毎朝片付けをすれば即風呂に入ること。これは彼が儀式から帰った後に風呂に入らず私を抱いて眠ってしまうのが原因だ。汚い、そして臭い。血の匂いが私に張り付くのは構わないが、それが全くの他人の血、というのは気味が悪い。まして何故にそのまま布団へ入ろうとするのだろうか。適当に拭いてバッタンキューされるこちらのみにもなって頂きたい。
(そういえば、髪洗う液体切れてたんだ)
まぁ彼には髪なんてないわけで、全て私が使うから、それが風呂に入らない理由にはならないが。私は倉庫の奥にある危険物置き場まで向かえば、いつもと同じ袋の液体を引っ張り出しそのまま浴室へと向かった。
どういう状況だ。
レリーから帰宅すれば玄関の鍵は開けっぱなし、浴室からリビングへ繋がる廊下には何かを垂らしたような跡、微かに鼻腔を刺激する薬品の香り、そして少なくとも1人ではない者の気配
(あの女、今度は何をやらかしたんだ)
急いでリビングへ向かえば部屋の中からはあのいけ好かない男の声とあの女の弱った声。私が扉を開ければそこにはバスタオル姿のこの女と、その後ろに夢の支配者であるフレディ・クルーガーが___
「何をしてる」
「おいおいおせぇじゃねぇの旦那さ」
「何をしていると聞いているが?」
出そうになる手が震えて落ち着かない。よく見れば彼女の長く黒かった髪は刈り上げてしまいそうなほどに短くなっていて、足元には真っ白に染まった長い毛が散らばっていた。そして先ほども嗅いだこの薬品の香り。バスタオルのまま椅子に座っていた彼女が顔をあげれば、今にもその瞳から溢れそうにしている滴が震えるように揺れていた。
「ド、どくた…」
声が出なかった。情けなく弱々しく、振り絞ったような声で私の名を呼ぶのだ。普段あれほど痛めつけようと、殺人鬼に追われようと握り拳で耐える彼女。そんな彼女が何ら理解のできないこの状況で、こんな幼気な姿になっているのだ。奥歯が擦りあってぎり、となってしまうのも仕方がない。
「あ、あの、いやほんとごめんなさい…う、その」
「落ち着け」
「う、私…違うんですほんとに…」
「いいから落ち着け」
「俺ぁもしかしていない方がいい?」
重力に耐えれなくなった大粒の涙がとうとうはらりと頬を伝う。そしてそのまま膝に置かれた握り拳にこぼれ落ちるところまで凝視すれば、何故かその手はひどく荒れたようにボロボロになっていた。手を伸ばして彼女の腕を掴み、眉間にシワがよりながらも彼女らしくない大きな掌を眺めれば茶化し声の男が溜息をついた。
「なんかよ。この近くをたまたま通ってたらこの家からとんでもない悲鳴が聞こえてさ、まさか嬢ちゃんになんかあったのかと思って駆けつけたらバスタオルのまま出てきちゃって」
「お前…」
「いやあのそれは、誤解…」
「いや聞けって。出てきたときには、もう彼女の肩から下の髪が全部真っ白だったわけよ。事情を聞いたらどうやら髪洗うやつとあんたの薬品間違えちゃったみたいでさ」
「……」
「流石に可哀想だったし髪も相応痛んだみたいだったから今切ってやってたんだよ」
「こいつへの心遣いは感謝してやるが、もう少し配慮すべきところがあっただろう」
私はそう言って自らが着ていたコートを脱いで彼女の肌を隠す。そしてそのまま彼女を抱き上げれば、腕の中で申し訳なさそうにしている生き物に目を向けた。
「本当にごめんなさい、本当にごめんなさい」
「二度も言うな」
「ひでぇよなぁ?もうちょっとお姫様扱いしてやれっての…」
「お前はもう帰れ、ここを通るってこは他所に行くつもりだろう」
早く行けと言わんばかりに視線を玄関へやる。そうすればこの男は呆れた顔をしながら消えていった。
「着ろ」
「はい…」
私は絶賛地獄の空間に配置されている。この男、確実に不機嫌だ。怒っている。未だに手がヒリヒリして渡されたシャツの布が痛く感じる。それでも彼に背を向けてバスタオルを外せば、一回りも二回りも大きいこのシャツをかぶるように着た。普段の病衣とは違う、少なくとも着やすくて軽い。ズボンいらずで楽ではあるのだが、今日はどうしてこんな珍しいものをよこしてくるのだろうか。
「なくなったと何故言わなかった」
「わざわざ言ったら怒られるかなって…」
海より深いため息がこの狭い空間に悪意を漂わせる。まぁ私海苦手なんですけど。
「その手が治るまでそっちを着てろ」
「何故です?」
「自分で考えろ」
薬品の処理が終わったのか、背を向けていた彼がこちらを向く。そしてどこか遠い目で私を見つめて片手をこちらに寄せてくれば、その手は私の後頭部を優しく撫でた。やめて。優しい手つきで、まるで何か失ったものを惜しく眺めるような、そんな様子で私を見るんだ。気持ちが悪い、けれどどこかそれが胸を揺らして軋ませて、どうしようも無い気持ちになる。
