悪魔と殺人鬼
名を刻もう
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「ダメだ」
「はぁ?」
「お前は黒いコマだから黒いマスにクイーンを置け」
「配置同じ様に置けって言っ」
「置け」
私はひたすら後悔している。何故もっと早く気づかなかったのだろうか、こんな男に"やりたい"なんて言った過去の自分を殺してやりたい。
遡ることもない、数分前のことだ。
お嫁さんが早上がりで帰宅したせいでいつもより暇な時間が増えた私は、まだ終わっていない夕方の診察を退屈そうに待っていた。いつも通り診察だ、と一言添えて入って来たこの男はせっせと要件を終わらせカルテルと向き合う。お前毎日それ書いてるけど今の私に書くことってありますか、毎日何かしら少しでも変化してますか。私にはもう変化のかけらすら見つけられないですよ。
私はそんなくだらないことを考えながらその様子をぼーっと見つめる。彼がカルテルをしまおうと机の引き出しを引いた時、カラカラとガラクタが暴れる音が聞こえたのを私は逃さなかった。引き出しがボロいとか、そういう感じの音ではない。子供の頃におもちゃ箱に入れた沢山の宝物が鳴いている、そんな興味がそそられる音。
「それ何」
「チェスだ」
「かっこよ」
素直にそう思った。チェスなんて私の様な人間が手を出すものではない、もっとアニメの世界で見てきたお偉いさん同士の暇つぶしに使うゲームみたいなもの。ルールなんて勿論知らないが、私はそれに興味があった。いや、誰だってチェスなんて聞けばやってるだけでかっこいいと思うし羨ましいと思うに決まっている。
「やりたい」
「経験は」
「ない」
「却下」
「と言いたいが少しだけだぞ」
「ですよねー…え?」
彼はカルテルを机に入れその代わりに白黒マス目のボードといくつかの白黒の駒を出してきた。そこまで私が暇そうに見えたのか、それとも私なんかの相手をするほど彼が暇なのか。椅子をベッドまで寄せて掛けていた布団を剥がされれば、私の足元にボードを置いて駒を散らばらせる。どうやら本気らしい。いや別にここまできて本気でないとは思っていないが、それでも私の言葉に付き合ってくれようとしているのが何故か良い気分だった。
が、そう思えたのはたった数分の幸せだと後に知る。
あれから地獄のような説明が待っていた。手前から二列目に同じ駒を全て置き一番手前の列に彼の言った順に駒を置いていくのだが、これがまたわかりにくくて面倒臭い。今は最後の駒を置くところなのだが、かれこれこの駒を並べる作業で20分は食っている。下手したら1試合終わっているレベルだ、論外すぎる。
「勝利条件は相手のキングをチェックメイトすること、将棋というボードゲームと少し似ている」
「まじか簡単だな」
「お前からやれ」
私は二列目に存在するポーンという駒を一つ手に取り彼のキングにごつりと置く。駒の動かし方がわからないが専攻さえ取れれば楽勝なゲームだと私は口角を上げたが、0.5秒後にはその口角は下がり薄気味悪く笑っていたのは彼の方だった。知っている、これは怒っているのだ。彼は私の頭を片手でわし掴みしてミシミシと潰そうとしてきた、痛すぎる。
「死、ぬ」
「駒の動かし方がわからないなら聞け」
「いや、死ぬ」
「ポーンは動かす時は前方1マスのみ、相手の駒を取る時は斜め1ますのみだ」
頼む、冷静に説明するのは後にして今すぐ手を離してくれ。私の今にも死にそうな顔に気付いたのか、それとも満足いくまでやったのか、彼は説明後その手を離してくれた。いや本当に死ぬ、絶対頭の骨にヒビ入ってるよ、医者に見てもらわねば。彼はドクターと呼ばれてはいるがこんなやつはヤブ医者だ、病人増やして金をもぎ取ってるだけのやつだ。くう、もっと平和な生き方がしたかった、頭の痛みが消えない。
「チートを使うな」
「いやただのルール違反です」
「わかっていてやったのか」
「めっそうもございません」
私は先ほど動かした駒を渋々元の位置に戻し、彼の言った通り前方へ1マスだけ動かす。彼も同じように自分の駒を一つ動かして、それから互いにターンを交えた。
