君の名前をもう一度。
『……』
無言で嗚咽もなくただ涙を流している梨子。
どこか神秘的にも見えるその姿を木嶋は目を奪われてしまったように固まった。
時間にしてそんなに経っていないだろうがしばらく木嶋はそのまま梨子を見つめていた。
ガララ
「木嶋さん…いますか?」
「え…あぁ、ごめんねありがとう」
経過観察を終えたであろう後輩が病室の扉から顔をのぞかせて木嶋に声をかける。
その声で現実へと引き戻された木嶋は梨子の身体を倒すように促し、布団をかけると梨子はすんなりと目を閉じた。
目元を濡らしながら安らかな表情で眠りにつく梨子の目元を指でぬぐって病室を後にした。
「えっと…戸叶さんて……」
「…事故で記憶が欠落してしまった患者さんです。いつ記憶が戻るかわからない状態ですけど、きっとなくなった部分の記憶が戻ったときは……精神が不安定になるかもしれないので、定期的巡回が必要な患者さんでもあります」
「…わかりました」
後輩が梨子の病室の方を振り返る。
先輩でもあり上司でもある木嶋がここまで気に掛ける患者さんだから何かしらあると思っていたが普通の高校生であるのに疑問を持っていた。
だが、ふと聞こえてしまった木嶋の話に少し同情をした反面疑問が解消した気もする。実は木嶋に声をかける前に病室の中から聞こえた木嶋の話をたまたま立ち聞きしてしまっていた。木嶋が年下の後輩や小さい患者さんに対して面倒見がいいのは妹さんの影響かな、と気づいて良い上司を持てたのかなと安心した。
先を進む木嶋の後を追って隣に立つ。
「おはよう梨子さん、調子はどうですか?」
『…おはようございます』
次の日、経過観察に来た木嶋は梨子に話しかける。
閉じていた目を開いた梨子は木嶋の方に顔を向けて口を開いた。
梨子の反応に少しだけ驚きつつも笑顔で挨拶を返す。
以前のような元気さが無くなってしまったものの喋れるようになると声色から少しだけ梨子の今の調子がわかるような気がした。
梨子の身体を起こすために肩に腕を回して支える。身体を起こした梨子はふぅと息をついて目の前で作業をする木嶋の姿を見つめる。
そんな木嶋は朝食の準備をすべく机になる台を組み立て扉付近に用意していた朝食をお盆にのせて運ぶ。
「お昼は食堂に行きませんか?」
『……うん』
「そのときは私も休憩の許可をもらうので一緒に食べようね」
朝食の準備を終えた木嶋がほかの病室へ行くため病室を出て行った。スプーンを手に取りスープをすくって口へ運ぶ。ここ最近の食事に味を感じられない。
璃子とのこと、自分の記憶の欠落の事実。そのふたつによる精神的ダメージが自分の心にストッパーをかけるかのように何かを失った。
一口食べてスプーンを元の位置に置く。そのまま自分の手を見る。
確かに手のひらは大きくて指も長い気がする。
木嶋のいったことが本当なのだと改めて感じる。
高校生だった自分。
思い出そうにも、なにもわからない。
自分の知らない自分が怖い。
じゃあ今の自分はなんなのだろう。本来あるべきではない自分なのだろうか。
こみ上げてくる不安。どうしたらいいのかわからない現状。
体の震えが止まらない。
何か、何かに怯えている自分がいる。
『……私は、戸叶梨子……梨子は、梨子なのに……』
こんなに不安に押しつぶされそうな時は、璃子がいつもそばにいてくれた。何があっても璃子の姿を見ると安心できた。
璃子も不安で押しつぶされそうなのに笑顔で手を繋いで、涙を流したら涙をぬぐいながら頭を撫でてくれた。
『……違う』
『…違う、これ、私の記憶じゃない…』
今までの記憶では璃子がこんなにも苦しそうに涙を流してなどいなかった。
璃子はいつも笑顔で…父と母に囲まれて…幸せで…
『…なんなの…これぇ……』
こんな記憶なかったのに涙があふれて止まらない。
かき消そうともがいていると目の前にあった食器に手がぶつかり音を立てて床へ転がり中身がぶちまけられた。
物が散乱する光景。
その瞬間頭の中に見慣れた家がフラッシュバックする。だがその家は物が荒れ果て、リブングの中央で髪を振り乱した女性が膝をついて泣いている。
どこか懐かしい後ろ姿。この女性を梨子は知っている。
『…どうして……おかあさん……』
振り向いた母は鬼のような形相で梨子を見た。
そこで梨子の意識はとぎれた。もうこれ以上は何も受け入れられなかった。
机に頭をぶつけながら薄れゆく意識の中で璃子が梨子を呼んだ気がする。
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