悪魔と殺人鬼
名を刻もう
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「バレンタイン…」
「そう、バレンタイン!」
「バレンタイン……」
私の知っているバレンタインは、確か女性から男性へ渡すものだったはずだがどうやら最近の時代はそれが逆転しているのかもしれない。目の前で私より少し大きいビリー君は目をキラキラさせながらその手に足りるほどの袋を私に押し付けてくる。バレンタイン、まさかそんなイベントがこの世界に存在しただなんて思わなかった。ハロウィンはわかる、クリスマスも特大イベントだ、正月も分からなくもない、だがバレンタインまであるのはどうかと思う。殺人鬼がそんなことしてていいの?友チョコとやらは学生の頃に渡してきたことは何度かあったが、この世界でこのイベントが重宝されているとはとても思えない。しかも、異性から初めて貰うバレンタインがこれなのだ。ビリー君、君は天使だね?知ってたよ、私は知ってた、君は素晴らしいスウィートマイエンジェル。
「スウィートマイエンジェル…」
「ねぇ桔梗聞いてる?」
「バレンタインだよね?うん、お家上がる?」
「今日はこれからトラッパーのところにも行ってプレゼント渡さなくちゃだから…」
「ふぁっ?!」
まじかよ、神様まじかよ。確かに昔彼はここの男たちに喰われてしまうかも…なんて卑下なことを考えたことはあったが、まさか本当に彼はこの世界のアイドル的存在…?お願い、やめてほしい、勘弁してくれ、私の天使を汚さないで。
私は名残惜しそうに彼からプレゼントを受け取れば、ありがとうと言わんばかりに頬に口付けを交わし合う。いつからこんな挨拶をするようになったのだろうか、子供ながらよくこんなことを彼も知っているな、と当時は感心したものだ。悔しさと嬉しさと複雑な気持ちでせっかくもらったプレゼントを握りつぶしそうになりながら惜しい背中を見送って玄関の鍵を閉めた。
おっと待て待て、そういえば何も気にせず(気にはしていた)バレンタインだと言っていたが、バレンタイン…おっと、私が本来渡すべき立場なのに彼にもらって何もお返しせずに終わってしまったではないか。いやそもそも用意するようなものもないのだからそれは致し方ないこと…それでも、それでもあんなにかわいい天使にお返しもなしにいろとでも?あぁまずい、これは早期段階でお返しを作らなければ。
「作らなければ」
「おい」
「ああああああっ!?」
先ほどまでの天使とは違う、悪魔の声が突然頭上から聞こえるものだから私は酷く醜い声を上げてそのまま玄関に背を付けて戦闘態勢に入ってしまう。やめてください、私の天使からもらったプレゼントを、あなたは横取りしようとするんですね?
「…煩い……」
「ほんとに煩がらないでくださいよ…」
「事実だろ…それより、お前また勝手に出ただろ」
「ビリー君だってわかった上で開けました!ごめんなさい!やめて、やめてええ!」
どうやら相当私の叫び声は煩かったようで、彼の顔が至極不機嫌そうに歪んで今にも浴びせるぞと言わんばかりの電気を手から放っている。私は命乞いを込めた勢いでその場に土下座をする、せめて死ぬならこの天使からもらったものを食べてから…いや、そもそもこれ食べ物なのかな。
「わ!」
「汚ねぇ」