いや何が交えただ、よく考えてほしい。そもそも何も知らない底辺な私と医者並みに頭が良い彼が二人きりで頭脳戦のゲームをして何が楽しいんだ。負け確定の盤面で私はこの男にボコボコにされろというのか。そんなクソみたいな勝利で私に勝って彼は楽しいのか、もし楽しいとしたらお頭が相当雑魚だぞ。負けても勝った気分になっちゃうぞ。自分でやりたいと言ったくせに後から文句垂れるのはおかしなことかもしれないが、私は今ならそう思えるぞ。
「これは」
「それは縦か横2マスとプラスで垂直に1マスだ」
「へ?」
「L字に動かせると思え」
「難しいです先生」
甘ったれるな、彼はそういいながらも指先で動きを教えてくれる。優しいんだか鬼畜なんだかどちらかにしてほしい。さっきはあんなに私の命をあの世すれすれまで持って行きながらも、今はこんなにも丁寧に教えてくれるのだ。飴と鞭の使い方が下手なのかうまいのかよくわからない。でも、案外この平和で畜生な時間も悪くないと思ってしまう自分は、きっと彼に洗脳されているんだ。
あれからどれだけ時間が経っただろうか。普通に試合をするよりもずっと長く、もはや勝つための試合ではなくなっているこのゲームはいつまで続くのだろうか。1つ1つの駒の動き方を忘れるたびに彼は丁寧に教えてくれて、でも勝負には真剣になって相手をしてくれる。私はそれに応えたくて頑張って覚えているんだけど、どうしてもこのルールを一度に覚えることができない。
「はぁ」
「疲れたか」
「いや、なんか流石に申し訳ないなと」
まさにその通りである。ここまで丁寧に教えてくれているのに、私は全てを覚えることができないのだ。まさか、私はここまでバカではないと思っていたがこんなにルールを覚えられないのは悔しくて堪らない。この男だって暇ではないだろう、今日はお嫁さんが早上がりしたのを理解して哀れだと思いながら私の相手を"渋々"しているのだ。こんなことを彼に思いたくはないが、彼があまりに報われなさすぎる。理解者同士でゲームをしている方がずっと楽しいはずなのにわざと苦行を強いられているのだ。
私は頑張ってやっと手に入れた相手の駒を一つ握り惜しくも眉を歪めた。勝てないとかそういう気持ちではなく。いや、勝てないとすれば自分に勝てないのだ。こんなにつまらない戦いをさせてしまったのが、ゲーム好きの私からすれば本当に申し訳ないと思ってしまう。
「おい」
「なんですか」
「クイーンはどう動く」
「えっと、縦横斜めを無限に動かせます」
「ならさっさとしろ」
彼は私の考えなんてどうでも良さそうに私の駒を指差してきた。なんだ、これ以上惨めな試合を続けろというのか。本当に嫌味な男だ。でも彼はこういう男だ、この野郎。
「何を勘違いしてる、斜めに動かせるなら私のキングが取れるだろう」
指を指していた駒は私のクイーンで、その斜め先には彼のキングが存在する。つまりはそういうことだ。
だがどうして?彼が手加減をするはずがない、哀れだと思っても勝負事に手を抜くような相手でもない。私とてこんな勝ちをもらってもなんの嬉しさもない、ただ余計に悔しいだけ。もしわざとだとすれば、彼はそれをわかっているのだろうか。
「私が人間を相手したのはずいぶん昔だ」
「負ける理由になりませんよ」
「私はするのは得意だが教えるのは苦手だ」
「だから」
「理解しろ」
そうは言われても理解できないのだ、私はただ黙って俯いてそれを示そうとした。
彼は私の手の中にあった駒を取り試合の終了を意味するように片付けを始める、なんとも言えない気持ちが私を乱した。確かに初めてのチェスで勝てるのは嬉しいことかもしれない、けれど私は全力でやってほしかった。それが私が元いた世界の、自分のあるべき姿だったから。スポーツだってどんな相手でも本気で頑張ったように、どんな場面でも相手には対等と思われたかった。自分の我儘でしかないがこれはある意味癖みたいなもので、どうしようもない悔しさが私の不満を増やした。
「どう解釈しようが勝手だが」
「悔しいです」
「悪くないと思ったがな久々にいい時間だと思えた」
お前にしては珍しい、と悔しそうにしていた私の頭を彼はその手で崩してきた。らしくないことをした彼の顔はこちらを向いてはいなかったが、何処か困っている様子なのは確かで余計に申し訳なく感じる。そういう顔をさせたかったわけでもないし、気を遣わせたかったわけでもない。ただ本当に、私と遊んでくれたことに少しの幸せを感じていたかっただけ、なのに。ごめんなさい。
