君の名前をもう一度。
「梨子」
『…ん』
懐かしい声がする。
梨子は閉じていた目を開こうとするがまぶしくてなかなか開けられない。手で視界を遮りながら目を慣らす。
少し時間が経って慣れた視界の中には、
『お父さん…』
「おはよう梨子、朝だよご飯食べよう」
父親がいつものように起こしに来た。
毎朝こうして優しく声をかけてくれてはご飯を食べようと言ってくれる。
当たり前の光景が懐かしくて病院にいたのも璃子と喧嘩したのもすべて夢だったのだろうか、と起き上がって寝間着から私服に着替える。
部屋を出て洗面所で顔を洗う。
「おはよう梨子」
『…ねぇね!おはよう』
顔を洗い終わってタオルで拭いていると璃子が遅れて洗面所へと来た。中学生になった璃子の制服姿は大人になったようでうらやましかった。
交代して璃子が顔を洗い始めた。
璃子への挨拶もそこそこにリビングへと入ると母親の作るおいしいご飯の香りが部屋に漂っていた。父親はテーブルに朝ごはんの支度をしている。
父親に挨拶しながらキッチンにいる母親の元へ行く。
『おはようお母さん』
「おはよう梨子。お手伝いしてくれる?」
『うんっ』
出来上がった母親の料理をみんなで食べるテーブルへと両手で慎重に運ぶ。
梨子のそんな姿をニコニコと父親が見届けて皿を置き終えると大げさに頭を撫でて褒め始める。
「梨子ありがとう、梨子が持ってきたごはんはおいしそうだなぁ」
『おとうさんやだぁ』
「っはは、じゃあ今度は俺も一緒に運ぼうかな」
「パパ、パパがもう全部用意したからもう持っていくものないよ」
そう言って梨子の背中をぐいぐい押しながらまたキッチンへと戻される。
そんなふたりを父親の持っていくお弁当を詰めながら母親は笑っていた。
いつの間にやらリビングに来ていた璃子が手に何かをもってテーブルに腰かけていた。
「お父さん、はいこれ新聞。お母さん回覧板が回ってたよ」
「あらありがとう。確認しておくね」
「璃子ありがとう」
お弁当を作り終えた母親と一緒に梨子と父親も椅子に腰かけて4人で手を合わせる。
母親の合図でいただきますをして各々ご飯を食べ始める。
汁物から食べ始める母親。豪快におかずを取ってご飯と食べる父親。まずお水を飲んで野菜から食べ始める璃子。
何年も一緒にご飯を食べているからもうそういう癖も見慣れた。
そう、これが日常。
元に戻ったはずなのに、なんでこんなにも胸が苦しいのだろうか。
思わず涙がこぼれそうになる。
隣に座る父親を見やる。おいしそうに母親の料理を頬張っている。こんなにも幸せそうで、元気な父親が病を患っているなんて誰が思うのだろう。
視線に気づいた父親がこちらを見る。ご飯粒を口元にくっつけてあの大好きな笑顔を向ける。
「梨子の素直なところがお父さんは一番好きだなぁ。そのまま変わらずにまっすぐ生きて、俺の倍以上に幸せになってね梨子」
不意に父親が寂しそうにそういった。どうしてそんなことを言うんだろう、と何も言わずにいると父親がこちらに手を伸ばす。
いつものように頭を撫でるのだろうか、と頭を向けると予想とは違って父親の手は梨子の手の上にのせられた。
『…っ』
父親の手は、異様に冷たかった。
この感触になぜか既視感を感じる。その時の記憶が頭の中に急に流れて…涙がこぼれた。
「俺、もっとふたりの成長を見届けたかったなぁ。どんな風にきれいになってどんな彼氏を連れてきて、どんなお嫁さんになるんだろうなぁ。たくさん写真を撮って一生分のアルバムを作りたかったよ。ごめんな、梨子」
『お、とう、さ……』
震える父親の声、震える父親の手。
顔を上げて父親の方を見る。いつもニコニコ笑っていた父親の初めて見る泣く姿。
子供のように泣きじゃくる父親の姿を見ながら梨子はすべてを思い出した。
自分がとてもとても大事な記憶を忘れていたことを。
「俺…俺、死にたくなかったよ。子供の時から…病のことは知っていたから…いつ死んでもいいように生きてきた。けど、ここまで生きてこれたから…このまま紗子と梨子と璃子と一緒に生きていけるとおもっていたんだ…」