土下座しながら袋の中身はなんだろうかと漁ろうとした瞬間だった。髪が地面を這うように、所謂掃除機になっている己の状況が気に食わなかったのか、彼は私をそっと片腕で抱き上げて常に曲がっている眉をさらに不機嫌そうに曲げていた。気付けばもう治 っている電流に安堵しながらもビリー君からもらったプレゼントの中身をそっと見れば中には錆びついたハートのロケットペンダント。珍しい、今時こんなアンティークなものが、しかも結構ごついものが存在するだなんて。裏面を見ればそこには石か何かで本人が無理やり刻んだような、彼らしい下手な文字で私の名が刻まれている。あれ、これプロポーズ?可愛い、やばい可愛いわこれは。錆びてるとか関係ないよ。嬉しさのあまりに笑みが溢れそれを無意識に私は首につけようとした、その瞬間だった。
「やめろ」
「あーっ!」
あともう少しでつけられるというところ、抱き上げているのとは反対の手でそのペンダントを取り上げられてしまった。なんで、なんか私に恨みでもあるんか?私は必死に両手を伸ばして返して欲しいと強請った。そもそも強請るというのもおかしな話だが、一体彼は何をもって私からそれを取り上げたのだろうか。
「それはビリ」
「あいつ…分かって渡してるのか…」
「え、まさか、ほんとにプロポーズ?」
「は、阿保…いいか、これは絶対に付けずに飾っておけ。言いつけを守らないと二度と助けてやらんぞ」
返して返してと腕の中で駄々をこねる私に呆れたのか痺れを切らしたのか、少し経った頃に条件付きでそれを返してくれた彼。何故、そう聞こうとしたがどうやら彼は余程苛立っている…というか、至極複雑そうな顔をしていてとてもではないが聞くことができなかった。勿体ない、せっかく貰ったプレゼントは付けることもできずにこの男の言いなりで飾らなければならないのだ。ああ酷い、こんな奴が私の飼い主だなんて…待て待て、飼い主と認めたわけではないぞ。
玄関でこんなに油を売った私たちは彼の痺れとともにリビングへ連れて行かされる。いつになったら下ろしてくれるんですかね、と思いながら錆びれたそのロケットを見つめていれば、ドスっとソファに座る彼と未だ離してもらえない私は目を合わせる。あ、そうだ、忘れていた。お礼に何か作りたいんだった。果たして彼は許してくれるだろうか。そもそも材料があるのだろうか。ああこうなれば駄目元だ、駄目元でもいいから聞いてみる価値はあるはず。
「あの」
「…」
「おねだりしてもいいですかね」
違う違う違う、お願いだろうが、何という言葉のニュアンスの間違い。彼は驚いたように器具を外した目を見開いたが私はその様子に続けて"お願い"をした。
「えっと、チョコとか小麦とかありますかね…」
「……」
「あ!貴重、貴重なんですね!わかる、わか」
「チョコは倉庫の奥の棚にしまってある、小麦は何故かタイミングよくナースから預かっているが…なるほど」
「なるほど?」
何のなるほどですか。まぁいいか、私は彼の膝から降りて倉庫へ向かう。見える場所に小麦とその他の材料が乱雑に置いてあり、彼の言う通り奥の棚には苦そうなチョコが置いてあった。単体で食べるのは流石に辛いだろうが、お菓子の材料として使うならまだマシだろう。というか何であるの、あれか、ワインのお供として食べるとか、そんな感じですかね。
ヒルビリーのやつ、まだ餓鬼だからと置いていたが一体何を考えているんだ。
私はリビングで資料に目を通しながら机に置かれたハートのロケットに目がいく。これは私が以前渡した壊れたメガネの役割の一つ、儀式の際に彼の故郷に飛ばす一つのアイテムだ。あいつがそういう殺戮を含んだ気持ちで渡したのか、それともただのプレゼントとして女性に合うものを渡したのか、それとも彼女がいう…それはないか。とはいえこんなものをノコノコと渡された彼女も舞い上がるようにこの短期間の行事を楽しもうとするのだから、決していい気分ではない。決して…