(この女に教えながらだと、自分のプレイに集中できんな)
こんな空気、消したい。
「はぁ?」
「お前は黒いコマだから黒いマスにクイーンを置け」
「配置同じ様に置けって言っ」
「置け」
私はひたすら後悔している。何故もっと早く気づかなかったのだろうか、こんな男に"やりたい"なんて言った過去の自分を殺してやりたい。
遡ることもない、数分前のことだ。
お嫁さんが早上がりで帰宅したせいでいつもより暇な時間が増えた私は、まだ終わっていない夕方の診察を退屈そうに待っていた。いつも通り診察だ、と一言添えて入って来たこの男はせっせと要件を終わらせカルテルと向き合う。お前毎日それ書いてるけど今の私に書くことってありますか、毎日何かしら少しでも変化してますか。私にはもう変化のかけらすら見つけられないですよ。
私はそんなくだらないことを考えながらその様子をぼーっと見つめる。彼がカルテルをしまおうと机の引き出しを引いた時、カラカラとガラクタが暴れる音が聞こえたのを私は逃さなかった。引き出しがボロいとか、そういう感じの音ではない。子供の頃におもちゃ箱に入れた沢山の宝物が鳴いている、そんな興味がそそられる音。
「それ何」
「チェスだ」
「かっこよ」
素直にそう思った。チェスなんて私の様な人間が手を出すものではない、もっとアニメの世界で見てきたお偉いさん同士の暇つぶしに使うゲームみたいなもの。ルールなんて勿論知らないが、私はそれに興味があった。いや、誰だってチェスなんて聞けばやってるだけでかっこいいと思うし羨ましいと思うに決まっている。
「やりたい」
「経験は」
「ない」
「却下」
「と言いたいが少しだけだぞ」
「ですよねー…え?」
彼はカルテルを机に入れその代わりに白黒マス目のボードといくつかの白黒の駒を出してきた。そこまで私が暇そうに見えたのか、それとも私なんかの相手をするほど彼が暇なのか。椅子をベッドまで寄せて掛けていた布団を剥がされれば、私の足元にボードを置いて駒を散らばらせる。どうやら本気らしい。いや別にここまできて本気でないとは思っていないが、それでも私の言葉に付き合ってくれようとしているのが何故か良い気分だった。
が、そう思えたのはたった数分の幸せだと後に知る。
あれから地獄のような説明が待っていた。手前から二列目に同じ駒を全て置き一番手前の列に彼の言った順に駒を置いていくのだが、これがまたわかりにくくて面倒臭い。今は最後の駒を置くところなのだが、かれこれこの駒を並べる作業で20分は食っている。下手したら1試合終わっているレベルだ、論外すぎる。
「勝利条件は相手のキングをチェックメイトすること、将棋というボードゲームと少し似ている」
「まじか簡単だな」
「お前からやれ」
私は二列目に存在するポーンという駒を一つ手に取り彼のキングにごつりと置く。駒の動かし方がわからないが専攻さえ取れれば楽勝なゲームだと私は口角を上げたが、0.5秒後にはその口角は下がり薄気味悪く笑っていたのは彼の方だった。知っている、これは怒っているのだ。彼は私の頭を片手でわし掴みしてミシミシと潰そうとしてきた、痛すぎる。
「死、ぬ」
「駒の動かし方がわからないなら聞け」
「いや、死ぬ」
「ポーンは動かす時は前方1マスのみ、相手の駒を取る時は斜め1ますのみだ」
頼む、冷静に説明するのは後にして今すぐ手を離してくれ。私の今にも死にそうな顔に気付いたのか、それとも満足いくまでやったのか、彼は説明後その手を離してくれた。いや本当に死ぬ、絶対頭の骨にヒビ入ってるよ、医者に見てもらわねば。彼はドクターと呼ばれてはいるがこんなやつはヤブ医者だ、病人増やして金をもぎ取ってるだけのやつだ。くう、もっと平和な生き方がしたかった、頭の痛みが消えない。
「チートを使うな」
「いやただのルール違反です」
「わかっていてやったのか」
「めっそうもございません」
私は先ほど動かした駒を渋々元の位置に戻し、彼の言った通り前方へ1マスだけ動かす。彼も同じように自分の駒を一つ動かして、それから互いにターンを交えた。
いや何が交えただ、よく考えてほしい。そもそも何も知らない底辺な私と医者並みに頭が良い彼が二人きりで頭脳戦のゲームをして何が楽しいんだ。負け確定の盤面で私はこの男にボコボコにされろというのか。そんなクソみたいな勝利で私に勝って彼は楽しいのか、もし楽しいとしたらお頭が相当雑魚だぞ。負けても勝った気分になっちゃうぞ。自分でやりたいと言ったくせに後から文句垂れるのはおかしなことかもしれないが、私は今ならそう思えるぞ。
