。長編のお話。
私は家庭環境に恵まれていなかった。
学校はそれなりに楽しい。それなりだけれど。
家では常に両親は喧嘩を繰り返し、激怒した父は家を荒らし、ヒステリックを起こした母は奇声を発しながら泣き続ける。
そのせいでご近所からは疎まれ、警察を呼ばれたこともある。
そんな環境にいた私は時が経つにつれて両親を止めることを諦め、ただただ苦痛な時間を過ごしていた。
高校に上がるころには家にいたくなくて目的もなく街をさ迷い歩いた。
幸せそうに歩く家族、笑顔の絶えないカップル、プレゼントの袋を抱えた男性、楽しそうに通話をしながら帰路に就く様子の同い年くらいの女の子。
視界に入る人たちすべてが私には輝いて見えて、意味もなく私は目を細めた。
『……あんな輝くこと、私にはないんだろうな』
ぽつりとつぶやいた私の声は誰に届くわけでもなく街の中に消えていった。
街に背を向けて自分の現実が待つ家の方へと歩き出す。
今の時間から家に帰ったら母親に怒られるだろうな、と頭の中で考えながら重い足取りで歩き出す。
チリン
ふと綺麗な鈴の音色が聞こえた。
顔を上げる。
チリン
「にゃあー」
『………猫?』
鈴の音の正体は夜の闇に溶け込んだ黒色の猫だった。
こちらを向いて一鳴きすると金色の瞳と目があう。
不吉の象徴でもあるその黒猫。
『……えっ?』
ぐらり、と私の視界が揺れる。
全身から力が抜けて後ろに倒れる感覚。
と、同時に私は暗闇に包まれた。
『………』
重い瞼を無理やり開ける。
頭の中がグラグラする感覚。しばらく焦点が合わずにただ眩しい視界を遮るように腕で目を覆うと少しずつ意識がハッキリしてきた。
『……私、家に帰る途中じゃなかった…?』
意識がハッキリしてくると記憶もよみがえってきた。
腕をどかして周りを見渡す。
見たこともない景色がそこには広がっていた。
中世のような装飾や家具、日本ではとても見たことないようなコンセプトの部屋のベッドに寝ていた。
『…は?スタジオか何か…?』
不安が胸に広がる。
誘拐?拉致?
連想される予想に身体が震えた。
とりあえず窓はあるし、変に鉄格子とかもつけられていない。
ふらふらする足取りで窓に近づいて外を見てみる。
外は自然に囲まれたなんとも和やかな風景が広がっている。手入れされている庭に、畑のようなものも見える。
『…本当、どこなのここは……夜だったはず…』
意識を失っていた時間がそれほど長かったのだろうか。
鍵らしきものに手を伸ばして開けてみる。
簡単に窓は開き、脱出の手段は確認できた。
後ろを振り返って部屋の入り口を見ると足音と話し声が聞こえてきた。
『…っやば、誘拐犯がこっちに向かってきてる……』
恐怖で身体が強張る。焦って窓の淵によじ登り、窓を開け放つ。
幸い1階だったため少し壁は高いが着地はできそうだった。
「主様が現れてくださって本当に良かった。起きられたらすぐにおもてなしを……って主様?!」
『…っ』
扉が開かれ、現れた人物と目が合う。
反射的に窓から飛び降りる。目をつむって膝から着地をすると、膝に痛みが走った。
『…と、とりあえず…逃げなきゃ…』
広大に広がる庭らしきところへ走り出す。
後ろから男の声が聞こえるが、かまわず走り続けた。
『白い髪の人なんて…絶対になんかやばい撮影するようなところじゃん……!』
もし誘拐犯が危ない撮影をするような人たちであれば私は暴行ややばい撮影をさせられるかもしれない。
想像しただけでも身震いがする。
『……はぁ……はぁっ……』
運動がもともとそんなに得意ではない私は庭を抜けることすら叶わなかった。
庭木に身を隠すように座り込むと肩で息をしながら暴れる心臓を落ち着かせる。
周りを確認するも出口が見つからない。玄関口すらもわからない。