正直私もとてもショックだった。元々この髪は私が成人式のために何年もかけて伸ばしていた髪だ。この世界に来てからはそんなことを忘れていたし、希望だってないに等しいのだけれど、それでももし戻れた時にはお婆ちゃんの振袖で飾りたかった、なんて。
(今じゃもうあまりに夢の話だよね)
「短いな」
当たり前だ。短いどころの話じゃない。もうこれは、ザ・ショート。スポーツをしてた頃に戻ったような涼しさだ。あぁでも、これから先はお風呂に入った時も後も手入れが簡単になるから、この世界ではこれでよかったのかもしれない。
「似合ってる」
似合ってるかどうかは正直問題ではないのだ。少なくとも大切にしてきた髪をこういった形でなくしてしまうということが___
「は…」
「似合っている」
心臓を止めるスイッチがあるとしたら、誰か押して欲しい。急激に体内に熱がこもれば、足から地面に伝わってしまうのではなかろうかと思うほどに、私の心拍数が上がっている。この男、この状況でなんてことを言ってくれるのだろう。
私はシャツの裾を掴んで思わず一歩後ずさってしまう。ダメだ、熱い。絶対に顔に出ている。荒れた手の痛みなんて気にならないくらいには神経をこの男に持っていかれてる。
「…ふ」
「ふ…?」
「子供には刺激が強かったか」
あぁこれだ。殺人鬼の顔だ。悪意たっぷりに口角を上げて瞳に悪魔でも飼ってそうな顔が、私の反応を嗜むように近づいてくる。そう、馬鹿にされているのだ。籠る熱が一気に冷めた私は、口をへの字にして思わず睨んでしまう。痛みを思い出した手は汗のせいか血のせいなのか、裾が掌に張り付いてどうしようもない。そんな私の焦りを面白がってか、切られたことにより久々に整った前髪を彼がそっと指で掻き分ける。そして額に小さな冷たさをそっと落とせば、再び熱が上がるのもそう遅くはなかった。
「治療してやる、ついてこい」
やっぱりこいつは、私を馬鹿にしてるんだ。
(こいつの"お姫様扱い"は、お前がする仕事じゃないなずだ、フレディ)
「何かあるんで?」
視線だけが私に向けられる。質問には質問で返すことが多い彼だが、今日の彼は無言の返しを与えてきた。玄関で取り残された私はまた今日という1日がスタートするのだと溜息を吐いて朝食の片付けへ向かう。
窓から差し込む光なんてないこの世界。ただ少し薄暗い、インクのような青黒さに染まる空は一応この世界ではまだ夜ではないのだと示していた。最近の私の生活はパターン化されていて、毎朝片付けをすれば即風呂に入ること。これは彼が儀式から帰った後に風呂に入らず私を抱いて眠ってしまうのが原因だ。汚い、そして臭い。血の匂いが私に張り付くのは構わないが、それが全くの他人の血、というのは気味が悪い。まして何故にそのまま布団へ入ろうとするのだろうか。適当に拭いてバッタンキューされるこちらのみにもなって頂きたい。
(そういえば、髪洗う液体切れてたんだ)
まぁ彼には髪なんてないわけで、全て私が使うから、それが風呂に入らない理由にはならないが。私は倉庫の奥にある危険物置き場まで向かえば、いつもと同じ袋の液体を引っ張り出しそのまま浴室へと向かった。
どういう状況だ。
レリーから帰宅すれば玄関の鍵は開けっぱなし、浴室からリビングへ繋がる廊下には何かを垂らしたような跡、微かに鼻腔を刺激する薬品の香り、そして少なくとも1人ではない者の気配
(あの女、今度は何をやらかしたんだ)
急いでリビングへ向かえば部屋の中からはあのいけ好かない男の声とあの女の弱った声。私が扉を開ければそこにはバスタオル姿のこの女と、その後ろに夢の支配者であるフレディ・クルーガーが___
「何をしてる」
「おいおいおせぇじゃねぇの旦那さ」
「何をしていると聞いているが?」
出そうになる手が震えて落ち着かない。よく見れば彼女の長く黒かった髪は刈り上げてしまいそうなほどに短くなっていて、足元には真っ白に染まった長い毛が散らばっていた。そして先ほども嗅いだこの薬品の香り。バスタオルのまま椅子に座っていた彼女が顔をあげれば、今にもその瞳から溢れそうにしている滴が震えるように揺れていた。
「ド、どくた…」
声が出なかった。情けなく弱々しく、振り絞ったような声で私の名を呼ぶのだ。普段あれほど痛めつけようと、殺人鬼に追われようと握り拳で耐える彼女。そんな彼女が何ら理解のできないこの状況で、こんな幼気な姿になっているのだ。奥歯が擦りあってぎり、となってしまうのも仕方がない。
「あ、あの、いやほんとごめんなさい…う、その」
「落ち着け」
「う、私…違うんですほんとに…」
「いいから落ち着け」
