君の名前をもう一度。
「…梨子さん」
病室の扉が静かに開かれ、な目を呼びながら木嶋が入ってきた。
そのままこちらにまっすぐと歩いてくる。
もうそんな光景が見なくたって物音だけでわかるようになった。
脚の自由を奪っていた器具も、ベットに寝ていなければならない理由も無くなったのに、あの時からずっとベッドから出れないでいた。
目覚めてから初めて見た姉の姿。心配そうにこちらを見つつもいつものように微笑んでいた璃子。
背が高くなって顔つきも大人っぽくなっていた。姉のようで姉じゃないようなそんな感覚。
そんなことを考えていると木嶋が梨子から毛布を剝がそうとする。
スッと木嶋の手を握ると驚いたように木嶋がこちらを見た。
「どうしたの?」
『…あの、聞きたいことがあります』
最近は泣きじゃくる時以外は声を発することはなかった。世良にカウンセリングを受けるときも毎日欠かさずに梨子に世間話や経過観察しに来てくれる看護師にも。
世良は一時的なショックで声を出せないでいるんじゃないか、と木嶋と話していた。
そんな梨子は急に木嶋に話しかけたのだ。木嶋は驚いて目を見開いたがすぐに笑顔に戻って椅子に腰を掛けた。
「うん。私に答えられることなら」
『…梨子が、ここで起きる前何があったんですか』
木嶋は少しだけ目をそらして眉を下げた。梨子の方を見て梨子の手をぎゅっと握る。
梨子の質問は梨子の無くなっている記憶に影響を与えるかもしれない、と木嶋は考えはぐらかすべきか、直接的ではないもののちゃんと話すべきなのか迷っていた。
けれど梨子のこの質問の意図と今の表情は何かしらを察しているかのような雰囲気を漂わせている。
とうとう小学5年生の頃の記憶と食い違っていることに気づいたのかもしれない。
「…梨子さんはね、事故にあったの」
『…え、梨子が?』
「うん、私にもね詳しくは聞かされていないんだけどね、大きな事故だったみたい」
『…お友達が、お見舞いに来ないのは…どうしてですか?』
納得したのか、次の質問が木嶋に問いかけられた。
できる限り刺激しないようにしてあげたいが、このままだと確信的な質問が来てもおかしくはない。
そうしたら記憶喪失なことも家族のことも話さずに納得させることは難しいかもしれない。
事実を伝えるのは私たちの務めかもしれない。何度も世良やほかの医者が患者さんに辛いことを伝えるのは見てきたし、自分もその立場だったこともある。
「…それはね、梨子さん…」
言葉が詰まる。
いつもどおり相手を不安にさせないように笑顔でなだめようと思っていたのに。梨子の真剣な表情を見たら繕う言葉を出してはいけないような気がして。
「……梨子さんはね、今、記憶がぐちゃぐちゃになってるの」
『…記憶?』
木嶋の言葉に梨子が首を傾げた。
握っていた梨子の手を話して梨子の頭を撫でる。前髪をかきあげるとおでこにはこの先も消えぬであろう傷口が残っている。
優しくなでるとところどころにざらざらとした感触がする。これもきっと傷口の名残。
「うん。…梨子さんは今小学5年生だと思っているけれど、実際の梨子さんは高校生なんですよ」
『…え……え?』
戸惑いを隠せないような表情で目を泳がせている。今頭の中で必死に理解しようとしているのであろう。
梨子が落ち着くまでは何も言わない。ただただ不安にさせないために優しく優しく頭を撫でる。
『……梨子、なんとなくいつもと違うなぁとは思っていたんです…』
「うん…」
『…背が高くなってるきもするし…ねぇね……お姉ちゃんが大人っぽかったり…』
「…うん」
『…梨子が……梨子が記憶なくしちゃったから…お姉ちゃん、あんなに怒っちゃったのかな…』
「…え?」
梨子は何かを思い出しているのかつらそうな表情でぽつりとつぶやいた。
その言葉に木嶋は反応して梨子を撫でる手を止め、梨子と向き直り梨子に聞き返す。
「お姉さんと、なにかあった?」
『……』
その日、梨子はそれ以上話すことはなかった。
眠りにつく時間が増え、起きているときはベッドから起き上がって俯いていたり、窓をじっと眺めていた。
木嶋はそんな梨子の様子を見て梨子のとの会話を思い返す。
梨子は小さい声ではあったが確かに『お姉ちゃんがあんなに怒っっちゃたのかな』と言っていた。
つまり璃子がお見舞いに来た日に璃子と何かあったのは間違いない。世良から璃子がお見舞いに来た日に会話をしたと聞いている。
第三者となにかあったのかと思っていたが璃子と何かが起こるとは想像していなかった。
あの姉妹が喧嘩するようなこととはなんだろう。
「木嶋さん」
「あ…はい。どうしました?」
考え込んでいると同じ看護師の後輩から声をかけられた。
今は5階の病室の経過観察の巡回中。相方がこの後輩。
梨子の脈や傷口の状態、体に異変はないかなど診て、記入用紙に事細かく書いている。
「梨子さんの容態には変化はないんですけど…」
「…残りの記入は私がしておきますね、ここまで付き添えば残りの病室は親切な患者さんがなのでひとりでできそうですか?」
「え…あ、はい。多分。大丈夫です」
「わからなかったらその項目は開けて、診終わったらこの病室にいるので戻って来てください」
後輩が返事をして病室を出ていく。
病室の扉が閉まって静寂が広がった。後輩が閉め忘れたであろう窓を閉めながら外の景色を眺める。
もう夜になった景色はそれぞれの光が蛍のように転々と輝いていた。
ベッドからよく見える方の窓にはカーテンを閉めずに片方だけカーテンを閉める。
梨子は、今もベッドに腰を掛けて窓を見つめているからだ。
「梨子さん、今は話せるかな」
『………』
視線を遮らないように近づいて梨子に問いかけるも、返事は返ってこなかった。
しん、とまた静まり返る。
木嶋は梨子の前にしゃがみこんで両手を包み込むように握りしめる。
「梨子さん、私の話を聞いてくれる?」
『……』
木嶋は少し目を伏せがちに語り始める。
いつものハキハキした声ではなくか細く消え入りそうなそんな声が静かな病室に響く。
「私にも妹がいるんですよ。7つ下で今21歳なんですけど……子供のころから身体が弱くて運動も制限されて優しい子なんですけど我慢を強いられる子だったんです…私はそんな妹の助けになればと医学の道に進んで、今看護師になったんです。本当はねお医者さんとか薬剤の方に行けたらよかったんですけどね……」
『……』
「今、妹は大学に通いながら日常を過ごしてるけど…いつかはお姉ちゃんと一緒にテニスしたり海で泳いだり遠出したいねって話すことがあるんです。私もその夢を叶えてあげたいって今も思っています…ふふ、きっと璃子さんも梨子さんのことが大好きだから私と重ねてしまうんですかね」
『……』
「私は中途半端な道になってしまいましたが……璃子さんはいつも梨子さんのことを考えて大変なことも辛いことも楽しいことも幸せなことも……」
木嶋の言葉が止まる。
握っていた手に別の感触を感じたからだ。そちらの方に視線を向けると水滴がついていることに気づいた。梨子から零れたものだと察して梨子を見ると窓の方を向きながらぽろぽろと涙がこぼれていた。
何かを思い出したのか、と不安がよぎる。
「梨子さん……」
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