「主様!」
『…?!こ、来ないで!!!!何が目的なの?!』
駆け寄ってくる男に慌てて立ち上がって声を張り上げる。
見つかるのが予想よりもはるかに早く、必死に突破方法を考える。
いつでも走り出せるように少しずつ後ろへ下がる。
「申し訳ございません、主様。困惑されていますよね…私は主様に危害を加えるつもりはございません」
『ゆ、誘拐犯はそうやってだますんだから…!』
「ここがどこなのか、主様はなぜここに来たのか…すべてご説明いたします。温かいお食事もご用意しておりますので一度お屋敷へ戻りましょう」
お屋敷という言葉でチラ、と走ってきた方向を見た。見たこともない大きさの建物。古そうに見えるがその圧倒的な存在感に目を奪われる。
目の前の男…白髪に黒色が混じり、一部ピンクのメッシュ。かしこまったような正装には独特なデザインがされている。
「まずは私の自己紹介をしましょうか。私はベリアン・クライアン。この屋敷、デビルスパレスの悪魔執事のひとり。お気軽にベリアンとお呼びください主様」
『…デビルスパレス…?悪魔、執事……?』
聞きなれない単語に眉をしかめる。
これも撮影の設定か何か…?
ベリアンという男は下がり眉を一層下げながら少しだけ私に微笑んだ。敵対心は最初から感じられないが、警戒は解かないに限る。
「ベリアンさーん!」
「…おや。ロノくんですね…」
『………』
「主様は見つかりました?…あ!起きたんすね!主様!腹は空いてねぇか?」
「ロノくん、今主様は混乱しているのであまり質問攻めにしないでくださいね」
「あ…すまねぇ…嬉しくってつい…」
突如現れた第二の男。ツンツンはねた金髪に楽観的な性格。口調は少し悪そうな第一印象。
『…』
警戒心MAXな私の様子を見たふたりめの男は少し不思議そうにしてからニカッと笑った。
状況が飲めてないのかただ楽観的なのか。
「大丈夫っすよ主様!ここの奴らはみんないい奴です!主様を傷つけるような奴は俺が怒ってやるしよ!!」
「こらロノくん、言葉遣いは気を付けてくださいね。私達の大切な主様ですよ」
「は、はい…敬語って慣れねーなぁ」
「でも、ロノくんの言う通りです主様。私たちは主様の味方です」
ふたりの視線に少したじろぐ。
嘘偽りのないその視線に警戒心が揺さぶられる。
『……ほ、本当に…?』
「はい、約束いたします」
私の問いかけに優しく微笑むベリアン。
突然知らない場所へときたことに対するこの不安から本当はベリアンを言葉を素直に信じたかった自分もいた。
「まだ私達のことを信頼できなくても仕方がありません。私たちは主様に信頼してもらえるその時まで待ち続けますので…主様のペースで良いですからね」
手を差し伸べる彼の手に、自分の手を重ねた。
この時から私の生活は、予想もしない変化が起こる。
「今日は盛大に作ったんだぜ!絶対に美味いから食えるだけ食ってくれ主様!」
「ロノくん、言葉遣い、ですよ」
「す、すみません…主様、ぜひ召し上がってください」
屋敷の中へと戻ってきた私たちはリビングのような大部屋へと案内された。
そこには豪華な料理が何品も皿に盛られ長いテーブルの3分の1ほどを埋めていた。
見たことのある料理もあれば、見たこともない料理も混ざっているが、ひとつ言えるのはこんなにも料理はあるのにその中に和食はなかった。
「さ、主様。こちらにお掛けください」
『あっ…うん』
ベリアンと手を繋いでいたことを忘れていた私は恥ずかしくなってささっと手を引っ込めた。
そんな私の様子を見て小さく笑ったベリアンはひとつの椅子を引いて私を促した。
言われるがままに腰を掛けると、まるで高級レストランかのように目の前に皿やナイフ、フォークが並べられ、そばに水入りのコップが用意された。
