悪魔と殺人鬼
名を刻もう
ご利用の端末、あるいはブラウザ設定では夢小説機能をご利用になることができません。
古いスマートフォン端末や、一部ブラウザのプライベートブラウジング機能をご利用の際は、機能に制限が掛かることがございます。
別に目的なんてなかった。今更帰れる希望もないのなら、このまま私はあの男に飼われ死んでも構わない。痛いことは嫌いだ、苦しいことも、たまに伝わるビリビリとした静電気も。それでも私に選択の余地がないのなら、このまま彼に飼われても問題がないと思う。
実験の材料にされるとしたら、私はひとつだけ願いを聞いてもらいたい。痛みを感じず、記憶の全て無くして欲しい、と。覚えていたくないものは忘れた方が楽で、覚えていたいものは残れば残るほど自分が生きたいと感じてしまうから。だからその全てを無くしてくれることを約束してくれるなら私はもう、実験に抵抗することはないと思う。自分の欲しいものが手に入らないなら、それを残しても頑張っても仕方がない気がする。
そう思う私には一点の矛盾がある、私は死にたくはないのだ。今こそ打ち解け合ったシェイプさんに当時殺されそうになった時は、必死に生きなければと自分に言い聞かせた。ここで諦めたら本当に全てが終わってしまう、あの男に会うことも、他の殺人鬼達に会うこともできない。なんなら微かな可能性でも元の世界に戻れるとするなら、それすらも叶わなくなるのだ。自分の心は死んでもいいのに、私は肉体的に生きたいと思っている。それは少し矛盾している気がするのだ。心が死んだとすれば肉体的に生きたいと願う私が消え、今の私のこの迷いも、力も希望も、その全てがなくなる。そんな状態で果たして肉体が生きていられるのか、なんて保証はないのだ。もしその望み通りになったとしたら、あの男との記憶も、出会った時のことも、全てなくなるのに…
「なんで私、あの人のことばかり」
施設に響く私の声はモニターの笑い声に掻き消される。リハビリをしながら一人通路を歩けばこんなくだらないことを考えているのだ、自分が弱くちっぽけに感じ情けなくなる。希望がないに等しいのに、どこかあると思い続け、生きなければならないと思いながらも、全てを捨ててもいいと思っている。それは自分勝手だけではなく、もしあの男がそれを望むならそれは私にはどうすることもできないという、所謂絶望と変わらない。
ただ憎いのは私の中の軸の殆どがあの男になっていること、ドクターと呼ばれるその男は私をこの先どう実験するのだろうか。それに興味があったのは少し前の話で、今は正直どうでもよくなっていた。抵抗しても何を言っても全てあの男が決め行動に移すのだから、私はそこにいるだけの存在。つまり彼のいう通り、本当にモルモットなのだ。
「ねえ、君ならなんて言ったのかな」
夢の中の私に問いかけるも、ここは現実。答えなんて返ってこないし、返ってきたところでまともな意見は聞けないだろう。ああ辛辣な世界だ、この私がこーんなに頑張っているのに希望の"希"の字も見つからないんだもの。私は髪を擽る風に乗せるようにため息を吐いて再び歩き出そうとした。
おかしいな、この施設でここまで強い風に当たったことはない。私の病衣をめくるほどの強い風は私の右頬にべちべちと当たっている。なんだ、とうとうこの施設も壊れてしまったのか、それとも化学反応でも起きているのだろうか。
【おいで】
不思議な声だった。どこか燻んだ、しかし強く悲しい声。その声の先は風が雪崩れ込む扉の奥から聞こえる。
初めて見た、いつも閉ざされている冷たい扉が、堂々と開いているその姿。惹かれるように足がそちらに向く。ここを出れば彼に殺されるかもしれない、お嫁さんを心配させてしまうかもしれない、誰かが私に何かを思うかもしれない。
それでもこの足が止まらない、声の主が誰かも気になって頭が洗脳されそうになる。気持ち悪い、でもあなたが誰か知りたい。
私は勢いで走り出した、ただひたすらに続く闇のような荒地を永遠と感じながら。ああこんなに走ったらあの人に怒られる、そんなことを今考えてたところでこの足は止まってくれやしない。
「誰!」
自然と声が出てこの先にいるであろう誰かに語りかける。息が切れそうになり心臓がミシミシと悲鳴をあげながらも、私は走り続けた。もしあなたが他の殺人鬼達の言うエンティティだとすれば、私はあなたに質問したい。なぜ私をここに、何が目的で。この先私に希望は、私をなぜあの男に、ああたくさん、もっともっと。
【おいで】
その声に辿り着きたくて、永遠と続く闇の先に手を伸ばした。無理だ、何もない。でも確かにこの先から声がして、私が求めていたものが手に入りそうで。あれ、でもどうしてだろう…心が痛い。
(ドクター…)
振り返った。ここで振り返るのは、例えるなら誰かに見送りをしてもらっている時くらいだろう。決して誰かが私の見送りをしてくれたわけでもない、ただ心にあの男の影が見えたから不安になって振り返ったのだ。
怖かった、あれだけ走ったはずなのに、少し後ろにはあの建物があるのだ。そんなはずがない。いくら鈍くなっているとは言え私がこんな極端に距離感を間違えることはない。なのになぜ。
【おいで】
嫌だ、行きたくない。
この声の主が怖いわけではない。
離れないんだ…あの男が、私の頭から。さっきからずっとチラチラと頭に映り込んで、邪魔をしている。私を呼んでいるわけでもないのに、私は望まれていないのに、私はあの場所へ帰りたいのだ。気持ち悪い、なんで、なんであんなところに。
「ごめんね」
【どうして】
「あの人が待っている」
【本当に?】
「待ってくれていると信じている」
確信なんてない、なんならそんなこと思ってない。ただ帰りたいのは私なのだ。あの男にどう思われようと。理由なんてわからない、ただそう思う自分が存在するだけで。
「ごめん」
誰に対する謝罪でもない、ただ謝らなければならない気がしてならなかった。私はそのまま歩いて踵を返し、少し先の施設を目指した。
それからはあの声が聞こえない。エンティティだったのか他の誰かだったのかわからないけれど、今はもういいや。
「帰ろう、あなたが望まなくても、今の私にはそこしかない」
怒られてもいい、バレたら私が悪いのだから。だから、私をそこにおいて欲しい。
捨てないで。