(…私、では、ないんだ)
「あ"あぁぁっぢぃっ!?」
考える間に私はキッチンへ突っ込んで行った。我ながら驚く反射神経だ、扉を勢いよく開け叫んだ彼女に目が行けばミトンをはめたまま押さえていた片手をがっつり掴んで上にあげた。
「何をして」
「ごめんなさいごめんなさい!まさかミトン穴空いてると思ってなくて…」
掴んだ彼女の手を見ればそこには確かに変な形の穴が空いたミトン。このオーブンを使う機会がそんなになかったせいか必然とミトンを使うこともなく、そのせいかどうやらそこらの虫にでも喰われてしまった‥というところか。あったものを手探りで使ったであろう彼女はバツの悪そうな顔をして必死に謝っている。情けない姿だ。
「冷やして座ってろ」
「でも」
「あとはやってやる」
このままほっといてプレートをひっくり返されて掃除も治療も増えて困るのは誰よりも私の方なのだ。目線で行け、と合図を送れば大人しく近くの椅子に座ってしおらしくこちらにチラチラと視線を向ける彼女、私はそれを無視するように視線をオーブンへ向ければ素手でプレートを取り出し近くに用意していた器に乱暴ではあるが出来上がったクッキーまがいのものを流し入れた。彼女は今にも千切れるのではと言わんばかりに顔を歪めてプレートを素手で持つ私を嫌そうにガン見するのだが、そもそも家電熱程度ではこの皮膚にダメージを与えることはそうないだろう。そのままプレートを流しに置けば湯気を上げてその場の視界を悪化させる、私はそれを他所に視界のいい彼女の方へ向き直した。
「痛いか」
「あなたがそれ言います!?」
「叫んでおきながら口が悪いな」
彼女の頭に拳を落とせばまた情けなく叫び声をあげた桔梗は、痛みからか憎みからか私を睨むように見上げていた。減らず口で生意気で、本当に手が焼ける女だが、まぁ…悪くない。こんな退屈な世界、これくらいの何かがなければ生き甲斐もない。
痛みが治まったのかそれとも諦めたのか、彼女は小さな布の包みを2つ用意して丁寧に包装を始めだした。それを合図に私も溜息を吐いてリビングに戻れば再び資料に没頭する。その予定だった。
「ドクター」
珍しく私の名を呼ぶ彼女の手には先程包装していた包みの1つ、そして少し頬を染めた彼女は私の横に腰を下ろしてそっとそれを差し出してきた。何だ、確か彼女は、いや憶測ではヒルビリーへのお返しのために作るのだと思っていたがそれは違っていたのか、それとも余しものを私によこしにでも来たのか。
「えっと、ほんと、バレンタインとか知らなくて…ごめんなさい」
「余りか」
「あ!いや、本当は…本当に、他のものを用意するべきでした。まさかこの世界にもこのような行事が…ってか、私どの時期かも教えてもらえないので何ともいえない…」
情報量が多すぎるその言葉に少し苛立っていた心が癒されるのは何故だ。彼女の手にすっぽりと治るそれを片手で奪えばまだほんのり温かいそれを1つ、口に放り込んだ。クッキー…紛いとはいったがそれとほぼ変わらない代物だろう。普段こういった料理をしない割には悪くない出来といえる。バレンタインとは本来チョコを贈る日であったが最近はこういったものも贈る風潮があるらしい。まぁこの女のことだ、ちゃんとしたチョコなんてこの家にないのだからこういったもので代用して丸く収めようという魂胆だったのかもしれないが。