「俺ぁもしかしていない方がいい?」
重力に耐えれなくなった大粒の涙がとうとうはらりと頬を伝う。そしてそのまま膝に置かれた握り拳にこぼれ落ちるところまで凝視すれば、何故かその手はひどく荒れたようにボロボロになっていた。手を伸ばして彼女の腕を掴み、眉間にシワがよりながらも彼女らしくない大きな掌を眺めれば茶化し声の男が溜息をついた。
「なんかよ。この近くをたまたま通ってたらこの家からとんでもない悲鳴が聞こえてさ、まさか嬢ちゃんになんかあったのかと思って駆けつけたらバスタオルのまま出てきちゃって」
「お前…」
「いやあのそれは、誤解…」
「いや聞けって。出てきたときには、もう彼女の肩から下の髪が全部真っ白だったわけよ。事情を聞いたらどうやら髪洗うやつとあんたの薬品間違えちゃったみたいでさ」
「……」
「流石に可哀想だったし髪も相応痛んだみたいだったから今切ってやってたんだよ」
「こいつへの心遣いは感謝してやるが、もう少し配慮すべきところがあっただろう」
私はそう言って自らが着ていたコートを脱いで彼女の肌を隠す。そしてそのまま彼女を抱き上げれば、腕の中で申し訳なさそうにしている生き物に目を向けた。
「本当にごめんなさい、本当にごめんなさい」
「二度も言うな」
「ひでぇよなぁ?もうちょっとお姫様扱いしてやれっての…」
「お前はもう帰れ、ここを通るってこは他所に行くつもりだろう」
早く行けと言わんばかりに視線を玄関へやる。そうすればこの男は呆れた顔をしながら消えていった。
「着ろ」
「はい…」
私は絶賛地獄の空間に配置されている。この男、確実に不機嫌だ。怒っている。未だに手がヒリヒリして渡されたシャツの布が痛く感じる。それでも彼に背を向けてバスタオルを外せば、一回りも二回りも大きいこのシャツをかぶるように着た。普段の病衣とは違う、少なくとも着やすくて軽い。ズボンいらずで楽ではあるのだが、今日はどうしてこんな珍しいものをよこしてくるのだろうか。
「なくなったと何故言わなかった」
「わざわざ言ったら怒られるかなって…」
海より深いため息がこの狭い空間に悪意を漂わせる。まぁ私海苦手なんですけど。
「その手が治るまでそっちを着てろ」
「何故です?」
「自分で考えろ」
薬品の処理が終わったのか、背を向けていた彼がこちらを向く。そしてどこか遠い目で私を見つめて片手をこちらに寄せてくれば、その手は私の後頭部を優しく撫でた。やめて。優しい手つきで、まるで何か失ったものを惜しく眺めるような、そんな様子で私を見るんだ。気持ちが悪い、けれどどこかそれが胸を揺らして軋ませて、どうしようも無い気持ちになる。
正直私もとてもショックだった。元々この髪は私が成人式のために何年もかけて伸ばしていた髪だ。この世界に来てからはそんなことを忘れていたし、希望だってないに等しいのだけれど、それでももし戻れた時にはお婆ちゃんの振袖で飾りたかった、なんて。
(今じゃもうあまりに夢の話だよね)
「短いな」
当たり前だ。短いどころの話じゃない。もうこれは、ザ・ショート。スポーツをしてた頃に戻ったような涼しさだ。あぁでも、これから先はお風呂に入った時も後も手入れが簡単になるから、この世界ではこれでよかったのかもしれない。
「似合ってる」
似合ってるかどうかは正直問題ではないのだ。少なくとも大切にしてきた髪をこういった形でなくしてしまうということが___
「は…」
「似合っている」
心臓を止めるスイッチがあるとしたら、誰か押して欲しい。急激に体内に熱がこもれば、足から地面に伝わってしまうのではなかろうかと思うほどに、私の心拍数が上がっている。この男、この状況でなんてことを言ってくれるのだろう。
私はシャツの裾を掴んで思わず一歩後ずさってしまう。ダメだ、熱い。絶対に顔に出ている。荒れた手の痛みなんて気にならないくらいには神経をこの男に持っていかれてる。
「…ふ」
「ふ…?」
「子供には刺激が強かったか」
あぁこれだ。殺人鬼の顔だ。悪意たっぷりに口角を上げて瞳に悪魔でも飼ってそうな顔が、私の反応を嗜むように近づいてくる。そう、馬鹿にされているのだ。籠る熱が一気に冷めた私は、口をへの字にして思わず睨んでしまう。痛みを思い出した手は汗のせいか血のせいなのか、裾が掌に張り付いてどうしようもない。そんな私の焦りを面白がってか、切られたことにより久々に整った前髪を彼がそっと指で掻き分ける。そして額に小さな冷たさをそっと落とせば、再び熱が上がるのもそう遅くはなかった。
「治療してやる、ついてこい」
やっぱりこいつは、私を馬鹿にしてるんだ。
(こいつの"お姫様扱い"は、お前がする仕事じゃないなずだ、フレディ)