君の名前をもう一度。
『〜♪』
軽快に鼻歌を口ずさみながら歩道を歩く。
友達の家に泊まりに行くことになった梨心は着替えや化粧品やお泊りセット諸々を詰め込んだリュックを背負って駅へと向かっていた。
梨心の家から駅までは歩いて15分程の距離。天気が良いこともあって歩いて行くことにした。イヤホンから流れるお気に入りの曲を選びながら歩いていると、璃心から着信が入った。
何かあれば連絡してほしいと言って家を出たが、こんなにもすぐにかかってくるのに不思議に思いながら応答して携帯を耳に当てる。
『着たら写真撮ってね!』
平和な内容にほっとしながら通話を切る。
珍しい璃心からのお願いに口元がにやける。璃心が自分の服を着たら絶対に似合うはず、と妄想をしながらも、きっとその服装を見せる相手は自分の一番嫌いな男子ってところだけが気に食わない。
思い返すとにやけてた口元が戻り、少しだけ大輝に嫉妬する。
璃心のことが独占したいわけじゃない、ただ璃心を幸せにする男子が大輝じゃできないと思っているだけだ。今まで自分を犠牲にして梨心と母を支えてくれた璃心にはこの世で1番幸せになってほしい。
ちょっとムッとしながらズンズンと歩くと遠くの方に駅の目印が見えてきた。
携帯を取り出して、友達とのトークを開く。
ーもう駅が見えてきた!電車に乗ったらまた連絡する!!!
電車に乗るタイミングで駅まで迎えに来てくれる友達にトークを送って駅へと急ぐ。大通りへと出ると反対車線に駅が見える。手前の信号が変わるのを待ちながら友達の返信を確認する。
ーOK!変な男にナンパされんようにね!w 12:32
からかってくる友達にクスクス笑いながら返信を打つ。
ーイケメンだったらついていっちゃうかもーw
友達が携帯に張り付いてるのかレスポンスのテンポが良くなった。信号を確認しながらポンポンとトークを送り合う。
信号が点滅をし始めた。
ー昼飯どーする?お腹空いてるならがっつり食べる? 12:36
ーあー。どーしよ。空いてるっちゃ空いてるけど荷物多いから先に荷物置かせてぇ
信号が青になる。渡ろうと歩き出したところで携帯が震える。友達からの返信のバイブだ。チラッと画面を確認する。
ーん。じゃあ家に着いて荷物置いたらすぐ近くのカフェ行こ!前に行ってたタルトが美味しいところ!ちゃんとご飯系もあるしー 12:38
おぉ!と目が輝く。トークにあるタルトと言うのは前に友達が写真を見せてくれた梨心の好きそうなタルトのことでお店に行きたいとその時から言っていたのだ。思い出してもよだれがでる。本当に美味しそうなタルトなのである。
そんなことを考えながら急いで返信を打っていると声が聞こえた。
「お、おいあれやばくないか」
「おいお前!!あぶねぇぞ!!!!」
『ん…?』
誰かが叫んでいるのがイヤホン越しにも聞こえた。
イヤホンを外しながら周りを見渡すと轟音がすぐ近くから聞こえた。
振り返ると、大型のトラックがすぐ目の前までスピードを出しながら向かってきていた。
一瞬の硬直。だが慌てて逃げようと足を踏み込むが、恐怖に蝕まれた全身がうまく動かなかった。
涙で滲んだ視界でトラックが近づいてくることを見ていることしかできなかった。
『お姉ちゃん…!』
最愛の人に呼びかけると同時に今まで感じたことのない衝撃、痛さが全身に走った。宙を舞う感覚。
走馬灯だろうか、父の病気が悪化し始めた頃の記憶がなだれ込んできた。
5年前、梨心が13歳の頃からだった。
心臓に持病を持っていた父が再発して病院に運び込まれた。結婚してからは快復していたがこの時から父は一気に衰弱し、数時間後の父がどうなるかわからない状態だった。
病院に運ばれ管だらけの父の姿を見てから母は一時も離れず手を握って泣いていた。
璃心はそんな母の姿を見つめながら隣で不安そうな顔をする梨心の手をぎゅっと握った。
「梨心、大丈夫だよ。お父さんはまた元気になるよ」
『………。お姉ちゃん…。』