そもそも私の国ではバレンタインは男性から女性に贈るもの、用意していなかった私もどうかと思うが毎年ヒルビリーが持ってくるなにかを合図に1月後に用意するのがこの世界での習慣になっていたのは確かだった。こうもあっさりと、私たちはこの世界に慣れてしまったのだと考えれば何とも気色の悪い感覚である。
「あ、意味とか私わからないんで、気にしないでくださいね」
「…あぁ?」
そういえば、この世界に来てから…いや、前世ですらもあまり考えてないことだったが、こういったときの贈り物には一つ一つ意味があった。一般的に知られているものと、マニアックなものと。クッキーやチョコ、マシュマロは一般的に知られてはいるが、彼女はその類を理解せずに贈ったというわけだ。
意味。あぁ、そう考えると、彼女がこの意味を知って贈っていないことに、私の心は安堵できる。意味を込められてない、ただのバレンタインとしての贈り物でよかった。
クッキーを異性に贈る意味、それは。
恋人じゃなくて友達でいよう。
(彼女は決してそう思っているわけではなく、ただそれ以外用意ができない環境にいるから、それは仕方のない贈り物)
「そう、バレンタイン!」
「バレンタイン……」
私の知っているバレンタインは、確か女性から男性へ渡すものだったはずだがどうやら最近の時代はそれが逆転しているのかもしれない。目の前で私より少し大きいビリー君は目をキラキラさせながらその手に足りるほどの袋を私に押し付けてくる。バレンタイン、まさかそんなイベントがこの世界に存在しただなんて思わなかった。ハロウィンはわかる、クリスマスも特大イベントだ、正月も分からなくもない、だがバレンタインまであるのはどうかと思う。殺人鬼がそんなことしてていいの?友チョコとやらは学生の頃に渡してきたことは何度かあったが、この世界でこのイベントが重宝されているとはとても思えない。しかも、異性から初めて貰うバレンタインがこれなのだ。ビリー君、君は天使だね?知ってたよ、私は知ってた、君は素晴らしいスウィートマイエンジェル。
「スウィートマイエンジェル…」
「ねぇ桔梗聞いてる?」
「バレンタインだよね?うん、お家上がる?」
「今日はこれからトラッパーのところにも行ってプレゼント渡さなくちゃだから…」
「ふぁっ?!」
まじかよ、神様まじかよ。確かに昔彼はここの男たちに喰われてしまうかも…なんて卑下なことを考えたことはあったが、まさか本当に彼はこの世界のアイドル的存在…?お願い、やめてほしい、勘弁してくれ、私の天使を汚さないで。
私は名残惜しそうに彼からプレゼントを受け取れば、ありがとうと言わんばかりに頬に口付けを交わし合う。いつからこんな挨拶をするようになったのだろうか、子供ながらよくこんなことを彼も知っているな、と当時は感心したものだ。悔しさと嬉しさと複雑な気持ちでせっかくもらったプレゼントを握りつぶしそうになりながら惜しい背中を見送って玄関の鍵を閉めた。
おっと待て待て、そういえば何も気にせず(気にはしていた)バレンタインだと言っていたが、バレンタイン…おっと、私が本来渡すべき立場なのに彼にもらって何もお返しせずに終わってしまったではないか。いやそもそも用意するようなものもないのだからそれは致し方ないこと…それでも、それでもあんなにかわいい天使にお返しもなしにいろとでも?あぁまずい、これは早期段階でお返しを作らなければ。
「作らなければ」
「おい」
「ああああああっ!?」
先ほどまでの天使とは違う、悪魔の声が突然頭上から聞こえるものだから私は酷く醜い声を上げてそのまま玄関に背を付けて戦闘態勢に入ってしまう。やめてください、私の天使からもらったプレゼントを、あなたは横取りしようとするんですね?
