君の名前をもう一度。
『あ…大輝くん。お待たせ。梨心はまだ意識戻ってないかな…』
「うん…でもちゃんと呼吸はできてるぽい…」
先生からの諸々の説明を受け、不安要素は消えたり増えたりを繰り返したが、昨日よりかは冷静に先生の話を受け入れることができた。様態の急変を考慮してこのまま梨心は入院をすることにした。
そして梨心の意識がいつ戻るかは先生にもわからないらしい。今日中に戻るかもしれない、1週間、1年、それ以上かかるかもしれないとのこと。
それまで入院させるかは璃心と母で相談をしてほしいとのこと。
璃心は先生の説明を受けている間、不安そうにうつむいてはいたが涙を流すことはなくちゃんと説明を理解した上で考え込んでいるようだった。
一通りの説明が終わり、先生にお礼を言って病室へと戻ってきた。
表情を曇らせながら戻ってきた璃心に大輝は駆け寄って手を握る。
「璃心………そんな不安そうな顔するなよ、梨心がそんな顔見たらきっと梨心もつらいと思うし…その、すぐに意識が戻るって信じよう、ね?」
『……大輝くん…』
目一杯の大輝の励ましに璃心は大輝を見る。いつもの優しい笑顔を向けて頭を撫でる大輝。
璃心もぎこちなく笑う。今はそれだけでも大きな進歩だ、と大輝は思った。
大輝はそのまま璃心の手を引いて梨心の元へと連れて行く。
変わらず眠り続けている梨心の頬に手を当てて名前を呼ぶ璃心。名前を呼ぶその優しい声に愛情を感じる。
本当に妹のことが大好きなのだろう。
その日は璃心と大輝は夜まで梨心の付き添いをした。
帰り道、タクシーで移動をしながら大輝は口を開いた。
「なぁ、璃心」
『…ん?』
「これから、仕事どうするの?」
その質問に璃心は目を伏せた。
きっと、仕事はしなければ梨心の入院費も母との生活費も無くなってしまう。
けれど、梨心の付き添いもしたい、そういう葛藤があることは大輝もわかっていた。
考え込んでいる璃心に大輝はこう提案をした。
「な、なら俺、今夏休み中だし毎日顔出すよ!部活がある時は朝は来れないけど、でも絶対に付き添いに行くから、だから璃心は安心して仕事してきて!」
目を伏せていた璃心が大輝を見る。その視線に負けじと見つめ返すとゆっくりと璃心が顔を近づけて、唇に触れるだけのキスをした。
何が起きたかわからない大輝はぱちくりと目を瞬かせて、理解した頃に顔を真っ赤にした。
そんな大輝を見て璃心は小さく笑ってまた大輝を見た。
『ありがとう。なら梨心のことお願いしようかな』
「…!うん!任せて!意識が戻ったときには1番に連絡するから!!」
大輝が張り切っているときに、タクシーは璃心の家の前まで着いた。
お会計をしてふたりで降りる。璃心の家の前で向かい合うと、大輝は璃心の手を優しく包み込んだ。これからは璃心の不安になる部分を自分が取り除く努力をして璃心を支えていかなきゃ、と心の中で決意をして璃心に向かって微笑んだ。
「不安になったり寂しくなっても、俺がいることを、忘れないでな」
『うん、ありがとう。頼りにしてるよ』
「じゃあ、ご飯食べてゆっくり休んで」
『ありがとう、おやすみなさい』
すっと、ふたりが手を離すと璃心が家の中へ入る。
玄関で靴を脱いでいると母がぱたぱたと駆け寄ってきた。
今日も元気そうで、笑顔が見える。
「おかえりなさい、璃心。大輝くんとは楽しめた?」
『ただいま、うん。楽しかったよ』
大輝とデートをしてきたと思っているのかリビングへ向かいながら「どこへ行ったのか」「最近どうなのか」など質問攻めに遭った。
嘘をつくのに多少罪悪感があったが、過去のことを今日あったかのように話し合わせた。
ニコニコしながらそれを聞く母。少し居たたまれなくなってお風呂に入ることを口実にリビングから離れた。
洗面所で服を脱ぎながら、ふと鏡を見た。化粧が崩れて下まぶたに厚めに塗ったファンデが剥がれていた。
朝より腫れは引いたがまだ赤みががっていた。化粧を塗り直してなかった顔は酷かった。
『こんな顔で大輝くんと一緒にいたのね…』
後悔にため息を吐く。
お風呂へ入ると、シャワーを浴びる。少しお湯を熱めにして全身へかける。
無意識に思考が梨心のことを考えていた。
あれは父が亡くなったあとのこと。母は伏せって部屋で寝たきりになった。梨心も落ち込んでリビングに家族が集まる機会は無くなった。