璃心が弱々しく梨心に言い聞かせるようにそういうものの、梨心はもうなんとなく分かっていた。
母の泣き声が一層大きくなった。
梨心の視界の端に何かが落ちた。隣の璃心を見ると、唇を噛みながらポロポロと涙を溢していた。
璃心はどちらかと言えば父と一緒にいることが多かった気がする。母が女の子だからと着飾せようとするも璃心にはあまり関心がなく、心臓に持病を持っていた父の趣味だった美術系に興味を示していた。
よく近くの公園に行っては綺麗に植えられた花壇の絵をふたりで描いていた。
その分、梨心は母の着せ替え人形となっていた。
だからか、璃心にとっても父の今の姿を見ても一筋の希望を捨てきれずにいるのだろう。
まだ生きてくれる、大丈夫と、言い聞かせているのだろうか。
「あなたぁ……!あなたあ!!お願いよ…いかないで…」
「お母さん…」
璃心が母に歩み寄る。ずっと泣きじゃくっていた母はようやくふたりを見て父の手を握っている方と逆の手で璃心の腰に手を回し父の方へと引き寄せた。璃心と手を繋いでいた梨心も引っ張られるように付いていく。
普段の姿とは違う青白い肌に何がどうなっているのかわからない管が腕や首元、至るところに管が通っている父の姿に梨心達にも見るに耐えなかった。
母が少しの横へ移動して璃心に父の手を握らせる。父の手を握った璃心は驚いて手を離した。そのまま母を見ると母は瞳を閉じて涙を流していた。
璃心は辛そうに梨心を見た。そして梨心にも父の前へ立たせると手を握らせた。
父の手は、冷たかった。
冬場のあの冷たさとはまた何かが違う、手じゃない何か別の冷たいものを触っているかのような感覚。
父じゃなくなった何かのような。
ずっと母はこれを握っていたんだ、と思うと梨心も心の奥から何かがこみ上げてきた。
ポタ、と父の手に涙が落ちた。
『おと、う、さん…』
ひとつこぼれた涙は止まることを知らずにポロポロと頬を流れては父の手に落ちていった。
ふととある日の家族で出かけたときにはぐれそうになった梨心の手を繋いでくれた父を思い出した。
おっきくて、暖かくて、優しく包むように握ってくれた父の手。
あのときと同じとは思えない父の手を梨心はぎゅっと握りしめた。
すると、父の手がほんの少しだけ握り返した気がした。
『お父さん?!お父さん!』
それに気付いた梨心は必死に父に呼びかける。
璃心と母もその異変に気付いたのか父を見つめる。
梨心の呼びかけに父は少しだけ目を開いた。母は父に近づき泣きながらもほっとしたように微笑んだ。
璃心も口元を手で覆いながら泣きじゃくった。
3人が父の意識が戻ったことを喜び、父を見つめると、父は目を細め、少しだけ微笑んだように見えた。
その刹那、カクッと父の力が抜けてまた瞳を閉じた。
それと同時に父の心電図は波を打たなくなった。
父は39歳という若さでこの世を去った。
ピーと鳴り響く父の病室には誰の泣き声も聞こえなかった。
呆然と立ち尽くす残された家族は、現実が受けとめきれずにもう目を覚ます希望も失われた父を見つめることしかできなかった。その場から動いたときは巡回に来た看護師が事態に気付いて先生を呼びに行ったときだった。
そのあとはもうあまり覚えていない。母と付き添いの璃心は先生に呼ばれひとりになった梨心は看護師といた気がする。
「ひ、ひとが轢かれたぞ!!!誰か救急車を呼んでくれ!!!」
「トラックに気をつけろ!!どこに突っ込むかわからねぇぞ!!!」
走馬灯から意識が戻ったとき、全身は痛みを超えてしんどさに変わっていた。
意識がぼんやりとして梨心の周りでたくさんの人が叫んでいるような気がする。
ヒヤッと身体が冷えている感覚がした。血が流れているのかな、と思いながら父の手の冷たさを思い出した。
自分もこのまま冷たくなるのだろうか、そんなことを考えながら目を閉じた。
真夏の太陽が照りつける、8月17日のことだった。
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