『…お父さん…!私も一緒にいたいよ!戻ってきてよ…!』
「梨子…いつも璃子を支えてくれてありがとうな。本当に良い子に育ってくれて自慢の娘だよ」
『過去形で話さないでよ!これからも…これからもお父さんの娘だもん!!』
「…寂しい想いをさせてごめんな…でも璃子もお母さんもいるから…お母さんを助けてやってくれ」
『…お父さんが一番寂しいでしょ…?』
「…うん、これから自分がどうなるかなんて俺にもわからない。紗子も、梨子たちもいないところにいかなくちゃならないからね…」
梨子が父親に抱き着く。まるで体温を感じないその冷たい身体も気にせずに力任せに抱き着く。
父親の嗚咽で父親の身体が揺れる。梨子も感情任せ涙を流して泣いた。
今だけは、神様を憎みたい。こんなにもひどい仕打ちあるだろうか。父親が、私たちが何をしたっていうんだろう。
「…さぁ、お行き。梨子。もう振り向いちゃいけないよ」
『…え、やだ、お父さん…!』
身体を離した父親が梨子の肩を掴んで反転させる。震える手から伝わる父親の決意を知らぬふりして振り返ろうとするも、父親はそれを許さなかった。
梨子が抵抗するのをやめると、梨子の肩から手を離してとんっと優しく背中を押した。
『お父さん…大好きだよ。』
「俺もだよ、梨子。生まれてきてくれてありがとう」
光の指す真っ白な世界を歩き出す。父親の言う通り梨子は振り向かなかった。どんどん小さくなる父親の泣き声を背中に唇が切れるくらいに噛みしめてにじむ視界も無視して歩き続けた。
『…ハッ』
次に目を開くとそこは見慣れた天井。
起き上がって周りを見渡す。ぐしゃぐしゃに涙で濡れた顔を拭って父親の姿を探すも、やはりそこには自分一人しかいなかった。
記憶はもう、戻っていた。
父親の死、母親の精神不安定、璃子との辛くも幸せだった日々、中学生の記憶、高校生の記憶。
すべてが鮮明に思い出せる。
けれど、だけど。
『…こんな現実、私はいらない…』
胸が張り裂けそうなほど苦しい。もう一度父親と話したくてたまらなかった。
願わくば父親と食卓を囲んでいた夢の中で違う未来を見たかった。
枯れることを知らぬ涙が次々にあふれ出て、それを拭いながらベッド横にある引き出しから紙とペンを取り出す。木嶋が記憶のない梨子がいつでも絵を描けるようにとおいていったものだ。
ベッドの端に腰かけて棚をテーブル代わりにペンを走らせる。
書きたいことがたくさんありすぎてまとまりのない文章になってもかまわなかった。感情任せにペンで殴り書いた。
紙が埋まったら次の紙、と何枚も紙を消費した。
手首が疲れてきた頃、ようやく書き終えた。
ふぅ、と息を吐いて涙をぬぐった。
腕に付いている点滴の針を抜き取り放り投げる。
力が入らぬ足を使って部屋の物や壁を伝って病室を出る。
廊下を見ると歩いている人はいなかった。部屋から見た外はだいぶ暗かったため深夜なのだろうか。巡回の看護師もいない。
病室を出た時点で息切れをするほどこの足で歩くのはしんどかったが、意地で歩く。廊下にある手すりに両手で体重をかけて足を引きずるように少しずつ歩く。
梨子が目指したのは外に通じる非常階段。
記憶の片隅に大輝と車椅子に乗って病院内を移動していた時にちらっと見えた光景を頼りに歩く。
非常階段の扉の前に来た。鍵が閉まっているものだと思っていたがその扉は抵抗も無く開いた。
外に出るとふわっと自然の香りがした。肌寒い風が吹き、ぶるっと身体が震えた。
『お父さんだけ、寂しいなんて、ダメだよ』
腰ほどの手すりに上半身を預けて前に体重をかける。
もともと足に力の入らない梨子の身体はすんなりと非常階段の踊り場から浮いた。
無抵抗で頭から落下する。
重力は梨子を地面へと叩きつけた。
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