『…わ、私、マナーとかわかんないんだけど……』
「大丈夫ですよ、マナーなど気にせずにご自由にお食事をしてください」
「ベリアンさん、俺らがいると主様も食べづらいだろうから俺はバスティンの飯を作ってきます!」
「そうですね。ふふ、今日は特別な日なのでバスティンくんにはたくさんご飯を食べさせてあげてくださいね」
「はい!では、主様。これからよろしくお願いしますね!」
『え…?』
ニカッと笑うとロノと呼ばれた男はキッチンらしき部屋に行ってしまった。
ベリアンと取り残され、少し気まずいながらも目の前から漂う美味しい料理の匂いにお腹が催促するように鳴った。
『…いただきます』
「ふふ、ごゆっくり召し上がってください」
スプーンを手に取ってスープを一口飲む。
温かいスープが喉に通って胃が温まるのを感じる。コンビニのスープとはまるで違うこの暖かさが、人の手料理なのだと実感する。
『…美味しい』
スープをある程度飲んで他の料理を見渡す。
美味しそうな料理の皿に手を伸ばそうとすると後ろで控えていたベリアンの腕が隣から伸びてきた。
「主様、お気軽に私に申し付けてくださいね。可愛らしいお洋服が汚れてしまっては残念ですので」
『あ、ありがとう』
そのあとから私が違う料理の皿を見るタイミングを絶妙に当てて声をかけてくれるベリアンに驚きつつもお腹がパンパンになるまでご飯を食べた。
こんなにも満足するご飯はいつぶりだろうか、もしかしたら人生で初めてかもしれない。
『…ごちそうさまでした』
「主様、満足できたでしょうか?」
『うん、人の手料理が、本当に久しぶり』
父親との喧嘩の毎日が始まってから日常生活もまともに過ごせなくなった母親は私に対する育児もないがしろにし、適当なお小遣いを渡してはコンビニで食費として使っていた。
愛情もなにもないコンビニの食料は味もしないしお腹も孤独もなにも埋まることは無かった。
「それは良かった。もし苦手なものなどがあればロノくんに言ってくださいね。ふふ、工夫して美味しく作ってくれるかもしれませんよ」
『うん、わかった』
「…では、主様。これからご説明をしますので部屋を移動しましょう」
『片づけは?』
「主様のお手を煩わせるわけにはいきません。そして私達のこともこれから説明致しますのでここはロノくん達にお任せしましょう」
言われるがままにリビングを出ると最初に目が覚めた場所に来た。
どうやらここが私の部屋のようだ。
ソファに促され大人しくそこに腰かける。ふんわりと下半身を包み込む感触が心地よい。
「では、まずこの世界のことからご説明いたしますね」
『お願いします…』
ごくり、と無意識に生唾を飲み込む。
目の前にいるベリアンが少し目を伏せると長いまつげが少し揺れた。
本当、最初見た時から思ってたけど綺麗な顔をしてるな、とつい見とれてしまう。
ベリアンの口が開かれる。
「この世界は主様のいた世界とは異なる世界でございます。この世界では今、天使という脅威に晒され街の住人が被害にあっております。天使に対する対抗策や、研究は進められていますが思ったよりも難航しております」
『天使って神に仕えてるっていう…?』
「…主様の世界では神聖なものなのですね。…けれどこの世界の天使は次々に人間を消していく脅威。…一刻も早く葬り去らねばならない存在なのです」
『…怖いね』
「…そしてその天使に対する対抗策が、私達悪魔執事なのです」
『…え?』
「悪魔と契約をし、悪魔の力を扱える私達が天使に対抗する力を持つ唯一の武器なのです」
『…悪魔と、契約……?』
「ふふ、やはり怖いですよね。人間と言えなくなった私たちは逆に人間から恐れられる存在となってしまいました。天使への対抗策という立場を持ってしまった私達のことを脅威だと考える貴族も一定数おります」
