君の名前をもう一度。
『………』
目を開けるともう見慣れてしまった白い天井。
もう何が夢で何が現実なのかわからない。
今は夢なのだろうか。もう、何考えたくなかった。
「梨子さん?大丈夫?」
顔を横にずらして声をかけた人物を見る。心配そうにこちらを見ている木嶋の姿があった。
返事をする気力も、起き上がる元気も、これ以上なにも受け入れられる精神状態でもなにもなかった。
顔をまた前に向けてぼう、っと焦点の合わない視線を向ける。
まるで抜け殻になってしまった梨子に木嶋は話しかけ続ける。他愛もない世間話から最近あった楽しかったこと、思わず笑ってしまう自分の失敗談など、たくさんたくさん話しかけ続けた。
その間梨子は変わらず天井を見つめ続けるだけだった。
「…ご飯は、また夕食の時間になったらもってくるね、梨子さん」
梨子に反応がなくてもめげずに話しかけ続け、最後に頭を撫でて病室を後にした。
自分がしてきたことが本当に梨子のためになっていたのか考えさせられる。梨子を追い詰めてしまったのは自分ではないのか、と考え頭を横に振った。
後悔しても時間が戻るわけではない、今できることを精一杯やることを優先する、それが看護師になってから気を付けていることのひとつ。
ほかの病室にも様子を見に行き、笑顔で患者さんに話しかける。
ひとりひとりの患者さんが何かしらの不安の種を持っている。それに合わせた対応ができれば理想だが、手探りで何を患者さんが求めているのかを探さなくてはならない。
孤独だからとむやみに話しかけるのが得策ではないし、悲しそうだからと励ますことだけをすればいいわけではない。
患者さんにより寄り添えることを看護師は求められ、患者さん自身が気づけない異変をいち早く察することができるようにしておかなければならない。
何年続けて至って完璧にこなせたことなんてない。やっぱり心のどこかでもっと良い方法があったのではないか、ここが間違っていたのではないか、と反省することの方が多い。それを次に活かすとしても次の反省点がでてくる。
沼の中で必死に足踏みをしているような感覚。
歩いても歩いても足がもつれるだけで前に進んでいないような、そんなゴールのない道。
看護師であることに誇りはあるが、自信は、持てているかと言われたら口ごもってしまう。
「木嶋さん」
「っはい。あ、世良先生お疲れ様です」
暫し感傷に浸っていると、ナースステーションに顔を出したであろう世良に呼ばれた。
休憩の合間なのか自販機のある場所に連れてこられた。
小銭を突っ込んでコーヒーを買っている世良。片手に持ってきた経過観察の資料をまとめていると、飲み物を買い終えた世良がひとつこちらに差し出しているのに気づいた。
「あら、ごちそうさまです」
「たまには肩の力を抜きなよ?真面目な木嶋さんも良いと思うけど」
「あはは、一応古株の方なので」
看護師になって初めて配属されたここの病院に勤めてもう6年になろうとしていた。異動した看護師もいれば結婚退職をする看護師も何人も見送ってきた。
世良に渡された缶ジュースを開けて一口飲む。隣で世良も自販機によっかかって缶コーヒーを飲みほしている。
「手術、これからですよね」
「うん、ふたつ連続だから今日は寝られないな」
「泊まり確定ですね」
困ったように笑う世良につられて木嶋も笑う。
大きく伸びをして身体をほぐした世良は「戻るかー」と言って缶コーヒーをゴミ箱へと入れた。
木嶋もそのあとに続いて病院内へ戻る。結局世良がなぜ木嶋を連れて休憩したのかはわからないが、激励だけをして世良と別れた。
ナースステーションに戻ると受付対応から帰ってきた看護師と目が合った。
「あ、木嶋さん、3階の中山様なんですけど…」
患者さんへの対応の仕方をよくほかの看護師から聞かれることがある。
患者さんの要望にはできる限り応えたい。それが患者さんの望むことなのだから。
けれど、中にはとてもじゃないが答えられないものもある。物理的に無理なこと。冗談交じりに言われる無理なこと。そのほかにも何か問題が生じているためできないこと。