「…煩い……」
「ほんとに煩がらないでくださいよ…」
「事実だろ…それより、お前また勝手に出ただろ」
「ビリー君だってわかった上で開けました!ごめんなさい!やめて、やめてええ!」
どうやら相当私の叫び声は煩かったようで、彼の顔が至極不機嫌そうに歪んで今にも浴びせるぞと言わんばかりの電気を手から放っている。私は命乞いを込めた勢いでその場に土下座をする、せめて死ぬならこの天使からもらったものを食べてから…いや、そもそもこれ食べ物なのかな。
「わ!」
「汚ねぇ」
土下座しながら袋の中身はなんだろうかと漁ろうとした瞬間だった。髪が地面を這うように、所謂掃除機になっている己の状況が気に食わなかったのか、彼は私をそっと片腕で抱き上げて常に曲がっている眉をさらに不機嫌そうに曲げていた。気付けばもう
「やめろ」
「あーっ!」
あともう少しでつけられるというところ、抱き上げているのとは反対の手でそのペンダントを取り上げられてしまった。なんで、なんか私に恨みでもあるんか?私は必死に両手を伸ばして返して欲しいと強請った。そもそも強請るというのもおかしな話だが、一体彼は何をもって私からそれを取り上げたのだろうか。
「それはビリ」
「あいつ…分かって渡してるのか…」
「え、まさか、ほんとにプロポーズ?」
「は、阿保…いいか、これは絶対に付けずに飾っておけ。言いつけを守らないと二度と助けてやらんぞ」
返して返してと腕の中で駄々をこねる私に呆れたのか痺れを切らしたのか、少し経った頃に条件付きでそれを返してくれた彼。何故、そう聞こうとしたがどうやら彼は余程苛立っている…というか、至極複雑そうな顔をしていてとてもではないが聞くことができなかった。勿体ない、せっかく貰ったプレゼントは付けることもできずにこの男の言いなりで飾らなければならないのだ。ああ酷い、こんな奴が私の飼い主だなんて…待て待て、飼い主と認めたわけではないぞ。
玄関でこんなに油を売った私たちは彼の痺れとともにリビングへ連れて行かされる。いつになったら下ろしてくれるんですかね、と思いながら錆びれたそのロケットを見つめていれば、ドスっとソファに座る彼と未だ離してもらえない私は目を合わせる。あ、そうだ、忘れていた。お礼に何か作りたいんだった。果たして彼は許してくれるだろうか。そもそも材料があるのだろうか。ああこうなれば駄目元だ、駄目元でもいいから聞いてみる価値はあるはず。
「あの」
「…」
「おねだりしてもいいですかね」
違う違う違う、お願いだろうが、何という言葉のニュアンスの間違い。彼は驚いたように器具を外した目を見開いたが私はその様子に続けて"お願い"をした。
「えっと、チョコとか小麦とかありますかね…」
「……」
「あ!貴重、貴重なんですね!わかる、わか」
「チョコは倉庫の奥の棚にしまってある、小麦は何故かタイミングよくナースから預かっているが…なるほど」
「なるほど?」
何のなるほどですか。まぁいいか、私は彼の膝から降りて倉庫へ向かう。見える場所に小麦とその他の材料が乱雑に置いてあり、彼の言う通り奥の棚には苦そうなチョコが置いてあった。単体で食べるのは流石に辛いだろうが、お菓子の材料として使うならまだマシだろう。というか何であるの、あれか、ワインのお供として食べるとか、そんな感じですかね。
ヒルビリーのやつ、まだ餓鬼だからと置いていたが一体何を考えているんだ。
私はリビングで資料に目を通しながら机に置かれたハートのロケットに目がいく。これは私が以前渡した壊れたメガネの役割の一つ、儀式の際に彼の故郷に飛ばす一つのアイテムだ。あいつがそういう殺戮を含んだ気持ちで渡したのか、それともただのプレゼントとして女性に合うものを渡したのか、それとも彼女がいう…それはないか。とはいえこんなものをノコノコと渡された彼女も舞い上がるようにこの短期間の行事を楽しもうとするのだから、決していい気分ではない。決して…
(…私、では、ないんだ)
「あ"あぁぁっぢぃっ!?」
考える間に私はキッチンへ突っ込んで行った。我ながら驚く反射神経だ、扉を勢いよく開け叫んだ彼女に目が行けばミトンをはめたまま押さえていた片手をがっつり掴んで上にあげた。
「何をして」