「これは」
「それは縦か横2マスとプラスで垂直に1マスだ」
「へ?」
「L字に動かせると思え」
「難しいです先生」
甘ったれるな、彼はそういいながらも指先で動きを教えてくれる。優しいんだか鬼畜なんだかどちらかにしてほしい。さっきはあんなに私の命をあの世すれすれまで持って行きながらも、今はこんなにも丁寧に教えてくれるのだ。飴と鞭の使い方が下手なのかうまいのかよくわからない。でも、案外この平和で畜生な時間も悪くないと思ってしまう自分は、きっと彼に洗脳されているんだ。
あれからどれだけ時間が経っただろうか。普通に試合をするよりもずっと長く、もはや勝つための試合ではなくなっているこのゲームはいつまで続くのだろうか。1つ1つの駒の動き方を忘れるたびに彼は丁寧に教えてくれて、でも勝負には真剣になって相手をしてくれる。私はそれに応えたくて頑張って覚えているんだけど、どうしてもこのルールを一度に覚えることができない。
「はぁ」
「疲れたか」
「いや、なんか流石に申し訳ないなと」
まさにその通りである。ここまで丁寧に教えてくれているのに、私は全てを覚えることができないのだ。まさか、私はここまでバカではないと思っていたがこんなにルールを覚えられないのは悔しくて堪らない。この男だって暇ではないだろう、今日はお嫁さんが早上がりしたのを理解して哀れだと思いながら私の相手を"渋々"しているのだ。こんなことを彼に思いたくはないが、彼があまりに報われなさすぎる。理解者同士でゲームをしている方がずっと楽しいはずなのにわざと苦行を強いられているのだ。
私は頑張ってやっと手に入れた相手の駒を一つ握り惜しくも眉を歪めた。勝てないとかそういう気持ちではなく。いや、勝てないとすれば自分に勝てないのだ。こんなにつまらない戦いをさせてしまったのが、ゲーム好きの私からすれば本当に申し訳ないと思ってしまう。
「おい」
「なんですか」
「クイーンはどう動く」
「えっと、縦横斜めを無限に動かせます」
「ならさっさとしろ」
彼は私の考えなんてどうでも良さそうに私の駒を指差してきた。なんだ、これ以上惨めな試合を続けろというのか。本当に嫌味な男だ。でも彼はこういう男だ、この野郎。
「何を勘違いしてる、斜めに動かせるなら私のキングが取れるだろう」
指を指していた駒は私のクイーンで、その斜め先には彼のキングが存在する。つまりはそういうことだ。
だがどうして?彼が手加減をするはずがない、哀れだと思っても勝負事に手を抜くような相手でもない。私とてこんな勝ちをもらってもなんの嬉しさもない、ただ余計に悔しいだけ。もしわざとだとすれば、彼はそれをわかっているのだろうか。
「私が人間を相手したのはずいぶん昔だ」
「負ける理由になりませんよ」
「私はするのは得意だが教えるのは苦手だ」
「だから」
「理解しろ」
そうは言われても理解できないのだ、私はただ黙って俯いてそれを示そうとした。
彼は私の手の中にあった駒を取り試合の終了を意味するように片付けを始める、なんとも言えない気持ちが私を乱した。確かに初めてのチェスで勝てるのは嬉しいことかもしれない、けれど私は全力でやってほしかった。それが私が元いた世界の、自分のあるべき姿だったから。スポーツだってどんな相手でも本気で頑張ったように、どんな場面でも相手には対等と思われたかった。自分の我儘でしかないがこれはある意味癖みたいなもので、どうしようもない悔しさが私の不満を増やした。
「どう解釈しようが勝手だが」
「悔しいです」
「悪くないと思ったがな久々にいい時間だと思えた」
お前にしては珍しい、と悔しそうにしていた私の頭を彼はその手で崩してきた。らしくないことをした彼の顔はこちらを向いてはいなかったが、何処か困っている様子なのは確かで余計に申し訳なく感じる。そういう顔をさせたかったわけでもないし、気を遣わせたかったわけでもない。ただ本当に、私と遊んでくれたことに少しの幸せを感じていたかっただけ、なのに。ごめんなさい。
(この女に教えながらだと、自分のプレイに集中できんな)
こんな空気、消したい。