病室という空間はやはり落ち着く空間ではないと思う。静かで、何も娯楽的なものもなく、白色で統一されている箱のような無機質な空間。
相部屋であったとしても、患者さんへの負担はかかる。
だからこそ少しでも患者さんへの負担を減らせるように求めること、つまり患者さんに不足していることを充実させてあげたい。
「…外出の許可は出せないけれど…中庭でリハビリをするのはありだと思います。固いアスファルトの部分ではなく、できる限り柔らかい土の部分で。転ばないように二人体制でしましょう」
「わかりました。車椅子での移動がつらいと言っていたので喜んでくれますかね」
「ええ。喜んでもらえたらいいですね」
患者さんと仲がいいのかふふ、と笑って患者さんの書類にペンを走らせている。
廊下から話し声がして振り返ると団体の看護師がぞろぞろとナースステーションに帰ってきた。
「木嶋さん!お疲れ様です。1、2階のお食事終えました」
「食堂でお食事をされていた方もみんなお部屋に戻られました」
「体調不良の患者さんもなしです」
「経過観察も、問題なしです」
続々と報告をあげる看護師たちの話を聞きながらパソコンでその結果を打ち込む。
一仕事を終えた看護師たちは報告をまとめるものと昼食休憩にまわるものとで別れた。
木嶋もパソコンを打ちながら報告と一緒に事務作業を片付けることにした。
医者の方から回ってくるものをまとめ、ほかの看護師たちが記入したものを確認したりと思っていたよりもたまっていたものを少しずつ消化していく。
「木嶋さん、手伝います」
「わ、助かる。ありがとうございます」
報告をまとめ終えた看護師が事務作業を手伝ってくれたおかげで夜までには作業を終わらせることができた。
何時間も座っているのはなかなかにしんどく、大きく伸びをする。
その間もほかの看護師たちに巡回してもらったり、各々の患者さんの対応をお願いしていた。
受け付けの方も問題はなく、医者の方から応援にも呼ばれなかった。
今日はまだ平和に終わりそうな1日だった。
「今日は家に帰れそう」
「木嶋さん泊まり多いですもんね」
「本当は泊まりたくないけど、家に帰る元気が無くて…」
「いつもお疲れ様です」
そういっていたわってくれる看護師もいて本当に助かる。
重要な作業を終え、引継ぎ用に作業内容をまとめたものを夜勤の看護師に託し、最後に5階の巡回をすることにした。
ナースステーションを出てエレベーターで5階へあがる。
すれ違う患者さんたちに挨拶をしながらひとつひとつ病室内を確認する。
元気よく挨拶を返してくれる人、もう眠りについている人、お見舞いに来た方が帰られたのか少し寂しそうにしている人、いろいろな人がいる。
コンコンッ
「こんにちは、梨子さん。調子はどうですか?」
梨子の病室へと入る。
前と何も変わらず病室の天井をぼう、と見つめているままだった。
ちゃんと瞬きをして呼吸と脈に乱れはない。意識はあるものの魂が抜けたかのように抜け殻なのである。
精神的ショックを起こして心も感情も蓋を閉じてしまっている状態なのだが今の木嶋には何もすることができないのが悔しい。
また梨子に話しかけ続けて、栄養の点滴液を確認する。
食事をまともに取れない状況だと判断した世良が指示したのだが、なぜかこれがあるだけで悲しさが募る。
事故に遭った直後もつけていたからだろうか。またこうして管を繋がれることになることはやはり、悲しい。
「早く元気になってリハビリしましょうね」
「リハビリが終わったらなにがしたいですか?」
「もう冬が来ますね、今年は雪どんな感じなんでしょうね」
「あ、もう少しで梨子さんお誕生日がきますね」
返事の返ってこない会話。
根気強く話しかけ続けるも、今日は変化が見られなかった。
経過観察を終えた木嶋が病室を出る。
以前のような明るい梨子がもう昔のことのように感じられた。
ひとつ息を吐いて次の病室へと歩みを進めた。
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