『…なっ。その人たちを守ってるのに…!』
「…権力に目がくらむのは、仕方のないことだと思います」
『…あなたたちは、別にその立場を悪用しようとは思ってないのでしょう?』
「……そうですね、静かに、人並みの幸せを感じながら平和に暮らせたら何も望まないと思います」
『……ごめん、続けて』
「主様がこの世界に来たのは、私達悪魔執事の主として天使狩りに協力をしてほしいのです。その主に選ばれたのです」
『…えっ』
ベリアンから出てくる説明に驚くのはもう何回目だろう。こんな短時間でこんなにも驚きの連発がおこるなんて知らなかった。
私がこの状況に置かれた原因。
『あなたたちの……主?』
「はい。私たちは執事として主様の生活のサポートをさせていただきます。もちろん主様にも元の世界の生活がございます」
『そ、そうだよ…!私は帰れるの…?!』
「はい、問題はございません。主様のその指につけていらっしゃる指輪で私達の世界と主様の世界を行き来することができます」
『え?指輪……?え、なにこれ…』
いつの間にか私の左手には金色の指輪がひとつはまっていた。
妖しくも美しく輝くその金色はいつぞやかに見た黒猫の瞳の色を思い出させた。
自分の手を見つめていると、そっとその手をベリアンが包み込んだ。
「…きっと過ごし慣れた主様の世界の方が良いのかもしれませんが……主様が宜しければ…私達の世界のことも忘れないでくださると…嬉しいです」
無理強いはしないベリアンの言葉。
私の助けが必要だから私がこの世界に来たのだろうけれど、ベリアンは私の気持ちを尊重してくれている。
きっと先程この屋敷から逃げ出したことも考慮してくれての配慮なのだろう。
『…で、でも私、戦うなんて……』
「…いえ、天使と戦うのは私達の役目。主様にしかできないことがあるのです」
『…どういうこと?』
「悪魔の力の解放。それが主様にしかできない大切な役目なのです」
『契約した張本人でもないのに?』
「力を扱うことができるのは私達ですが、力の解放は私達の主、つまり主様のご判断なのです」
『……そ、そんな簡単にできるのかな…』
「はい、こちらが主様が悪魔執事の力の解放に必要な本でございます」
『…ずいぶん古い本だね…』
「昔の主が去って、今の主様が来るまで随分と時間が空いてしまったので…大切に保管はしておりましたが…」
『…っなんで、見たこともない文字が読めるんだろう…』
「きっと主様だからです。主様にしか扱えないものなので」
ひとつひとつ丁寧に説明をしてくれるベリアンに、私は思ったよりも状況を飲み込めているし、少しずつ落ち着きを取り戻していた。
「…こうして説明をさせていただきましたが…主様は責任などは感じなくていいんですよ。天使狩りは危険でもあります。私たちが命を懸けても主様をお守りいたしますが、主様のトラウマなどにはしたくはありません。」
『…ベリアン……』
「…主様のお気持ちに素直になって大丈夫です」
『今は、頭の中が混乱してるから、考える時間をもらってもいい?』
「はい、もちろんでござます。お屋敷にもお気軽にいらしてください。おもてなしもさせていただきます」
『…そんなこと言ってもらえるの初めて』
「ふふ、それは良かった。主様の初めてをいただけたなんて嬉しいです」
そう言って微笑んだベリアンの笑顔が頭から離れなかった。
そのあと私は指輪を外すと、言った通りに元の世界に戻っていた。
いつもの光景。いつもの部屋。いつもの日常。
まるで夢を見ていたかのような感覚。
けれど、それは床に転がっていた指輪が現実だったのだと物語っていた。
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