ベリアン
屋根裏部屋で反省してから数時間が経っていた。
部屋に戻るのも、ここから動くのも気が重かった。
指輪を外せばこの屋敷から離れられるのに。そうしないのも甘えだろうか。
『…ひっくしっ』
寝起きの部屋着のまま飛び出してきたから少し冷える。
他の執事に会うのも今は辛い。
ベリアンから私のことを聞いているのだろうか。
『ううぅ…』
またボロボロと涙がこぼれる。
こんなにも泣いてもまだ枯れぬ涙が憎らしい。
そんなとき、ガタッと屋根裏部屋の入り口の方から物音が聞こえた。
驚いて体が震える。
『…ボスキ、かな…』
気づけばもうお昼。
来てもおかしくはない。隠れたままそばに誰かがいることに安心できるだろうか。などまた自分に都合のいいことを考える。
「主様」
気配を消すように膝を抱えて座っていると入ってきた人物が私を呼んだ。
顔を上げると、そこには今まで考えてやまなかった顔があった。
『べ、りあん…』
「…風邪をひかれます。温かい食事も準備ができておりますので移動しましょう」
淡白な声でベリアンがそう言った。その声に胸がズキッと痛くなって顔を俯かせて唇を噛みしめる。
首を横に振る。
「…そうですか」
カタ、とベリアンが私から離れていく音がした。
涙がポタポタ零れるのを感じながら、うつむいたまま口を開いた。
『…なんで、ここがわかったの』
「………専属執事ですから」
パタン、と扉が閉まった。
その音が、私達の 終わり を示しているようだった。
あのあと、泣きつかれた私はいつの間にか眠っていたらしく、気づいたら自室のベッドで寝ていた。
きっと多分…ベリアンが運んでくれたんだと思う…。
1枚多くかけられた布団。身体が冷え切った私のために用意してかけてくれたんだろう。
そんな気遣いが、ここまで運んでくれたのがベリアンであると確信できる。
『…謝りたいな』
でも、許してもらえるかな。
ダメだ、やっぱりこのお屋敷は今いるべきじゃない。
『…ちゃんと、気持ちの整理がついたら…』
そう思って指輪に触れる。
ベリアンへのこの想いに整理をつけれるなんて思わないけれど、でもちゃんと主従関係を受け入れられるまで。
それまで、このお屋敷を離れよう。
『……』
指輪を指で挟む。そしてそのまま横に引く。
その時、部屋に大きな音が響いた。
カシャンッ
音の方へ視線を向けると、ティーセットが床に散乱している。
そしてそのすぐ横にはベリアンが立っていた。
「主様…!」
ベリアンが私を呼び終わる前に私の視界は元の世界のいつもの風景に変わっていた。
最後に見たベリアンの表情が頭から離れない。
けれど、もうベリアンには甘えられない。
私は主として悪魔執事達と接し、そして本来の目的である天使を葬らないといけない。
だから、この想いもいつかどこかで消してしまわないといけない。
『…押してダメなら引いてみたのに……こんなことになるなんてな…』
でも正しい方向に向けたんだと思う。
なにも考えずに自分の感情だけで執事達と関わるなんて主として失格だろうから。
ベリアンもきっと私の気持ちに気づいたら困ってたかも。
数日が経過した。
元の日常生活を送ることで少しずつ屋敷に通っていた時より前の生活の感覚を取り戻しつつあった。
なんだか心にぽっかりと穴が開いた感覚を除いては。
『そろそろ寝るかな…』
自分のベッドの感覚にも慣れた。
屋敷の生活が本当に贅沢だったんだな、と痛感していた。
布団にもぐりこんで携帯のアラームをセットする。
目を閉じて心に残る最愛の人を思い浮かべる。
「主様…主様…」
私のことを呼ぶあの優しい声。
今日の心の中の彼の声はすごく切なそうで、悲しそうで、思わず私も涙を流す。
どうしたの?と、駆け寄りたくなる。
「帰ってきてください…主様…」
瞼を上げる。
むくりと身体を起こす。
「主様…お会いしたいです……主様…」
心の中の彼の声じゃない。
部屋の中にかすかに聞こえる本当の彼の声。もしかして幻聴?
