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君の名前をもう一度。




「ね、ねえね……」



おどおどと戸惑いを隠せない梨子が璃子の方に手を伸ばす。璃子はパシッとその手を振り払った。
今は、梨子に優しくすることなどできなかった。
本当は笑いあっていたかったのに。



『……ごめん、今日はもう帰るね…』



下を向いたまま梨子のもとから去る。自分がこんなにも乱しても梨子には何もわからないことなど自分でもわかっていても今は今だけは自分の感情を抑えることなどできなかった。
やきもち、嫉妬などでは表せないドス黒い感情が自分の中で広がっていく。
どうしても、どうしても大輝のことになると自分の中の感情を抑えることなどできないでいた。



「ね、ねえね!!ごめんなさい!ねえね!!!」


ガタンッ



大きな音が璃子の後ろから聞こえた。チラッと後ろを見やるとベッドからずり落ちて尻もちをついている梨子の姿が見えた。
リハビリもしていない足には力が入らず、支えなしでは立つこともできないのであろう。
腕をベットに押し付けて必死に立とうとしている梨子。
思うように動かなくなってしまった足にやきもきしているのか、必死の表情でズリズリと下半身を引きずるように前に進んで立ち止まった璃子の元へと近づこうとしていた。
昔からそうだった。小さいころから素直だった梨子はまっすぐに璃子についてきてはなんにも疑いもせずに笑顔でいつもそばにいてくれた。
璃子は拳を握りしめる。爪が食い込んだってかまわずにただただ力の限りに握りしめた。
そして、意を決して振り返り梨子の元へと駆け寄る。
ほぼほぼ体力を使い果たしたのかベットに寄りかかって息切れをしている梨子の身体を支えて肩に梨子の腕を回して立ち上がらせた。
ぐずっと梨子から鼻水をすする音が聞こえて梨子の方を見やると大粒の涙を流していた。



『………』



そんな梨子の表情を見て自分の行動を悔やんだ。もう遅いのに。
なんて声をかけたらいいかわからなくなって梨子をベッドに座らせて備え付けのティッシュを何枚か抜き取って梨子の顔をぬぐった。
されるがままにされている梨子の涙と鼻水をあたらかぬぐってティッシュをそのままゴミ箱へと入れた。



「ねえね……ねえねぇ…」



不安そうに何度も自分のことを呼ぶ梨子。
今までの人生、梨子には幸せになってほしい想いでなんでも頑張ってこれた。梨子はきっと幸せになれる子だと信じてきていた。
けれど璃子の唯一の支えとなっている大輝を梨子の幸せとして差し出すことはどうしても考えたくなかった。
大輝とはずっと一緒にいたい。自分の隣で笑っていてほしいこれからの人生を共に歩んで梨子と母親が自分なしでも生きていけるようになった暁には、大輝とふたりきりで時間を共有していきたいとまで思えるようになった。今までは家族がすべてだった璃子が。
そこまで考えていた最愛の人。
それまでの最愛の妹。



『…もう、大輝くんはお見舞いには来ないからね…』



踵を返して足早に病室を去った。
後ろから梨子の呼ぶ声が聞こえたが、もう何も考えたくはなかった。















病院を出た璃子は途方に暮れながら帰路を歩んでいた。
途中にある公園にふらりと立ち寄るとベンチに腰かけて携帯を手に取った。何度か携帯をタップして耳に当てる。
呼び出し音が何回か鳴った。



「もしもし?璃子?」


『…大輝くん』


通話相手は大輝だ。今日は休日なのもあって電話に出てくれたものの声とは別に物音が聞こえてきた。



『ごめん、忙しかったかな…』


「いや、出かける支度してただけだから大丈夫。璃子はもう体調は大丈夫?」


『…うん、大丈夫。私も今出先なの』



大輝の出かける目的は梨子なの?、そう聞こうとして喉で止めた。
先ほど決壊したばかりの感情はつつけばまた決壊しそうなほどに繊細になっていた。
ぽつり、ぽつり、と言葉を紡ぐ。



『今からの用事は、いつ頃終わりそうかな…』


「ああ、今から梨子の見舞いに行こうと思ってんだけど…あ。えーと…璃子が体調崩してる間に…その梨子が意識取り戻したんだけど…」



軽快に話していたが途中で思い出したのか急に口ごもり始める大輝。おそらく梨子の記憶喪失のことを伝えていなかったからだろう。
何も知らないままだったら梨子の意識が戻ったことを純粋に喜べていたのだろうか。
何も知らないままだったら、これから大輝とふたりでお見舞いに行って梨子も交えて笑えていたのだろうか。
そう思ったら抑えていた涙がぽろぽろとこぼれた。




『…ごめんね、大輝くん』


「…え?どうしたの?」


『……今ね、梨子のお見舞いに行ったの』



璃子の言葉に大輝は驚いたように声をあげて次の言葉を探している。
声しか聴いていない大輝からしたら涙声の原因は記憶喪失のことだと思うだろう。こんな自分勝手なドス黒い感情を大輝が知ったら失望されると思うと嗚咽が出た。



「梨子の記憶はきっと時間がたてば思い出すはずだよ…」


『…うん、うん…』


「これまでのことを話すかは……まだなやむだろうけど…その…ひとりで抱えないでくれな。梨子なら、きっと璃子と乗り越えられるはず…」


『……』


「梨子はやっぱり璃子を見て育ったんだなってくらい素直で強くて優しいし……」




大輝の口から出される言葉がもう璃子の耳には届かなかった。
否、聞いていたくなかった。
嗚咽を押し殺して無理矢理ことばを吐き出した。




『た、いきくん!!!!!!』


「え?!お、おうどうしたの」


『…これから、どこか遠くに行けないかな』


「…え?」


『ふたりで、自分たちの知らない人しかいない遠い所へ行って……』


「る、璃子?」


『そこで、結婚式でも挙げよう?ふたりだけの結婚式』


「ど、どうしたの璃子!」


『…大輝くんは、私の彼氏さんだよね』



大輝が遮ろうが璃子の口は止まらなかった。
嗚咽でむせそうになっても、喉が痛くなっても、公園に来た人たちの視線を浴びても、璃子を止められるものはなかった。
最後にぽつりと呟いた言葉から大輝は沈黙していた。
通話がつながってから初めてその沈黙は続いた。
その沈黙を破ったのは大輝の方だった。



「ごめん、璃子」



その言葉が聞こえて璃子は通話を切った。
身体に力が入らずに携帯を持つ手がぶらりと垂れ下がる。
ぽろぽろとこぼれる涙はなんの慰めにもならず頭の中では最後の大輝の謝る声だけが繰り返されていた。
ああ、もう死にたい。




璃子の中で何かがこと切れた音がした。




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