君の名前をもう一度。
『…はぁ』
大輝と別れた後、家の中へと入った璃子。
リビングの椅子に腰を下ろしてひとつ息を吐く。大輝の話が頭の中をぐるぐる回って心拍数があがっているのが自分でもわかる。
私が一時の感情でぶつけてしまった言葉たちに梨子が傷つき精神的ショックで容態が悪化してしまった。
そのことが悲しくて悔しくてたまらなかった。今まで家族のことだけを考えて家族が幸せであるのなら自分が多少辛くても頑張ってこれたはずなのに。
その自分が自ら家族を不幸にしてしまうなんて謝ってもきっと許されることではないだろう。
「あら、璃子、帰ってたのね」
『…お母さん、ただいま』
和室の扉が開いて母親が出てきた。
母親の顔色は良く、調子がよさそうだ。今日も仕事を終え帰ってきたところだろう。
そのままキッチンへ入ると調理器具を使う音が聞こえてきた。
最近はこうして母親が料理をする姿も見かけるようになった。
『お母さん』
「なぁに?」
『私と梨子って喧嘩したことある?』
「…うーん私が知る限りはないと思うわよ。璃子は昔から梨子のわがままも聞いてあげてたし、梨子もそのうちわがまま言わなくなったしいつでも仲良かったわ」
『…そっか』
鼻歌を歌いながら料理をしている母親とは反対に表情が暗い璃子。
一度も喧嘩をした覚えは確かにない。
いつだって梨子を思い出すと無邪気な笑顔をこちらに向けている記憶しかない。
父親が亡くなって大変だった時期も、璃子が笑えば梨子も笑い、璃子がつらくなった時も梨子が励ましてくれた。
「なぁに、喧嘩でもしたの?どっちが悪いかわからないけど、あなたたちはお互いぎくしゃくしていたくないでしょう?ちゃんと話し合えば喧嘩していたことなんて忘れちゃうんじゃない?」
『…そ、そうかな』
「喧嘩はね、お互いが嫌な気持ちになるものだけどね、反対にお互いの本音が言い合える機会でもあるのよ。璃子たちなら本音を言い合ったくらいで壊れる関係ではないと思うわ」
『…本音、かぁ』
「ふふ、梨子は一番璃子の本音を聞くのが上手だもの。きっと私よりも」
『…確かに、それはあるかも』
「両親が育てたっていうよりもふたりで育ったって言っても過言ではないわね」
『そんなことないよ、お母さんとお父さんのおかげで私はここまで生きてこれたし、お母さんのおかげで梨子もまっすぐ育ったんだよ』
「そういってもらえてうれしいわ。さて、晩御飯にしましょう」
キッチンから出てきた母親の手元にはおぼんにのせられたオムライスだった。
梨子の好物だった母親のオムライス。もちろん璃子も大好きである。
ケチャップで「るこ」と「さやこ」と書かれた名前入りオムライス。いつもの母親のかわいらしい文字。
いただきます、とふたりで手を合わせてスプーンでオムライスをすくって口に運ぶ。
あの日から料理をしなくなっても母親の味は変わらない。
懐かしさで胸いっぱいになりながら隣の席に梨子がいないことに寂しさを覚える。
『梨子にも、早くお母さんのオムライス食べさせたいな』
「…そうね、早く退院できるといいね」
結局母親には梨子が意識戻っていることはまだ言えていない。
世良たちと話し合ってまだ言わない方が良いという結論に至り、それから梨子の話題は避けてきていた。
昔話を挟みながらオムライスを食べ進め、先に食べ終えた璃子が手を合わせてコップに残った飲み物を飲みほした。
『ごちそうさまでした』
「はい、お粗末様でした。お風呂はいっておいで」
『うん、先いただくね』
こうして穏やかに母親と会話ができる日常に戻ったことがうれしい。
スーツを脱いでお風呂へ入る。
母親の助言を胸にしまいつつ、梨子に会いに行くことと、大輝にちゃんとお礼を言うことを計画立てる。
お風呂にゆっくりと入ってバスタオルで身体を念入りに拭く。火照った体を冷ましつつ、肌のケアを怠らない。
そのまま自室へと戻ると、ちょうど携帯が通知音を鳴らした。
『…そういえば大輝くん帰ったら連絡するって言ってたな…』
パジャマを着て、ベッドに腰かけ携帯を確認する。
やはり大輝からのトークだった。
短い内容ながら大輝の心遣いが感じられるその文章に頬を緩ませながら返信を返す。
ーありがとう。また日程決めたら連絡するね。今日は本当にありがとう。
大輝へ返信をしてベットに倒れこむ。天井をぼうっと眺める。
最近また仕事で目まぐるしくて全然落ち着く時間がなかった。
会社では体調を崩して迷惑かけたのにも関わらず周りから心配されてしまって迷惑かけた分頑張らなくては、とできることを精いっぱい頑張って居酒屋の方にも復帰した。だいぶ店長に気を遣われてしまったけれど久しぶりに常連のお客さんと話したり店長のご飯も食べれて気持ちの切り替えはできていた。
大輝のことはないがしろにはしたくないが、大輝が自分から進んでいろいろ梨子とのことをしてくれていることに嬉しくもある反面やはり寂しさはあった。
今まではその時間を璃子に使ってくれてその気持ちに甘えていた自分がいた。
いろいろ考え込んでしまって、その思考を閉ざすかのように瞳をとじた。白い天井から暗闇に包まれる。
『…大輝くんが、好き』
ぽつりと闇の中に消えたその言葉と同時に璃子の意識も遠のいていった。
言葉に反応するように璃子の携帯が震えたが、小さな寝息をたてる璃子に届かなかった。
画面には電話番号と登録連絡先には「大病院」の文字が表示されていた。
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