『……ベリアン』
「主様…」
震える声。縋るような声。
『ベリアン……泣いてるの…?』
ベッドから降りて、引き出しの奥の奥にしまい込んだあの指輪を手に取る。
ここから、彼の声が聞こえる。
心が揺れる。
『…』
ダメなのに、まだ、まだ心の整理もベリアンへの気持ちもなにもできていないのに。
こんな幻聴に負けるなんて私の意思は本当に弱い。
『…ベリアン』
「……っ!主様…?主様なのですか…?」
屋敷に足をつけると、目の前でベリアンが膝をついて静かに涙を流していた。
私の声に勢いよく顔をあげると信じられないと言う表情でこちらを見ていた。
「…幻覚でしょうか…それでも良いです…主様にお会いしたかったです…主様がいないと……私は…」
立ち上がって私の方に駆け寄る。そして涙を流しながら私をだきしめてくれた。
背中に回された手が震えているのがわかる。
あまりの力強さに耐え切れずに後ろに倒れ込む。そんな私を器用に支えながら膝を着くとベリアンの方に寄りかかるように抱き寄せてくれた。
「……主様…本当に申し訳ございませんでした…主様に反発など…なまいきなことをしてしまった私を…どうか……どうかお許しください…主様…」
『…え』
嗚咽交じりに私に懺悔らしきものをするベリアンに戸惑いを隠せない。
どうしてベリアンが謝るのか…全部全部私が悪いはずなのに…。
ベリアンが優しすぎる故に私に非など感じていないのだろうか。
本当に…ベリアンは…。
『ベリアンはなんにもわるくないよ…』
「いいえ…私は執事として…いえ…男として最低なことをしてしまいました…」
『…悪くないよ…』
「お慕いしている方を泣かせ…ひとりにさせてしまい………幸せにするどころか…屋敷から去るところも止められないなんて……」
『ごめんね…ごめんね…ベリアン…』
私が屋敷からいなくなってずっとずっとこうして自分を責め続けていたのかと思うと今まで自分がしてきたことの意味の無さと愚かさが罪悪感となって襲ってきた。
『違うの…違うの……違うんだよ…』
「主様……?」
ベリアンの胸板を押して身体を離すと、ベリアンと目が合った。
『…私がベリアンに振り向いてほしくって、避けちゃったの…でもね、そしたら…ベリアンが専属外してほしいなんて…』
「…大丈夫ですよ、主様の意図はわかっておりました。私が…いたずらに言ったことが主様を傷つけてしまったのです」
『そう言われても仕方ないことを私がしたの!ベリアンは悪くないよ』
「主様は本当に…お優しいですね…私はそんなところが本当に愛おしいと思ってしまうんです」
『…こんなに、自分勝手でベリアンのこと泣かせて振り回したのに…』
「…そんなことおっしゃらないでください。私にとってはそんな主様も可愛らしいと思ってしまうんです。ふふ、主様が思っているより私は、主様が大好きなのですよ」
『……』
もう幻覚でも幻聴でも夢でも良い気がしてきた。
今この時が永遠に続けばいいのに。
涙を流しながらも儚く笑う目の前の彼のことが本当に大好き。
「でも、今の主様は私が都合よく見ている幻覚なのでしょう……」
『え』
「主様はきっともう戻られません……」
ふたたび私のことを力強く抱きしめるベリアン。
今度はもう簡単には離してくれなさそうなその力強さ。
後頭部と腰のあたりを大きな手ががっちりと抑えている。
『…帰ってくるよ』
「…帰ってきてほしいです」
『…帰るよ。ここも私の家なんだから』
「……主様…」
ベリアンの嗚咽が大きくなる。
肩も震わせながら泣くその姿に私もベリアンを抱きしめ返しながらトントンと背中を叩いて落ち着かせる。
「離れないで……」
指輪から聞こえた時のような縋る声に胸が痛い。
『……だいすきだよ、ベリアン』
「私も……私も主様を愛しております…」
『…うん、愛してる』
「ずっと…ずっとおそばにいさせてください…」
『うん…ずっと一緒に居るよ』
そのあとはふたりとも無言で抱きしめ合った。
ベリアンの嗚咽も少しずつ収まったが、私を抱きしめる力だけは変わらなかった。
『ベリアン…?』
どれほどの時間が経ったのだろう。