生活費を稼いでいた父が亡くなり、パートとして働いていた母も寝たきりになった。中学3年生の璃心は受験もあり、働くことができなかった。
だが、璃心なりに生活を成り立たせることを必死に考え、梨心を部屋から引っ張り出しては家事を手伝わせた。母が持っていたお金を預かり、母がしていたように買い物をしては梨心に料理を任せた。最初のうちはふたりで試行錯誤をしていたが、梨心が料理を楽しく感じた頃に梨心に任せることにした。
掃除や洗濯、生活費の管理は璃心がした。母の持っていたお金でどうにか生活ができるように。
中学3年生の璃心には口座からの引き出し方はわからなかった。だが、現金主義の母はいつも財布やリビングの引き出しに生活費を置いている習慣があった。
それが璃心達を助けたのである。
この日も梨心が作ってくれたご飯を母のもとへ持っていく。和室の襖を開けると、布団から起き上がって泣いている母の姿があった。
父が亡くなってからこの姿をほぼほぼ毎日見ていた。
それほどまでに父を愛していて、もっと一緒にいれると信じてやまなかったのだろう。
父と母の別れは唐突すぎた。それに母が追いつけたないだけ、そう思ってできる限り母に明るく声をかける。いつも返事はかえってこないが、この日は母に反応があった。
「璃心…?」
『うん、私だよ。お母さん、ご飯持ってきたよ』
伏せってからろくにご飯を食べていない母。反応があった今日は食べてくれるだろうか、と母にお碗を渡す。梨心特製の温かい豚汁だった。
母がそれを受け取る。ゆっくりと口を付けて少しだけ口に含んだ。ポロポロと涙がこぼれて手が震えている。
『お、お母さん…!大丈夫?』
「璃心…お父さんは?」
『お母さん……』
やつれた母の顔が璃心を見た。真っ赤な目から涙があふれていて、お風呂に入っていない髪がはらり、と手に持っているお椀に浸かった。
父を探すように部屋を見回して、璃心が立てかけた父の写真達を見て止まった。
母は思い出を残すことが好きな人でよく家族が集まったときは必ず写真を撮っていた。それ以前にも璃心達が生まれる前から父との写真を撮ってそれをアルバムにもしていた。
写真立てには父と母の結婚式から家族でドライブに行った写真、花火をした写真、誕生日を祝っている写真、そして母が気に入っていた父が満面の笑みで笑っている写真。遺影にも使われたのはこの写真だ。
お葬式の日でも思い出したのが大声を上げて泣く母の背中をさすって落ち着かせる。
いつも怒ると怖い母だが、父といるときはそれは幸せそうに笑う母でもあった。
梨心とおしゃれな服を買っては父や璃心に見せたり、イベントごとが大好きでサプライズをしたりコスプレをしたり、家の飾り付けも璃心達が学校に行っている間にひとりでしては学校から帰ってきた璃心達を驚かせていたりと、とても明るくて活気に溢れていた人だった。
そんな母が最愛の人を亡くして心を病んで泣き崩れている姿は璃心にとっても心苦しかった。
なんて声をかけていいかもわからない。父はもういないなんて言えない。どうしたら母は立ち直ってくれるのか、なにもわからなかった。
ただひたすら母のやつれて骨が出ている背中をさすった。『お母さん』と呼びかけて父との思い出の中に閉じこもっている母を呼び戻す。
璃心はそうやって毎日を過ごした。
「おねーちゃん…」
『…梨心。どうしたの?』
「眠れないの…」
中学生になって一人で寝れるようになった梨心が枕を抱えて璃心の部屋に来た。
母を寝かしつけて、体や髪を濡れたタオルで拭き洗った璃心は自室へ戻り勉強をしていたところだった。
梨心の言葉に璃心は微笑んで机からベットに移って梨心を呼ぶ。
『おいで、寝付くまで一緒にいるよ』
「ごめんね…勉強してるのに」
『謝ることないよ、私も眠れないときあるもの』
璃心のベットに横になった梨心は目を瞑る。
そんな梨心の頭を優しく撫でて眠るのを待つ。程なくして梨心から寝息が聞こえた。それを確認した璃心は起こさないようにゆっくり立ち上がって机へと戻った。
受験勉強は正直捗ってはいなかったが高校へ行くために眠い目をこすりながら励んでいた。
集中力が途切れたときは梨心の寝顔を見て頑張れた。
母と梨心を支えていけるように頑張ると決めたから。