「ごめんなさいごめんなさい!まさかミトン穴空いてると思ってなくて…」
掴んだ彼女の手を見ればそこには確かに変な形の穴が空いたミトン。このオーブンを使う機会がそんなになかったせいか必然とミトンを使うこともなく、そのせいかどうやらそこらの虫にでも喰われてしまった‥というところか。あったものを手探りで使ったであろう彼女はバツの悪そうな顔をして必死に謝っている。情けない姿だ。
「冷やして座ってろ」
「でも」
「あとはやってやる」
このままほっといてプレートをひっくり返されて掃除も治療も増えて困るのは誰よりも私の方なのだ。目線で行け、と合図を送れば大人しく近くの椅子に座ってしおらしくこちらにチラチラと視線を向ける彼女、私はそれを無視するように視線をオーブンへ向ければ素手でプレートを取り出し近くに用意していた器に乱暴ではあるが出来上がったクッキーまがいのものを流し入れた。彼女は今にも千切れるのではと言わんばかりに顔を歪めてプレートを素手で持つ私を嫌そうにガン見するのだが、そもそも家電熱程度ではこの皮膚にダメージを与えることはそうないだろう。そのままプレートを流しに置けば湯気を上げてその場の視界を悪化させる、私はそれを他所に視界のいい彼女の方へ向き直した。
「痛いか」
「あなたがそれ言います!?」
「叫んでおきながら口が悪いな」
彼女の頭に拳を落とせばまた情けなく叫び声をあげた桔梗は、痛みからか憎みからか私を睨むように見上げていた。減らず口で生意気で、本当に手が焼ける女だが、まぁ…悪くない。こんな退屈な世界、これくらいの何かがなければ生き甲斐もない。
痛みが治まったのかそれとも諦めたのか、彼女は小さな布の包みを2つ用意して丁寧に包装を始めだした。それを合図に私も溜息を吐いてリビングに戻れば再び資料に没頭する。その予定だった。
「ドクター」
珍しく私の名を呼ぶ彼女の手には先程包装していた包みの1つ、そして少し頬を染めた彼女は私の横に腰を下ろしてそっとそれを差し出してきた。何だ、確か彼女は、いや憶測ではヒルビリーへのお返しのために作るのだと思っていたがそれは違っていたのか、それとも余しものを私によこしにでも来たのか。
「えっと、ほんと、バレンタインとか知らなくて…ごめんなさい」
「余りか」
「あ!いや、本当は…本当に、他のものを用意するべきでした。まさかこの世界にもこのような行事が…ってか、私どの時期かも教えてもらえないので何ともいえない…」
情報量が多すぎるその言葉に少し苛立っていた心が癒されるのは何故だ。彼女の手にすっぽりと治るそれを片手で奪えばまだほんのり温かいそれを1つ、口に放り込んだ。クッキー…紛いとはいったがそれとほぼ変わらない代物だろう。普段こういった料理をしない割には悪くない出来といえる。バレンタインとは本来チョコを贈る日であったが最近はこういったものも贈る風潮があるらしい。まぁこの女のことだ、ちゃんとしたチョコなんてこの家にないのだからこういったもので代用して丸く収めようという魂胆だったのかもしれないが。
そもそも私の国ではバレンタインは男性から女性に贈るもの、用意していなかった私もどうかと思うが毎年ヒルビリーが持ってくるなにかを合図に1月後に用意するのがこの世界での習慣になっていたのは確かだった。こうもあっさりと、私たちはこの世界に慣れてしまったのだと考えれば何とも気色の悪い感覚である。
「あ、意味とか私わからないんで、気にしないでくださいね」
「…あぁ?」
そういえば、この世界に来てから…いや、前世ですらもあまり考えてないことだったが、こういったときの贈り物には一つ一つ意味があった。一般的に知られているものと、マニアックなものと。クッキーやチョコ、マシュマロは一般的に知られてはいるが、彼女はその類を理解せずに贈ったというわけだ。
意味。あぁ、そう考えると、彼女がこの意味を知って贈っていないことに、私の心は安堵できる。意味を込められてない、ただのバレンタインとしての贈り物でよかった。
クッキーを異性に贈る意味、それは。
恋人じゃなくて友達でいよう。
(彼女は決してそう思っているわけではなく、ただそれ以外用意ができない環境にいるから、それは仕方のない贈り物)