ふっとベリアンの腕から力が抜けたのを感じて彼の名前を呼ぶ。
返事はなかった。
ただ、規則正しい呼吸だけを感じる。
『…私みたいに泣きつかれて眠ったのか』
正直、今の体勢にも限界を感じていたからもぞもぞとベリアンを引きはがしてみる。
「…主様…っ」
『ベリアン、起きた?』
「……」
私が動いたのに反応したのかまた腕に力がこもる。
寝ていてもなお、私が離れることを恐れているようで、どうしたものかと抱きしめられながら悩む。
コンコンッ
すると部屋の扉がノックされた。
私がいないのに誰がこの部屋を訪ねてきたのだろう。
私が返事をすると、扉が開かれた。
「おや、主様。帰られたんですね」
『ルカス?』
「…ベリアンが随分と大胆なことをしていたみたいだね…」
『あ、いや…これは、私がいるのを幻覚だと思っていたみたいで…』
「ふぅー…だいぶ参っていたみたいですから」
ルカスが苦笑いをしながら私をベリアンの腕から解放してくれた。
そのままベリアンをソファの方へと運ぶと上に寝かせてブランケットをかけた。
ピク、とベリアンの指が動く。
「あ、主様…」
『…ここにいるよ』
ベリアンの寝ているソファの隙間に腰を掛けて手を握る。
「…ベリアンの無礼は、大目に見てあげてください。主様」
『…うん、もとはと言えば私のせいだから』
「私は…どちらも悪くないと思いますよ。…気持ちのすれ違いなんて…いくらでもあるからね」
『…ベリアンをこんなに傷つけるつもりなんてなかったもん…』
「人間は、小さなことでも喜びますが、反対に小さなことでも何年も忘れられないくらいに傷つくこともあります。でもね、私達も絶望があっていまこうして悪魔執事となって主様と出会えてこの生活も悪くないなって思えてきて……それがきっかけで幸せを感じられることもあるんだよ」
『……』
「今までは、執事としての立場が主様とベリアンを止めていたんだろうけど…今回のことでふたりとも、やっと素直になれたんじゃない…?♪」
『…なっ』
ルカスの意地悪く笑うその笑みと言葉に思わず顔が赤面する。
顔を反らしながらベリアンの方を見る。
綺麗な顔に目頭が赤くなってたくさん泣いたことが一目でわかる。
「…ベリアンを幸せにできるのはきっとこの世で主様だけです」
『…?それってどういうこと?』
「ん…っ」
「おや、ベリアンが起きたようだね。主様の無事もベリアンの心配ももう必要なさそうだからこれで失礼しますね…♪」
『え、あ…ありがとうルカス』
「主様…?」
ルカスの背中を見送りながら背後でもぞもぞ動いているベリアンに気づいて立ち上がる。
『…おはよう、ベリアン』
「ほ、本当に主様ですか…?」
『あ、もう泣かないで。私だよ』
「あ…失礼しました…その…」
『…大丈夫、ベリアンの気持ちはもうたくさん聞いたよ、伝わったよ』
「…せ、専属は…」
『…外れたい?』
「いえ!私が…私だけが主様のおそばでお仕えしたいです…」
『うん、私もそれがいい』
「…本当に、主様ですか…?」
『はは、幽霊かも?』
「…ふふ、手を握ってみてもよろしいでしょうか?」
『うん、どうぞ』
手を差し出すとベリアンがその手を割れ物のように優しく握る。
愛おしそうに握り合っている手を見る彼の姿に私もこの屋敷に帰ってきたことを実感する。
「…ふふ」
『どうしたの?』
「…主様、今度は押してもだめならもっと押してくださいね」
『…え?』
「…主様には、私だけを見てほしいです。私も、主様しか見えません」
『…』
「なんて……主様にこんなことをお願いするなんて執事としてどうかしていますね…」
『…いいのよ、ベリアンはもう執事だけじゃないんだから』
「…え」
『他の執事よりも私にわがまま言ってくれていいんだし、距離が近くても特別でも、なんでもいいんだよ』
「…っ主様」
『ごめんねベリアン、…ありがとう大好き』
「私も…主様がだいすきです」
押して引きあって、
すれ違って離れて、
また引き寄せられては、
また惹かれ合う。
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