そうして、璃心の受験の日は近づいていった。
そして11月。璃心が買い物から帰宅すると泣き声が聞こえた。靴を乱雑に脱いでリビングへと走る。扉をバンッと開けると、しゃがみこんで泣きじゃくる梨心と息を荒くして目を吊り上げている母の姿があった。
『梨心…!どうしたの!!』
「うわぁああああああんおねえちゃあああん」
「黙りなさい!!!うるさいのよ!!!」
興奮した母は怒鳴り散らしながら狂ったように叫んでいる。精神が不安定になっている故、いつもは抜け殻のようにしていても何かがきっかけで興奮状態になる典型的な症状だ。
璃心は母親の携帯で母の症状を調べたことがあった。だからこの状況が精神不安定からきていることを察した。だがわかっていても母の姿を見ると恐怖にすくんだ。
今にも梨心に飛びかかりそうな母を止めるべく梨心との間に割り込んで母をなだめる。
何を言っても母には届かず、払いのけられるが負けじと璃心も母を止める。
『お母さん!!やめて!!こんなのお父さんが悲しんじゃうよ!!』
「璃心!!大人しくしてなさい!!」
『梨心!!部屋に行きなさい!!』
「うああああん!!」
暴れる母にも泣きじゃくる梨心にも璃心の声は届かなかった。
母が落ち着いたのは、璃心が止めに入ってから2時間が経過してからだった。体力の尽きた母はふらふらしながら和室へと戻って父の写真の前で泣き出した。
途中で無理やり梨心をリビングから追い出すことができ、ひとりで母と格闘し、母が戻った頃には疲弊して泣きそうになった。そんな自分の頬を叩いて喝を入れて、梨心の元へと向かった。
梨心の部屋に入ると梨心がいなかった。慌てて廊下へ出て周りを見渡すと、向かいの璃心の部屋からすすり泣く声が聞こえた。
璃心の部屋を開けるとベットの隅で縮こまって座っている梨心がいた。扉をあけた璃心の姿を見た梨心は駆け寄ってぎゅうと抱きついた。母親のあんな姿見たことがなかったから璃心以上に怖かったであろう。梨心の頭を優しく撫でて、『もう大丈夫だよ』と言った。梨心は璃心の胸元に顔を埋めながらコクンと頷いているが、嗚咽が止まらない。
璃心がふとあることを思い出した。
『ん、梨心。ちょっと離してくれる?』
璃心がそう言うと涙と鼻水でぐちゃぐちゃになった顔を梨心が離した。
苦笑いしながら梨心を部屋に待たせてリビングへと戻る。出かけた本来の目的であった買い物袋を持って部屋へと戻る。
不安そうな梨心の前に袋を置くと手早く袋の中身を取り出した。
すると梨心は表情を変えて目を輝かせて箱の中身を見ていた。
『梨心、誕生日おめでとう』
「お姉ちゃん…!ありがとう!」
小さくカットされたケーキが4つ。いろんな種類があるため梨心はどれにしよう、と悩んでいる。
毎年誕生日を祝っているが、母が用意してくれるケーキは小さいものではなくホールケーキを2個用意してくれていた。梨心は11月3日生まれ。璃心は11月26日生まれ。だからケーキが2個って言うこともあるが、甘いものが好きな家族なため母と父でケーキを1個、璃心と梨心でケーキを1個、食べるためでもあった。
大体毎年梨心の誕生日にはケーキ、璃心の誕生日にはプレゼントを用意されていた。
その習慣を止めたくなくて梨心の誕生日にケーキを用意した。家計簿と貯金の関係で小さいケーキしか用意できなかったが家族分のケーキを無意識に用意していた。だが、今日のこの大惨事で母はケーキを食べれない、父の写真にもケーキを供えづらくなってしまった。
「私、モンブランにする!」
『もう1個、いいよ?』
「……んーん。これはお母さんとお父さんの分だから」
『………そっか』
梨心も理解していた。4つ買ってきた意味を。
母にあんなに怒鳴られ叫ばれたりしていたのにそれでも母を恐れず嫌わず今まで通りの習慣が見えていた。
お互いひとつずつケーキを食べ、残りは冷蔵庫へとしまって、しばらく璃心の部屋でお喋りをしていたらいつの間にか梨心は眠りについていた。
軽くゆすり起こしてベットへと移動させていつかの日のように梨心がベットで寝ながら璃心は勉強へと励んだ。
次の日には母はいつもと変わらずに父の姿を探しながら泣いていた。
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